乗車券
――とある県立病院。
小さな時から病弱で、人生の大半を病院で過ごしてきた一人の青年が、まだ18歳という若さで帰らぬ人となった。
横で泣き崩れているのは青年の兄、貴史。
面倒見の良い兄と、いつも明るく振る舞っていた弟。仲の良い兄弟だった。
「兄ちゃん。僕が先に死んじゃうから、次に生まれ変わった時は僕の方が兄ちゃんだね」
無理な笑顔を作った弟の、最後の言葉。
その後、信じられないほど静かに、弟は目を閉じて息を引き取った。
涙を枯らした貴史が現実を受け入れられないまま、葬儀は終わる。
小さくなった弟を家に連れ帰る途中で、貴史の頭にふと昔の記憶がよみがえる。
あれは小学生の時に聞かされた話だっただろうか?
この街にある自殺の名所の一つ手前の駅。
名前も知らない無人駅には、不思議な意見箱があるらしい。
なんでも常世と現世を繋ぐ不思議な箱で、死んでしまった人の名前、自分の名前、住所を書くと一枚の乗車券が送られてくる。
それに書かれた日時に発車する電車に乗れば、たった一駅の間だが、その人に会えるという都市伝説だ。
こんな都市伝説を信じる歳ではない貴史だったが、抑えのきかない思いが込み上げる。
もしも会えるのなら……と。
『貴史……。智くん残念だったな。お前も辛いと思うけど――』
『なぁ、小学の時に流行った都市伝説覚えてるか?』
『なんだ、突然……。人面犬に口裂け女――あっ、常世の電車ってのもあったな』
『それだよ。お前そういうの詳しかっただろ? ちょっと教えてくれないか?』
小学時代からの友人に電話した貴史は、詳しい話を聞いていた。
友人は常世の電車にある、いくつかのルールを教えてくれる。
一つ、会うことができるのは死後49日までの人物である。
一つ、送られてきた乗車券に書かれた日時に電車に乗らないと会うことが出来ない。
一つ、会える時間は一駅の間だけ。次の駅で降りなければならない。
一つ、会って話すことはいいが、触れてはいけない。
一つ、死者に電車のことを尋ねてはいけない。
『まぁ、こんなところだ。貴史……お前、もしかして。いや、なんでもない』
『ありがとな』
電話を切った貴史は礼服もそのままに家を飛び出し、車を走らせる。
向かったのは都市伝説の駅。
駐車場もない小さな駅の側道に車を止めると、待合室へと駆けた。
誰もいない小さな待合室には、古びた丸椅子が三脚、無造作に置かれていた。
そして学校にあるような児童机の上には『意見箱』と書かれた木箱。
ゆっくりと机に向かうと、木箱の横に置かれた紙と鉛筆を手に取る。
貴史は大きく息を吐いた。
どう見ても普通の意見箱なのに、貴史の心臓は激しく脈打つ。
自分でもどうかしてると思う反面、黄ばんだ紙や先の丸くなった使い古しの鉛筆は、妙に信憑性を訴えかけてくる気になるのだ。
脳裏に弟が浮かぶと、貴史は震える手でゆっくりと名前と住所を書いていく。
書き終わってから何度も見直し、四つ折りにして木箱の投入口に近づける。
その時、待合室の入り口の戸を引く音がした。
驚いた拍子に手を離れた紙が、意見箱の口にのみ込まれる。
「おんや、珍しい。見かけねぇ人だな」
待合室に入ってきたのは、腰の曲がった白髪の老婆であった。
「あんた、どっからきたんね?」
「あっ、いえ、ちょっと、市内の方からです」
「そうかね。誰か親しい人でもなくなったのかい?」
突然の老婆の指摘に驚いた貴史だったが、自分が黒ネクタイの礼服姿だと気づくと「えぇ、まぁ」と言葉を返した。
「そうかい。それは残念だったねぇ」
老婆はそういって丸椅子に腰掛ける。
貴史は老婆に都市伝説のことを聞こうか迷ったが、軽くお辞儀をして待合室を出ることにした。
外に出ると、ポツリポツリと雨が降り出す。
急いで車に戻った貴史は、自嘲するような薄笑いを浮かべていた。
いざ冷静になってみると、なんと子供っぽいことをしたのだろうかと。
初七日法要から1週間がたち、自らの行動が笑い話になろうとしていた頃、仕事から帰ってきた貴史は、一通の封筒が家に届いていることに気づいた。
どこにでもある茶封筒。
差出人の名前はなく、貴史の名前と家の住所だけが書かれている。
貴史の全身には鳥肌が立っていた。
封筒を手に取ると部屋に入り、上部をハサミで切って中身を確認する。
中には小さな紙切れが入っていた。
封筒を逆さにして取り出すと、黄ばんだ色あいの紙が落ちてくる。
ネットで見たような古い切符には、印刷文字に手書きの数字。
