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荊の冠  作者: 宮城奈々
4/11

明日羽

 東京近郊の、超がつく有名な古都でありながら、私が鎌倉に行くのはそれが初めてだった。

鎌倉ときいて、まず思いつくのは大仏。それから鎌倉幕府、源頼朝、北条政子。神社やお寺がいっぱいあって、湘南の海にはおしゃれなカフェやレストラン。初心者はみんなそんなものなんじゃないかと思う。

前日に私の荷物を引っ越し屋さんに預けて、私自身は彩夏さんが運転する、小さめの車で鎌倉へ連れて行ってもらった。手伝う、と言って秋葉さんも来てくれた。といっても、持っていく荷物は私の身の回りのものだけで、家電も家具も置いていくのだから、手伝ってもらうようなこともないのだけれど、夏休みのお出かけみたいで、しんみりせずにすんでよかった、と思った。実際、篠田家に着いて挨拶をし、まあお茶でも、お昼にしましょう、と次から次へともてなされた後は、近くを案内するね、と彩夏さんと秋葉さんに連れ出され、鎌倉観光になってしまった。

「見るところも食べるところいっぱいあって、しばらく飽きないわよ」

 楽しそうな彩夏さんの勢いに押されて、私は「はぁ」と半端に頷く。住宅街から大きな通りに出ると、「あっちが北鎌倉駅方面」と彩夏さんが右手を示す。

「建長寺っていう大きなお寺があるの。その先にはアジサイ寺って呼ばれる明月院があって…ああ、でも有料だから、篠田のお義母さんにでも連れて行ってもらった方がいいかな。で、こっちに行くと鶴岡八幡宮」

 と、左手方向を指して、そちらに向かって歩き出す。

「緑が多くても暑いねー」

 と秋葉さんが言うと、「高原じゃないんだから」と彩夏さんがちらりと振り返る。

 秋葉さんが帽子を押さえながら空を見上げ、まぶしそうに眼を細める。

「やっぱり光が多いと、景色の色も濃いなぁ」

 私も周囲を見回した。

 陽に焼けてしまったかのように木々の緑が濃い。

 会話を遮る蝉しぐれ。

 太陽の熱と水分をたっぷり含んだ空気に取り巻かれて、逃げ場のない汗が服の下だけでなく額や首筋からも流れ落ちる。気持ちが悪い。でも、こんな夏らしい夏、初めてかもしれない。

 鶴岡八幡宮を参拝して、若宮大通りに並ぶお店をのぞいて歩く。夏休みということもあって、人の数がすごかった。店先の商品をゆっくり眺めながら歩くのも、おしゃべりしながら歩くのも難しい。

「あれが二の鳥居」

 彩夏さんが、大通りの真ん中にどんと建つ、大きな鳥居を指さした。

「で、そこを右に曲がったら鎌倉駅に出るわ。だからあの鳥居が目印ね」

 三人で、駅の方に向かう。駅前のロータリー手前の道が小町通りだった。そのままもと来た方向に歩いていけば、鶴岡八幡宮の端、来るときに通った道に出るという。簡単で迷うことはなさそうだ。ただ、人という障害物は「いつもよ」ということだった。

「こんなににぎわっているとは思いませんでした」

 小町通りの両側にはびっしりとお店が並んでいるのに、どこかでお茶しようにも、並んで待たないと入れない。

「そうね、休日はちょっともうキャパは超えてるかも。平日もすごいってお義母さんは言ってたけど。特に外国人が増えたって」

 確かに聞こえてくるのは日本語以外がすごく多い。

「江ノ電なんかは乗れないこともあるんでしょ?」

 と秋葉さんが訊く。

「みたいね。でも江ノ電は短いし、単線だから。元々たくさん運べないもの」

「あの」

 私が間に入ると、二人が何? というように私を見た。

「お二人って、鎌倉出身じゃないんですか?」

「違うわよ。言わなかったっけ?」

「実家は世田谷」

 そう彩夏さんと秋葉さんが交互に言う。

「結婚決まってから、よく来るようになったの、私は」と彩夏さんが言った。「見るところ、食べるところいっぱいあって、面白かったから」

「…ああ、実体験だったんですね」

 そういうことね、と彩夏さんがにっこり笑う。

 暑いので外で順番を待つより、何か買って帰って、お茶は家で飲むことになった。

 いつでも来られるんだし、と彩夏さんは言う。まだまだ彩夏さんは鎌倉に飽きていないらしい。



 私自身、鎌倉に興味がないわけではなかった。これから住む町なのだから、知ってもおきたかった。

引っ越しの片づけも自分ひとりの一部屋分なので大して時間はかからず、転校するので宿題もない。残りの夏休みは近くを歩いてみようか、と思ったのだが、とにかく暑くて、そして何より人が多くて、挫けた。

