プレゼント
【主な登場人物紹介】
・笠木 矢㮈…彩楸学園高校2年生。バイオリンを弾く。
・高瀬 也梛…同上2年生。キーボードを弾く。
・海中 諷杝…同上3年生。ギターを弾く。
一.
「ああ~今日で今年も終わりかあ~」
台所の壁にかけている日めくりカレンダーが最後の一枚となっているのを見て少し寂しい気持ちになる。
「ああ、新しいの貰って来たから下にセットしといてくれる?」
母親に新しい紙の束を渡されて、笠木矢㮈は言われたままにセットした。また一年分の厚みができた。
「さあて、今日はおせち料理を作らないとね」
すでにダイニングテーブルにはありとあらゆるおせち料理のための食材が並んでいて、エプロンをした母親は腕まくりをしている。もうすぐここに祖母が参戦する予定だ。
矢㮈はちゃっかり渡された自分用のエプロンを見つめながら、
「……弓響は?」
まだ起きてから姿を見ていない弟のことを尋ねた。
「ランニングから帰って来て、なんか友達と会う約束があるからってまた出て行ったわよ」
(……逃げたな)
矢㮈は心の中で大きなため息を吐いた。
実際のところ、台所では矢㮈よりも弓響の方が活躍するのだ。一昨年は昆布巻きを伝授され、昨年は栗きんとんを仕込まれ、今年はついに卵焼きではと矢㮈は予想している。とにかく、祖母からの期待も大きいのだ。
その弟がいないとなると――これは矢㮈がこき使われるに決まっている。
さっそく下準備を始める母親はいつものおっとりさが消えたようにしゃきしゃきとして、目が光っている――ように見える。普段はいかに見ためが良く栄養の行き届いた手抜き料理を作るかに注力しているのだが、おせち料理だけは別なのだ。
矢㮈はそんな母親の横顔を何となくじっと見つめた。
「? どうしたの?」
不思議そうな顔が返ってくる。
十二月上旬に行った『ZIST』のための演奏会のことを思い出していたのだ。
あの後家に帰った母親はすっかり矢㮈のよく知る母親に戻っていた。ただ諷杝から返された茶色の封筒を大事そうに抱えていた。
その封筒の中には、母親にとって大切な楽譜が入っていた。
「――ねえ母さん」
「ん?」
「母さんの中ではもう整理がついた? ――樹さんたちのこと」
食器棚を開けようとしていた母親の手が止まる。
「――そうねえ」
逡巡する横顔は眉が八の字になって、どこか困ったように笑う。
「整理がついたというか……どこか肩の荷が下りたような感じかしら」
肩の荷が下りたというわりに顔に一抹の寂しさが感じられるのは、彼女自身に後悔があるからだろうか。
矢㮈は自分からきいておきながら、どう声をかければ良いかわからなかった。
母親が困っている娘を見透かして、今度は柔らかい微笑みを浮かべた。
「でも、矢㮈たちには感謝してるわ。ありがとう」
「!」
「ふふ。あの替え歌を歌ったのもいつぶりかしら」
くすくすと笑う母親を見て、矢㮈は安堵する。
「母さん、楽しそうに歌ってたよね。あたしも混ざりたかったなあ」
諷杝のギターと高瀬敦葉のキーボード、そして母親の歌。
「楽しかったわよ。……うん、本当に久しぶりだったわ。懐かしかった」
満足そうな表情を浮かべた母親は少し若返ったように見えて矢㮈は目を見張る。
「高瀬のお父さんのキーボードもすごかったよね。高瀬が弾くのとはまた少し違ってて」
「あいつの弾き方も昔と変わってなかったわねえ」
母親は思い出したように苦笑すると、「さて」と改めて食器棚の扉を開いた。
「そろそろおばあちゃんも来るでしょうから準備しましょう。矢㮈もお手伝いお願いね」
「……へーい」
やはり手伝いから逃れることはできないか。
矢㮈は溜め息を吐き、覚悟を決めてエプロンを広げた。
「矢㮈」
まさに今話題にのぼった祖母がやって来て、矢㮈を呼んだ。
「悪いんだけど、今から『音響』におじいちゃんのバイオリンを取って来てくれる?」
「今日『音響』営業してるの?」
「お店はお休みだけど、マスターはいるはずだから」
「分かった」
即答して、かぶろうとしていたエプロンをくるくるとまとめて近くの椅子に置く。
(よし。これでこっちのお手伝いは回避できそう)
祖母に心の中で感謝する。
「ついでにあなたのバイオリンも気になるところがあるなら見てもらって来なさいな」
「うん」
矢㮈は足取り軽く、台所を後にした。
二.
