傷心した流雲(はるも)は伊勢原本郷村の禅寺雲龍院に移り住むことに・・・
1-3 禅寺雲龍院
伊勢原本郷村の禅寺雲龍院は、流雲の母悠香の実家。
禅寺雲龍院の住職は祖父である。流雲と言う坊主臭い名前の名付け親でもある。
流雲は麻布山を離れ、中学を卒業するまで伊勢原本郷村で暮らすことになった。伊勢原本郷村は人口800人足らずの小さな村。流雲の生活は都会の便利な暮らしから一変した。
雲龍院は伊勢原の町から、車で40分程の丘陵地帯にある。
父親は雲龍院参道の駐車スペースに車を停めた。流雲は車から降り父親と一緒にトランクから荷物を降し、参道の砂利道を本堂に向かって歩き始めた。
「流雲は此処は久しぶりだろう。最後は何時来たのか覚えてるか?」
「去年のお正月に来たよ。お雑煮が美味しかったよ」
「これから暫く、お爺さんとお婆さんと一緒に暮らすけど、週末にはお母さんが来るから寂しくないよね」
「大丈夫だよ。心配しなくても……」
雲龍院は森閑と静まり返っている。杉木立の参道と竹林と枯山水の庭園に囲まれた敷地の中に佇んでいる。
桧皮葺の棟門を抜けた正面に本堂がある。
「このお寺がこれから流雲が暮らす所だ。良く見て置きなさい。沢山のお坊さんと一緒に暮らすことになる」
父親と流雲は立ち止まり、本堂をを見上げた。
すると父親が「雲龍院の禅寺の本堂は、伝統的な寺院建築を代表する「禅宗様建築」様式だ。 本堂は細い木割と小さな斗と円弧を描く肘木の構造材をそのまま見せる木造建築だ。立派だろう」
「こうして見ると、凄く大きいんだね」
「軒が大きく反り、背丈の高い大屋根だからより大きく見える。派手さや余計な装飾の無い素朴な寺院建築は、父さんの好きな建築様式の一つだ」と話す。
「どれくらい古い建物なの?」
「最初の建立は鎌倉時代。江戸中期に増築と修復しているから、本堂は650年位、増築部分が400年位経つと思うよ」
「えぇ。そんなに古い建物なの……」と驚きながらも、不安を感じていると。
「心配しなくても、大丈夫だよ。流雲が生活するのはお寺の本堂じゃないから、母屋にはテレビも大きなお風呂も、冷蔵庫もあるよ」
大きな本堂の脇を抜けると、普通の平屋建ての建物が見えてきた。
すると、玄関からお婆さんが出てきた。
「いらっしゃい。待ってましたよ。疲れたでしょ。さぁ、中に入って」と玄関に招き入れてくれた。
「此処が内玄関よ。この奥に小庫裏があるのよ」と上がり框のある板敷の玄関に入る。
父親が「小庫裏と言うのは台所だよ。ここの台所は東京の家より大きいしその奥に食堂もある」と説明してくれた。
小庫裏は20畳程の広さがあり、仏像が祀られていた。すると父親が「韋駄天様だよ。禅宗では厨房を守る神様として祭られている」と説明する。
小庫裏の奥は、24畳程の広さの食堂と18畳程の居間がある。
その奥に住職祖父の住居になる庫裏がある。この庫裏が、流雲が日常生活する家になる。庫裏には内玄関、18畳と12畳の客間に住職の方丈、浴室や書庫がある。そして庫裏には僧侶が寝泊まりする僧堂が併設されている。
流雲に板敷きの10畳程の書庫が与えられた。書物に囲れた中に、勉強机と木台が置かれていた。木台は床から20センチ程の高さに、ベッド程の広さの板敷きがあり、その上に布団がたたまれ載っていた。
流雲は布団の寝起きを覚悟していた。木台ベッドには、父親も驚いていた。
ひと段落した後、父親と共に祖父に挨拶に伺った。
祖父、月堂龍禅は方丈の床の間の前に座っていた。父親が時候の挨拶を済ませ流雲が顔を上げると、顔色をうかがうように。
「久しぶりだね。少しは元気が出てきたかね」と声を掛けてきた。
「はい。元気です」と小さな声で答えた。
祖父から「朝4時に起床し、暁天坐禅に参加する様に」命じられた。
そして「その代わり当分の間、学校に行かなくとも良い」という条件を出してきた。
祖父の言葉に、流雲はほっと安堵の胸をなでおろした。未だ、学校に行く気持ちにならず、不安の方が大きかった。
祖父は穏やかな眼差しを流雲に向けながら、流雲に名前の由来を話そうと説明を始めた。
祖父の話によると、座禅後に『流雲』の誕生が知らされた。流雲が誕生した時は坐禅中だった。その坐禅中に閃いた「行流雲水」の言葉が浮かんだ。その閃きから『流雲』を思い浮かべ「はるも」と命名した。
