彩楸学園に来た意味
【主な登場人物紹介】
・笠木 矢㮈…彩楸学園高校2年生。バイオリンを弾く。
・高瀬 也梛…同上2年生。キーボードを弾く。
・海中 諷杝…同上3年生。ギターを弾く。
【その他】
・イツキ…諷杝に懐いている白い鳩。名前は生前の並早樹からもらって諷杝がつけた。
・並早…彩楸学園英語教諭。諷杝のクラスの担任。
・高瀬 敦葉…也梛の父親。【ZIST】のメンバーの一人。
・海中 旋…諷杝の父親。故人。
・並早 樹…故人。並早の兄。
一.
彼と出会ったのは、約二年前、高校一年生の秋だった。
当時、彼はお気に入りのキーボードの音が出なくなり、修理費用を稼ぐためにバイトを始めたという。
全然記憶にないのだが、どうやら面接時から一緒だったらしいことは後から聞いて知った。つまりはその時まで彼を特別認識してはいなかったのだ。
元から特別親しい間柄と呼べる人が両手で数えるくらいしかいなかったから、それがさらにバイト先でとなると本当に挨拶と業務上で関わるくらいの人間関係しか築いていなかった。
その中でなぜ彼と親しくなったのか?
それはあの時、彼が自分に声をかけてきたからだろう。
『それ何の曲?』
公園で一人鼻歌を歌っていた自分に、彼は声をかけてきたのだ。
声をかけられたことそのものよりも、彼が鼻歌のことを聞いてきたのに驚いた。
『お前いっつもそれ歌ってるだろ』
さらに驚いた。いつもこの鼻歌を聞かれていたとは。
(面白いやつだなあ)
素直にそう思った。
その時初めて、彼自身に注目したのだった。
自分より頭一つ分以上は高い身長、黒髪の下に覗くのは鋭めの目、そしてこちらを見るその顔は無表情。
「――君、名前何て言ったっけ?」
改めて名前を聞くと、彼は途端に呆れたふうにため息を吐いた。
『高瀬也梛。面接の時から一緒だったはずだけど、覚えてないとかマジか』
残念ながら自分にはよくあることなので素直に謝った。
「ごめんごめん。今覚えた。也梛、ね。了解」
心の中でもう一度その名前を反芻する。うん、覚えた。
『しかもいきなり名前呼び捨て』
也梛はなぜか驚いているようだったが、別に嫌とかではないようだった。ならば問題はあるまい。
『じゃあお前、海中は――』
「諷杝でいいよ。よろしく也梛」
こんなにあっさり誰かを名前で呼んで、自分のテリトリーに入れてしまったのは人生で初めてかもしれなかった。
それから也梛との交流が始まり、一緒に音楽をするようになったわけだが、まさか半年後に彼が彩楸学園に入学してくることになるとはさすがに予想しなかった。
しかもどういう運命のいたずらか、彼はルームメイトとしてやって来たのだ。
後輩になった彼は相変わらずの仏頂面になぜか伊達眼鏡をかけ、ここへ来た理由について『俺の音楽を探しに来ただけだ』と宣った。
ちなみに、彼の父親が自分の父親の旧友だと知ったのは也梛と出会ってだいぶ経ってからだった。同じく彩楸学園に英語教諭として赴任してきた並早から聞いたのである。
とはいえ諷杝たちの関係に直接どうこう影響するわけではないと考え、本格的に『ZIST』のことが絡んで来るギリギリまで黙っていた。――結果的には也梛が自分で気付いたのだが。
(也梛が来なかったら、多分楽譜は見つからなかった)
諷杝は心からそう思う。
彼が来て、さらに矢㮈も入学して来て、諷杝の世界は動き出した。
彼らが来るまでの一年、諷杝なりにいろいろと楽譜を探していたものの思うように進まなかった。半年経つ頃にはもう半ば諦めの気持ちが芽生えていた。
そんな時に出会ったのが也梛だったのだ。
(どうしてこいつは僕にこんなに関心を持ったんだろう?)
わざわざ転校してくる程の理由が果たして自分にあったのだろうか? だとしたら一体何なのだろう?