年の瀬のせいか街の雰囲気はどこか浮足立っているような感じがする。クリスマスとは違う、まさに師走の空気。
矢㮈は自分のバイオリンケースを持って、彩楸学園の近くにある音楽喫茶『音響』に向かった。
店の扉には『CLOSED』の札がかかっているが、鍵がかかっていないことは分かっていたので扉をゆっくりと押し開いた。カランとベルが鳴る。
「やあ、矢㮈ちゃん。いらっしゃい」
カウンターの中では、いつものように少しメタボ気味のマスターが珈琲を淹れていた。開店時と変わらない風景に矢㮈は苦笑した。
「マスター、もしかして今日お休みじゃなかった?」
「いやいや、年末のお休みだとも。ただそろそろお客さんが来る頃かなと思ってね」
マスターがにっこり笑って矢㮈を見る。もしかしてその客とは矢㮈のことだろうか。
「おじいさんのバイオリンを取りに来てくれたんだろう?」
「あ、うん。あと、もしマスターさえよければあたしのバイオリンもちょっと見てほしくて」
「了解した。まあとりあえず珈琲でも一杯どうぞ。外は寒かっただろう」
マスターの言葉に甘えて矢㮈はカウンター前のスツールに腰掛けた。すぐに湯気を立てたマグカップが目の前に置かれる。良い香りが鼻を通り抜けていった。矢㮈が唯一ブラックで飲める珈琲である。
「今年も今日で終わりだね。早いもんだ」
「本当そう」
「矢㮈ちゃんはコンクールで立派に成果を残したもんなあ。来年もまた楽しみだ」
来年。矢㮈はぼんやりと考える。
来年はとうとう三年生だ。またコンクールには挑戦するだろうが、進路についても考えて行かなければならない。
バイオリンをするために進学するのか。それともバイオリンはあくまで趣味のように続けていくのか。
「おじいさんの後を継いで世界を回るかい?」
「うーん、それはどうかなあ? 面白そうだとは思うけど」
マスターと他愛無い話をしながら珈琲を味わっていると、カランというベルの音が響いて扉が開いた。
「あれ? 矢㮈ちゃん?」
閉店のはずの店に入って来たのは見知った顔の少年だった。
音楽仲間の海中諷杝だ。
「諷杝こそどうしたの……?」
寮生活の彼も今は実家に帰省していたはずだ。諷杝は背負っていたギター袋を下ろしながら言った。
「ちょっとギターの調子がおかしかったから、マスターに見てもらおうと思って。電話したらオッケーだって言うし、丁度こっちに出て来る用事があったから」
そこで矢㮈ははっとして、手元にある珈琲のことに思い至った。
「もしかして、この珈琲は諷杝のために淹れてたの? マスター」
「いやいや。諷杝君もだけど、君もだよ矢㮈ちゃん。おばあさんから聞いてたからね」
マスターが笑って矢㮈のマグカップに新しい珈琲を追加してくれる。
マスターは弦楽器の調律の仕事もしており、矢㮈は祖父母の代からお世話になっていた。
珈琲が注がれた新しいマグカップが諷杝の前に置かれた。
「諷杝君、用事はこれからかい?」
「まあ、そうですね。帰りにまた取りに寄っても良いですか?」
「分かった。ではそれまでにみておこう」
「ありがとうございます」
諷杝はほっとしたように微笑み、熱い珈琲に慎重に口をつけた。
「矢㮈ちゃんはどうする? おじいさんのバイオリンはすぐに渡せるが……君のは今からさっと見ようか?」
マスターに尋ねられて、矢㮈は逡巡した。別に特に急ぎと言うわけではない。
「えっと……あたしは別に何もないから、マスターの都合で大丈夫。それにすぐに帰っても、お節料理作りの手伝いをさせられるだけだし……あ」
つい余計なことまで口を滑らせた。マスターが吹き出す。
「なるほど。ということはもう少しここで時間を潰したい感じかな?」
「……もう少しゆっくり珈琲を味わいたいなあって」
矢㮈があくまで珈琲を理由にするのを聞いて、マスターがまたふふふと笑う。どうか祖母には黙っていてほしい。
すると、隣でパチンと小気味良い音がした。
「じゃあ矢㮈ちゃん、時間あるならちょっと僕に付き合ってくれる?」
「へ?」
まさかの提案に矢㮈はきょとんとした。何て?
