僕たちの曲
【主な登場人物紹介】
・笠木 矢㮈…彩楸学園高校2年生。バイオリンを弾く。
・高瀬 也梛…同上2年生。キーボードを弾く。
・海中 諷杝…同上3年生。ギターを弾く。
【その他】
・並早…彩楸学園英語教諭。諷杝のクラスの担任。
・松殿…彩楸学園副理事長。『ZIST』がいた時の軽音部顧問。
・『ZIST』…諷杝の父親が高校生の頃に組んでいたバンドグループ。
***
諷杝が知る父親は、仕事以外はいつもギターを傍らに何やらメモしているような人だった。そこから気まぐれで生まれた曲や歌は数えきれないほどあって、諷杝は父親の音楽で育ったと言っても過言ではない。
幼稚園で習う歌よりも専ら父親の作った歌ばかり歌う諷杝に、母親は呆れていたそうだ。
そんな父親がふとした時に爪弾き、鼻歌を歌っていた曲があった。
あの、例の曲だった。父親が高校生の頃に作ったという曲。歌詞もなければ、途中で曖昧に終わってしまう曲だった。
ただ聴いていると切なくて、優しい音なのに胸がきゅっとする感じがした。
「ねえ、その曲なんなの?」
一度訊いてみたことがあった。
「んー、そうだなあ」
父親はどこか遠くを見るように目を細めていた。
「いつか完成させないといけない曲、かな。父さんの宿題なんだ」
当然、諷杝はその答えを聞いてもさっぱり意味が分からなかった。もう立派に大人になったはずの父親に、そんな宿題があるのかと首を傾げるばかりだった。
「宿題なら早く終わらせなよ。いつも僕に早くやれって言うじゃん」
諷杝が意地悪く返すと、父親は苦笑して諷杝の頭を雑に撫でた。
「本当だな。だけど、こればっかりは父さん一人でできる宿題じゃないんだ。……あの時の音楽仲間たちと一緒でなきゃ」
「仲間? グループワークなの? じゃあ連絡とって手伝ってもらいなよ」
「あはは。それが簡単にできたら苦労しないんだけどな」
父親の手付きがさらに大雑把になり、諷杝は顔を上げられなかったから彼がどんな表情をしていたのか分からない。
だが、その声はどこか寂しそうで、泣きそうな子どもを想像させた。
結局、父親はその宿題を終わらせることなくこの世を去ってしまった。
一.
十二月二週目の日曜日。
学校は休みだったが、娘は朝早くにいつものように制服を着て、愛用のバイオリンを片手に家を出た。
そして彼女は、数時間遅れて娘の通う学校・彩楸学園に向かっていた。かつて彼女も三年間通っていた場所だった。
授業参観でも学園祭の家族ゲストでも部活動の応援でもなくその場所に行くことに少し躊躇する気持ちはあるが、招待されたのだから仕方がない。
校門の前で自転車を降りると、タイミングよく門の向こうから一人の男性がやって来た。彼は門の脇にある守衛室に向かって頭を下げ、続いてこちらにも頭を下げた。
「先輩、こんにちは。今開けますね」
「並早先生。こんにちは」
彩楸学園の英語教諭である彼もこの学園の卒業生で、彼女の後輩にあたる。
「今日はさすがに先生呼びはやめてくださいよ」
複雑そうな表情で苦笑しながら言う並早に、彼女は思わず吹き出した。
「――そうね、今日くらいはやめましょうか。ありがとう、並早君」
彼が開けてくれた門を自転車を押しながら潜り、そのまま案内に従って進んだ。
自転車置き場に自転車を止め、昇降口に向かって足を向ける。グラウンドの方に目を向けると、野球部が試合をしているのが見えた。選手たちの掛け声と、応援に来ている生徒や家族たちの声援が風にのって聞こえて来る。
一方彼女たちが向かう校舎の方はひっそりと静かだ。文化系の部活動は休みなのだろう。
昇降口の前に、二人の人物が立っていた。一人は眼鏡に小太りのスーツ姿の男性で首から教員証を下げている――彩楸学園副理事長の松殿だった。
「松殿先生。今日はお世話になります」
松殿は彼女が高校生だった頃は教壇に立っていた先生だ。
松殿は当時と変わらない朗らかな表情で、
「いえいえ、よく来てくれました。ありがとうございます」
かつての教え子に丁寧に頭を下げた。
そして、
「君たち二人が揃うのも随分と久しぶりでしょう」
もう一人――黒いコートを着た背の高い黒髪の男に目を向けた。
眉間の皺が癖になったような仏頂面のその男は、彼女を一瞥して溜め息を吐いた。
「結局お前も来たのか」
「それはあんたもでしょ。――あんな招待状をもらったら来ないわけにいかないわ」
彼女が肩を竦めると、男はまた溜め息を吐いた。――高校生の頃から不思議な程少しも変わっていない。それに引きずられるように、彼女の口調も昔の感じに戻ってしまっていた。
松殿がパンと手を打って、仕切り直すように言った。
「さあ、では行きましょうか。君たちの後輩たちが君たちのためのステージを用意して待ってくれていますよ」
男は微かに眉間に皺を寄せ、彼女は少し困ったように眉を八の字にする。
どこか緊張した面持ちの並早を先頭に、彼女たちは後輩たちの待つ場所へと向かった。
二.
