受験生の息抜き<後編>
※前話(第96話)「受験生の息抜き<前編>」の続きです。
【主な登場人物紹介】
・笠木 矢㮈…彩楸学園高校2年生。バイオリンを弾く。
・高瀬 也梛…同高校2年生。キーボードを弾く。
・海中 諷杝…同高校3年生。ギターを弾く。
【その他】
・築地 果歩…3年生。元合唱部部長。
・世良…3年生。元軽音部部長。
・並早…英語教諭。諷杝のクラスの担任。
四.
「海中君と高瀬君も一緒に演奏してくれるなんて本当に豪華ですね」
元合唱部の部長は、これまで見たことがない表情をしていた。落ち着いたしっかり者というイメージではなく、どこかわくわくした年相応の少女のそれだった。
矢㮈から話を聞いた諷杝は、「それなら僕らも加わっても良い?」とさらに提案を重ねて来た。果歩が驚きながらも「ぜひ」と頷いたので、ギターとキーボードの追加が決定した。
「運良く音楽室が空いてて良かったね」
「まず並早先生に感謝しろよ」
ちゃっかり担任の並早を捕まえて音楽室を融通してもらった諷杝に、高瀬が呆れたよう突っ込む。音楽室の後ろの方で、その並早が半笑いで生徒たちを眺めていた。
「先生、急に無理なお願いをしてすみません」
諷杝の代わりに果歩が頭を下げると、並早は困ったように眉を下げて片手をひらりと振った。
「いやいや。受験生だってたまには息抜きも必要でしょう?」
(ああ、やっぱり並早先生は良い先生だな)
矢㮈はしみじみと思った。
とはいえ、諷杝に頼まれたら断れないところがあるのも事実だった。そこを上手く諷杝に利用されているのが悲しい。
「そうだ。築地さん、ベースは弾かないの? 確か音楽準備室にベースもあったと思うけど」
折角だし、と訊ねた諷杝に、果歩はふるふると首を横に振った。
「いえ。もうだいぶ弾いてないので、今日は歌に集中します」
それは少し残念だ。実は彼女のベースを聴いてみたい気持ちがあった。
「そっか」
諷杝は相槌を打ちつつ、何か考えるように顎に手を遣った。そして、そのままふらりと音楽室を出て行ってしまった。
「諷杝……?」
「放っとけ。すぐ戻ってくる。それよりお前も準備しろ」
キーボードの準備をしながら高瀬が言い、矢㮈も自分のバイオリンをケースから出した。
譜面は急遽、果歩が持っていたのをコピーさせてもらった。メロディは掴めているので問題ないだろう。
少しして戻ってきた諷杝は、珍しくその手に携帯を持っていた。珍しい。
(さっきのは電話?)
諷杝はなぜか楽しそうに微笑みながら、自分のギターを取り出した。
「海中君も歌いますか?」
「いやいや。今日は築地さんの歌がメインだから」
そう言って音を確認するように弦をつま弾いた。
「也梛、調整お願い」
「ん」
二人がいつものように調律を始めるのを聞きながら、矢㮈もバイオリンの確認をした。
さて、そろそろ準備ができたかという時だった。
「おーい海中。いきなり呼び出して何なんだよ」
音楽室の扉が開いて、一人の少年が顔を出した。元軽音部部長の世良だった。肩にはギター袋を引っかけている。
彼は音楽室にいる面々とその状況に目を丸くした。
「……何これ? しかも何で築地まで?」
一番意外に思っているのは果歩の存在だったらしい。それはそうだろう。合唱部の彼女が矢㮈たちの真ん中で歌おうとしていたのだから。
「それはこちらのセリフですけど、世良君」
果歩もまた不思議そうな顔をしていた。そして諷杝を見る。
「どういうことですか? 海中君?」
諷杝はにっこり笑って世良の方に手を広げた。
「折角だから、ベースを弾ける人を呼んだんだ」
「え?」
矢㮈の口から思わず声が漏れた。高瀬も微かに眉根を寄せている。
諷杝はどこから出してきたのか、世良にベース本体を押し付けた。
「はい。久しぶりに世良君のベース聴きたいなあ」
「押し付けながら言うなよ。てかホント何なんだよ」
世良は迷惑そうな顔をしながらもとりあえず受け取った。
「世良先輩、ベース弾けるんですか?」