「実はプレゼントを探していて。良かったら一緒に探してくれると嬉しいんだけど」
「プレゼント?」
「そう。とてもお世話になっている人に」
諷杝にそんなことを頼まれるなんて今までになかったし、想像してもいなかった。
「あ、あたしでよければ」
思わず答えると、諷杝は「やった」と無邪気に笑った。
「じゃあ二人が出掛けている間に私は作業をしておこうか」
矢㮈は不思議な気持ちで残りの珈琲を飲みながら、横目でそっと諷杝を窺った。
(大晦日に諷杝と出掛けることになるなんて……)
先日二十七日に忘年会をしたのが今年の見納め、次は年明け三日に会う約束だった。
(ていうか……!)
そもそも、まず彼と二人きりで出掛けることになっている点でちょっと困惑する。
一番新しい記憶は矢㮈がバイオリンの練習に行き詰まっていた時だろうか。彼に誘われて無理矢理外に連れ出されたのだ。
今から思うと、あの時は仕方がないメンタルだったとはいえ、折角彼の方から誘ってくれたのにあまり楽しめるような雰囲気ではなかった。――あれから時々思い返しては後悔している。
(いやいや、これは別にデートとかそんなんではないでしょ。ただの買い物に付き合うだけだし)
自分に謎の言い訳をして、珈琲を飲み干す。
(それにしても……諷杝は誰にプレゼントするんだろう?)
矢㮈はそんなことを考えながら、猫舌の彼が珈琲を飲み終わるのを待った。
三.
マスターに楽器を預けて店を出ると、とりあえず駅の近くの店が集まる辺りに足を向けた。
「大晦日の日にごめんね」
「ううん、大丈夫。それより諷杝がこっちまで出て来るなんて珍しいね」
諷杝の実家がどの辺りか詳しいことは知らないが、この辺りの街と同じくらいの規模ならもっと近くにあるだろうと思えた。
ただでさえ、彼は人混みが苦手で街をぶらぶらするような性格ではない。大晦日など以ての外ではないだろうか。
「ああ、今日は兄と一緒にこっちに出て来たから」
「お兄さんと?」
「そう。向こうは向こうで用事があるから、帰りにまた合流する予定」
「へえ」
それで諷杝は『音響』に来たわけだ。
「それで、諷杝は誰へのプレゼントを探しているの? 差し支えなければ教えてくれる?」
「教えておかないと選びにくいよね。相手はその兄なんだ」
諷杝は少し気恥ずかしそうに話し出した。
「正春さんっていう今大学四年生で、僕は正兄って呼んでるんだけど」
そういえば去年の音楽祭で一度見たような気がする。家族総出で諷杝を見に来ていたのだ。何となく、背の高い人だったという印象があった。
(諷杝は一人っ子って言ってたから……)
諷杝は中学の時に両親を亡くし、現在は養父母の元で暮らしている。正春は義理の兄ということになるのだろう。だが諷杝の話を聞く感じでは、彼を本当の兄のように慕っているのが窺えた。
「正兄の誕生日が年明け五日なんだ。今までは好きなお菓子とかちょっとしたものを贈ってたんだけど、ちょっと今年はちゃんとしたものを贈ろうかなって」
「そうなんだ。お兄さんはどんな人なの?」
「基本無口だけど、優しいよ。周りをすごく見てて、両親の手伝いも進んでやるし、妹や僕が困ってたり悩んでたりするとさりげなく声をかけてくれる」
諷杝の口調は柔らかで、初めて彼からこんなふうに家族の話を聞けたことが矢㮈には嬉しかった。
「良いなあ、お兄さん。ちょっと憧れる」
「矢㮈ちゃんにはしっかりものの弟さんがいるでしょ」
