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空を行く雲、流れる水のごとく  作者: 原 徹生
第1章 日本編 Ⅰ948-1978
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自然と如何に生きるか。1980年代のアメリカに暮らし自然の驚異と不思議を体験しながら放浪する中で、カメラに目覚め自然と生きる術を見つけ、自然景観写真家として自然と共に暮らす日常を綴る。

エピローグ



 ムーンライトに包まれた海辺のワインディング・ロードを走っている。暗い海岸線に街灯は少なく、深夜に走ってる車は無い。

 流雲(はるも)は、深夜の海岸道路に神経を集中していた。気を抜くとアクセルを踏み込み過ぎてしまう。ビーチに近づくにつれもどかしさが募り、はやる気持ちを抑 えきれずにスピードが上がる。


 左手のワイマナロビーチは漆黒の闇に覆われ何も見えない。昼間ならば、マリンブルーと白い砂の綺麗なビーチが望めるのだが......。

 暗闇のワイマナロを走り抜けると、ヘッドライトに照らされたハイウエイの先に、カーテン状に切り立った荒々しい崖肌の黒い影が右手に現れた。


 暗夜に閃光が走り、闇海に光の帯が走る。マカプウ岬の灯台の明かりだ。

 海岸道路の前方左手に、ビーチ・パークへの入口が見える。

 パーク・ロードにハンドルを切り乗り入れる。駐車スペースに車を停車しヘッドライトを消す。突然、薄墨の幕を張ったような深い暗闇に視界がさえぎられた。


  おぼろげに光る青白い月明かりが、海面を照らし、藍色に輝いている。暗闇に眼が慣れてきたのか、辺りの様子が薄ぼんやりと認識できる。

 月が雲間に隠れる。暗闇に目を凝らすと、道路脇の椰子の木々が影絵のように揺れている。岩礁に砕ける波音が響いている。駐車場下の砂浜の先はビロードを敷き詰めたような漆黒の闇に包まれている。


 流雲は車を降り、闇空を仰ぎ見た。

 息を飲むような幻想的な光景が、流雲の前に出現した。

見上げた闇空に、無数に煌めく星々の光が夜空に瞬いている。コオラウ山の尾根の西空に白い月が浮かんでいる。

 流雲は、星降る島ハワイの雄大な世界に改めて圧倒された。


 流雲は、フラッシュライトで足元を照らしながら慎重に岩場を降りる。波の音を頼りに水際向かって歩く、60歳を超えてからカメラ機材の重さを意識するようになった。バックパックを担ぎなおし足場を確保する。

 白い砂を踏みしめながら、微かな波音を頼りに歩く。溶岩の岩場にフラッシュライトの光をかざした時、3メートル程の空中に白い波の花が瑠璃色の闇に咲いた。

「ここが撮影の最適スポットだ」と流雲は直観した。


 岩場に足場を確保し慎重に三脚をセットする。岩場に腰を落とし一息ついた時、清々しい海風が吹き抜けた。ふと、周りを見回すと、何時の間にか。流雲を取り囲むように何人ものカメラマンが東の空に向けポジションを確保している。400㎜の超望遠ズームをセットしている猛者もいる。

   

 サンディービーチ。201X年元旦の夜明け前。

 瑠璃色の闇に包まれた水平線が、徐々に東雲色に薄く染まり始める。

 満天の星々が静かに音もなく、徐々に消えて行く。瑠璃色の西空に月が白く輝いている。東の空がほのかに明るく曙色に染まり始めると、瞬く間に太陽が顔を覗かす。


 一瞬のドラマの幕開けだった。

 雲ひとつ無い水平線の珊瑚色の空が、刻一刻と黄金色に染まる。東の空一面の黄金色が、紅を流したような鮮やかな金赤色の美しいグラデーションに変化していく。

 その瞬間、流雲の頬に暖かさが伝わってきた。

 闇に沈んでいた水面がキラキラと蜜柑色に輝き、ゴージャスな赤錆色のカーテンに包まれる。白く強い光を映して水面が輝き揺れる。大自然が織りなす光りのドラマに浜辺が包まれて行く。


 流雲は望遠ズームと広角レンズを装着した二台のカメラを駆使し、一瞬のドラマを連続ショットで撮り続ける。水平線に集中する。暁色から黄金色に変化する自然のグラデーションのドラマを切り撮リ続ける。

 

 浜辺に一声に驚嘆の声が上がり。拍手喝采が湧き上がった。

 流雲が浜辺を振り返えると、浜辺は喧騒に包まれていた。その騒がしさは年末のカウントダウンの打ち上げ花火のどよめきを上回る騒々しさだ。

 僅か数分のドラマに数万人の人垣が浜辺を埋め尽くしている。

 初日の出の儀式にこれほど多くのアメリカ人が集まるとは、メインランドでは考えられない光景だ。

 

