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荊の冠  作者: 宮城奈々
3/11

圭一

 西嶺明日羽。

 彼女の名前をきいてすぐ、僕は毎年母宛にきていた年賀状を思い出した。

 

 西嶺勇司

   史子

   明日羽

 

 お正月に家に届く年賀状を宛名ごとに仕分けをするのが、子供の頃の僕の仕事だった。

 明日羽の名前が初めて登場したのは、僕が中学二年、今の明日羽とほぼ同じ歳の頃だ。父の仕事の関係から、家に届く年賀状は何束にもなり、年賀状の相手などほとんど気にも留めていなかった。正直なところ、前の年もきていたはずの西嶺夫妻からの年賀状は全く記憶になかった。なのになぜその年に限って西嶺家の年賀状が目についたかといえば、数日、いや数時間かもしれない生まれて間もない赤ん坊の写真が使われていたからだった。まだ目も開いていない無表情の赤ん坊は、はっきりいってかわいらしさなど皆無で、どうしてこんな写真を使ったのかと呆れた。けれど、明日羽の名前の横に十ニ月二十日生と印刷されているのに気づいた僕は、西嶺夫妻が子供が生まれるまで年賀状を作成せずに待っていたのだなと気がついて、今度は少し微笑ましい気持ちになった。

「もしかしてこの史子さんって、あの史子姉さんか」

 僕は、母のはとこにあたる史子さんが駆け落ちしたということを、何かの親戚の集まりで聞いたことを思い出した。そしてその時、あの史子姉さんが、と意外に思ったことも。数回しかあったことがないくせに、史子さんの見た目の印象で、もの静かで引っ込み思案な人、と僕は勝手に決め付けていたからだ。僕はもう一度写真の赤ん坊を見直した。もちろん、写真の赤ん坊からは史子さんの面影など拾うことはできなかったが。

 明日羽の年賀状写真は、彼女が小学校に入学する年まで続いた。

 成長した明日羽に出会い、再び記憶が年賀状を見たあの頃の僕につながった時、僕はこの先も続いて行くつながりを予感していた気がする。

 …自分の過去とつながりがあったと知ったから、あの偶然の出会いに何か特別なものを感じたのかどうか、今となってはわからないけれど。



 明日羽の母方の伯父にあたる人から、史子さんが事故で亡くなったと聞いた時、僕はすぐにアメリカにいる母に連絡を取った後、明日羽のところへ向かった。

 前の晩はひどい雨だった。そのせいで車がスリップしてしまったのだろうか。何にしても二人の人間が亡くなるなんて、悲惨な事故だ。

 玄関先に現れた明日羽は、数日前にデパートで出会った男がどうしてここにいるのか、とただ驚きの表情を浮かべて僕を見た。親戚だと説明するとさらに驚いたようである。だがその驚きもすぐに納めた明日羽は、落ちつき払った様子で葬儀についての疑問などを訊いてきた。

 明日羽の態度に僕はひどく驚かされた。母からは電話で、史子さんが夫の実家とも絶縁してると聞き、予想はしていたのだが、やはり明日羽の家には母方はもちろん、父方の親戚も来ていなかった。両親に死なれ、頼れる親戚もいない。どんなに心細い思いをしているだろうか。そんな想像をしていた僕の方がよほど不安を感じていたかもしれない。僕が遠縁だとわかっても、明日羽は泣き出すでも、救いを求めるのでもなく、弔問にきてくれた一人と対面している、といった様子だった。

 まだ実感がないのだろう。そんな風にもとれた。実際、後見人の話を出すまで、明日羽は一人で暮していこうと考えていたようだった。けれどそれは実感していないからではなく、これからは一人で生きていいかなければならないという決意の方が彼女の中で大きかったからだったようだ。