「あはは。確かに弓響は時々お兄ちゃんみたいかも」
弟の弓響は姉よりもだいぶしっかりしていて、いつも矢㮈のことをあれこれ気に掛けてくれる。
「兄と言えば、也梛もそんな感じ……いや、あいつはもうオカンみたいかな」
「分かる! 高瀬は絶対オカンだよ!」
激しく同意した矢㮈に、諷杝はぷっと噴き出した。
「そっかあ。矢㮈ちゃんにとってもオカンかあ」
「将来口うるさい舅になりそう」
「あはは。あの口に勝てるお嫁さんをもらわなきゃだねえ」
本人がいない隙にここぞとばかりに言ってしまったが、今頃高瀬はくしゃみでもしているかもしれない。
「諷杝はどんなものをプレゼントしたいの?」
「うーん。実用性のあるものが良いかなと思ってる。部屋に物を飾ったりする人じゃないし、持ってる物も基本シンプルな感じだし」
「無難なところだと文具とかハンカチとかかな」
「うん。来年から研究生として院に進むらしいから、文具は使ってもらえそう」
顎に手を遣りながら頷く諷杝。
「読書する人ならブックカバーとかもありかも」
「うーん、研究のための読書はするけど、どっちかって言うと黙々と筋トレして体鍛えてる方かなあ」
だから僕と違ってめちゃくちゃ体ががっしりしてるんだよ、と諷杝は笑った。確かに諷杝はひょろりと薄いので、たまに風に飛ばされやしないか心配になることがある。
今もまた吹き抜ける強い冷風に目を眇めて足をふらつかせ、矢㮈は思わず彼の腕を掴んだ。
「……矢㮈ちゃん?」
不思議そうに首を傾ける諷杝に、矢㮈は小さく溜め息を吐く。普段高瀬がオカンになる気持ちが少し分かったような気がした。
「風に吹き飛ばされそうだったから」
「ええ? いや、さすがにそれはない――」
言ったそばからまた強い風が後ろから二人を押し、今度は矢㮈も一緒に数歩ふらついた。
「……矢㮈ちゃんも大丈夫? 今日は風が強いね」
「早くどこか店に入った方が良いかもね」
二人は顔を見合わせるとお互いに頷き、少し先に見えるショッピングセンターの入り口に急いだ。
プレゼントの候補に挙がったものを探しながら、専門店を一通り見て回った。
「やっぱり文具にしようかな」
諷杝は普段自分たちが使っている文具が並ぶコーナーの奥にある、少し高級な文具コーナーに足を向けた。革製品だったり、カスタマイズできる小物だったりが並んでいる。
諷杝はもう買うもの自体は決めたようで、後は色味を真剣な表情で選んでいた。矢㮈は邪魔をしないようにそっと離れ、硝子ケースに入った万年筆とガラスペンを眺めて待つことにした。
矢㮈はあまり手紙を書いたり日記をつけたりしないので文字を書く道具に特にこだわりはない。だが、ケースの中に並ぶ様々なデザインと色合いのペンを見ているとそれだけで心が躍った。しかもまた、インクの種類がとてつもなく多いのに驚いた。
「矢㮈ちゃん、お待たせ」
いつの間にか会計を終えた諷杝が横に立っていた。
「何見てるの? ――わあ、綺麗なペンだね」
「うん。こんなに色んなデザインがあるんだね。万年筆とかカッコいいよね」
「そうだね。万年筆といえば文豪のイメージが強いけど」
「諷杝も万年筆で詩を書いてみたら?」
「うーん、手入れできる自信がないな……。あと、ペンはしょっちゅうどこかに置き忘れるから高級すぎるのは持てない。――前に也梛に、首から下げるようにしとけって言われたくらいだからね」
「ああ……」
肩を竦める諷杝に、矢㮈も苦笑を返すしかなかった。
四.