中庭の奥に、一本の朴の樹がある。すでに実のなる季節も終わり、紅葉した大きな葉も散って、わずかばかりしがみついている葉が残る状態だ。
その樹の下で、三人の生徒がそれぞれに待機していた。
今日は幸いにも小春日和と呼べる気候であったが、時折冷たい風が吹いて来るのは十二月なのだから仕方ない。
「矢㮈ちゃん、手かじかんでない? 大丈夫?」
「大丈夫。カイロ握ってるし!」
海中諷杝の心配げな声に笠木矢㮈は笑顔で返した。
しかし、やはり屋内と屋外では全然違う。あれだけ練習したのに本番でこけては台無しだ。
「也梛は大丈夫?」
諷杝はキーボードをいじる男子にも声をかけた。
「大丈夫。外で弾くのは慣れてる」
高瀬也梛は平然と答えた。全くいつも通りの態度と仏頂面だ。
いよいよ今日、ここであの曲を演奏する。
この朴の樹の下を演奏場所に選んだのは諷杝だった。彼にとっては思い入れのある場所だからだろう。そして、これからここに集うであろう人たちにとっても。
「そういえば諷杝。今日ここに来るのって『ZIST』のメンバーなんだよね?」
「うん、そうだよ」
矢㮈の何気ない問いに諷杝はさらりと答える。
「今更こんなこと聞くのもあれだけど……結局招待したかった人はみんな来るの?」
曲作りと演奏以外は全くと言って良い程ノータッチだったため、その辺りの事情は知らないままだったのだ。
「さあねえ。とりあえずやれることはやったから、後はもう委ねるしかしかないかなあ」
そうのんびりと答えつつも諷杝の顔は全然心配しているようなそれではなかった。
なぜか少し離れた所にいる高瀬が、「来なかったらもう二度と口きかねえ」と呟くのが聞こえた。
「並早先生と松殿先生が迎えに行ってくれてるはずだけど……」
諷杝がふと一方に視線を向けたので、矢㮈もつられてそちらを見た。
「お待たせ、三人とも」
並早に案内されるように、その一団は中庭に到着した。
松殿に、黒いコートの男性、それから――
「母さん?」
よく見知った人物の存在に、矢㮈はきょとんとして目を見張った。母親は苦笑を浮かべて軽く手を振った。
「やっぱり矢㮈は気付いてなかったのね……」
どういう意味か分からず、思わず諷杝の方を見る。彼は微笑んだ。
「矢㮈ちゃんのお母さんも『ZIST』のメンバーだからだよ」
「え?」
彼の答えを聞いても頭は理解が追い付かない。
「母さんが『ZIST』のファンだったってことは聞いたよ? だけどメンバーってウソでしょ?」
「ファンだったのか」
黒いコートの男性が呆れた口調で言った瞬間、あの母親がちらとそちらを睨んだ気がしたのは多分気のせいだろう。
「だって、母さん合唱部だったんでしょ?」
「唱奈さんは、合唱部と兼任でメンバーに入っていたんですよ」
助け舟を出したのは松殿だった。当時の軽音部の顧問だった人だ。
「樹兄さんと旋さんに拝み倒されたんですよね」
並早も懐かしそうに言う。母親――唱奈は小さく溜め息を吐いた。
「一度だけって約束で歌ったのに、あいつらときたら当然のように次も……」
(……母さん?)
