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荊の冠  作者: 宮城奈々
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明日羽 17才夏

 誰もいない屋上で寝転び、私は空と向き合った。

 強い日差しの源は今、わずかに漂う雲の後ろ。

 視界に広がるのは、都会の、少しくすんだ水色の空。空色。浅黄色。他に見るものなど何もないのに、見ていられるから不思議だ。

 雲が外れ、太陽が顔を出した。直接見ることなどかなわない強い光が空に溢れ出す。私は目を閉じた。まぶたの内側を流れる血が透けて見える。そうしてじっとしていると、今度は耳が研ぎ澄まされてゆく。

 微かに、ごぉっという音が聞こえ続けている。地球の回る音だ、と思った。

 本当は何の音かなどわからない。風のうなりかもしれないし、エアコンの働く音かもしれないし、街のいろんな音が混ざっているだけなのかもしれないけれど、私には、ゆっくりと一日かけてその重たい身体を一回転させる地球の音のように思えてしかたがない。

 揺らぐことなく、規則正しく時を刻む地球。

 自分の胸に手を当ててみた。今は落ちついている鼓動も、時々とんでもなく暴れ出すことがある。病気でもないのに、手におえなくなる。私の心臓も地球のように、どんな時でも同じ間隔でいつでも規則正しく時を刻んでくれればいいのに。

 ガチャ、とドアノブを回す音がして、鉄の扉が開く音が聞こえた。

 誰かが屋上に上がってきたらしい。

 でも私は目を開けなかった。やってきたのが誰なのか、想像はついていたから。

「……日焼けすっと、有馬さんに怒られるぞ」

 冬馬の声が近づきながら降ってくる。

「続きのカットで顔の色が違うなんて、監督だって泣くぜ」

「メイクの今井さんにごまかしてもらうから平気」

 そう答えてから、頭の中で昨日撮影したカットを再現してみる。

“可奈”がドアを開けるカット。後ろ姿と、緊張しながらドアを開ける横顔のアップ。今日はその続きだ。画面正面からドアを開けて部屋を覗きこむ“可奈”、画面端には可奈の兄“等”役、冬馬の後ナメでのカット。

 私にとっては初めての連続ドラマ出演だった。三ヶ月間、何事も起こりませんように。そんなことを思っていた初日がついこの前のことのように思えるのに、今日はもうクランクアップ。

「思い出した」

 私が言うと、「何を?」と冬馬が訊いてきた。意外に近くから聞こえてきた声に目を空けると、冬馬は既に私の横に腰を下ろしていた。

「この仕事を始めたばっかりの時の、最初の疑問。続きのカットでもばらばらに撮ったりするじゃない? なんでかなあ、って」

「ああ、それはオレも思ったな」

 冬馬は、立てた片膝に両手をからめ、軽く身体を逸らして空を見上げた。「カメラワークとか天気とか昼間か夜かとか役者のスケジュール上まとめ撮りとか、わからなくもない時もあるけど…」

「セリフのテンションだって同じにするの、大変だし」

「わかる。オレ、笑うのだめなんだよな。切られるとぎこちなくなる」

「そうかな。全然そんな感じはしないけど」

「編集がうまいんだろ」

「オンエアのことなんて言ってないわ。現場にいてそう思ってるの。…謙虚だね」

「満足してられっかよ、この程度で」

 私は事情を知っている者としての笑顔を作った。

 冬馬はこの頃野心家になった。

 アイドルグループの一人から、出演者としてグループ名の入らない、単独で名前を連ねる俳優になりたい。

 オーディションで選ばれ、製作者側から指名され、評論家の目にとまる役者になりたい。つまり自他とも認める役者になるという野心。

 冬馬自身は満足できないようだけれど、これまで冬馬に与えられてきた評価はかなり高いものなのだ。アイドルとして取った主演ドラマでも、事務所の力と言われないだけの作品は作ってきたし、主役ではないものの、春先に出演した映画では、評論家たちだけでなく共演者たちからも彼の演技力は賞賛されていた。