彼はこれまでずっとギターを弾いていたはずだ。矢㮈の問いに、世良は曖昧に微笑んで「まあ……」と口ごもる。
「世良君は元々ベース弾きなんだよ」
代わりに答えた諷杝を世良が軽く睨む。
「グループ編成とかバランスを考えてギター弾いてたみたいだけど」
「オレの代はベース弾きたいやつが多かったんだよ」
面倒くさそうに世良が補足する。
「そう、だから一時僕のギターも参考にしてたよね」
「お前の弾き方は独特なとこあるからあまり参考にはならなかったけどな」
軽口を叩き合いながら、世良は手にしたベースをあちこち触って確認している。
「ギター持って来たのに、弾かせるのはこっちかよ」
「だって僕たちの中でベース弾ける人いないんだもん」
「ベースなら……そこにも弾けるやつがいるだろ」
世良が果歩に目を向ける。彼女はにっこり笑って即答した。
「私は歌う役なので」
「……はあ」
世良は諦めたように小さく息を吐くと、ギターケースの外ポケットからピックを取り出した。それは厚さがあり、聞けばベース用だと言う。
「ちゃんとピック入れてるんだ」
「たまたまだ」
諷杝の茶々を適当にいなし、世良は弦を弾いて音を出した。見るからにこなれている。高瀬が興味深そうにその手元を観察していた。
「で、曲は何?」
「これ」
諷杝から譜面を渡された世良は一瞬目を瞬かせ、ちらと果歩の方を見た。
「よりによってこれをチョイスしたのか」
「世良君も懐かしいでしょう?」
「……そうだな。アホほど練習に付き合ったからな」
後半は呟くように言って、ふっと笑った。
「世良君の準備ができたら、僕たちはいつでもオーケーだよ」
「じゃああと二分待って」
世良は次の瞬間、何かスイッチが切り替わったように強く弦を掻き鳴らした。
(うわ、世良先輩上手い)
思わず引き込まれたのは矢㮈だけではない。隣で高瀬も驚いた顔をしていた。そんな後輩たちに、なぜか諷杝が得意気な顔になっている。
そして、果歩もまたどこか楽しみなものを期待するように世良を見ていた。
五.
久しぶりに思い切り声を出したような気がする。
それも普段あまり接することのない楽器と、懐かしい楽器に囲まれてのことだった。
(予想以上に覚えていましたね)
歌い始めると、不思議と当時のことを思い出してしまった。すでに解散してしまったグループのメンバーのことも。
(柄にもなくはしゃいでしまっていたかしら)
演奏を終えて三人と別れた果歩は、まだ先ほどの演奏の余韻に浸りながら、ふと前を行く男子生徒に声をかけた。彼は今回出番のなかったギター袋を背負っている。
「世良君。今日は付き合ってくださりありがとうございました」
世良は振り返って、複雑な表情をした。
「別に。海中に騙されただけだし」
「まさか海中君が世良君を呼ぶとは予想外でした」
「オレも予想外の流れすぎてビビったよ」
やれやれと肩を竦める世良に、果歩は小さく苦笑した。
「それにしても、あんな風に歌うの聞いたの久しぶりだったな」
「ああ、笠木さんも驚いてましたね」
さすがに普段の合唱部の歌い方では合わないので相応に変えたのだが、後輩の彼女は初めて聞くからだろう、大層驚いていた。
「でも笠木さんのバイオリンはやっぱり素敵でした。高瀬君のキーボードも完璧でしたね」
「……だよなあ。海中があいつらを手放さない理由がよく分かった気がする」
あれはもう『手放せない』だよな、と世良は苦笑する。
「世良君のベースも久しぶりで新鮮でした」
「そうだな。学校では専らギターだったから」
果歩が軽音部に入りベースを始めた頃、彼はまだベースを弾いていたのを覚えている。もっと言うと、今日弾いた曲の練習に付き合ってもらっていたのだ。つまりは果歩にとって、彼はベースの先生のようなものだった。
「そういえば、世良君は軽音部の『置き土産』何か考えているんですか?」
「何だ急に」
「うちの妹が楽しみにしているようだったので」