外は冷たい風が吹く冬の気候だが、ショッピングセンター内は歩いていると暑くなってくるくらいだ。矢㮈も諷杝もコートを脱いで手に掛けていた。
「矢㮈ちゃん、喉乾いてない? 付き合ってくれたお礼をするよ」
二人は近くの和風カフェに入って休憩することにした。
「何にする?」
メニューを広げると、抹茶やほうじ茶を中心にした各種ドリンクと、あんみつや最中などのデザートが載っていた。じいっと食い入るように吟味する矢㮈に、諷杝がふふと笑った。
「矢㮈ちゃんは和菓子が好きなんだったっけ?」
「え? ああ、うん。もちろん洋菓子も好きなんだけど、家が洋菓子店だからか和菓子を見るとそっちが食べたくなるっていうか……」
弟の弓響はそうでもないのだが。
諷杝は矢㮈が選び終わるまでゆっくり待ってくれた。
「ごめんね、優柔不断で……」
オーダーした後に呟くと、諷杝は首を横に振った。
「大丈夫。也梛もいつもそんな感じだし」
「高瀬?」
「そう。デザートを選ぶ時のあいつも、さっきの矢㮈ちゃんみたいに迷うことが多いから」
「……高瀬、本当に甘いもの好きだよね」
将来、糖尿病にならないかちょっと心配だ。まあ、彼の場合はその分頭も使っているからプラマイゼロなのかもしれない。
「結局一つに絞れなくて、確実に二つはオーダーされるんだ。あいつの中では二つまでは許されるらしい。それで、僕たちのテーブルに運ばれてきたそれらを一人で無表情で食べる」
「無表情で」
「そう。ものすごくシュールで、いつも不思議な気分になる」
それはそうだろう。矢㮈はその場面を想像して、やはり不思議な気分になった。
矢㮈が注文した抹茶あん最中と抹茶オレ、諷杝が注文したほうじ茶ラテは案外早くに運ばれてきた。
矢㮈は抹茶ラテで口内を潤した後、早速最中にかぶりついた。パリッとした感触に、さらっとした抹茶風味のあんが美味しい。矢㮈の幸せそうな表情に諷杝がクスリと笑う。
「うん、やっぱりそういう顔で食べないとね」
誰かの無表情と比べられているようだ。
「……それはそうと、プレゼント買えて良かったね」
「ああ、うん。矢㮈ちゃんのおかげだよ。ありがとう」
「いやいや、あたしは一緒に店を回っただけだし」
最終的には諷杝が選んで決めた。矢㮈は少し手伝っただけだ。
「僕だけだったら店を回るのも億劫になってただろうから、助かったよ」
諷杝は溜め息を吐いた。
「お兄さん喜んでくれると良いね」
「うん」
きっと諷杝の兄のことだから、弟が選んでくれたものなら何だって嬉しいと思うだろう。
諷杝はほうじ茶ラテの入ったカップを軽く揺すりながら、ポツリと呟くように口を開いた。
「……正兄には、一緒に暮らす前からよく遊んでもらってたんだ」
「一緒に暮らす前?」
「うん。正兄は幼い時に真生さん――僕の養父の家に引き取られてね。真生さんと僕の父親が大学時代からの友人で、僕が小さい頃から会えば一緒に遊んでた」
それは、まだ諷杝が両親と暮らしていた頃の話だった。
「その頃から僕にとってはもう兄のような存在で、両親が亡くなって色々な事情から僕が真生さんに引き取られた時も、正兄に支えられた部分が大きかった。正兄がいなかったら、僕はあの家に行かなかったかもしれないし」
そんなにも大きな存在だったのか、と矢㮈は少し驚きながらも黙って話を聞いていた。
「真生さんのことも決して嫌いとか苦手とかじゃなかったんだけど、やっぱり一番身近に感じたのは正兄で、僕と今の家族を繋いでくれてたんだ。まあ結局彩楸学園の寮に入ったから、帰省した時くらいしか会わなくなっちゃったけど」
諷杝はふうっと息を吹きかけてから、ラテを一口飲んだ。
「諷杝は卒業したら、実家に帰るの?」
ふと、訊いてみた。実家とはもちろん、正春と養父母のいる家である。
諷杝は目を伏せて茶色い液体を見つめたまま、暫し考え込むように黙った。そして、
「――いや、実家には帰らない」
「……一人暮らし?」
「……うーん、一人暮らしにはならないと思うけど……」
「え?」
それはどういう意味だろう。養父母たち家族以外の人と暮らすということか?