 だから結局、まともに歩き回ったのは、冴乃や、他の友達が鎌倉に遊びに来てくれた、その時だけだった。その日だけと思うと、エネルギーが出せるのか、彼女たちは暑さにも負けず精力的に歩き回り、店の行列に並び、食べる。これが住んでいる人間と遊びに来る人間の差かもしれない。

 来年は水着もって遊びに来るね! とみんな言うけれど、テレビのニュースでみたあの海岸の人混みでは、私自身は楽しめないと思う。

 …私ってつまんない娘だな。

 彩夏さんたちも、冴乃たちも、新しい状況にすぐに飛びついて楽しめているのに。

 


 昼はあいかわらず真夏でも、夜になると秋が混ざり始めていた。それに気がついたのは、両親の四十九日の法要が営まれた日のことだった。法要に着ていた制服をハンガーにかけ、窓辺に出そうとした時、せみの声に混ざって甲高く澄んだ鈴虫の声を聞いた。空には輪郭のはっきりした半月が輝いている。

 暑さで霞んでいた空は行ってしまった。清桜の制服も着るのは今日で最後だった。九月からの学校の制服はすでに京子おばさんが用意をしてくれていて、クローゼットの中に納まっている。こうして少しずつ塗り変わって全く違った毎日に移行するのだ。



 新しい学校はいろんな意味で元気がいいと感じた。母は「公立の学校はがさがさしていて、落ち着かないわ」と言っていたが、母ならばそう言うだろうなというのも理解できた。それが好きか嫌いか、合うか合わないか、それは感じ方の問題だとは思ったけれど。

『新しい学校はどうだった?』

 初登校日の夜、圭一さんが電話をくれた。

 どうといわれて言葉にできるような答えもなく、少し考えた後、私は以前とは決定的に違うと思ったことを口にした。

「…男の子がいました」

 電話の向こうで圭一さんが噴出した。そのあともしばらく笑っていた。笑いをとりたくて言ったことではなかったので、少し恥ずかしくなる。するとまるで私の気持ちを読んだかのように圭一さんが言った。

『ごめん、笑ったりして悪かった。でもそうか、ずっと女子校だとそれは大きな違いだな』

「見慣れるまで、驚いてしまいそうです。なんでいるんだろうって。男の子たちだけじゃなくて、学校に入るところから、校舎のどこになにがあるのか、それから教室でも先生でもクラスメートでも、私は何ひとつ知らなくて、変な感じでした」

 みんな、もうずっとあの学校で一緒に過ごしてきた、できあがった関係だ。誰と誰が仲がよくて、どの先生が好かれていて嫌われているのか、話しかけてくれてきたクラスメートたちの会話に出てくる登場人物がどの人なのか、そんな基本がわからないということに、疎外感みたいなものを感じてしまった。

 転校したことを後悔してはいないけれど、早くここにいることを疑問に感じない、なじんだ自分になりたかった。

 珍しく寂しさを感じていたのかもしれない。圭一さんが電話くれたのが嬉しかった。事情を全て知っている人と話すのは、知っている声や話し方はやはり安心をくれる。

『新しいところへ入っていくのが大変なのはわかるよ。その上明日羽は気を回しすぎるから疲れるだろう。大丈夫なのか?』

「それは大丈夫です」

『…訊くんじゃなかった』

「え?」

『明日羽はどんな時でも絶対”大丈夫です”って答える』

「本当に大丈夫だからです」

 圭一さんのため息がきこえた。気を回しすぎなのは圭一さんの方だ。

「私にも大丈夫じゃないこと、ありますよ」

『大丈夫じゃないことって?』

「受験です。あと半年もないんです。私今まで全然受験のことなんて考えてなかったから』

『受かったら、何でも好きなものを買ってあげるよ』

「それ、全然解決になりません」

『ものではつれないか』

「つられません」

 それに自分のことですから。そう思ったけれど、言わなかった。言えばまた、この人は私をかまってくれようとしてしまう。

「ものでつられて勉強がはかどるような素直さはないんです」

 結局、いつもこんな言い方になってしまう。

 生意気な子供。でも、それでいい。



 季節は動き出すと早かった。夏と冬という季節は、まるで終わりがないように思えるのに、春や秋は見る景色の色が日々変わっているように感じる。まだ新しい夏の制服は、一ヶ月後には冬服に変わった。卒業まで数ヶ月の三年生たちの中で、私はただ一人真新しい制服で登校する。

