負けず嫌いの隠しごと
【主な登場人物紹介】
・笠木 矢㮈…彩楸学園高校2年生。バイオリンを弾く。
・高瀬 也梛…同上2年生。キーボードを弾く。
・海中 諷杝…同上3年生。ギターを弾く。
一.
三が日の三日目。
笠木矢㮈は朝からバイオリンを持って電車に揺られていた。車内は初詣に行くのだろう客で多少混雑していた。
目的の駅に到着すると、ロータリーの向こうに位置する小さな公園に向かう。そこが集合場所だった。
本日は明日『音響』で行われるニューイヤーコンサートの練習を高瀬の家で行うことになっていた。
「あたしが一番か……」
念のため時間に余裕をもって出て来たものの、案外スムーズに乗換が済んでだいぶ早く着いてしまった。
公園の端にポツンと存在する木製のベンチに腰を下ろし、ふうと息を吐く。
ぼんやりと見上げた空は綺麗に晴れ渡っていて、なるほど出掛けるにはもってこいの日だと思う。
しかし矢㮈はというと、心の中はどこか落ち着かずそわそわとしていた。あの大晦日の日、諷杝と別れて家に帰ってからずっとだ。
『僕、アメリカに行こうと思ってるんだ』
彼の進路について尋ねたら、こんな答えが返って来た。これはさすがに予想外の答えすぎて、矢㮈の頭の中がフリーズしたのは当然の反応だった。
諷杝の祖父母がそちらに住んでいるようで、そこに厄介になるとか何とか聞いたような気がするが――正直、あまり覚えていない。
一緒に『音響』まで戻ってマスターからバイオリンを引き取り、年末の挨拶をして帰路についた記憶もぼんやりしている。
さすがに親戚が集まる正月は一旦頭の隅に追いやっていたが、落ち着いた途端にまたぼんやりそのことを考えてしまっていた。
誰かに共有したくとも勝手に話して良いのか分からず、諷杝のことなら相談に乗ってくれそうな高瀬也梛も今回はこの話を知らない――諷杝自身がまだ彼にも伝えていないと言っていた――ため一人でもんもんとするしかなかった。
(ていうか、諷杝はいつ高瀬に話すつもりなんだろ)
これからまさにその二人と会うことになる矢㮈は、知らず知らず眉を寄せて溜め息を吐いていた。
(別にあたしにどうこうできるわけじゃないし、引き留めるとかそんなことは考えてないけど……)
矢㮈は自分のことよりも、彼らのことが少し心配だった。
(高瀬はどうするんだろう)
なぜなら、高瀬はわざわざ諷杝がいるから彩楸学園に入学して来たのである――進学校を辞めて、一年遅れになってでも。
さすがに海外まで一緒に行くとは言い出さないだろうが、それでも諷杝と離れた後の彼が気になった。
「やーなちゃん。待たせたかな? 遅くなってごめんね」
軽い声が風に乗って聞こえてきた。そこにはまさに今矢㮈の頭を悩ませていた海中諷杝が立っていた。時計を確認すると集合時間の五分前だった。
「ううん。大丈夫。まだ時間前だし」
「明けましておめでとう。正月は楽しく過ごせた?」
笑みを浮かべて年始の挨拶を口にした諷杝に、矢㮈は素直に恨めしい表情を浮かべた。
「おめでとう……。正月は楽しかったけど、諷杝のせいで頭の中がぐるぐるだったよ」
「え? 僕?」
「大晦日にあんな爆弾落とすから……!」
矢㮈の言葉に諷杝は思い出したようにはっとした。
「もしかして僕の進路のこと……?」
「もしかしなくてもそうだよ! あたしが考えても仕方ないことだけど、でも気になって」
頭を抱えた矢㮈に諷杝は困ったように微笑み、「それはごめん」と謝った。
「言うタイミングを間違ったね」
「別にそれは良いんだけど……ねえ、高瀬にはまだ言ってないんだよね?」
「うん。ちゃんと面と向かって話さないとと思ってる」
それはそうだろう。修羅場にならないことを切に願う。