矢㮈は少し驚いていた。いつもの母親は性格も口調もどこかおっとりとしたところがあるのだが、今は雰囲気が違うように感じたのだ。
まだ混乱する矢㮈を置いて、諷杝が説明してくれた。
「『ZIST』はメンバーの名前の頭文字を繋げたものなんだよ。海中『旋』、並早『樹』さん、小峰『唱奈』さん、それから高瀬『敦葉』さん」
矢㮈ははっとしたように黒いコートを着た男性に目を向けた。どこか既視感があると思ったらそうか、高瀬に似ている。当の高瀬は黙ったままだった。
(え、ちょっと待って。じゃあ『ZIST』って)
「私たちの親がメンバーのグループだったの……?」
「そういうことになるね。本当、まさかこうなるなんて僕も思わなかったけど」
諷杝がどこか面白そうに笑って肩を竦める。いや確かにこんな漫画みたいな展開笑うしかない。――矢㮈には笑う余裕などなかったが。
「唱奈さん、敦葉さん、今日は来て下さってありがとうございます」
改めて礼を述べた諷杝に、
「こちらこそ招待状をありがとう」
唱奈が笑い、
「……あいつの残した宿題を見届けに来ただけだ」
敦葉が腕を組んで横を向く。諷杝が少し虚を突かれたように目を開いた。
「宿題……そうですね。昔、父さんも同じことを言ってました。しかもこの宿題はグループワークらしくて、音楽仲間たちと一緒じゃなきゃできないって」
「――そうか」
敦葉が地面に目を落とす。
「その宿題は、ある曲を完成させることでした。そしてその曲の楽譜がこの彩楸学園にあると聞いて、僕はここに入学しました」
諷杝が自分のギターに手を伸ばした。それが合図だったかのように、也梛もキーボードの準備をする。矢㮈もバイオリンと弓を手に持った。
「楽譜は『一応』完成しているように見えました。ですが、僕にはとても完成しているように思えませんでした」
諷杝が優しい音を響かせる。一音一音を確かめるように爪弾いている。
その音を聴いているうちに、矢㮈の心も落ち着いていくのを感じた。この数十分で情報過多すぎるが、今はともかく演奏に集中しよう。
「だから、僕は僕の音楽仲間たちに手伝ってもらって、その曲を完成させました。先輩のあなたたちに聴いてほしい」
ギターの音が消える。
矢㮈はバイオリンと弓を構えた。
(――さあ、本番だ)
張り詰めた空気に静かに切り込んだのは、安定したキーボードの音色だった。
諷杝の鼻歌で聴いていた時は、どこか切ない、物悲しいメロディーだった。胸の奥の何かが、儚く消えていきそうな――でも、いつまでもずっと聴いていたいと思えるような、そんな優しいメロディー。
その基本的なところは変わらない。むしろギターとバイオリンの音色によって物悲しさは強調されて聞こえるかもしれない。
だが、支えとなるキーボードの音がそれをまろやかに包み込む。物悲しさを中和するように優しい音が響き合う。
決して激しい音楽ではない。難しい音の連なりも、難易度の高い技術も必要ない。
だが悲しい音楽ではなくて、楽しいばかりの明るい音楽でもない。そのニュアンスを音に乗せて表現するのは難しい。練習の段階でも、三人の音の響き具合を最後まで調整してきた。
結局最後は聴いている人の感じ方次第ではあるが、それでも少しでも伝われと思う。
(だって、どこか懐かしい気持ちになる、この曲は――)
最後のフレーズに入った時だった。矢㮈の目の前に、ひらと何かが舞い落ちた。――白い羽根だ。
(……?)
バイオリンとピアノの音が静かにフェードアウトし、諷杝の最後の一音が余韻を残す。
「!」
頭上から羽ばたきの音が聞こえ、一羽の白い鳩が目の前を横切った。
諷杝がはっとしたように空を仰ぐ。白い鳩は旋回して、諷杝の目の前に降り立った。
「イツキさん……?」
それは数ヵ月ぶりに目にする、諷杝に懐いていた鳩だった。
あの高瀬でさえもキーボードを前に驚いた顔をしていた。
もちろん矢㮈も驚いて言葉が出なかった。
そう、この曲は、『並早樹』に捧げられる鎮魂の曲なのだ。
三.