 ハワイには日本文化が根付いているのを感じる。

 ハワイの日本文化の歴史は古く。1910年代に日本人移民は最大の民族集団を築いていた。サトウキビ農場やホノルルの都市部にコミュニティを形成していた。

日本人学校を始めに、仏教寺院や神道神社から邦字新聞社や個人商店など日本人社会は繁栄を誇っていた。こうした日本人移民が日本の祝祭日を祝い、正月の伝統を守ってきたのだろう。


 当時の邦字新聞『日布時事』の「とやら」 雑記欄の記述には、

   「日本人町では各商家何れも門松を立てて店頭を飾っているとやら、

   此の辺りをさまよへば一足飛びに故郷へ帰った心地がするとやら、

   日本人町は年と共に愈々日本化して行くとやら、

   同化論者や米化論者が百日の説法も何の効果もないらしいとやら、

   日本人には日本人の儀式がある外人の真似をするは及ばぬとやら」とある。

 

 戦前のハワイ諸島には神社が60社程あった。初詣は日本人移民にとって盛大な年越しの儀式だった。

 現在ホノルルにはハワイ出雲大社、ハワイ大神宮、ハワイ金刀比羅神社、太宰府天満宮、ハワイ石鎚神社の5社、マウイ島にマウイ神社とマラエア恵比寿金刀比羅神社の2社そしてハワイで一番古いハワイ島のヒロ大神宮の合計8社が残るだけだ。

 オアフ島の出雲大社の初詣の参拝者は、毎年1万5,000人を越える。日系人だけでなくハワイアンやアジア系移民など一般のアメリカ人が参拝に訪れる。


 初詣だけでなく、年末年始にはハワイ化された儀式が執り行われている。

キリスト教の影響を受けた除夜会という「礼拝の儀式」が大晦日の夜と元旦の朝に行れる。ホノルルでは日本式に除夜の鐘を撞く寺院もある。三が日に餅つきやお節料理を食べる習慣も根付いている。

 日系人の日本への思いが日本文化を根付かせた最大の要因だろうが、ハワイには古代からハワイ人が語り紡いで来た神話文化がある。神話を紡いできたハワイ人の寛容さが、日本文化を根付かせた最大の要因だろう。


 流雲がハワイに流れたのは、べルヴューの街並みが鮮やかな紅葉に包まれ、枯葉が舞い始めた11月初旬。

 森の暮らしから離れる時、流雲に都会暮らしの選択肢は無かった。

 流雲が移住を決意したのは安住への抵抗があった。アメリカに刺激を求めて流れてきたが、単調な暮らしに慣らされた戸惑いとアメリカ社会に繋ぎ止める錨を失ったことが決断を加速させた。また、35年以上のアメリカ暮らしに変化を求めたのも要因のひとつなのは否めない。この年月に捨て去ったものや避けてきたものが数多くある。特に、自然の中に感じるスピリチュアルなモノを避けてきた。流雲は自然を肌で感じる暮らしを求めた。自然にハワイを選択していた。

 

 祖父、月堂龍禅に勧められた癒しの旅を中途半端にしてきた後悔がある。

旅の目的を見失った自分に不甲斐なさを感じていた。そろそろ旅を終わりにする時期なのかもしれない。

 この創世神話の地を最終寄港地に選んだのは偶然では無いだろう。


 そんな思いを巡らしながら、カメラ機材をバックパックに片付けていると、

「Ryu? Ryu, right? It's me, Larry, you remember when we worked together in Denver over 35 years ago? Are you traveling?」

「I haven't seen you since I met you at Aspen when you moved to Eagle, so that's almost 35 years ago. What the hell are you doing in Hawaii, mountain man?」

「I live on Kauai now, I moved here 10 years ago from Eagle.」

「Oh, yeah. I moved to Oahu last year from Seattle. That's interesting. You are such a mountain lover, I'm surprised you moved to Hawaii. What's the change of heart?」

(驚いたね。ハワイでコロラドの山男に合うとは、それも初日の出に)


「Larry, what do you have planned for today? It's been a while, let's have breakfast together.」

「Good, but... Is there any restaurants open at this hour?」

「It's okay. My friend has a cafe in Hawaii Kai. Let's go there.」

(旧友ラリーと知り合いのカフェに腰を落ち着け、短い会話を交わした時、35年の年月が走馬灯のように頭の中に流れた.....)