「あたしは今日ちゃんと普通にしてられるかな……」
「え? 何で?」
「何とぼけたこと言ってるの諷杝! 自分で言うのも何だけど、あたしは表情に出やすいんだってば! いつも弓響に見破られるし、あの高瀬をやり過ごせる自信がない……」
言っていて悲しくなってくるが、その通りなのだから仕方がない。
「いや……矢㮈ちゃんがそこまで気にする必要はないよ」
諷杝はそう言ってくれたが、矢㮈の方が気にする。
「とりあえず、あたしはバイオリンと演奏に集中することにするから――」
「よう、お前ら。時間通りだな」
「!」
矢㮈と諷杝は声がした公園の入り口の方を振り返った。
そこには自転車に乗った高瀬がいた。
「あ、也梛。明けましておめでとう」
何事もなかったように飄々と挨拶を返す諷杝に、矢㮈も横から「おめでとう」と口添えた。
「ああ、おめでとう。で、笠木は諷杝の後ろで何縮こまってんだ?」
早速目敏く訊いて来た高瀬にギクリとしつつ、矢㮈はそろりと諷杝の隣に並んだ。
「何でもないわよ。それより高瀬、あんた自転車に乗れたのね」
「あ?」
矢㮈は話題を逸らそうと彼と自転車に目を向けた。
「俺だって自転車くらい乗る。寮には持って行ってないからたまに諷杝のを借りる」
「そうなの?」
矢㮈が諷杝を見ると、彼は頷いた。
「バイトの関係でたまにね。也梛が乗った後、たまにサドルが戻ってないと高すぎて乗れないことがある」
確かに高瀬の自転車のサドルの位置は普段矢㮈が乗るのよりもずっと高い。
「お前が背を伸ばせば解決する」
「そう簡単に伸びたら苦労はしないよ。逆に也梛が縮めば良いんじゃないかな?」
「高瀬の背を少し諷杝に分けてあげれば良いんじゃない?」
「無茶言うな。怖すぎるだろ」
高瀬が呆れた顔をしながら自転車から降りた。
「じゃあそろそろ行くぞ。荷物、自転車に載る分は載せろ」
諷杝は帰省の荷物があるため矢㮈より多い。高瀬が自転車の荷台に載せて紐で縛っていた。
矢㮈は楽器以外で入れられる荷物を前籠に入れさせてもらった。
「矢㮈ちゃん、それは良いの?」
矢㮈の手元に残った手提げ袋を見て諷杝が訊く。
「ああうん、これうちのケーキだから手で持ってくよ」
答えると、高瀬が鋭い目で袋を見た。
「それ、絶対に無事に家まで持って行けよ」
「はいはい」
これは万が一にも落としたりしようものなら、高瀬の機嫌と士気を著しく低下させることになるな、と矢㮈は肝に銘じた。
二.
最寄りの駅から二十分程歩いた所、少し高台に位置する閑静な住宅地に高瀬の家はあった。
以前は車で連れて行ってもらったのであまり坂を意識しなかったが、歩くとなかなか足に来る。自転車でこの上りはキツそうだ。
「おじゃましまーす」
矢㮈と諷杝が声を揃えて高瀬家の玄関に入ると、廊下の奥からひょっこり人が現れてこちらに向かって来た。
「いらっしゃいませ、二人とも」
出迎えてくれたのは高瀬の母親だった。長い黒髪を首の後ろで一つに結って大きなバレッタで留めた、上品な佇まいをしている。
仏頂面の息子とは違って柔らかい表情の彼女は、矢㮈と諷杝を見て嬉しそうに微笑んだ。
「諷杝君も矢㮈ちゃんもお久しぶり。ゆっくりして行ってね」
「ありがとうございます。楽器の音がうるさいかもしれませんが……」
諷杝が苦笑すると、高瀬の母親は手を振った。
「とんでもない! 普段から也梛と葵のピアノがずっと響いてるくらいだから気にしないわ」
「バイオリンの音も結構響くと思いますが……」
思わず矢㮈も言い添えると、
「矢㮈ちゃんのバイオリンの音、私は好きだから大丈夫」
「それは……ありがとうございます」
何だかこちらが照れてしまう。
「ほら、挨拶はそれくらいで良いだろ。行くぞ」
高瀬が痺れを切らしたのか、玄関を上がる。