 受験のため、九月の半ばから塾にも通いだした。

 神奈川県では、入試以外に中二と中三の成績が内申点として選考に使われるため、東京出身の私の場合、少し面倒なことになりそうだったからだ。受験には面接もある。鎌倉あたりにある高校はレベルが高めともきいたので、まずは自分のレベルを知って、早く目標を決めて対策をしないといけなかった。

 私立と公立では授業の進み方もプログラムも違う、そんなことにも戸惑った。ただ、たいていの科目は前の学校の方がすすんでいて、特に英語については清桜で重要視されていたこともあり、二学期の中間テストで私は思った以上の成績を上げることができた。

 そうしてあっという間に冬がきた。焦りもしたけれど、やることに追われているのはいい。気がつきもしないうちに学校にも慣れ、友達もでき、篠田家の暮らしにもペースができていた。

 基本的に放っておいてくれる京子おばさんだけれど、食事は必ず一緒にとったし、何か行事があれば必ず手伝うように言われていた。特にお正月の準備は大変なもので、お手伝いさんたちだけでは手が回らず、私が駆り出されたのはもちろん、彩夏さんも泊り込んで働いていた。

「しっかり嫁さんしてますね」

 と私が言うと、彩夏さんは笑って、「明日羽ちゃんにそれっぽく見えてるならよかったわ」と言った。

 今は身分の違いなどないというけれど、育ちの違いというのはあるのだな、とここにいると感じてしまう。母は、良いものに慣れている人は自然に品位が備わってくる、と言っていた。でも品位はたぶん自然にではなく、学んで身につけるものなのだと思う。京子おばさんが持つ、動じず構えていられる余裕みたいなものが、彩夏さんにもある。それはやってきたことからくる自信。

 彩夏さん自身、大きな家のお嬢様だったのだと後で知った。だからだろう、イベントごとにも妙な落ち着きがある。それでいて、人任せではなく、自ら動いている。冠婚葬祭、古い家のしきたりなんかもさらりとこなしているように見える。明るくてよく働いて気が利いて、圭一さんとも仲がいいし、篠田家にとってこれ以上のお嫁さんなんていないと思う。

 お正月の準備はだんだん時間との戦いになってきた。家中開け放して掃除をする。廊下に客用の座布団を並べて干す。料理を盛る塗り物の食器を出す。床の間の掛け軸を変えて、花を飾る。花とはいっても、飾るのは縁起物だという真っ赤な実をつけた千両という植物と、柳のつるを大きく緩く結んだものだ。それを、床の間の柱にかけた花器からたらす。

 家の庭で餅をつき、大きな板のお餅をつくる。これを切って角餅にするのだそうだ。その他にも、家の中の神棚や、敷地内の井戸やお稲荷さんにお供えする鏡餅も作った。

 おせち料理もほとんど手作りで、京子おばさんと彩夏さんが一日中立ちっぱなしで料理を作っていた。伊達巻が家で作れるということを、私は生まれて初めて知った。

 今年両親を亡くした私にお正月はないのだけれど、篠田家の正月は体験できるのは何だかちょっと楽しみになっていた。

 準備は大変でも、大変だから気持ちも盛り上がってくる。

 きっとお母さんも結婚する前はわくわくしながらお正月を待っていたんだろうな。そんなことをふと思った。

 この生活が忘れられなかったから、お母さんは幸せになれなかったのかもしれない。同じでなんていられるわけがなかったのに、変わろうとしなかったお母さん。自分で選んだのなら、振り返えってはだめだったのに。

 大晦日になってやっと圭一さんと弟の達彦さんが鎌倉の家に帰ってきた。掃除も料理もお客様を迎える準備も全て終わってからの登場だった。京子おばさんも彩夏さんもそれが当然といったように二人を迎えて、お疲れさまと声をかけている。

