流雲は自然と暮らす術を身に付け、東京の生活に戻って行く
[2] 白金の丘に暮らす
2-1 ミッションスクール
1962年4月。流雲は15歳になり中学2年生に転入した。
流雲が転校した中学校は白金の丘にあった。この学校を選択したのは、母の悠香だ。流雲は自宅近くの区立中学に通うと思っていた。ところが母親には公立学校への嫌悪感があった。浅草事件がトラウマとなり、私立中学校への編入にこだわった。母は、宗教をベースにした教育に絶大の信頼を置いた。驚いたのは、禅宗の中で育った母悠香が、ミッションスクールを選択したことだ。流雲の戸惑いは大きかった。
流雲を気遣う親心だろうが。何故か、何度尋ねても答えは無かった。ただ、母親の背負ったトラウマの大きさを知った時、流雲に拒絶する気力は失せた。
流雲は伊勢原で仏教に接する暮らしの中で「因果の道理」に立脚した生き方を学んで来た。これと相反するキリスト教の学校生活に大きな不安を感じていた。
流雲は本郷村で何事にも動じない心を培ってきた自信がある。
それでも流雲が戸惑ったのは、白金学院中学校の制服だった。制服は濃紺のジャケットと同色のスラックスにえんじ色のネクタイに、登山帽の様な帽子だった。ネクタイなど締めたこともなく、毎朝ネクタイとの格闘から中学2年生の新学期は始まった。
流雲の本郷村の生活から、帽子を被る制服姿は対極にあった。流雲の東京暮らしは、屈辱的な姿制服姿で都電に乗り通学する試練から始まった。
麻布山を下り、麻布十番の都電駅まで歩く。4系統の都電を麻布中ノ橋駅から乗り、一ノ橋、二ノ橋、古川橋、魚藍坂を越えて二本榎駅まで揺られて行く。
車窓に流れる道路脇に並ぶ家々の暮らしぶりを眺めるのが、流雲の都電通学の毎朝の楽しみになった。
二本榎駅は、2車線道路の真ん中にあった。中央分離帯から車道を横断すると、目の前に白金学院校の校門がある。
白金学院は白金の丘にある。正門を抜け緩やかな登り坂の途中、左手に本館の建物がある。
石段の上に4本の石柱に囲まれた重厚な正面ファサードのある西洋建築が、白金学院中学校と高等学校である。
イチョウ並木の続く道を抜けると、米国建築家メルリ・ヴォーリスの設計した荘厳なチャペルが左手に佇んでいる。チャペル裏の中庭の反対側に、チャペルと西洋住宅を囲むように中学校舎と高校校舎が校庭を挟んで建てられている。
明治時代の西洋建築のチャペルの裏、中庭に白いピケットフェンスに囲まれた瀟洒な木造二階建ての西洋住宅が建っている。不思議な空間が学校だった。
左手に中学高校の校舎エリアを眺めながら、イチョウ並木を抜けた敷地の一番奥に大学のキャンパスがある。大きなコンクリートの無機質な校舎が建ち並んでいる。
流雲の通う白金学院は、中学から大学までの一貫校であった。
この学校の前身は明治時代に横浜に開かれた英語塾。創設者は米国人医師であり宣教師ジェームス・カーティス・ヘボン博士。日本初の和英辞典の「和英語林集成」表記法ヘボン式ローマ字を考案した言語学者でもある。
この学校のユニークな所は日本生まれの二世三世の子供達が多数入学していた。中国系、韓国系、西欧人のハーフなど当時の日本の社会で生き難い体験をしてきた子供達が集まっていた。この状況を見て、流雲は何故母親がこの学校を選択したのか少し理解できた。流雲は境遇の似た者同士の温もりを共有する学友に巡り合えた。
伊勢原の雲龍院の朝は読経の響く中、線香の香りに包まれ暁天坐禅で始まる。 東京の暮らしを始めてからも、起床と共に坐禅する習慣は続けていた。
何時しか、窓を開けて伊勢原方面の雲を眺めるのが、朝の日課になった。空に浮かぶ雲を眺めることで、無意識に精神の統一を図っていたのかもしれない。
この朝は、白い絵の具をスート掃いたようなすじ雲がくっきりと青空を染めている。綺麗な雲を見ると、清々しい気分になる。