 そう、誰かの目に留まる才能を冬馬は持っている。そして運も。

 留まるためには運も必要だ。露出の多さや回ってくる仕事には、変な話、事務所の力が左右する。冬馬の所属しているのは、この世界に影響力のある大きな事務所で、その点でも彼は恵まれた環境にいる。そしてそこに野心が加わって、今の彼は、最強の一歩手前だ。

「なあ、この撮影終わったらさ、忍たちと打ち上げやろうって言ってんだ。スタッフのとは別に。明日羽も来いよ」

「…うん。あー、でももう学校始まってるし、夜出るのは難しいかな」

 私は視線を空に戻した。けれど、直接降り注ぐ日差しが眩しすぎて、光を絞り込むように目を細める。

 冬馬が真上から私の顔を覗きこんできた。日差しが遮られる。私は目の力を抜いて、まっすぐに冬馬を見た。

 何も動かない。

 私がじっと見上げていると、「何かあったのか?」と冬馬が訊いた。

「話、全然つながってないんですけど」

 私は視線を外し、上半身を起こしにかかった。冬馬が身体を引いて、空間を空ける。

 前髪をかきあげながら、私は今の気持ちを分析してみた。じっと見詰め合っても、相手が冬馬ならどきどきもしなければ、嬉しいとか悲しいとかそんな感情も浮かんでこない。

 理由はわかっている。冬馬が友達だからだ。出会ってまだ三ヶ月だけれど、気は合うし、一緒にいて楽しい。信頼できる、とも思っている。そしてなにより、相手に勝手に期待して、勝手に落胆するようなあのやっかいな気持ちの暴走が冬馬に対しては起こらない、というのが私の中でなぜかははっきりしていた。冬馬は友達だから。

「…赤ちゃんができたんだって」

 私が言うと、冬馬はまるで今うたたねから覚めたかのようにびくりと揺れた。

「明日羽に?!」

「できたんだって、って言ったでしょ。三人称」

「一人称でも可だろうが、その言い方」

 冬馬の反応がおかしかった。まるで冬馬自身が「あなたの子供ができたの」と突然告げられたかのような慌てぶりだった。それが自然な反応なのだろうが、それでもおかしさが止まらず私が笑っていると、冬馬はますます不機嫌そうに言う。

「ったく、からかってんじゃねえよ。ちゃんと主語言えって」

「主語は」私はは少し多めに息を吸いこんだ。「彩夏さん」

「…誰、それ」

「秋葉さんのお姉さん」

「へえ」

 秋葉。それが冬馬の恋してやまない女性の名前。冬馬がアイドルから俳優として地位を築こうとしているのは、この秋葉さんのためだった。

 三つ年上の秋葉さんに対する冬馬の想いは、今のところ全く通じていない。今の冬馬が最強じゃなくて一歩手前だと私が思うのは、まだ片思いだからだ。何かと弟扱いされると感じているらしい冬馬は、年上の秋葉さんに認めてもらえる男になるためにも、アイドルの恋人にうるさい世間を納得させるためにも、この世界で必要とされる俳優になろうと考えたのだ。くだらない理由って呆れる人もいるかもしれない。でも、ものごとは結果だ。もてたいからバンドを始めた、綺麗な服が着たいから、好きな芸能人に会いたいから、タレントになった、そんな人はいっぱいいる。かなえることができたら、それは立派な結果だと私は思う。

冬馬の想いがまだ片思いであっても、目標と、気持ちの支えがあるということが彼に大きなエネルギーを生み出させていることは確かだ。そんな冬馬が、今の私は羨ましかった。

「で、なんで明日羽が元気なくすんだよ」

「彩夏さんの旦那さんが、好きだから」

「…」

「ホントだよ」

「そうか」

 冬馬は簡単に、深い声で言った。

「私ね、前に複雑な家庭環境、って話したことあったじゃない? それで今遠い親戚の家にお世話になっているんだけど、そこがね、彩夏さんの旦那さん、篠田圭一さんの実家なの」