 その決意は、親が死亡した時点で預貯金が凍結され、手元にほとんど現金を持たなかった明日羽が、葬儀社との打ち合わせが終わった後、彩夏に言ったことからもうかがえる。

「あとでお金が使えるようになったらお返します。それまで貸していただけませんか」

 そうして頭を下げたという明日羽を見て、彩夏は不憫でならなかったらしい。

「遠慮するにしても、ずいぶんだわ。まだ中学生なのに」

 いったい史子さんはあの娘をどうやって育てたのか。しっかりし過ぎているのも考えものだった。

 葬儀が終わった後、僕が税理士に会うと言うと、彩夏はすぐに僕が何をしようとしているのか察したようだった。少しからかうように「本当に面倒見がいいのね」と言った。

「彩夏だってそうして欲しいと思っているんだろう?」

 彩夏は嬉しそうに微笑んで、頷いた。

「あの娘は彩夏に似てるかもしれないな」

「え?」

 彩夏が首を傾げたので、「人を頼らないにもほどがある、ってことだ」そう僕が言い足すと、彩夏は真面目な顔になって「私とは違うでしょう」と言った。

「私は頼れる立場じゃなかったわ。あなたが優しすぎるだけだって、誰でも言うと思うけど」

「違うよ」

「そうよ」

 大真面目な顔で返されてしまうと、情けない気もしてくる。

 …例えそうだったとしても、僕は僕で本心から妻にしたいと思った彩夏を得たのだから、ボランティアのように言われるのは心外だ。何度かそう告げたこともあるのだが、こうして結婚した今も彩夏は信じていないらしい。

 明日羽の相続については、受取人が明日羽ひとりであるため問題なく済みそうだった。あのマンションにはまだローンが残っていることもあって、明日羽には売って欲しいと頼まれたが、ローンがあったことで相続税が軽減されたこと、そして東京に住むところがあれば、今後独立した時にも役に立つと考え、買い取る方向ですすめるつもりでいた。たからだ。秋葉さえよければ、明日羽が必要になるまであのままああのマンションに住んでもらい、家賃としていくらか明日羽に払ってもらえばいい。

 問題は保険金だった。明日羽の両親がかけていた保険は受取人がそれぞれ配偶者となっていたため、直接の受取人には指定されていなかった明日羽は、唯一の法定相続人ではあっても贈与税がかかってしまうのだという。ただ親にはその扶養義務があるため、その税率は変わってくるとか、一方で未成年のうちは受け取れないとか…いろいろと面倒な話になっている。その手続きだけでなく、保険金については他にも問題が持ちあがっていて、現在保険会社の調査が入っていた。

それとは別に、明日羽からはもうひとつ頼まれていることがあった。それは両親が事故を起こした家への賠償についてだった。

「弁償するのはもちろんですけど、謝りにも行きたいんです。その場合、いきなり私が電話をしたらまずいでしょうか?」

「まずくはないとは思うが、ちょっと待ってくれないか。弁護士にも入ってもらっているから、そちらから連絡してもらうよ」

 まずいどころかずいぶん立派だと褒めてやりたかった。けれど保険会社の調査結果が出るまでは動けないのが実情だった。明日羽には調査のことは話していない。

 決まったら僕も一緒に行くから、そう言って、とりあえず明日羽を留めた。明日羽からはわかりました、お願いしますと相変わらず丁寧に、かつ他人行儀に言われ、僕は苦笑してしまう。警戒心とは違う明日羽が巡らす壁を、取り払うことはできないのだろうか。そんなことを考えているうちに、少し落胆している自分にも気づいた。が、これはさすがに笑えない。

 数日後、興信所に頼んでおいた調査の報告書がようやく自宅に届いた。早く結果が知りたかった僕は、保険会社の調査とは別に興信所に依頼したのだ。

 報告書を一読したあと、彩夏を呼びその書類を渡す。

「読んでみてくれないか」

 それは西嶺夫妻が車で突っ込んだ、久保家に関する調査報告書だった。

 あの家で暮していたのは久保学六十三歳とその妻治子五十九歳の二人だ。夫の学はとあるメーカーを一旦定年退職した後、引き続き嘱託職員として働き、妻は専業主婦という、ごく普通の夫婦である。西嶺夫妻との接点はない。そればかりか久保家がある大田区蒲田は、世田谷区奥沢に住み、夫を駅まで迎えに出ただけの史子さんがわざわざ行くような場所ではなかった。