分からないなりに、自分のせいで也梛の人生を大きく変えてしまったのではないかと怖くも感じていた。彼がそこまで拘る程の価値が自分にあるとは到底思えなかったのだ。
諷杝にとっては也梛と過ごす時間がとても有意義で興味深いものだったが、也梛にとっては本当にそうだったのだろうか。
だから、也梛が矢㮈をはじめクラスメイトたちと仲良くなっていくのを見ると、嬉しいと思うと同時に少し安心した。彼がこの学園に来た意味が、決して諷杝だけじゃなかったと思ってほしかった。
そして、初めは頑なだった彼も今ではだいぶ変わったと感じる。
(もう、僕だけじゃない。也梛は也梛の音楽の道を歩きだした)
それは別に音楽の道を別つという意味ではない。自分たちの音楽はこれからもずっとどこかで交差し続ける――これは絶対条件だ。
その上で、今、諷杝たちはお互いにそれぞれの道を行こうとしていた。
「也梛。僕、来年アメリカに行こうと思ってるんだ」
諷杝の言葉に、也梛は一瞬だけ目を見張った。
二.
「とりあえず――一発殴らせろ」
諷杝の話を一通り聞いた也梛は、いつもの仏頂面のまま淡々と言った。
「え?」
言われた諷杝は成り行きにポカンとしている。
「お前それ、もう冬休みに入る前には決まってたんだろ。何ですぐに俺に言わない? あまつさえ笠木の方が先に知ってるなんて」
「ああ、矢㮈ちゃんには偶然大晦日に会って買い物に付き合ってもらった時に流れで……」
「何だって?」
さらに新たな情報が飛び出してきて耳を疑う。眉間に皺を寄せた也梛に、諷杝が申し訳なさそうに手を合わせた片目を瞑った。
「あ、ゴメン。也梛も一緒に行きたかった? でも大晦日だし、君も忙しいかと思って」
「別にそんなこときいてねえよ」
諷杝のズレた答えにため息をつきつつ脱力する。
(二人で出掛けられたのは良かったとしても、まさかそんな爆弾落とされるとは思ってなかっただろうな、あいつ)
年末に話を聞いて、正月を挟んでの今日だ。矢㮈の様子がどこかおかしかったのにも納得がいく。むしろ、今回に関しては彼女に同情した。
「……笠木は何か言ってたか」
「ううん。特には」
「そうか」
恐らく言われたことのインパクトが大きすぎて何も言うことが思い浮かばなかったのだろう。だが、彼女のことだから落ち着いて冷静に考え直したとしても、きっと特に何も言わなかったのではと思う。
(あいつはきっと『諷杝が決めたことなら』って言うような気がする)
何となく、そう思った。
「――話を戻すが」
「……一発殴るとかいうやつ?」
諷杝が頬を引き攣らせたので、也梛は「冗談だ」と答えてやった。――半分くらい本気ではあったのだが。
也梛はすでに湯気が立たなくなったカップを持ち上げて唇を湿らせた。猫舌の諷杝もやっと普通に口をつけていた。
「――也梛は、あんまり驚かなかったね」
カップの中身を見つめたまま、ポツリと諷杝が呟いた。
也梛はカップを回すように動かして中身の液体を揺らした。
「まあ、お前ならそう言いだしてもおかしくないと思っていたというか」
全く驚かなかったと言えば嘘になる。だが正直なところ、諷杝のことだから海外に行くと言い出しても何も不思議に思わなかった。――きっと心のどこかで、そんな答えが返ってくることも覚悟していた。
「でもどうして海外なんだ? 日本に残る選択肢はなかったのか?」
諷杝は視線を上げ、そのまま今度は天井を見遣った。
「うーん……初めは周りのみんなと同じように大学に行こうかなとか働こうかなとか思ったりもしたんだけど」
彼は暫し考えるように黙り、それからゆっくりと言葉を紡いだ。
「何ていうか……多分だけど、僕は両親がいなくなった時点で父親の楽譜の件がなかったらアメリカの祖父母のとこに行ってたと思うんだよね」
「……」
「別に日本でも外国でも特にこだわりはなくて。あの時はただ、父さんの楽譜を探すっていう目的があって彩楸学園に進学することを選んだ。その進学のために、真生さんたちにお世話になることになった」
諷杝にとっての最優先事項は楽譜探しで、そのためだけに日本に残り、彩楸学園に進学するという選択をした。
「だから楽譜が見つかったその後のことは正直よく考えていなかったんだよね」
自嘲気味に笑った諷杝は、やっと視線を也梛に戻した。
「でも、君と会って、矢㮈ちゃんに会って、僕には楽譜探し以外にも彩楸学園にいる理由ができた。君たちと音楽をするのがいつの間にかとても楽しくて、それだけでもここに来て本当に良かったと思ったんだ」
「諷杝……」
「父さんの楽譜が最悪見つからなくても、君たちと音楽をしていられるなら十分だって」