矢㮈は手土産のケーキを高瀬の母親に渡し、諷杝と一緒に高瀬の後を追って二階に向かった。
「荷物は俺の部屋に置いとけ」
高瀬が二階の奥の部屋に向かう。矢㮈は諷杝が入って行った後、高瀬の部屋の前で立ち止まった。そういえばこの家に来たことはあるが、彼の部屋を見るのは初めてだった。
青系統の色を基調にした部屋は、高瀬の性格を現したかのようにシンプルで綺麗に片付いていた。矢㮈の部屋のように、溢れた物が床に詰まれているといった状態は皆無だ。
「何やってんだ、笠木」
諷杝の荷物を置いた高瀬がドアの前に立つ矢㮈に気付いて声をかける。
「あ、いや。すごい片付いてるなと思って」
「そうか? 諷杝の部屋はもっとシンプルだけどな。最低限のものしか置いてなかった」
「うーん、僕の私物はほとんど寮に置いてるからなあ」
「あたしの部屋は……ううん、もうこの話はやめよう」
矢㮈は自分の部屋の惨状を自白する前に口を噤むことにした。帰ったら部屋の片づけをしようと密かに思う。
弟以外の男子の部屋に入るのは小学生の時以来だなと思うと少し緊張しつつ、矢㮈は彼の部屋に足を踏み入れた。端の方に荷物を置かせてもらう。
「演奏の練習は隣の部屋でするから、楽器と譜面だけ用意して隣に移動してくれ」
矢㮈は言われた通りにバイオリンと譜面を取り出して用意をした。
その傍らで諷杝と高瀬が他愛無い話をしているのを何ともなしに聞く。――とりあえず、今のところはいつも通りに過ごせているようだとほっとする。
ここに来るまでも、矢㮈は余計なことを口走らないようにとできるだけ聞き役に徹していた。恐らくそこまで怪しまれるような態度はなかったと思う――多分。
高瀬の部屋の隣の部屋は、まさに音楽の練習部屋だった。壁際にアップライトピアノ、オーディオ機器、楽譜などが詰め込まれた棚、そして観葉植物が置かれている。
「ピアノだ……!」
思わず声を上げた矢㮈に高瀬が怪訝そうな顔をする。
「ピアノがどうしたんだ」
「これ、高瀬が練習してたピアノ?」
「まあな。姉さんと一緒に使ってた」
「へえ~、そっか」
今はカバーが掛けられたピアノを見て、このピアノを弾く高瀬を見たいなという気持ちが沸く。――今は口に出せないけれど、
(いつか、見たいな)
矢㮈はいつものキーボードを準備する高瀬に目を遣って小さく微笑んだ。
明日演奏する曲は二曲を予定している。
一曲目は矢㮈たちが初めて三人で作って音楽祭で演奏した曲――矢㮈のバイオリンの独奏が入る曲だ。
二曲目はつい先日完成させた諷杝の父親が残した楽譜がベースの曲――矢㮈と高瀬がそれぞれ諷杝に出会うきっかけになった曲だ。
どちらも矢㮈にとっては思い入れがある。だからこそ、明日は絶対良い演奏にしたい。
(それに……諷杝と一緒に演奏できるのだって……)
また思考がそちらに引っ張られそうになって、無理矢理振り切る。
(ダメだ、今は考えるな)
「とりあえず一曲目から通すか」
「オッケー」
「うん」
矢㮈は深呼吸して気持ちを落ち着けると、弓を構えた。
「……どう、だった?」
弾き終わった後に矢㮈は二人に訊ねた。
家でも繰り返し練習していたこともあり引っかかるところはなかったし、自分なりにはまずまずだったと思う。だが、矢㮈はどうしても気になっていたことがあった。
「あの時の音楽祭と比べて、成長したかな……?」
そう、一曲目の曲は初めて弾いたのが一昨年の夏だった。その時はまだバイオリンを再開したばかりで、ただ二人と一緒に演奏をしたいという一心で夢中で弾いていた。
諷杝が音楽祭に一緒に出ようと誘ってくれた。
高瀬が、矢㮈のバイオリンを認めてくれた。
(あの時は、それで満足してたけど。でも、今は違う)