 確かに隣り合った区ではある。奥沢は場所によっては大田区になる境目でもあるし、車を使えば遠くはない距離だ。それでも保険会社は事故が起こった場所が不自然だと考えたようだ。事故の話をきいた時から、僕でさえ同じことを考えていたのだから、当然といえば当然の調査だ。

 興信所の調査では、問題があったのは久保夫妻ではなく、彼らの娘にあったことが明らかにされていた。久保麻美子三十三歳。彼女は西嶺勇司と同じ会社に勤務し、彼とは不倫関係にあったと報告書には書かれていた。

「圭一さんはどうしてあの事故を疑ったの? やっぱり場所?」

 報告書を読み終わった彩夏がため息をつきながら訊いてきた。

「それもあるけど、久保さんがね、お金はいらないし、明日羽にも挨拶にきて欲しくないと言ってきたんだ。一方的に事故を起こされたはずなのに、それはおかしいだろう?」

「そうね。向こうにも負い目があるから、明日羽さんと会いたくないってことだったのね」

 不倫相手の娘、しかもそれがまだ中学生とあっては、謝りに来られたところで久保夫妻にとっては気まずいだけかもしれない。不倫の末に西嶺家は壊れ、そして久保家も壊れかかっている。麻美子は今回のことで会社を退職し、一人暮すマンションにこもってしまっていることも報告書には書かれていた。

「明日羽さんにはこのこと言わないんでしょう? でも相手の家が賠償金を受け取ってくれないこと、どうやってあの娘に説明するの?」

「うちの両親にも相談してみようと思ってるんだが、明日羽からではなく、篠田家から修理費用を出せないかと提案してみるつもりだ。西嶺の名前は出さずに、その関係者の名前で出すなら少しは体面が保てるかと思うし。とにかく、修繕費だけでも受け取ってもらうようにするよ」

 彩夏はため息まじりに、そうね、と言った。そしてふと思いついたように、僕を見る。

「ねえ、もしかして二人は自殺ってことになるの? そうしたら保険金は…」

「僕もそれは考えた。自殺なら保険金は支払われないんじゃないかって。ただ、二人が入っていた保険は、結婚直後から入ったものだけで、免責期間はとっくに過ぎてた」

「免責期間? ああ、入ってすぐ自殺すると保険金は下りないけど、その払われない期間は過ぎてたってことね」

「そう。でも、史子さんが勇司さんと無理心中するつもりで起こした事故、と判断されたらわからなくなる。勇司さんに自殺する理由はない。車が突っ込んだ場所のことを思えば、史子さんのやったことは故意だとみなされるだろうから、史子さんが勇司さんを殺した、とも言えてしまう。保険会社が犯罪行為と判断すれば、史子さんの保険金は下りないだろうね」

「そんな! そう判断された場合、明日羽さんにそれを言えって言うの?」

「言うもんか」

 僕は立ちあがってキッチンへ行き、冷蔵庫からビールを二缶とって彩夏のところへ戻った。ソファーの元の場所に座り、片方のビールを開けて彩夏に渡す。彩夏はありがとうといって軽く一口だけ飲んだ。

「明日羽さんのお母さん、先のことなんて、何も考えてなかったのね、きっと」

「だろうね」

 彩夏は膝上に置いたままの報告書に視線を落とし、ぽつりと言う。「みんな勝手だわ」

 心変わりした夫。そして妻は夫の愛人の実家に夫と共に車ごと突っ込んだ。

 駆け落ちした時の情熱はまだ史子さんの内にあったということか。最期は彼女自身をも燃え尽きさせるほど、まだ強く。

 そしてふと恐ろしいことに気がついた。史子さんはどうやって夫の不倫相手の実家まで知っていたのだろう、と。

 普通に考えれば、史子さんも興信所を使って夫の調査を依頼したということになる。もしそうなら、その報告書は今どこにあるのだろう。もしそれを明日羽が読んだとしたら?