矢㮈の頭の中に、諷杝の隣に寄り添う人影がぼんやりと浮かんだ。
(だ、誰と……? まさか……)
矢㮈の顔の色が変わったのに気付いた諷杝が慌てたように言う。
「矢㮈ちゃん? だ、大丈夫?」
「一人暮らしじゃないって……ふ、諷杝、もしかして恋人とか結婚とか……?」
もしや矢㮈が気付かなかっただけで、彼にはそういう人がいたのだろうか。
「ええ!? 何でそんな話になるの!? ……コホッ」
諷杝が仰天したように言って咳き込んだ。矢㮈はまだ信じられない気持ちで続ける。
「じゃあ高瀬と一緒に暮らすとか……?」
「……いやいやいや。ちょっと待って。也梛がどうするかはあいつの問題だよ。それに一緒に暮らそうなんて話出てないからね?」
彼らなら、ルームメイトの延長で何気に有り得ると思ったのだが。矢㮈は一旦落ち着こうと抹茶ラテをゆっくり喉に通した。
諷杝は大きく息を吐き、腕組みをして唸り、顎に手を遣って小首を傾げつつ唸り、それから何かを決意したように頬杖をついて矢㮈を上目遣いに見た。
微かに眉を寄せて迷うような彼の表情にドキリとする。
矢㮈は思わず手を膝の上に揃えて姿勢を正した。今から、何か重大なことを言われそうな気がした。
「――これは、まだ也梛にも言ってないんだけど」
矢㮈の喉がこくりと上下した。
諷杝が顰めていた眉を開いて、少しだけ微笑んだ。
「僕、アメリカに行こうと思ってるんだ」
「は?」
矢㮈は彼の言ったことが理解できずにただ目を見開いた。
音を聴くことに関して少しは耳に自信がある矢㮈だったが、たった今彼が発した言葉はきっと聞き間違えたのだと思った。
***
年末で忙しいのは主に両親と姉くらいで、也梛と妹の若葉はのんびりと冬休みを過ごしていた。
也梛は相変わらずピアノのある部屋に引きこもってピアノとキーボードを弾き続けていた。暇を持て余した若葉が遊びに付き合えと言って突撃してくる以外は、特に邪魔もされない。たまに姉が覗きに来たり、母親がご飯だと呼びに来たりするくらいだ。
そして、帰省してから初めてその人が部屋を訪ねてきた。
「――也梛。ちょっと良いか」
ノックと同時にドアを開けたのは父親だった。
ピアノに向き合っていた也梛は手を止め、くるりと父親の方に身体を向けた。前までならきっと声をかけてくることすら煩わしく、演奏を中断させられたことにイラっと感じていただろうが――そもそも向こうから声をかけてくることなど滅多になかったが――今は話くらい聞いてやろうと思えるようになった。
それに、父親が自分を訪ねてくることは予想していた。前に、冬休み中に今後の進路について話をすると予告されていたのだ。
「進路の話だろ」
「そうだ。まだ練習中なら後でも構わないが」
「丁度一息入れようと思ってたところだから大丈夫だよ。それよりここで話すのか?」
部屋の中には今也梛が座っているピアノの椅子があるだけで、他に腰掛けるものはない。
「別にどこでも構わん」
言いながら、父親はすでに部屋の中に足を踏み入れ、直接床に胡坐をかいて座った。
「……座布団いる?」
思わず訊くと、「そこまで長話にはならない」と返って来たのでもう放っておくことにした。
也梛の方が高い位置から父親を見下ろすことになるが、也梛は椅子から下りるつもりはなかったのでそのままでいた。
「で、早速本題に入るが。お前は来年どうするつもりなんだ」
余計な話はせずに単当直入で尋ねてくるのが父親らしい。
「お前は諷杝を追って彩楸に入学したが、来年の三月にはもうあいつも卒業するだろう」
「何事もなければ、な」
「……それは成績のことか? まあ……旋の息子だから分からなくもないが……いや、さすがに大丈夫だろう」
「だと良いけどな」
最後まで諷杝の勉強を見るのは也梛なので、必ず卒業させる気ではいるが。
父親は難しい顔をしていたが、咳払いをして話を戻した。