だから、諷杝は也梛たちに言ったのだ。
『君たち二人と一緒にあの曲の続きを作りたい』
「父さんの楽譜の件も決着した今、むしろ日本にいたいという理由があるとすれば、君たちだよ」
「だったら日本にいれば良いだろ」
也梛と矢㮈が日本にいるのに、なぜ彼は海外に行く選択をしたのだ。
「だって君たちもいずれ『外』に行くんだろうなって思うから」
「え?」
「特に矢㮈ちゃんはそうだろう? あの子はまだまだ伸びるよ。きっと矢㮈ちゃんのおじいさんと同じように、世界のバイオリン奏者になると思う」
也梛はごくりと唾を飲み込んだ。諷杝の目が「君も分かってるだろう?」と言っている。
確かに矢㮈はまだ芽が出始めたばかりの奏者だが、それでも向上心があり、少しずつ自信をつけて成長している。苦しんできた彼女も見てきたが、それでもそれを上回るくらいの楽しさや面白さを彼女自身が自覚し始めているように見えた。
そんな彼女を見て来たから、也梛の中でも変化があったのだ。
「そんな矢㮈ちゃんを見てると僕もわくわくした。それから、也梛にも」
「……俺?」
「君はやっぱりすごいよ。本当に、毎回毎回曲を作るたびに驚かされる。也梛のことだから、これからも自分の音楽を追求するためには努力を惜しまないんだろうね」
諷杝はどこか楽しそうに笑った。
「君たちを見ていたら、僕だけがこのままではいられないなって思ったんだ。君たちと音楽仲間でいるために、僕もまた自分を磨かないとって」
矢㮈と也梛との出会いをきっかけに、諷杝にもここまで変化があったのか。彼の大きな変化に也梛は素直に驚いていた。
「色々と考えてみて、僕が興味惹かれる環境を考えたら昔住んでたアメリカの田舎を思い出した。父さんがあんなだったから、向こうに音楽関係の知り合いもいる。折角だからそっちに足突っ込んでみようかなって」
どうやら諷杝の次の目標は、自分たちと音楽を続けるために彼自身の音楽の幅を広げることのようだ。そのために彼は彼に合うと思った環境を選択した。
(――なるほど)
彼の胸中を知って、今まで一見分かりやすいようで掴み所がなかった海中諷杝という少年が、目の前にくっきり輪郭をもって現れたような気がした。
彼なりに精一杯考えて出した答えであることは十分伝わってきた。元より口を出すつもりはなかったが、改めて也梛から何も言うことはないと思った。
「君たちと音楽を続けること。海外に行って自分を磨くこと。――どっちも僕の願いだ。だから一つずつ叶えていくよ」
諷杝が微笑んで、そっと歌うように囁いた。
『You can't have your cake and eat it too.』
三.
すっかり冷めた液体を喉に通して一息つく。
約二年を一緒に生活してきたが、諷杝の口から彼自身のことについてここまでじっくり話を聞いたのは初めてかもしれなかった。
それがどこかこそばゆく感じると同時に心地よくて、也梛は内心で小さく笑ってしまった。
(何だかんだで気付けば一番近くにいる友人になってたな)
腐れ縁だ何だでそれなりの付き合いになる友人はいるが、その中でも諷杝はまた少し特殊だった。
そもそも、彼の鼻歌を聞いて興味を持たなかったら声すらかけていなかった。
一緒にいるようになると専ら也梛の方が世話を焼いていたが、ふいに彼の方がずっと年上に感じる時もあり、そばにいると安心感があった。
(いつも飄々として全く分からんやつだなとも思ってたけど)
それでも一緒に過ごすうちに、たくさん話すうちに、諷杝という少年の人となりをさらに知っていきたいという気持ちが大きくなった。
諷杝がカップから視線を上げて、也梛の目を真っ直ぐに見た。
「――君も一緒に行くって言うかい?」
也梛は虚を突かれたように固まり、それからふっと頬を緩ませた。
「まさか。俺はまだあと一年、彩楸での生活が残ってる」
その答えに諷杝はどこかほっとしたような表情を浮かべたように見えた。
「君は卒業したらどうするの?」
「俺は……」
今度は也梛が答える番だった。
諷杝はじっと也梛が話すのを待ってくれている。
(こいつにはちゃんと言わないといけない)
頑なにキーボードしか弾かなかった也梛に対して、諷杝が事あるごとに何か道を提示しようとしてくれていたことには気付いていた。
『もしかしたらまた新しい道が開けるかもよ、也梛』
『きっと僕とは違う立場で、矢㮈ちゃんは相談に乗ってくれると思うよ』
『僕は君たちそれぞれの音楽の行方も楽しみにしているんだ。矢㮈ちゃんはどんなバイオリニストになるんだろう? 也梛は、どんなキーボードを弾いて、どんな作曲をするんだろう?