 圭一さんは私にとって恩人で、奥さんがいる人。どうあったって、恋なんてしてはいけない相手だったのだ。彼を好きだということだって、本当なら話すことも、そんなそぶりをみせることもできない。

 なのに今冬馬に話してしまったのは、私が冬馬の好きな人を知っているから話しやすかったというのもあるけれど、私も誰かひとりくらい信じて話せる人が欲しかったからかもしれない。

「もう篠田のおじさんもおばさんも大喜び。二人にとっては初孫なの」

 私は、はあ、っと息を吐いて肩の力を抜いた。目を細め、また空を見上げた。

「諦めるつもりか?」

 冬馬が訊いてきた。

「何それ」

 バカじゃなかろうか。

「諦めるも何も、最初からどうこうしようとも思ってないもの。これからも何もないし、何も起こらない」

 片思いなのだから。何度も言い聞かせた言葉を、私は飽きずに自分に言い聞かせる。

 気がついたら、好きになっていた。恋とはそういうものなのだろうけれど、そういうものだから止めることもできない。

 諦めもとっくについている。ただその決意に、気持ちが従ってくれないだけだ。なくすことができなくて、独りで持て余している。諦めるという決意など無意味だと思い知らされる。だから私は、何もしない。してはいけない。

 私が圭一さんとであった二年前、彼はすでに彩夏さんと結婚していた。当時まだ中学生だった私も、十五歳年上の圭一さんに恋愛感情を持つとは思いつきもしなかった。同級生たちの中には十歳以上も年上の先生に恋している娘もいたけれど、私には、それで彼女がどうしたいのかは全く理解できないほど恋がわかっていなかった。

 彼が、他の人と何が違うというのでもないのに特別だと感じる気持ち。その人の声が聞きたくて、会いたくて、触れてみたくて、ただその瞬間だけを待つ毎日。そんな簡単なことさえ想像がついていなかった。

 圭一さんが私の様子を見に来てくれるたびに、人伝てに私を気にしていると知るたびに、少しは私に気持ちを傾けてくれているのではないかと期待してしまう。彩夏さん以外の女性たちに対して彼が「1」の気持ちを持っているとすれば、自分は「1・5」ぐらいには思ってくれているのではないか、と馬鹿みたいなことを真剣に考えて。

「子供ができたら、喜んであげられるって思ってたのにな」

「そりゃ…無理だろ。きれいにはいかないよ」

「でも、こうなることはわかってたはずじゃない。二人は夫婦なんだし、圭一さん、彩夏さんのことすごく大事にしてるの私横で見てて、知ってて、納得してるつもりでいたの。彩夏さんのことも好き、ホントに好きなのに。なのに気持ちはこんなに重くて…」

「好きって気持ちに理屈は通じないから。最悪わがままな部分だからな」

 冬馬が言った。私は黙って頷く。

 自分はこのままこの思いを抱いて生きていかなければいけなのだろうか。他の誰かを好きになって、温かい気持ちだけで生きていくことはできないのだろうか。

 そう、他の人を好きになって…。

 私は立ちあがり大きく伸びをした。好きな人がいる時に他に好きな人など妄想でも浮かばない。

 空気をいっぱい身体の中に送り込み、「そろそろ行こうかな」と自分に掛け声をかける。

「出番、まだだと思う」

「うん、でももういい」

「そっか」

 冬馬も立ち上がった。階段に向かって歩き出す。

「ごめん、テンション下げたね」

 ほんの少しだけ後ろを歩きながら私は冬馬に声をかけた。

「気にすんな。今日はもう笑うカットないから」

 ビルの中に入る時、私は振り返ってもう一度空を見た。

 決して届かない、見つめるだけの青い空は、変わらずそこにあった。

 見つめるしかできないから憧れるのだろうな。

 階段を降りながら、そんなことを考えた。



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