麻布山から白金学院まで都電に乗り約20分ほどの通学である。流雲の禅的暮らしは校門を潜った瞬間に一変し、学校生活は戸惑いの連続で始まった。
クラスに着席すると。礼拝の時間を知らせるチャペルの鐘の音が学校中に響く。
朝一番の礼拝は中学校から始まる。全員歩いて礼拝堂に移動する。
礼拝堂に入ると、二階建ての大きな吹き抜け空間が広がっている。英国ティンバー・フレーム工法を継承したスザース・トラスの木造の梁が天井を支えている。チューダー様式の漆喰壁と褐色のティンバーとのコントラストが厳粛な雰囲気を醸し出す教会建築だ。
正面の祭壇に、スカイ・ライトから柔らかな自然光が差し込んでいる。後面の2階に設置され大きなパイプオルガンから、荘厳な音が奏でられチャペルを包み込む。
生徒全員が着席すると、音楽が止み一瞬静寂に満ちた。
正面の祭壇の上に聖書を片手にした先生が登壇した。再び、パイプオルガンの演奏が始まり賛美歌の斉唱が始まる。賛歌が終わり全員が着席すると礼拝が始まった。
流雲の初めて眼にし耳にした礼拝は荘厳な儀式だった。
その儀式の空気感は雲龍院でも感じてきた。二つの異なる宗教の儀式の中に相通ずるモノを無意識に感じ取った。
礼拝初日の説話は、アメリカの黒人霊歌「クンバイヤ―」の話だった。
「クンバイヤ―」とは黒人奴隷の慰めの歌であり、叫びだそうだ。
本来は「下さい」と言う意味で、私たちが困難や苦痛に直面した時に「私たちの所に来て下さい」と神様にお願いする歌詞だそうだ。
「奴隷制度は300年以上に渡り、アメリカ合衆国と中南米に約1,200万人のアフリカ人が連れて来られたと言われています。100万人以上がアメリカ合衆国に連れて来られました。
アメリカの人々が奴隷労働によって豊かになる為に、彼らは筆舌に尽くし難い苦しみに耐えたのです。苦しんでいる人々が歌ったのが『クンバイヤー』です。
この歌は『誰かが泣いている』と言う歌詞で始まります。『誰かが泣いている』もしかしたら、あなたの身近に泣いている人はいないかもしれません。けれどもあなたが本気で目を見開き心を研ぎ澄ますならば、『泣いている』人が見えてくるのではないでしょうか。
皆さんは、スペシャル・オリンピックについて知っていますか?
スペシャル・オリンピックは、知的障害を持つ人々のスポーツ・イベントです。ダウン症の選手9名が、100ヤード競走のスタートラインにつきました。
彼らはこの大きなレースのために何か月も準備をしてきました。家族や友人たちも応援に駆けつけています。
ピストルの合図で、彼らはゴールを目指して勢いよく走ります。ところが、ひとりの男の子がつまずいて転びました。すると、他の走者たちは立ち止まりました。観客は彼らに走り続けるようにと大声で声援を送りましたが、彼らは後戻りして転んだ男の子を助け起こしたのです。そしてお互いに腕を組んでゴールまで一緒に走りました。スタジアムにいた人々は、この素晴らしい出来事を見て立ちあがって歓声を挙げました」
「人生で大切なことは『自分のために』勝つことではありません。『他の人が』勝つことを手助けすることも大切なのではないでしょうか。例え、それが自分の速度を落としたり、予定を変えたりすることを意味しても。『クンバイヤー』『ここに来て下さい』『誰かが泣いています』誰か、身近な人が涙を流していないか見回してみて下さい。それこそが、白金学院の精神なのです」と説話が結ばれた。
礼拝の説話はスーッと流雲の心の中に入った。説話を聞きながら、流雲は本郷村の日々の暮らしを思い起こしていた。
ミッションスクールの精神と本郷村の暮らしに共通する助け合い精神に驚きを覚えた。
本郷村の相互依存のバックボーンに雲龍院があり、村人が祖父の禅宗的な教えを実践してきたからだろう。その禅的な精神とミッションスクールの精神の共通点に驚き、流雲がキリスト教に興味を覚えた瞬間だった。