「――今はお前の話だ。来年はお前も自分の進路を決めないといけない。現時点でどう考えているんだ」
也梛はすぐには答えず、なんとなく視線を彷徨わせた。部屋の天井、壁、ピアノ、鍵盤――と目を動かして、父親に戻す。
「――大学に進学するつもりではいる」
「どこの大学かは決まっているのか?」
「まだ」
「じゃあ、分野は?」
父親は淡々と質問して来る。姉と妹はこういう問答が苦手だそうだが、也梛は特に苦には感じなかった。のらりくらりと問答するよりは、端的なやりとりの方が性に合っている。そういう意味では父親に似たのかもしれない。
也梛は暫く黙った。
分野。自分はどの分野で進学するつもりなのか。
何となく也梛の中で、恐らくこっちに進むんだろうなという予感はあった。だが、それを口にするには何かが躊躇わせていた。
(俺は――)
「別に俺は、お前がどんな分野に進もうと何も言うつもりはない。もちろん金を出すからにはそれなりの理由を聞かせてもらう必要はあるが」
「お金出してくれるんだ」
「……お前、高校の費用は自分で払うと言っていたらしいが、どれだけ大変か思い知っただろう。返すのは将来で良いから、とりあえず大学を出るまでは勉学の方に励みなさい」
「……」
也梛は言い返す言葉が見つからず黙った。確かにバイトは頑張って来たが、それでも学校に通いながら稼ぐには限度と言うものがあった。
父親は一つ息を吐くと、ちらと床の上に置かれたキーボードを見遣った。
「――まあ何にしろ、お前は弾き続けるんだろう。キーボードかピアノか、それとも両方か」
「それは……まあ」
キーボードは絶対に手放すつもりはない。諷杝と音楽を続ける限り、絶対だ。
父親の視線がふと也梛の方に向き、その奥のピアノに行く。
「夏からずっとピアノを弾き続けているが――気持ちは変わらないか?」
「!」
也梛の胸の奥で心臓がドクリと跳ねた気がした。
「別にお前がもうそちらに進まないならそれはそれで良い。俺はもう期待もしないし、お前はお前の音楽を突き詰めれば良いと思っている」
「……」
「だが、お前がその音楽を突き詰める中でそちらに進む気があるのなら――俺はもちろん支援する」
父親の表情は全く変わらなかった。優しい表情をするでもなく、心配げな表情を浮かべるでもない。ただ淡々と言う。
だが、分かりにくいが、その言葉が父親なりの激励なのだということは也梛にも分かった。――本当、分かりにくいことこの上ないが。
(この人、本当に何なんだ……)
也梛は大きく息を吐いて、ちらと愛用のキーボードを見た。
ずっと也梛を支えて来てくれた、そしてこれからも也梛を支えてくれるだろうキーボードだ。
(まだ、あのキーボードのように弾ける自信はない)
也梛の頭の中に、一人の少女が現れた。
頭の中に、あのバイオリンの音が響く。なぜか惹き込まれる彼女の音。
(……ああ、何で俺はこっちに戻って来てしまったんだろうな)
也梛はピアノの鍵盤をじっと見つめた。
彼女が彼女の音を持っているように、也梛もまた、也梛の音を見つけたいと思ってしまったのだ。――キーボードと同じように、ピアノでも。
也梛はもう一度息を吐いた。
(まだ、この選択が正しいのかどうか分からない。でも)
父親を真正面から見た。
心の中にまだ閊えている、躊躇いを押し込めて口を開く。
「俺は――」
也梛の言葉を聞いて、父親は「そうか」と頷いた。
相変わらず無表情だったが、その中に少しだけ笑みが含まれていた気がした。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
少し長くなりすみません。何か色々と爆弾を落とされたなあと書き終わってから思いました。
よろしければ引き続きお付き合いいただけますと幸いです。
(2023.09.10)