矢㮈の演奏は、あの頃から少しは成長することができただろうか。あの頃より、もっと良い演奏になっていただろうか。二人はどう感じただろうか。
きょとんとした顔で矢㮈を見つめていた諷杝が頬を緩ませた。
「何言ってんの。あの頃よりだいぶパワーアップしてるに決まってるでしょ。一緒に演奏してたら分かるよ」
「諷杝……」
矢㮈の弓を握る手に力が入った。
高瀬は腕組みをして何かを考えるようにキーボードを見ていたが、やがて矢㮈に視線を向けた。
「一つ注文したいんだが」
「! ……な、何」
一体何を言われるんだろうと無意識に身構える。
「お前の独奏部分、少し譜を手直ししても良いか」
「え?」
「今のお前の実力ならもう少し複雑にしても良いような気がするんだ。それでさっき何となく思い浮かんだ譜があって」
「ええ?」
高瀬は言いながらすでに新しい譜面を取り出してさらさらと書き込んでいく。それを諷杝が楽しそうな表情で覗き込んでいた。
「一旦これで弾いてみてくれ」
高瀬が渡して来た譜に目を通す。そこには元あった音の連なりよりも複雑なフレーズが並んでいた。
「……高瀬、これ」
「無理な注文か? まあ本番は明日だしな。難しいなら良い」
淡々と言ってのける彼が恨めしい。矢㮈の心のゴングが鳴った。
そこまで言われて引き下がるのは嫌だと思ってしまった。
「無理かどうかは挑戦してから決めるわ」
「そうか。頼んだ」
高瀬が口の端で笑う。完全に乗せられた感があるのは否めないが、自分の負けず嫌いな性格にも非がある。仕方がない。
諷杝は相変わらず楽しそうに、そんな矢㮈たちをただ見守っていた。
三.
「へえ、急な変更だったにしてはとりあえず合わせてきたな」
「あんたは一々言うことが偉そうなのよ」
「褒めてるんだけどな? よし、じゃあここらで昼休憩にしよう」
矢㮈は大きなため息をついて脱力した。
とにかく新しい譜面に適応すべく必死に取り組んでいたせいか、時間の流れを全く感じなかった。昼休憩と聞いた瞬間に空腹を思い出したくらいだ。
「矢㮈ちゃん、お疲れ様。也梛はあんな言い方してたけど、上手く弾いてたよ。すごい」
「ありがとう、諷杝」
やはりフォローしてくれるのは諷杝だった。今までも彼のフォローがなかったらいい加減高瀬のあれこれに音を上げていたかもしれない。――初めの頃に比べればだいぶ図太くなって耐性がついたと思うが。
「下で也梛のお母さんがお昼ご飯の用意してくれてるんだって。行こう」
「うん」
優しく促してくれる諷杝の笑顔を見て、矢㮈は安心すると同時に急に寂しさを覚えた。
(あと何回……)
何回、この笑顔を見ていられるんだろう? ――そんなことを思って、急いでその考えを打ち消す。
先程は演奏に夢中でその他のことはすっかり頭から追い出していたが、意識が現実に戻って来ると途端にこれだ。それもふとした瞬間に沸いてくるから嫌になる。
「諷杝、あたしちょっと汗拭いてから行くから先行ってて」
「そう? じゃあ先行ってるね」
「うん、すぐ行く」
矢㮈はバイオリンを持ったまま、荷物を置いている高瀬の部屋にそっと戻った。
開け放されたドアから「おじゃまします」と小さく呟いて部屋に入り、鞄の中からタオルを取り出す。バイオリンと弓もサッとケアをして、ほっと一息吐いた。
「……普通に、普通に」
よく考えたら練習をしていない時の方が危険なのである。余計なことを喋らず、挙動不審にならないようにやり過ごさなければならない。
(次は食べることにでも集中しなきゃ。……はあ、何か疲れるなあ)
演技力抜群の友人を見習いたくなる。彼女ならポーカーフェイスで普段通りにやり過ごすのも苦でないに違いない。
「おい」
「ほえ!?」
いきなり後ろから声をかけられて飛び上がりそうになる。