果歩の妹の実歩は軽音部に入ってギターを弾いている。そう、まさに世良にも教えてもらっていたはずだ。
世良が眉を寄せてため息を吐いた。
「オレの『置き土産』を欲しがるやつがいるかは別として、あれは下手したら醜い戦争ものだろ。去年春日井先輩が大々的にやるのをやめたように、今年もそうするつもりだ」
そういえば去年は卒業生たちのコメント入りの色紙を残す方向にしたと前部長の春日井から聞いたか。どうやら世良もそれに倣うつもりらしい。
「まあ個人的にやるのはご自由にってことだ」
「まあその方が平和ですね」
「だろ」
世良がふっと笑うのを見て、果歩は束の間考えてから思い切って言ってみた。
「では、もしよろしければ世良君のピックを一ついただけないでしょうか」
「は?」
目の前の少年が、訳がわからないという顔をする。
「欲を言えば、ギターのではなくてベースのが良いです」
果歩が至って真面目な顔で言うと、世良は変なものを見るような目でこちらを凝視する。
「マジで言ってんの?」
「マジですよ」
言葉を真似て言い返すと、世良もすっと真面目な顔になった。
背負っていたギターケースの外ポケットを探って、厚みのあるピックを取り出した。先ほど彼が使っていたものだ。
果歩の方に近づくと、ピックを持った手を前に出した。
受け皿のように出した両手に、小さな欠片が落ちてキラリと光った。
「歌も良いけど、ちゃんとベースも練習しろよ」
そう言って、ふいと前を向く。
果歩は欠片を見つめて頬を緩ませた。
「受験が落ち着いたらまた練習します」
今度は練習の成果を見たいもんだな、という声が聞こえた。
六.
「ヤバい。築地先輩の歌も、世良先輩のベースもヤバかった」
何だあれは。今までの二人とは全く違う姿に驚いたせいもあるだろうが、それ以上に衝撃がすごかった。矢㮈はまだどこかそわそわとして落ち着かない。
「だよねえ。僕は一年の時の二人を少し知ってるから懐かしいなあって思ってたけど、矢㮈ちゃんたちは初めてだったもんね」
諷杝が満足げに笑っている。
「也梛も楽しめた?」
「色々な意味で新鮮だったな。てか世良先輩のベースはもうちょい聴きたい」
高瀬にしては正直な感想だ。
「いやあ、僕も驚いたよ。あの二人にあんな一面があったなんて」
見学していた並早もびっくりしたようだった。そういえばこの先生は矢㮈が入学してきた年に彩楸学園に赴任してきたというから、諷杝たちが一年の時のことは知らなかったのだ。
「築地先輩のベースもちょっと聞いてみたい気がするけど」
ポツリと本音を漏らした矢㮈に、諷杝はくすりと笑った。
「いつか頼んでみなよ。多分やめてはないと思うから」
それに矢㮈ちゃんの頼みならきっと聞いてくれるよと付け足す。どういう意味だ。矢㮈は首を傾けた。
果歩と世良を先に見送った矢㮈たちも各々の楽器を片付け、並早に礼を言って音楽室を後にした。
(ああ、今日は楽しかった。思い切って築地先輩に声かけて良かったなあ)
矢㮈はまだ演奏の余韻に浸りながら昇降口に向かって歩いていた。
下駄箱から靴を引き出した時、後ろからすっと高瀬が近づいてきた。
「お前、あれ持って来たのか?」
「あれ?」
矢㮈がポカンとすると、高瀬は呆れた顔を隠しもせずに言う。
「今日が何の日か忘れたのか?」
「あ」
忘れていた。間抜けな顔をした矢㮈に、彼は心底呆れたようにため息を吐いた。
「――良かったな、今思い出して」
うるさい。矢㮈は曖昧な笑いを浮かべてローファーに足を突っ込んだ。
「持って来たんならちゃんと渡して帰れよ」
高瀬がそう言って矢㮈の頭を軽く小突いたところに、三年の下駄箱がある方から諷杝が現れた。
「二人ともどうしたの?」
「何でもない。――じゃあ諷杝、俺は今日家に戻るから後よろしく」
「え?」
ひらりと片手を上げて去っていこうとする高瀬に矢㮈はびっくりした。
「ちょ、ちょっと」
諷杝はすでに聞いていたのか、「はいはい」と手を振り返している。
(いや、「はいはい」じゃない!)