 思いついてしまうと気持ちはどんどん焦り出した。葬儀以来、明日羽とは何度か会っていたし、電話で話もしている。特に変わった様子はなかったが、一人でどこまでもがんばってしまおうとする娘だけに心配だった。

 翌日、僕は明日羽に電話をし、外で昼食でも食べないかと誘った。

 約束したレストランに先に着いていた明日羽は、僕の姿を見つけると椅子から立ちあがり丁寧に挨拶をする。相変わらず礼儀正しい娘だ。

 それぞれランチメニューを注文した後、僕は明日羽に訊ねた。

「引越しの準備はすすんでる?」

「はい」

 明日羽は頷いた。

「秋葉さんが手伝ってくれて、だいたい終わりました。両親の荷物も始末し始めてます。衣類とか本とかはリサイクルに出したりして」

「とりあえず明日羽一人分だけでいいよ。ご両親のものはあとで考えればいい。相続手続きが終わるまでマンションはあのままだから」

 明日羽はすっかり秋葉と仲良くなったようだ。二人で出かけたり、前の晩はシリーズもののホラー映画を二本借りてきて、続けて見たと言う。

「彩夏がきいたら仲間に入りたがるだろうな」

「彩夏さん、ホラー映画が好きなんですか?」

「一人では見られないくせに好きなんだ」

「圭一さんは?」

「はっきり言って、苦手だ。何がおもしろいんだか…」

 明日羽が小さく声を立てて笑う。

 大丈夫なのかもしれない。会うたびにそう思う。そうして会わないでいるとまた心配になってくる。こちらから何か訊かなければ、いつまでも何も言わない娘なのだ。いや、甘えることを知らないこの娘は、訊いても言わないことだってある。

「あの」

 食べ終わったデザートの皿が下げられると、明日羽が姿勢を正してまっすぐに僕を見た。

「久保さんのところへはいつ行けますか? できればこっちにいるうちに行きたいんですけど」

「実は」

 僕は一瞬コーヒーカップに視線を落とした。いつもブラックで飲む。けれど今は砂糖でもミルクでもぶちこんでかきまわすような間の取り方がしたいと思った。結局コーヒーには手をつけず、視線を上げる。

「向こうから、遠慮して欲しいと言われたんだ」

「どうして」

「複雑な心境ってやつだろうな。十四歳の女の子が親の事故で謝りにくるなんて、僕でも躊躇するよ。自分たちが悪くなくても、なんだかいじめているみたいな気になると思う」

「でも、歳は関係ありません」

「まあ、そうなんだが…」

 この娘のいうことは正しい。正しいから困る。

「久保さんたちが受けた被害と、明日羽が一人取り残されたことは全くの別問題ではあるけれど、どうしたって比べてしまうんだよ、どちらがより幸せかとか不幸かってね。誰が見ても失ったものが大きい君が筋を通そうとして無理に謝りに行っても、迷惑だってこともあると思うよ」

 久保夫妻には自分の娘が不倫をしていたという負い目があるからの訪問拒否なのだが、それを言わずに何を言っても説得力などないな、と自分でも思った。

「ごめんなさい」

「なぜ明日羽が謝るんだ?」

「圭一さん、久保さんに嫌なこと言われたりしませんでしたか? その、会いたくないくらいなんだから、言い方だってそんなに優しくは言わないと思って」

「大丈夫だよ。何も嫌な思いなんかしていない」

 視線を落とし、悟られないように息を整える。話題をそらしていかなければ。

「君は気を回し過ぎだ。まあ、気が回るのはいいことなんだが…」

「もう少し子供らしく、ですか?」

 明日羽は困ったような笑みで僕を見た。

「秋葉さんに言われました。ちょっと硬く考えすぎだって。その歳で考えなくてもいいこともあるって言われました」

「その通りだと思うな」

「でも、背伸びです」

 そう言って、明日羽は息を多めに吐いた。

「謝りに行かなくていいって言われて、ずるいけどほっとしてます。本当は恐かったから」

「僕もほっとしたよ」

「どうしてですか?」

「君にも恐いものがあって」

 明日羽は黙って僕を見つめていた。出会った頃からそうだった。明日羽はまっすぐに相手を見る。それは大事なことだ。けれどまっすぐな分、無防備だ。

恐がらないと、自分は守れない。時には大事な人だって傷つけてしまう。

 君のお母さんのように。


 僕は、君を守れるだろうか。



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