流雲が東京に戻った1962年に東京の人口は1,000万人を突破していた。
流雲の中学時代は日本は高度経済成長期に入り、様々な欧米文化が流入し東京文化が花開いた時期だった。
流雲が東京文化に触れたのは、友達と行った名画座だ。少し古い洋画を気楽に見れる名画座は、流雲の西洋文化の扉を開く切っ掛けになった。本郷村には映画館も無かった。東京文化の刺激は強く、流雲に大きな変化を与えた。
名画座で観た「太陽がいっぱい」は、アメリカ映画とは異なり洗練されたヨーロッパの息吹を感じさせた。サスペンス仕立てのストーリー展開の意外な結末と軽快な映画音楽に魅了された。
その後、流雲は友達と名画座巡りが、東京暮らしの喜びのひとつになった。
流雲の白金学院の学校生活は、博愛精神に溢れた静かな修道院のような学校生活を想像していた。全くそんな事は無かった。一般の普通校と変わらなかった。
ミッションスクール的な校則はあるが、それ程宗教色の強い校則では無かった。一般の学校と同様に校則に縛られた男子校の学校生活だった。校則破りや喧嘩などは普通に起こっていた。ただ、不思議なことに創立以来の礼拝は守り続けられ、毎朝、聖書を読み讃美歌を歌う礼拝をさぼる生徒は少なかった。
流雲の生活は、坐禅で精神統一する禅的な生活とキリスト教の習慣の狭間に悩む日々を過ごしていた。毎日思い悩んでいた訳ではないが、二つの宗教に身近に接し暮らす生活に戸惑いを覚えていた。
本郷村の相互依存の精神は、祖父の月堂龍禅の禅宗の教えを村人が継承してきた結果だろう。その精神は800年ほど前の鎌倉時代の道元禅師の教えをベースにした月堂龍禅の布教にある。
仏教には創造主のような神は存在しない。仏は神ではなく人である。仏教は全ては因縁果報によって存在し、仏と人間も本質的に別のものではなく一体になれると説く。一方、キリスト教はメシアである神キリストを信じる一神教である。神の僕として神にすがる他力本願的な宗旨である。流雲はこの宗旨に違和感を覚えた。キリストを絶対唯一の神と信じる考え方に抵抗感があった。
学校生活が落ち着きひと段落ついた頃、流雲は本郷村に祖父を訪ねた。
「どうだ。東京の生活になれたか?田舎の暮らしから都会に順応するのは大変だろう」
「東京のテンポにはすぐ慣れました。ただ、学校が……」
「ミッションスクールの校則か?」
「お爺さん。キリスト教はどう何ですか?どんな宗教なのですか?朝、学校に行くと、礼拝の時間があり、どうも違和感があり慣れません」
「朝、暁天坐禅は続けているか?」
「はい。毎朝、続けています」
「未だ、始めて数か月経っただけだろう。最低、2、3年は続けなさい。何事も、続け見てから判断しなさい」
「でも、禅宗の教えとは相いれないと思うし、信じることが続けられるかどうか?」
「ほう、流雲は禅寺の坊さんになるのか?知らなかった。洗礼を受けて、クリスチャンになり、牧師になるのか?」
「いや。どちらも考えていません」
「ならば、悩むことはない。何事も自然体で、受け入れられるものを受け入れれば良い。無理に全て染まることはない。重要なのは、学校生活を楽しめる環境にあるのかどうか?そして、流雲が己を失わぬ精神を保てるかだ。今、二つの異なる宗教に触れ、悩んでいるのだろう。大いに悩め、3年間悩み続けて見ろ」
「仏教とキリスト教、どちらの神が優れているのですか?」
「どちらも、優れている。何を己が信ずるかだ。流雲は少し勘違いしているようだ。少し、宗教の話をしよう」
祖父は、語り始めた。
「お寺と言う所は、精神的にも空間的にも世間と一歩離れた場所にある。この世間から少し離れた場所へ来て、諸々のしがらみをいったん忘れ日常から離れ、心を自由にさせ精神をリセットする場所である。キリスト教の教会や礼拝堂も、同様の場所である。