 もちろん、二人とも自分たちの仕事をしていたのだけれど、ここでお正月の準備を見ていた私はまた思ってしまう。こういうものだと達観するのも、余裕のうちなんだな、と。



 鎌倉はお正月も混んでいる。鶴岡八幡宮は、人出の予想がテレビで出るほど初詣では有名な神社だし、鎌倉の海岸線は初日の出を見に来る人たちで埋まるのだという。家の中にしか静かなお正月はないよ、と篠田のおじさんは苦笑する。だからというわけではないけれど、私はずっと家にいて、時々おばさんや彩夏さんと話をしたり、勉強してみようかと参考書を広げてみたりしながら、でも全く身が入らなくて大半の時間はぼんやりしていた。家にはいつもより人がいるのに、そうして静かにしているのが一番お正月らしい気がした。

 ニ日目になると年始の挨拶に来るお客さんたちが何人もやって来たけれど、私は挨拶にだけ出て、あとは部屋にいた。お酒も入るし付き合うと面倒だから、みんなそういって私を解放してくれた。

「ちょっと外にいかないか?」

 三日目ともなるとさすがに家にいるのも、お客の相手をするのも飽きたらしい達彦さんが、私を誘いに来た。

 達彦さんは篠田家の家業であるホテル経営には関わらず、広告代理店で働いている。そのせいか、圭一さんとは全く雰囲気の違う、どこかやんちゃなお兄ちゃんだった。

「明日羽ちゃん、この辺で行きたいところとかある?」

「うーん」

 鎌倉へ来て数ヶ月経っていたが、正直なところ、ほとんどどこへも行っていなかった。そのうち行こうそんな風に考えて、調べることさえしていない。

「達彦さんは、お正月どんなところに行きました?」

「そりゃもう、銭洗弁天」

 その神社のお水でお金を洗うと金運が上がると言われている神社だ。

「お年玉もらったらその足で行ってたよ。”お年玉倍増計画!”なんて言ってね。兄貴には鼻で笑われたけど」

「それで倍になりました?」

「なんない、なんない。お年玉って普通お札でもらうだろう? それを洗えば当然濡れちゃって、乾かしながら帰ろうってお札持って走ってたらさ、風で飛ばされてなくしたこともある」

「意味ないじゃないですか」

「でも行っちゃうんだよ、次の年も。今年こそ倍になれって」

 まあ、歩くと結構な距離だけど、と達彦さんは言い足したけれど、この二日、全然動いていなかったので、行ってみることにした。

 線路の反対側に渡って市役所の前を通り、住宅街の、あまり広くない道へ曲がる。やはり銭洗弁天に向かうのか、住宅街とは思えないほどの人通りだった。

途中からきつい坂道になり、銭洗弁天はその坂の途中にあった。

「え、これですか?」

岩壁に鳥居が張り付くように据え付けられていた。入り口は、岩壁に開けられたトンネル。しかも結構狭い。

トンネルを抜けた先が銭洗弁天、宇賀福神社の社殿などがある、境内。

「やっぱり混んでるなあ。みんな考えることは一緒というか」

開けた土地、といってもそれほど広くはないようだ。

「なんだか、隠れ里、みたいなところですね。わざわざ岩に穴開けて、なんて」

「あのトンネルは後から作ったみたいだよ。ここからは見えないけど、あの茶屋の裏側に細い道があるんだ。昔はそこから参拝してたらしい」

「そうなんだ、鎌倉時代からあるトンネルじゃないんですね」

 珍しくて、トンネルばかり気になってしまったが、お金を洗う、ということだってかなり珍しい、というか他ではきいたことがない神社だ。

「まずは社務所でお線香とろうそくを買う」

 そう言う達彦さんに後について、人だかりのしている社務所の列に並んだ。

「お金を洗うためのざるもここで借りるんだ」

 お金を払うと、お線香と小さなろうそくが入ったざるを渡された。

 本宮前でろうそくとお線香にに火とともして、それぞれの場所に供えた後、お参りをし、すぐ横の、岩壁をくりぬいて作った奥宮にすすむ。そこでもお参りを済ませ、いよいよざるの出番。

ひしゃくが並べてある台にざるを置き、ざるにお金を入れる。達彦さんはお財布に入っているお金を全部出して水をかけ始めたので、私もそうしてみた。紙のお札を洗うなんて変だと思っていたけれど、実際に洗っている人はたくさんいたし、中には宝くじやクレジットカードにお水かけている人もいた。

 お金を手にもって乾かしながら帰る、というのは、小さい子供ならばまだしも、さすがに恥ずかしいと思っていたので、私はタオルと大きめのジップロックを持ってきていた。お札同士がくっつかないようにタオルに蛇腹に挟んで袋に入れる。それを見ていた達彦さんが「さすが」と手を叩くが、ほめられても嬉しくないのはなぜだろう?