もしかしたら、也梛はまたピアノを弾いているかもしれないし』
そして、諷杝はいつだって、也梛と也梛の音楽を肯定してくれた。彼にとっては当たり前のことだったかもしれないが、也梛はそれにどれだけ救われただろうか。
初めは顔を合わせれば文句の応酬だった矢㮈とも、諷杝が間に入ってくれたことで今では出会って良かったと思える音楽仲間になっている。
(あの時、声をかけて良かった)
心からそう思う。
先ほど諷杝は彩楸学園に進学した意味があったと言ってくれたが、それは也梛にとっても同じだ。
諷杝がいるからというただそれだけの理由で、彩楸学園に入学した意味はあった。
部屋の壁に立てかけた黒いキーボードケースをちらと見る。
「俺は――」
この冬休み、あの父親にも話したことを思い出す。
「音楽大学に進学しようと考えてる」
「やっぱり作曲の勉強をしたいから?」
「それはもちろんだが、俺が進むのはピアノ専攻だ」
「……!」
諷杝の目が見開く。彼は口を開いたが、結局何も言わずに閉じた。
「俺もお前やあいつに触発されたんだろうな。もう一度、俺の音を探すためにピアノと向き合ってみようと思ったんだ」
昨年の夏からまたピアノを弾きだしていたが、ブランクはあれ自然と弾いている自分がいて驚いた。ピアノを弾くこと自体は決して嫌いではなかったのだと改めて感じたのだ。
「あいつが――笠木が笠木のバイオリンの音を持っているように、俺の音も見つかれば良いなと思う」
見つけたら、今度は自信をもって自分の音を好きになりたい。
その過程は、きっとこれからキーボードを続ける上でも糧になるはずだ。
「――そっか」
諷杝の口から吐き出されたその一言は、安堵と嬉しさが滲んで聞こえた。彼が眉を八の字にして、なぜか泣き笑いの表情になる。
「也梛のことだから、絶対見つけられると思うよ」
「……だと良いけどな」
也梛は苦笑して、でも「ありがとう」と呟いた。
「それ、敦葉さんにも話したの?」
敦葉とは也梛の父親のことである。諷杝の父親とはかつてバンド仲間で、諷杝のことも友人の息子として気にかけていたらしい――と、也梛は後になって知った。
「話したよ。正直向こうはもう俺がピアノの道に進むのは諦めてたみたいだから、俺の考えを聞いて少し驚いてた」
「あはは。でも喜んでたんじゃない?」
「どうだかな。ただ、激励はくれたよ――多分」
『お前がその音楽を突き詰める中でそちらに進む気があるのなら――俺はもちろん支援する』
父親のあの言葉を、也梛はそう受け取った。
諷杝がふーっと大きな息を吐きだした。そのまま肩の荷が下りたと言わんばかりにだらりと脱力する。
「君たち親子の仲も良好に向かっているみたいで安心したよ」
「そういえばお前が無事に卒業できるのか心配してたぞ」
「え? 僕!?」
途端に焦った顔になる諷杝。全く表情が忙しいやつだ。
「だ、大丈夫だと思うよ。……ねえ、也梛もそう思うでしょ?」
この前の期末試験も頑張ったよね?と訊いてくる諷杝に、也梛は肩を竦めた。
「いや、俺に聞かれても」
「うん、大丈夫大丈夫。多分大丈夫」
諷杝は必死に自分に言い聞かせて、謎の自己暗示を始めた。
そんな彼を見ながら也梛は呆れつつも笑ってしまった。
こんな何気ないやりとりも、あと少しで終わるのかと思うと少し寂しさを覚える。
「そういえば、君の進路について矢㮈ちゃんは知ってるの?」
暗示が効いたのか、気を取り直して諷杝が尋ねてきた。
「知ってるわけないだろ。まだお前にしか話してない」
年が明けたらまた進路希望調査があるだろうから、その時に学校側――担任も知ることになるだろう。
「言ってあげたら喜ぶんじゃない?」
「それはタイミングを見てから言う。――くれぐれも勝手に言うなよ」