矢㮈は、足の長さのリーチで早くも遠のきつつある高瀬を呼び止めた。
「ちょっと待ちなさいよ!」
前を行く背中が止まり、怪訝そうに振り返った。顔に「またか」と書いてある――確か去年も同じようなことがあったような。
矢㮈は手荷物の中から、別に分けて持って来た小さな紙袋を取り出した。
「折角持って来たんだけど。いらないならそのまま行って良いわよ」
「……」
仏頂面が少し迷って、しかし結局何かに負けたようにこちらに引き返してきた。
そして黙って手を差し出す。
「也梛、ちゃんと『下さい』って言わないと」
横から諷杝がくすくす笑いながら口を挟む。高瀬は相変わらず仏頂面のまま、黙って矢㮈の手にある袋を見ていた。
(まあいいか。今日一緒に演奏してくれたしね)
矢㮈は苦笑しながら、譲歩する気持ちでその手に袋の取っ手を預けた。
「也梛、お礼は?」
諷杝が子どもに促すように言うと、「サンキュ」と一言だけ返って来た。そしてすぐにくるりと背を向けてしまう。
「じゃあな」
「気を付けて行きなよ」
「バイバイ」
今度こそ矢㮈も諷杝と一緒に手を振って見送った。
別に用意した袋がもう一つある。
矢㮈はまだ手を振っている少年に声をかけた。
「諷杝。この後まだ時間ある?」
「大丈夫だよ。――あの中庭でも行く?」
諷杝の提案に矢㮈は頷き、二人は下靴のまま中庭の方へと向かった。
屋根のある渡り廊下を横切って中庭に出る。校舎の裏側にあるこの中庭はわりと広い。ベンチもいくつか置かれていて、昼休みにはランチをする生徒や昼寝をする生徒をよく見かける。
奥に進んでいくと、一本の大きな朴の樹が植わっていた。
この樹は諷杝にとって特別で、それ故彼のお気に入りの場所だった。
今の時期は葉を落とし、ちらほらと冬芽をつけて春を待っている。
矢㮈と諷杝は暫しその大きな樹を見上げていた。
やがて、矢㮈は用意していた袋を諷杝の方へ突き出した。
「これ、諷杝の分」
「バレンタインデー?」
「そうだよ」
諷杝はふふと笑いながら丁寧な手つきで袋を受け取った。
高瀬は甘党なのでがっつり甘いお菓子にしていたが、諷杝はそうではないので彼に合わせたものに調整していた。
「ありがとう」
「お礼を言うのはあたしの方だよ」
きょとんとする諷杝を真っ直ぐに見つめる。
昨日の夜まで何をどう伝えようかとずっと考えていたが、結局考えはまとまらなかった。だから、もう思ったことをそのまま伝えよう。諷杝はきっと拙い言葉でもちゃんと聞いてくれると思った。
「あの日、屋上で諷杝の鼻歌を聞けて良かった。あたしのために、ギターを弾いてくれてありがとう」
入学して間もない頃、校舎に紛れた白い鳩を追いかけて辿り着いた屋上。そこに彼がいた。
あの出会いがなければ、矢㮈は今バイオリンを弾いていない。またあの世界に引き戻してくれたのは、諷杝と、それから高瀬だった。
(高瀬のことも諷杝がいなかったら知らないままだった)
あの仏頂面で近寄りがたい男子生徒があんなキーボードを弾くなんて誰が想像しただろう。初めは矢㮈に対する当たりも強かったが、少しはマシになったのは諷杝という緩衝材がいたからだ。
諷杝は目を細めて、首を横に振った。
「それなら僕の方こそお礼を言わないとだよ。あの時、僕の鼻歌を聞いてくれてありがとう。僕たちと一緒に、バイオリンを弾いてくれてありがとう、矢㮈ちゃん」
その言葉に、矢㮈は何も言い返せなかった。ただただ、諷杝の声を聞いていた。
「それから、也梛のことも。正直、僕だけだったらきっと今の也梛は見れなかったと思うから」
「え?」