 家に帰ると、どこへ行ってきたんだ? と圭一さんに訊かれ、銭洗弁天と答えると、圭一さんは達彦さんに向って、

「まだ諦めてなかったのか? 倍増計画」

 と呆れ顔で言った。

「だいたい、いつまでに倍になれば、叶ったことになるんだ?」

「兄さん、そういうのへ理屈って言うんだよ。夢がないねぇ」

「神様にお願いするなら、今はお金じゃなくて、荏柄天神で明日羽の受験のことでも祈ってくるのが先じゃないのか?」

「あ」

 しまった、という顔をする達彦さんだったが、私も受験のことはすっかり忘れていた。神様の管轄(?)は違っても、合格を祈るのならば、銭洗弁天でもできたはずなのに。

 その日の夜には達彦さんが、次の日の朝には圭一さんと彩夏さんが東京へ帰って行った。

 再び日常に戻った鎌倉の家で、私も日常になっていた受験勉強を再開した。

 寒くて、晴れていても元気がない日差しに景色も枯れて、太陽もさっさとその日の仕事を終えてしまうような冬に、受験はとても合っていると思った。新しい季節に備えてじっとこもっている生き物に似ている気がした。

 …なんて。

 準備ができていようがいまいが、季節は必ず過ぎて巡って行く。行ってしまう。

 珍しく雪がちらついたニ月、私は受験にのぞみ、春一番の吹いた三月の始め、貼り出された合格発表の一覧に自分の名前を見つけることができた。



 合格発表のあった週末、突然達彦さんが実家に帰ってきた。

「明日羽ちゃん、オーディション受けてみる気はないか?」

「オーディションって…何ですか?」

何のこと? ときいたつもりだったのに、達彦さんはオーディションの内容のことをきかれたのかと思ったようで、

「お茶のCM。こちらで決めていた娘が、クライアントには気に入ってもらえなくて。急いで次の娘を決めなきゃならないんだ」

「CM? え、でも、私は別に芸能人でもなんでもないし…」

 芸能界に興味もない。もちろん、CMに一本出たからといったって芸能界に入ったとは言わないのかもしれないけれど。

「イメージに合うって、企画の段階から思ってたんだ」

「お茶のですか?」

「正確にはお茶の葉」

 葉っぱなのか。

「…そんなこと言われたの初めてです」

 けれど達彦さんは真面目に言っていたようだ。

「お茶ってなんか清潔な感じがしないか? 太陽受けて、ぴかぴかした葉っぱをぴんと伸ばして。悪い成分なんかない、純粋で、強くて、でもしなやかな感じがして」

「お茶の葉はそうかもしれないですけど」

 私はそうじゃない、そう言いかけると、達彦さんはいやに強い調子で言う。

「自分が考えてる自分と、人が見る自分は全く違うんだよ。僕はこのイメージであっていると思う」

 私は困ってしまった。そんな大層なイメージをもたれることもだけれど、オーディションなんて柄ではない。

「私、何もできないんですよ。演技だって、あとはえっと、笑顔って言われてうまく笑顔つくれるかどうかも怪しいし」

「それはどうとでもなる…とはさすがにはいえないのが辛いんだけど」

「ほらぁ」

「でも受けて欲しいんだ。どうしても明日羽ちゃんなんだよ、僕にとっては」

 どうしたらいいのだろう。断りたい気持ちは変わらなかったけれど、達彦さんの絶対説得するぞという気持ちも負けてくれそうにない。そうなるとオーディションを受けるだけでいいのなら、ここでもめずに済むという考えも浮かんでいた。きっとオーディションにはモデルさんとか演技の勉強をしている人たちも来るのだろうし、顔だってみんなかわいいに違いない。私が落ちることは確実で、そうなれば達彦さんも納得するしかない。

「京子おばさんたちがだめっていうかも」

 最後の抵抗でそういうと、達彦さんは身を乗り出してはしゃぐように言った。

「それは説得する。絶対。父さんたちがいいって言ったら出てくれる?」

「うん、まあ…」

 篠田のおじさんとおばさんは、達彦さんからCMの内容をきいた上で「明日羽ちゃんが出てもいいというのなら」と言った。それって、パス1みたいなものではないか、とちょっと心の中で唸りながら、だから私も「落ちてもいいのなら」と達彦さんに言った。

 オーディションは明後日なのだという。本当はもう候補者は何人かにしぼられているらしいのだが、担当チームにいる達彦さんは上司に話をつけていたらしく、書類は後で出すということで私は勝手にエントリーされてしまっていたのだった。