「……何でそんなに驚くんだよ」
部屋の入り口に立った高瀬は珍しく焦ったような顔をしていた。矢㮈の大げさな反応に驚いたのかもしれない。
「た、高瀬……びっくりした……」
「びっくりしたのはこっちだ。――いけそうか?」
急に高瀬が声を落として訊いて来た。
「譜面のこと?」
「ああ」
「……まあ、何とかなるんじゃないかな。てか、何とかするつもりでいるわよ」
矢㮈が答えると、彼は一瞬だけ虚を突かれた顔になり、それから小さく息を吐いた。
「そうか。なら良い。――昼ご飯に行くぞ。母さんが待ちわびてる」
「あ、うん。今行く」
急いで立ち上がって高瀬の後を追う。
――と、高瀬が階段の手前で立ち止まった。
「なあ」
「うん?」
「お前――」
言いかけて、しかしその先は何も続かない。
「高瀬?」
尋ねても、黙ったままだ。矢㮈が隣に並んでその顔を覗き込もうとすると、漸く彼は階段を下り始めた。その瞬間、
「――大丈夫か?」
小さく、そんな問いかけが耳に届いた。
矢㮈の足が止まる。心臓が嫌な音を立てた。
高瀬は足を止めずに下って行く。最後の一段を下り切った所で、矢㮈を振り仰いだ。
ただ真っ直ぐに矢㮈の方を見ていた。
矢㮈はごくりと唾を飲み込んで、震える唇を開いた。
「――大丈夫だよ。大丈夫」
声が震えていたかもしれない。もしかしたら、高瀬はさらに不審に思ったかもしれない。
だが、彼はそれ以上何も訊いてこようとはしなかった。
「――そうか」
ただそれだけ言って、諷杝の待つダイニングルームへと向かう。
矢㮈は胸の前で手を握って、小さく息を吐き出した。
(……あたしは大丈夫だよ。だけど、あのことを知ったらあんたは……あんたはどうするの?)
諷杝の件に関しては、諷杝自身が高瀬に話さなくてはならないことだ。それを聞いて高瀬がどう思うのか、何を考えるのかは彼自身の問題だ。矢㮈が余計なことを言うわけにはいかない。
(それに、あたしもまた諷杝に向き合わないといけない)
矢㮈がこれからの諷杝に何を思い、どう向き合うのかは、矢㮈自身の問題だった。
もやもやと考える矢㮈に構わず、空腹を訴える音が空気を読まずに鳴った。
矢㮈は我に返り、急いで階段を駆け下りてダイニングルームへと向かった。
「これでどうよ!」
日が暮れるまで弾き続けて、矢㮈は何とか自分の中での合格ラインの演奏をものにした。
「ホントすごいよ矢㮈ちゃん」
諷杝が今日何度目だろう感嘆の声を漏らし、高瀬が「お疲れさん」と相変わらず偉そうに言う。――とりあえず、高瀬の合格ラインにも届いたようなので良しとする。
「まあこれで明日は大丈夫だろ」
「大丈夫に決まってるよ。矢㮈ちゃんこんなに頑張ったんだから」
「まあな」
そこでようやく本日の演奏練習は終了を迎えた。
(もう今日はバイオリンはお休みにしよ……)
いつもならまだ家に帰ってから弾くこともあるのだが、さすがに今日は詰め込み過ぎた。明日の演奏会に響いても嫌なので、大人しく休息を取ろうと決める。よくストレッチもしなければ。
高瀬の母親が夕食の準備をしてくれていて、「ぜひ食べて行って」という言葉に甘えて矢㮈も一緒にご馳走になることになった。
その夕食の途中で親戚の挨拶回りに行っていた高瀬の姉の葵が帰宅し、一層夕食が賑やかになった。
しかも帰りは葵が車で送ってくれると言い、至れり尽くせりの待遇だった。
(高瀬の家の女性陣はみんな賑やかなのよね……)
ここにはいないが、彼の妹の若葉も兄に似ず明るくて愛嬌がある。高瀬もこの妹にだけは勝てないところがあるようで、自他ともに甘いと認めている。
食後のデザートまでいただき一息ついた頃、矢㮈はそろそろお暇しようとした。