「言わないよー」
「年末にアメリカ行きをカミングアウトしたお前が言うと説得力がねえよ」
思わず言い返すと、諷杝がうっと言葉を詰まらせた。どうやら反省はしているらしい。
「矢㮈ちゃんに伝えるタイミングは本当にミスったなと思ってるよ……」
「ああ、反省しろ」
也梛は他人事のように言い、空になったカップを持って立ち上がった。
「話すことも話したし、今日はもう早く寝るぞ。明日に響いたら笠木に合わせる顔がない」
「確かに。ニューイヤーコンサート、楽しみだね」
諷杝も自分の使っていたカップを持って立ち上がった。
「――也梛」
「あ?」
「ありがとう」
「……よく分からんが、それはきっとお互い様だろ」
也梛の返答に諷杝は苦笑した。
四.
昨夜は話さなければならなかったことを話してすっかり心が軽くなったのか、よその家――と言っても也梛の部屋で、同じ空間に彼がいるというのは寮と変わらないのだが――でも珍しくぐっすり寝られた気がした。だから普段と変わらず、也梛に叩き起こされることになった。
「諷杝! 起きろ! 朝ごはんの時間だ!」
「……んぇ?」
布団を剥ぎ取られて、目を擦りながら時計を確認する。休みの日にしては早い方だ。
「高瀬家は休日でも八時までに起床だ。じゃないと朝ごはんがない」
「……なんかそんなこと言ってたね」
まだぼんやりとしている頭のまま、とりあえず着替える。その間に也梛はテキパキと諷杝が使っていた布団を片付けてしまった。もうあの布団に戻る道はなくなった。
也梛の後について階下のダイニングへ向かうと、思わぬ声が二人を出迎えた。
「……おはよう、二人とも」
新聞を広げていたその人は――也梛の父親の高瀬敦葉だった。也梛からは仕事で留守にしていると聞いていたが、帰って来ていたらしい。
也梛も想定外だったらしく、珍しくポカンと驚いた顔をしていた。
「えっと、敦葉さん、おはようございます……?」
「何で父さんがいんの?」
横から疑問をぶつけた也梛に父親はため息を吐く。
「ここは俺の家なんだが……」
聞いているのは恐らくそういうことではない。也梛が眉間に皺を寄せた。
キッチンで朝食の準備をしていた也梛の母親が笑いながら食器を運んできた。
「お仕事が早く終わったそうよ。あなたたちが今日もう寮に戻ってしまうから、顔を見たかったんだと思うわ」
「……一言余計だ」
「あらそれはごめんなさい」
しれっと謝ってすます彼女は決して悪びれた様子がない。さすが妻である。
諷杝と也梛は顔を見合わせて苦笑すると、用意のできた朝食の席に着いた。
敦葉はまた新聞に目を落とし、特に話しかけてくる様子はなかった。也梛もまた自分から会話することはなかったが、以前の顔も合わせたくないという状況からしたら親子関係は改善されていると言える。
静かな二人に代わって、諷杝は折角なので質問してみることにした。
「そういえば敦葉さん。あの也梛のキーボードって昔敦葉さんが使ってたんですよね?」
「諷杝……?」
一体何を言い出すんだと眉を潜めたのは敦葉だけでなく、也梛もまた同じだった。
「あのキーボード、イツキさん――あ、鳩の方です――が気に入ってたみたいで、よく近付いては也梛に追い払われてたんです。何か思い入れがあるのかなって不思議だったんですけど、心当たりありませんか?」
「俺に鳩のことを聞かれても知らん」
「いえ、鳩じゃなくて人間の――生前の樹さん関係で」
言い直した諷杝に、敦葉は束の間考えるように黙った。
也梛はパンに噛り付きながら、二人の会話を何となく聞いている。
「……特に心当たりというものでもないが、樹にもよくキーボードを弾いてくれとせがまれた記憶はある。あとは本体に謎のステッカーを貼られたり……」