「それって裏口じゃないですか。しかも横入り」

 それだけのことをしておいて、私を見た達彦さんの会社の人やクライアントががっかりしなければいいのだけれど、と私は心配になる。

 提出用の写真を撮るため、私はすぐに達彦さんの車に乗せられ東京へ向かうことになった。

 久しぶりに見る東京の街はなんだか空気に色がついているかのような、全体的にくすんでいるように見えた。春霞だとか花粉、黄砂などではたぶんない。鎌倉だって田舎ではないのだけれど、やはり空気が抱く不純物はこんなにも違うのだと思った。

 車の中で達彦さんが今回のCMのコンセプトを話してくれた。

「紅茶も緑茶も中国茶も、同じ木が元になっているそうなんだ。まあ実際には全く同じっていうわけじゃなくて、種族は一緒だけど、葉の大きさの違いや、高くなる木とそうじゃない木っていうのはあるらしいんだけどな。中国では神話になっていてね。医術の神様がお湯を沸かしていた時に偶然お茶の葉がそのお湯に入った、飲んでみたらとてもおいしかったので、人に伝えたっていわれているんだ。お茶はたった一本の木から始まったっていう話しもあるらしい。その木がいろんな地方に運ばれていって栽培されて、その土地の気候や土壌で変わり、製法によって緑茶や紅茶になり、って多様化していった、っていうんだ。今までお茶っていうと緑茶や紅茶、中国茶ってそれぞれ分かれていただろう? でも今回クライアントはそれとひとつのシリーズとして売出す方針を打ち出していてね。だからCMはお茶の葉の歴史というか、一本の木から散らばって、ここに行きつきましたっていうストーリーの作品集にする予定なんだ。紅茶、中国茶ってそれぞれのイメージのタレントを使って撮影する予定なんだけど、一番最初の、一本のお茶の木のイメージの娘だけがまだ決まってない。一番最初に来る作品だから、クライアントも慎重なんだ」

 紅茶と緑茶が、元は同じ木だというのは驚きだった。種類は近くても…緑茶はごはんに合うけれど、紅茶にごはんは合わない、ぐらいの遠さはあると思っていた。

「達彦さんはお仕事好きですか?」

 達彦さんからこういう知識をきくのは初めてだった。それに、とても仕事だから覚えたとは思えないような語り口だった。私の問いに達彦さんは頷いた。

「好きなんだろうな、たぶん。どんなに忙しくても嫌だと思ったことはないし、企画でものすごく悩んでもうだめだって思っても、なんかの拍子でいいアイディアが出たら悩んだ倍の元気が出るし、その企画が認められればもっと気持ちは上がるよ。やりがいがあるし、やっぱりおもしろいよ」

 おもしろい。そういえば秋葉さんもそんなことを言っていた。

 おもしろいという言葉が仕事につくのは不思議な感じがした。私は働いたことがないので、仕事というととにかく疲れて大変だというイメージしかなかったし、秋葉さんを見ていたらよけいにそう思った。それでも秋葉さんは、

「終った時に残るのはいつも“やったー、がんばったー”だから大変でもいいの。寝不足だとかそんなの帳消しになっちゃう」

と言っていた。

 達彦さんの話を聞いていても、確かに仕事はおもしろそうだし、達彦さん自身仕事が好きで、好きだから面倒をいとわないでいられるのがわかる。達彦さんの頭の中で、お茶の葉が私と結びついたというだけで、上司を説得し休みにわざわざ車を飛ばして鎌倉まで来るのだから。情熱がなかったらできないことだ。

 私には何ができるだろう。おもしろいと思える仕事を見つけることができるのだろうか。

 これまで高校へ行くことしか考えていなかった。その後のことは考えていない。やりたいことのかけらも見つけていない。同じ年代の子たちはだいたいがそうだろうけれど、私の場合、近い将来一人で生きて行かなければならなくなるのだから、もう考え始めなければいけないのではないだろうか。



 どこか、のんびりはしていられない、という気持ちがあったからだろうか。私は妙に背筋を伸ばして、まじめにオーディションを受けた。そして思いがけず、私はオーディションに受かり、CMに出ることになってしまった。