「前に言ったことない? 也梛は僕に毒されてるのかもって」
そういえば。ずっと前にそんなことを聞いたような気がする。あの時は意味が分からないと思っていたが、今なら少し分かるような気がした。
「もう也梛は大丈夫。ちゃんとあいつの道を歩んでいける」
「そういえば高瀬に進路のこと話した時、大丈夫だった?」
実は気になっていたのだが、あまりにも高瀬が淡々としていたものだから聞くに聞けなかったのだ。
「ああ、一発殴らせろって言われたなあ」
「は?」
「まあ、冗談だったけど」
「……良かったね」
矢㮈はヒヤリとしながらもとりあえず相槌を打った。
諷杝はなぜか楽しそうな顔をして続けた。
「でも、あいつも何か覚悟はしてたのか、特に驚いた様子はなかったんだよね」
「そっか」
では高瀬は本当に淡々としていたのか。あれが強がりとかそういうのではないと知って少し安心した。
そんな矢㮈の安堵の表情を見て取ったのか、諷杝が小さく笑う。
「本当、矢㮈ちゃんで良かったよ。僕も安心して也梛を置いて行ける」
「ねえ、その言い方だとあたしにあいつの面倒見ろって言ってるように聞こえるんだけど?」
実際は恐らく、矢㮈の方が高瀬に面倒を見られる方なのだろうが――勉強の面からしても。
諷杝は相変わらずふふふと笑っている。笑いで誤魔化さないでほしい。
「矢㮈ちゃんはそのままでいてあげて。僕が言うのもなんだけど、あいつは結構矢㮈ちゃんのこと気に入ってるから」
「それはあたしが洋菓子店の娘だからなのでは?」
先ほど矢㮈のバレンタインの菓子を取りに戻ってきた彼を思い出して思わず言ってしまった。高瀬は矢㮈の家の菓子を気に入っている。
「いやいやいや、そんなことないよ。矢㮈ちゃんのバイオリンはよく褒めてたんだから」
「ええ~? 本当?」
矢㮈が褒められた記憶はほとんどない。それも捻くれた褒め方なので、いつも余計な一言がセットでついてくる。
「だから、これからも也梛の良きライバルでいてあげてね」
「ライバル……」
あの音楽馬鹿に敵うとはさすがに思えないのだが。楽器の分野は違うとはいえ、あの高瀬にそうほいほいと勝てる自信は無い。むしろ目標と言う方が正しいかもしれない。
矢㮈がうーんと唸っていると、諷杝が急に歩を詰めて目の前にいた。
「!?」
「矢㮈ちゃん」
諷杝がちょっと困ったように眉を下げて微笑む。
袋を持っていない方の手が、すっと矢㮈の頭の上に伸びた。
「僕も矢㮈ちゃんと矢㮈ちゃんのバイオリンが大好きだよ」
「!」
言われた言葉がゆっくりと耳を通過していく。
こんな正面からそんなことを言われたら赤面してもおかしくない状況なのに、矢㮈はその言葉の意味を理解すると同時になぜか泣きたくなった。このふいに湧いた感情が何なのか、自分でも分からなかった。
でも泣きたくなくて、意地でも涙をみせないように我慢して唇を噛んだ。
震えそうになる声を、音として押し出す。
「……あたしも諷杝と、諷杝の歌とギターが大好きだよ」
ちゃんと、言葉になっていただろうか。伝わっただろうか。
頭の上の手がくしゃりと髪を撫でた。
諷杝は今度は朗らかな笑みを浮かべていた。
矢㮈も涙よ引っ込めと念じながら、その頬に精一杯の笑みを浮かべた。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
遅ればせながら、本年もよろしくお願いいたします。
そして、『奏』もそろそろ終われそうな感じがします。本編は残り1話、よろしければお付き合いいただけますと幸いです。
(2024/01/12)