曹洞宗の祖、道元禅師は人々に広く坐禅を勧める「普勧坐禅儀」と言う文章を書かれている。その中で『唱名はある一つの仏様の御名に限るものではない。十方(東西南北、北東、北西、南東、南西、上下)全世界と三世(過去・現在・未来)に渡り、無量無数の御仏がおり「南無三世諸仏」あるいは、一仏名を唱えるとするならば「南無釈迦牟尼仏と唱えるのが良い』と示されている。
道元禅師は『光明とは人、人なり』と示され、アミダブツとは無量寿・無量光の事と説いている。つまり、無限の中に自分が生かされていることこそが、光明であり『仏の光明は十方世界を遍く照らす』と話されている。
南無とは、仏様にお任せすること。祈るときには任せて条件など付けないこと。その心は『摂取不捨」禅の『諸縁を放捨して、万事休息』であり、キリスト教の『神の思し召すままに」であり、イスラム教の『アラ-のお許しによって』など、相通じる心がある」
「仏教もキリスト教もイスラム教も、同じと言うこと?」
「いや。信じる心は同じであり、信じる対象が異なると、言うことだ。仏教は御仏を信じ、自分自身を精進し御仏に近づく努力をする教えである。キリスト教などの一神教は『己を無にして父なる神様の導きに従って生きること』にある。
何を信じるか。今、決断しなくとも良い。その教えの心を学び理解し精進する努力を続けることが、今の流雲には必要なのだ」
「確かに、キリスト教の教えの一つである博愛主義には共感を覚えます。お爺さんの提唱するる相互依存の精神に相通じる考え方があります」
「それならば、それだけを意識して3年間、暮して見ろ。流雲は、本郷村で多くを求める生き方を見つめ直し、自己を慎み共に思い遣り、分かち合う心豊かな社会の実現を目指してきた。その気持ちを都会の暮らしの中で3年間継続する良い機会ではないか」
「それだけで良いのですか?」
「それで十分だ。それが実践出来たら、素晴らしいことだよ。もっと、気楽に自由に羽ばたけ......」
「分かりました。3年間頑張ってみます」
本郷村から戻った流雲の気分は少し晴れた。白金学院への通学にも毎朝の礼拝時間の説話も自然体で聞く変化が生まれた。宗教儀式の抵抗感も薄れ、朝礼の一部として受け入れる意識が学校生活を積極的に楽しむ精神的な余裕をもたらした。
1963年11月22日。
流雲中学3年生の冬。世界を震撼させたケネディ大統領暗殺のニュースがアメリカから伝えられた。
そしてこの年に、アメリカ駐日大使ライシャワー氏が白金学院中学校を訪問し講演を行った。
ライシャワー氏は白金学院内の宣教師住宅で生まれ育った話をされ「この白金台地の学院が私の故郷です」と語った。
ライシャワー氏の父上カール・ライシャワー氏は、明治43年に来日し大正8年から昭和3年まで、白金学院神学部教授に就任した。その期間に、ライシャワー氏はこの学院内の敷地で生活した。
1961年にケネディ大統領から駐日大使に任命され、日本に在住し活動を続けている。
ライシャワー氏は「私はケネディ大統領の世界平和を実現を継承する為に日本の平和維持に最大限努力します」と、白金学院の全生徒の前で約束した。
この時のライシャワー大使の講和が、流雲が世界政治を身近に感じた初めての体験であり出来事だった。
流雲の白金学院の学生生活は、禅的な生活習慣とキリスト教精神の狭間に揺れた暮らしだった。その微妙なバランスは、自然に触れる時間を保つことで流雲は均衡を図っていた。
白金学院の隣接敷地に、江戸時代に造園された日本庭園「八芳園」があり、この庭園を散策し雲龍院の面影に触れていた。また、近くに雲龍院と同じ曹洞宗泉岳寺があり、品川駅に向かう時赤穂浪士の墓に参拝し自然に触れる機会を得ていた。