「何かまっすぐな意志がある。凛と立つイメージに合っていた」

 選考の理由にはそんなことを言ってもらったが、

「まっさらの新人。業界用語もわからないイノセントさがかえって目立って審査員がかけてみようと思ってくれた」

 と達彦さんの同僚の一人は言っていた。

「いつもああゆう言い方するんだよな、あの人」

 達彦さんは不機嫌そうに私に囁いたけれど、理由なんて私はどうでもよかったし、その通りなので納得さえしてしまった。

なんにせよ、決まってしまったのだ。迷惑をかけるわけにはいかないと思った。たった数十秒のコマーシャルフィルムを作るのに何百倍もの時間をかけ、数え切れないほどの人が関わる製作現場にいれば、誰でもそう感じるだろう。

 けれど、後日できあがったフィルムを見た時、私は泣きたくなるほど辛くなった。そこに映っていたのはあまりにも”私”だった。

 やはり私は「真っ白な新人」だった。何もないグリーンのスクリーンの前で立ち、言われるままに歩き、振り返り、カメラを見る、それだけのことにいちいち悩んでいた素人だった。

悠然と、背筋を延ばして歩く茶の木の精。昼も夜も、美しいけれど同じ景色を眺めていたお茶の木が山の向こう川の向こうへ思いをはせて、自分の分身であるお茶の実を飛ばす。一生懸命その気持ちを考えたけれど、そのつもりになっているだけなのが透けて見えた。フィルムを見れば、私がこの表情をしていた時に何を考えて、何を見ていたのか、自分のことだからわかってしまう。

 確かに私の目の前にあったのはこれからお茶の木が向かう広い世界ではなく、薄暗いスタジオと何がどこにつながっているのかわからないケーブルと数多くの機材、そして大勢のスタッフたち。背景に映像が入り音楽が流れCG処理がされた完成品からは、想像もつかないような殺伐とした現場だった。でもそれは何のいいわけにもならない。そうやって見る人に幻の世界にいる主人公を見せるのが仕事なのだから。

 達彦さんはとてもよかったと言ってくれた。クライアントも気に入ってくれたらしく、上映が終わると笑顔で拍手も出ていた。

 思いつめた顔してる、と帰りの車で達彦さんに言われた。

「みんなが喜んでいるのに、うまくできませんでしたなんて言えませんでした」

 今ならもっと違った表情ができた。

 そう答えると、達彦さんは、僕とは見る目が違うね、と言った。

「元気に飛び出していくような設定じゃないんだ。若く見えるけど、百年単位で生きてる木の精なんだから落ち着いていなきゃ返って変なんだよ。前の子がだめになった理由は、しゃべりも動きも子供っぽいくせに媚があるって言われたからなんだ。確かにかわいい娘だったけど、はしゃいで、かわいく見せることだけ考えてるような娘には無理があったって、今はみんな納得してる。明日羽ちゃんを見たあとではね」

 はしゃぐような役柄ではないのはわかっていた。だから達彦さんが言う意味もわかる。わかってて、できなかったのだ。

「明日羽ちゃん」

 でももう終わってしまった、そう思っていた時、達彦さんが言った。

「おもしろかっただろう?」

 私は「はい」と頷いた。考えることもなく、その答えが出た。

 おもしろかった。でも満足はしていない。

 その後、私はすぐに秋葉さんに会いに行った。

 仕事の話が聞きたかった。

 私は、どうして記録という仕事を始めたのかを秋葉さんに訊いた。秋葉さんの実家は、不動産や貸しビル業などをしていて、篠田家よりもずっとお金持ちらしいのだ。そういう家の娘がああゆう現場仕事をしているのは珍しい気がして気になってもいたのだ。

「家、出たかったのよね」

と秋葉さんは言った。

「私ね、家族の中では考え方とかちょっとずれてて。大学卒業と同時に独立しようとは考えてたの。仕事を始めるきっかけは、えっと大学一年の夏休み。図書館で調べ物しようと思って大学に行ったら、ドラマの撮影やってたのよ。ちょっとやじうまで見てたんだけど、1カットに撮るのにも何テイクも重ねるのにまずびっくりして。緊張感すごくて、演じてる役者さん以外のその場にいる人たち全員が息詰めて、気合で空気まで止めてる感じとかもね、驚いた。見学してたこっちまでその雰囲気にのまれて、気がついたら息止めてたわ。それでね、あとでオンエアみたら、私が見てたそのカットはほんの一瞬なの。私もその日は一日図書館にいたんだけど、私より先に来てたロケ隊が私が帰るときにはまだいて、そんな丸一日かけた撮影が、ドラマの中では全部合わせても数分分しかなくて、なんて仕事なんだろうって呆れたわ。でもね、あんな風にのめりこんで仕事してみたいなって思った」