「行流雲水」は禅語の一節である。「空を行く雲、川を流れる水は一時も同じ状態にはない」と言う。世の無常を表している。つまり「何事にも捕らわれずに、自由に生きること」を意味している。
「分かるか、流雲?」
「此処にいる間に自由に生きる術を身に付けなさい。周りを気にせず自然に身を任せ自由に生きる楽しみを見付けなさい」と説いた。
この教えは、流雲の揺れていた気持ちを落ち着かせてくれた。
こうして流雲は伊勢原本郷村の生活が始まった。
翌朝4時に振鈴を合図に起床し、一炷(線香が燃え尽きる時間)の座禅に参加した。座禅は約20名程の修行僧と共に本堂で行れる。
祖父が静かに歩いてくると流雲の前で止まり「心の働きを集中させながら数息観をしろ」と呼吸を整えることを命じ歩き去った。
約45分ほどの暁天坐禅を終えると疲れた身体と痺れた足を引きずって祖母のいる庫裏に戻り、冷たい水で洗顔する。やっと目覚めてきた。
「朝ご飯できたよ、小庫裏においで」と祖母が声をかけてきた。
小庫裏に入るとお粥と漬物と野菜の煮物が用意されていた。
祖母は、
「精進料理だからちょっと物足らないかね。おかずが少ないかね、お粥はお替りあるからね」と言って台所に行くと小鉢を持って戻ってきた。
「これは特別だよ」
と言って油揚げに包まれたゆで卵の小鉢を流雲の前に置いた。
流雲は一口食べて、
「これ凄く美味しい。僕。これ大好き」と伝えた。
すると、この小鉢が毎朝流雲の食卓に並ぶようになった。
朝、昼、晩の精進料理と本郷村の自然の暮らしに少し慣れた頃。2度目の週末にを母親が東京からお菓子をたずさえてやってきた。
本郷村にマーケットはあるが、日用品しか販売していない。お菓子など趣向品は伊勢原の町まで、行かないと手に入らない。久し振りのお菓子に心が和んだ。
「どう。元気にしてた。生活に慣れた?」
「うん。元気だよ。夜が少し怖い。何かの音が、山の方から聞こえてくる」
「山の中の獣でしょ。大丈夫よ。山からは下りて来ないから、お母さんもここで、ズーと暮らしてきたのだから、慣れれば大丈夫よ」
そして、「週末は、流雲の好きなもの作ってあげるから。今夜は何を食べたい。食べたいもの言ってごらん」
「本当に良いの、じゃ、ハンバーグが食べたい。それと、コーンスープが欲しい」その晩は、久しぶりに母親の手作り食事を楽しんだ。
その後の5年間、週末だけは精進料から解放された。毎週末、母親が雲龍院まで通い手料理を作りに来た。週末の食事が流雲の楽しみになった。
雲龍院の生活が、3週間ほど経った夕食後に祖父の方丈に呼ばれた。
「流雲も、だいぶ、朝のお勤めに慣れてきたようだが、どう」
「はい。慣れてきました。朝も起きれるようになりました」
「そうか。では、そろそろ、学校に行くか?小さな学校だから、そんなに負担にはならないだろう」
「うーん。直ぐにですか?もう少し、このままでは?」
「そうか。もう少し時間が必要か。でも、勉強は必要だろう。どうだ、来週からこの寺で勉強を始めるか?先生はお坊さん達だが、学僧だから流雲に勉強を教えることができる。月曜日から始めるが、それで良いか?」
「分かりました。でも、お坊さんの勉強をするのですか?」
「はぁ。はぁ。いや心配しなくてもよい。坊さんの勉強ではなくて、普通の学校の勉強だ」
「算数とか。理科とか。国語とかですか?」
「そうだ。ここに居る坊さんは学僧だから坊さんの勉強もしているが、一般教養も学んできている。学校の先生ができるくらいの実力はある」と話した。
「もう暫くしたら、学校に通うように。学校は卒業はしなくては駄目だからな」
そして、
「それと、何かひとつ自分の打ち込めるものを始めなさい。絵を描くのでも読書でも何でも良い。続けられるものをひとつ見つけて始めなさい」と話した。
翌週から、雲龍院の勉強が始まった。
学僧の授業は寺の境内や山林に出掛ける自然の中で行われた。
山林には清流が流れており、ヤマメやイワナやサクラマスが生息していた。清流に手を入れると、肌を刺す水の冷たさに手が痺れた。
山林に育成する草花や樹木には毒草や被れる草もある。その違いを知る学習や昆虫や鳥獣の生態や漢字を学習したり、樹木の高さを計測する三角法など学校の授業とは全く異なる自然の中で学ぶ授業が続けられた。
日本画家の雪山学僧が、流雲の絵の教師となった。雪山先生は草花の観察眼を身に付ける重要性と自然を感じる気持ちの大切さを繰り返し指導した。