 流雲の心に、デンヴァ―時代の懐かしい想い出が一瞬のうちに蘇った。

 そしてアメリカ放浪の旅をスタートしたのは、この地ハワイからだった。36年前にスタートした旅は北から南へ、森から海へと流れてきた。

 あの時、流雲が突然日本を飛び出し、雲が流れる如く、放浪の旅に出たのは.....。




[1]雲が流れるように



1-1 麻布山から


 流雲は子供の頃に安住の地、麻布山を流れたことがある。

 流雲は戦後昭和23年に生まれた。流雲の世代は小学校はひとクラス60人、6クラスの過密状態にあった。クラスに必ず親分肌のガキ大将がおり、陽が暮れるまで外で遊ぶのが当たり前だった。


 子供の頃の楽しみは、自転車で回って来る紙芝居。話し上手な紙芝居屋さんは、子供達の人気の的だった。そのおじさんが来る時間を心待ちにしていた。まだテレビの無い家庭が多かった時代である。


 子供の頃、流雲は空想癖が強く物心ついた頃から物思いにふけり、独り言が多くひとり遊びにふけっていたという。

 親によると、絵本が大好きで絵本に合わせて、ひとり遊びするのが好きな子供だった。空想癖は小学生になっても治まらず。空想世界に浸りひとり遊びが日常化していた。流雲は周りから少し変わった子供とみられていた。

 そんな少し人と変わった子供時代に事件は起きた。


 流雲10歳の時に住み慣れた麻布山を離れたことがある。


流雲は家出をした意識は無く、何時もの散歩の延長だった。

 麻布山を下り散歩している内に都電に乗り、銀座を抜け、吸い寄せられるように浅草の町に辿り着いていた。どうやって、都電を乗り継ぎ浅草に辿り着いたのか。浅草に知り合いがいた訳ではない。気付いたら浅草の町にいた。 

 

 この頃、麻布山の子供達に山の手線を一周する遊びが小さなブームになっていた。

都電に乗り、ひと乗り5円の切符で山の手線に乗り、車掌に見つからずに一周するハードルの高い小冒険だ。


 流雲は、この浅草冒険を明確に思い出すことが出来ない。何か眼に見えないモノに導かれたように浅草に居た。当時の記憶は霞のように霞んでいる。

 見知らぬ浅草の町は、流雲に刺激的であり路地裏をあてどもなく歩き回った記憶がある。知らない町を歩き続け、疲れ果て腹を空かせ入った浅草の老舗蕎麦屋に保護され終わった。

 腹を空かせ蕎麦を注文した子供を不審に思った女将さんが警察に通報した。


 実家では警察からの連絡が来るまで流雲の小さな冒険に全く気付いていなかった。 

 昭和30年代始めの頃、子供がひとりで町を歩き回っている姿は珍しくもなく、不審にも思われなかった。流雲が子供の頃はそんな時代である。

 この流雲の小さな冒険は、当時の時代背景では子供が引き起こした小さな冒険で片付けられる程度のモノだった。

 ところが、これが異常な事件へと変貌を遂げたのは流雲の何気ない一言からだ。 

 流雲を保護した警官は、

「僕、名前は?何故、家出をしたのか?ひとりでフラフラしてたの?」と尋ねた。

 流雲の答えは、

「僕は、ひとりではないよ。健坊と一緒だよ。何言ってるの?散歩に出た時から一緒だよ」

「その健坊はどこにいるの?」

「何処って。此処にいるよ」と、隣を指さした。

(流雲の頭の中には、一緒に冒険した仲間『健坊』が居た。流雲には目に見えない友と遊ぶのが日常化していた)


 家族の中では流雲の空想遊びは日常のことであり、この事件が起きるまでは大きな心配事ではなかった。ひとり遊びが多く、レゴや鉄道模型や絵を描いて遊んでいた。絵本の世界に浸り、独り言を話したり、自分以外の気配を感じたり、現実にいる自分と見ている自分の分身を感じたりと想像の世界を楽しむ非常に感受性の強い子供時代を過ごしていた。

「ボーっとしている」と、親に良く注意されていた。


 警官や蕎麦屋の女将さんの流雲を見る眼が一変した。

 偏見を持った警察官の眼は、流雲を異常な者、異質な人間を見る眼に変わった。精神異常者を取り扱いに困る社会の眼だった。

 流雲は居心地の悪さに戸惑い不安に駆られたことを記憶している。


 昭和30年代には様々な偏見が社会に満ちていた。知識の無さが偏見を生み偏見を容認した時代であり、精神障害者を除外する社会通念が一般化していた。

 警官の態度は急変した。

 子供保護から精神異常者の隔離が優先され、救急車が手配された。

 流雲は救急車が来るまで部屋の隅に隔離された。そして、流雲は救急車で精神科のある病院に緊急搬送された。


 搬送先の精神科の医者の診断は多少空想癖の傾向はあるが、児童の成長過程では良く起こることであり特に治療の必要性は無い。と両親に報告した。

    

 無垢な少年が、水が流れるように、街を散策した小さな冒険だった。

通常なら、騒がられるほどの事件ではなかった。何を考えたのか、浅草警察署は流雲の学校に「精神的欠陥のある危険児童」のラッテルを貼り報告した。







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