 私はうなずいた。あの撮影の雰囲気。華やかな世界の舞台裏。あれだけの仕事をしても評価されるとしたら表に出ている人だけ。でも、評価されたくてやっているわけじゃなくて、ちゃんと作りたいから、仕事をする人として納得できるものにしたいから。

「撮影っていうものにもものすごく興味持っちゃって、まず大学の映画研究会に入って、仕事の内容とか分担とか勉強したの。その時記録って仕事のことも知ったよ。それから大学の先輩のつて頼って、本職の記録さんに弟子入りして。その後は大学サボりまくり。結局二年で辞めちゃった。当然父は烈火のごとく怒って、以来勘当状態。母とはたまに会うけどね。仕事はまだかけ出しだから、それだけでは生活できなくて、ついこの前までバイトしてたし、姉さんのところでごはん食べさせてもらったりね。明日羽ちゃんにこんないいところ安く貸してもらえて、ほんと助かってるわ」

 こう言ってはなんだけど、秋葉さんはとてもそういう根性のある人には見えなかった。見た目もそうだけど、おっとりとした感じで、お嬢様をしている方がしっくりくる。彩夏さんの方がてきぱきしていて、キャリアウーマンになりそうに見える。でも秋葉さんに言わせると、彩夏さんは主婦が天職なのだそうだ。家事が大好きで、特に料理は本が出せるほど上手で。

「姉さんの主婦業も、才能のひとつだと思うわ。努力もしてるけどね。でも主婦は私にはちょっと向かないなぁ、って昔から思ってた。私ね、何かの係になりたかったの。よく言うじゃない? 社会の歯車になんかなりたくない、とか、これは誰でもできる仕事だから自分じゃなくてもいい、もっとクリエイティブな仕事がしたいとか、って。でも歯車ひとつ欠けたらやっぱり困っちゃうし、誰でもできる仕事でも、今その仕事を任されているのは自分で、責任はあるわけでしょう。それにね、この仕事って結局横のつながりでできてるの。過去に一緒に仕事をした人から声かけてもらって次の仕事が決まるのよ。へたなことできないって思う、自分のためにも、声をかけてくれた人のためにもね。例えばドラマは、私ひとりではもちろん作ることなんてできないけど、私も一緒になって働かなかったら、やっぱり完成しないだって思うと雑魚寝だって平気。声をかけてくれた人への期待にも応えたいし、やりたいことやれてるんだもん」

 仕事を受けたその責任、と思うと重たいけれど、どんなに小さくても、“任せる”と自分を選んでくれたのだと思えたら、嬉しい。できたら楽しい。納得できる仕事ができたら、気分よく終われる。達彦さんも秋葉さんも、それを知っているからがんばれるのだ。



 それからしばらくして、スカウトの人たちが何人か篠田家を訪ねて来た。

 学校も始まっていたし、何の下地もない私がいきなり芸能界に入っても、またうまくできないことに落ちこむだけだから、そう言って断り続けたけれど、彼らは何度も何度もやってきた。

「下地っていうのは作ればできるんだから、やってみれば?」

 すすめてくれたのは達彦さんだった。

 そう言われて、私も少し考えるようになった。“できなかった”ことができるようになったら…何かを作ること、それを“仕事”にすること…。一つの仕事が終った時にこの前よりも満足感や達成感が持てたら、それは素敵なことなのではないだろうか。

一番反対したのは圭一さんで、けれど私がやってみると決めると、信用がおけてスタッフを大事にするという芸能事務所を選んでくれた。学校はどうするか、という問題もあった。せっかく入った高校だから、できれば通い続けたいと思っていたし、まずは演技の勉強から始めさせてもらうことにした。そんな私の希望を事務所に交渉してくれたのも圭一さんだった。レッスン代はもちろん払う。それならば、まだ「習い事」レベルだろう、圭一さんは言う。

「あんまりこちらの希望ばかり言ったら、私なんて雇わなくていいってことになっちゃうかも」

「それが狙いだからね」

 本気なのか冗談なのかはわからなかったけれど、すっかり私の保護者になることが当たり前になってしまった圭一さんにかける、これが最後の迷惑になりますように、と私は思った。

 社会に出るというレベルではまだない。できるかできないかもわからない。でも。

 一日でも早く、将来につながる何かを探すために、やれるだけやってみよう。

 一人で立てって生きていけるように。


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