乗車駅発 7月20日 23時
たったそれだけ。
だが、裏に小さく書かれた弟の名前に、貴史は震える手で頭を押さえた。
今は7月20日の午後7時。
つまり4時間後に出発する電車の乗車券だった。
「いたずら……じゃないよな」
背中を汗で濡らしながら、貴史は独りごちた。
弟にもう一度会えるかもしれないという嬉しさと、得体のしれない不気味さが同時に押し寄せる。
自分が望んだことなのに、信じられない気持ちが拭えない。
会えたとして、どう声をかければよいのか、それすらも頭に出てこないのだ。
時間が過ぎる中、貴史は心を決めた。
たとえ話すことが出てこないとしても、もう一度弟に会いたい。
その思いを胸に、あの無人駅へと急いだ。
22時30分を過ぎた頃に駅に着くと、真っ暗な世界にポツリと灯りが点いている。
待合室だ。
貴史は息を荒くしながら中へ入ると、丸椅子に座った。
当然貴史の他は誰もおらず、蛍光灯の周りに小さな虫が飛んでいるだけ。
気持ちを落ち着かせようと、待合室を見渡した貴史の息が一瞬止まる。
机の上に意見箱が無かった。
まさか夢でも見ているのかと、貴史は瞬きを繰り返す。
何度見ても机があるだけ。
立ち上がって机に近づこうとすると、微かに「ガタン、ゴトン」と音が聞こえてきた。
貴史が携帯を取り出して時間を確認すると、画面には22:59と映し出されている。
徐々に音が大きくなり、待合室に振動が伝わり始めた。
大きく息を吐いた貴史が待合室を出ると、空気が漏れる音とともに、写真でしか見たことのない古い電車が目の前で止まった。
箱型で一車両の電車。
窓から中を覗けば、薄暗い車内には誰も乗っていない。
いつの間にか開いていた乗り口に、貴史は恐る恐る足を踏み入れた。
乗り込んだ貴史を確認するかのように扉が閉まると、再び「ガタン、ゴトン」と電車が動き出す。
その時、貴史の背後から「兄ちゃん?」と懐かしい声が聞こえた。
振り向いた貴史の目にみるみると涙がたまる。
「智!」
そこには座席に腰掛けている青年がいた。
見間違えることもない弟の姿に、貴史は駆け寄ろうとして、グッと堪えた。
一つ、会って話すことはいいが、触れてはいけない。触れれば電車から降りることが出来なくなる。
友人の言葉を思い出したからだ。
涙を手で拭い、弟と相向かいに座る貴史。
少し肌が白くなった弟は、それでも元気そうに見えた。
「兄ちゃん、会いに来てくれたんだ」
「あぁ、智に会いたくてな」
そう答えた貴史は、不安や恐怖が薄らいでいくのを感じていた。
死んだ弟。
だが、生前と変わらない姿が目の前にあるのだ。
「ねぇ、兄ちゃん。父さんや母さんは大丈夫?」
「そりゃあ悲しんでるけど……大丈夫さ」
「そっか。ごめんね」
「ばか、謝るな」
両親の話から始まり、小さな頃の思い出の話になると、二人からは笑顔がこぼれる。
あの時怒られたのは兄ちゃんのせいだった。いや、智のせいだ。と、たわいもない話が続く。
そんな楽しい会話を遮るように、二人の体が少し振られる。
窓から見える景色は真っ黒なので分かりづらいが、電車は確かに減速している。
電車が止まれば本当の別れなんだと、貴史は目頭を押さえた。
「兄ちゃん……」
しっかりと弟の姿をまぶたに焼き付けておきたいのに、涙で霞んでしまう。
揺れが止まり、空気が抜ける音とともに扉が開く。
「兄ちゃん、降りなきゃ」
「うっ、うっ、うぐっ、分かってる」
貴史はふらつきながら立ち上がると、壁に手を突きつつ乗り口へと向かう。
一歩を踏み出し外に出た貴史は、後ろに気配を感じた。
「兄ちゃん、ありがとう。次は僕が兄ちゃんだからね。ひぐっ、絶対だからね」
「あぁ、俺が弟だ。待っててくれよな」
顔をくしゃくしゃにした貴史が振り返ると、同じようにくしゃくしゃ顔の智が乗り口に立っていた。
手を伸ばしたくなる衝動を抑えた貴史の頬に、優しく触れる智。
無情にも扉は閉まると、貴史は泣き崩れるように窓ガラスに手を当てる。
車内でも智が貴史と手を合わせるようにして泣き喚く。
ゆっくりと進み出す電車は「ガタン、ゴトン」と遠ざかっていった。
「貴史、ご飯出来てるわよ、早く食べないと遅刻するわよ」
「分かってるって」
貴史は目の腫れた顔を鏡で確認しながら、母親に返事をした。
そして鏡に映る姿に、小さく呟く。
「……ごめんね、兄ちゃん」
お読み頂きありがとうございました。
私なりのホラーでございます。