葵が車を回してくれている間に、高瀬の部屋に置いていたバイオリンと鞄を取りに行く。
「今日はありがとうございました。ご飯もご馳走様です」
見送りに来てくれた高瀬の母親に礼を告げると、彼女は微笑んだ。
「いいえ、こちらこそ楽しい時間をありがとう。また遊びに来てね。明日の演奏も頑張って」
「はい」
矢㮈は続いて諷杝と高瀬を見た。
「二人とも、また明日ね」
「うん、今日はゆっくり休んでね」
「気を付けて帰れ」
家の前に車が止まったのを確認して、矢㮈は外に出た。
が、ふと何を思ったか諷杝を振り返っていた。完全に無意識で、諷杝の目を見たところで矢㮈は自分に驚いた。
「矢㮈ちゃん?」
諷杝もきょとんとした顔でこちらを見ている。
「あ――ううん、何でもない、けど……」
その先に続く言葉を持たず、矢㮈は口ごもった。本当に言葉が見つからなかった。
諷杝がじっと矢㮈を見て、ふわりと笑みを浮かべた。
「大丈夫だよ。――心配してくれてありがとう」
「……」
矢㮈は小さく頷き、今度こそ葵の待つ車へと足を向けた。
心なし、手に持ったバイオリンがずしりと重く感じた。
四.
「諷杝」
矢㮈を見送った後で、也梛は諷杝に声をかけた。
「何?」
諷杝はいつものようにのんびりと答えた。
「あいつ、何かあったのか」
単刀直入に訊ねた也梛に、諷杝は小首を傾げた。
「どうしてそう思うの?」
「どうって……今日は何か変だっただろ。俺が吹っ掛けた無茶振りに意地になるところはいつも通りだったが、時々思い出したようにどこかぼうっとしてた」
そう説明した也梛に、諷杝が目を見開いてまじまじと見つめてきた。
「……何だよ」
「いや、君も案外よく見てるんだなって思って。矢㮈ちゃんのことだからかな?」
「……話を誤魔化すな。あいつがあんなだったのはお前が絡んでるんじゃないのか」
今度は也梛がじとっと諷杝を見つめると、彼は困ったように笑った。
「まあ、そうなんだろうね」
「何だその微妙な答えは」
也梛が眉間に皺を寄せると、諷杝は笑いを引っ込めて也梛を見上げた。
「也梛。君に話さないといけないことがあるんだ」
いつになく真面目な顔に、その内容が本当に大切なことだと分かる。
「明日の演奏会が終わってからでも良いんだけど……」
「いや、今日聞く。俺も、お前に話すことがあるからな」
也梛が言うと、諷杝は少しだけびっくりしたような顔になった。
「……それは良い話?」
「さあな。そういうお前の話は良い話なのか?」
「……さあ? 也梛にとってはどうだろう?」
のらりくらりとはぐらかした諷杝に、也梛は溜め息を吐いた。
久しぶりに、お互い腹を割って話すことになりそうだ。
(明日の演奏に響かない程度にしないとだけど)
タイミングとしては明日の演奏会が終わってからがベストだったに違いない。
だが、明日はもう寮に戻る予定であり、寮に戻ったら学園のペースに巻き込まれてゆっくり話す機会を逸しそうな気がしていた。
也梛は二階へ上がって行く諷杝の背を目で追った。
何となく、彼が話そうとしていることに予感があった。今日の矢㮈の様子から察するに、彼女は何かのきっかけでそれを先に知ってしまったのだろう。
(必死で隠している感じだったがあいつは顔と態度に出る)
同時に、諷杝もまた也梛の話の内容を薄々察しているのかもしれないと感じてもいる。
二階から諷杝がこちらを振り返って呼んだ。
「也梛。部屋の主がいないと始まらないよ」
「……そうだな。今行く」
也梛は階段に足をかけた。
自分の部屋に向かうだけなのに、まるでどこか知らない場所に向かっているような気がした。
ここまで読んでくださってありがとうございます。そして1ヶ月更新がとんでしまってすみませんでした!
(2023.11.04)