話している敦葉の顔がだんだん渋面になっていく。諷杝は瞬いた。
「ステッカー?」
「ああ。あいつは『カッコ良くしてやるよ! どうだ!?』って自信満々だったが、全然カッコ良さも分からんし、さらに旋がそれに乗っかって『それならこっちが良いよ!』とか言い出して……俺はキーボードを死守するのに必死だった……」
眉間に寄った皺を伸ばしながら敦葉はため息を吐いた。
彼にとっては昔のとんでもない思い出話なのだろうが、諷杝にとってはかつての父親たちの話が聞けることは嬉しかった。
「ステッカーなんて貼ってあったっけ……?」
ボソリと首を傾げた也梛に、敦葉はまたため息を吐く。
「とっくの昔に剥がしている。あんなもんずっと貼ってられるか」
確かに也梛の使っている今のキーボードは余計な装飾も何もないシンプルな本体だ。
「じゃあ今度僕もカッコ良いステッカー探してみるから、見つけたら也梛にあげるね」
「いらん」
諷杝の提案は也梛に即却下された。残念だ。
「でもあのキーボード、本当に長いこと使われてるんですね」
敦葉が高校生だったのはもう二十年以上も前の話だ。彼が音楽をやめて一時期使用頻度が下がったとしても、息子の也梛が今も使っているのはある意味すごい。
「あれでも何度も修理やパーツ交換を重ねているからな。もういつ寿命が来てもおかしくないだろう。それにこいつはいつも持ち運んでいるし」
ちらと息子を見る敦葉は呆れた顔をしていた。也梛は知らんふりで黙々とパンを食べている。諷杝は思わず笑ってしまった。
「でも、僕はあのキーボード好きですよ。それを也梛が弾いて奏でてくれた音も」
「――まあ、俺が弾くよりも活き活きした音なのは間違いない」
「!」
ふいに零れた評価に也梛の手が止まる。
(ふふ、也梛驚いてる)
諷杝も驚いていたが、也梛の反応を見ている方が面白い。
「何せ本当に音楽馬鹿だからな」
「昔の自分を思い出してから言えよ」
ずっと黙っていた也梛もとうとう言い返した。今度は敦葉が知らんふりをしている。――どっちもどっちだ。
(ちょっと羨ましいなあ)
昔の父親たちのことを知った今だからこそ、改めて諷杝も自分の父親と話したいことがある。
楽譜探しのこと、樹のこと、敦葉たちのこと。
それから、也梛と矢㮈のこと、諷杝自身のこと。
直接話して、どう思ったか、感じたか、聞いてみたかった。
「そういえば旋もギターを持っていただろう。この前お前が持っていたのは違ったようだが」
敦葉が思い出したように言う。
「あ、はい。僕は自分のを使ってます。まあそれも昔、父さんに買ってもらったやつですけど。お古で良いって言ったのに、父さんは自分のはまだ使うからって譲ってくれなくて」
「まあ慣れた楽器が一番だからな」
「そのくせ僕の新しいギターを見て『良いなあ』を連発するんですから意味分かんないですよね」
「……あいつらしい」
敦葉は苦笑して、広げていた新聞紙を折り畳んだ。
「でもお前の弾き方はあいつにそっくりだった。また聴かせてくれ」
そう言い置くと敦葉は席を立って、ダイニングを出て行った。
「何だったんだ、あの人」
スープを飲んだ也梛が仏頂面で首を傾げる。
「僕たちと話したかったんじゃない?」
「おめでたい思考だな」
諷杝の答えに也梛が呆れたふうにため息を吐いた。
「僕は結構楽しかったよ?」
「だろうな」
「也梛も満更でもなかったでしょ」
「そんなことない。ほら、早くご飯食べろ」
「はーい」
諷杝はくすくす笑いながら、遅ればせながら「いただきます」と合掌した。
ここまでお付き合いくださりありがとうございます。やっと二人の進路がはっきりしましたね。
あと少し(何回言うんだ)ですが、もしよろしければ見届けていただけますと幸いです。
(2023.12.03)