その場にいる全員が、虚を突かれたように急に現れた一羽の白い鳩を見つめていた。
白い鳩は少しの間諷杝の方をじっと見ていたが、やがてぴょこぴょこと跳ねるように高瀬のキーボードへと向かって鍵盤の上に飛び乗った。反応が遅れてガードできなかった高瀬が舌打ちする。
「お前、マジでイツキだな。こら、乗るんじゃねえ」
その姿に緊張感が溶け、矢㮈は思わず笑ってしまった。
「あはは、ホントにイツキさんだ! キーボード大好きだったもんねえ」
諷杝はまだポカンとしていたが、高瀬と攻防を繰り返す白い鳩を見ているうちにその頬に安堵の笑みが浮かんでいた。少しだけ、泣きそうな表情が混在している。
「イツキ……?」
敦葉が眉間に皺を寄せるのを見て、並早が説明した。
「諷杝君が樹兄さんの名前をつけたんです。ただの鳩なんですけど……ちょっと樹兄さんぽいなって思うところがあったり」
「は? 鳩は鳩だろ?」
「でもじっと見てるとちょっと樹に似てるような気がするのよねえ」
唱奈の言葉に「お前ら頭大丈夫か?」と言わんばかりの敦葉の視線が飛ぶ。松殿は微笑んで見守っていた。
諷杝が大きく息を吐き出して、改めて大人たちの方に向き直った。
「――どうでしたか」
鳩に注目がいっていた大人たちも我に返ったように諷杝を見た。
「……それが、旋の曲なのね」
唱奈が静かに言った。
「僕たちが少しアレンジしてますけど、ベースは変えてません」
「ああ、それは分かる」
頷いたのは敦葉だった。
「あいつの曲はすぐ分かるからな」
彼の言葉に、唱奈が小さく笑ったのが見えた。
「お二人はこの曲を知っていましたか?」
諷杝の問いに二人は首を横に振った。だが、
「心当たりはある」
敦葉が苦い表情と声で漏らした。
「――これは、樹のための曲なんだろう?」
唱奈の表情が固まる。並早も兄の名前に注意を向けた。
「やっぱり敦葉さんはご存じだったんですね」
「知ったのはあいつが死ぬ少し前のことだが。急に電話をかけて来て言ったんだ」
『敦葉、オレの曲を完成させるの手伝ってよ』
『お前の曲ならお前が完成させろ。俺はもう音楽はしない』
『ダメだよ。これは敦葉にも関係大ありなんだから』
『は?』
『形になったら唱奈にも連絡しなきゃ。あっちには歌詞を渡さないとね』
『何を言ってるんだ』
『これはオレたちのけじめだ。いい加減、みんなで樹に挨拶に行こう』
「俺はろくな返事もできないまま、あいつはまた今度って。もしあいつが生きてて楽譜が完成してたら、きっとお前にも連絡が行っただろうな」
敦葉が唱奈に苦笑気味に言うと、彼女はふいと視線を逸らした。横に垂れた髪の間に、噛みしめられた唇が少し震えているのを見た。
「でもこのオリジナルの楽譜は旧校舎から見つかっただろう? 旋さんはすでに高校生の時にはこの曲を作っていたんだよね?」
並早が訊ねると、諷杝は頷いた。
「はい」
「だったら敦葉先輩も唱奈先輩も知ってそうなはずだけど」
「それは――」
諷杝は朴の樹の下に置いていた鞄から、角二サイズの茶色と白の封筒を取り出した。それは旧校舎のロッカーで見つけた楽譜の入った封筒だった。それぞれに同じものが入っていたはずだ。
「これに見覚えがありませんか?」
膨らんだ封筒を二人に見せ、白色の方を敦葉に、茶色の方を唱奈に差し出した。
二人は静かにそれを受け取った。
「お二人はそれぞれ、父さんからこの封筒を渡されていたんじゃないですか?」
「……」
敦葉がちらと封筒の中を覗いた。
唱奈が震える手でその厚みのある封筒を胸に抱きしめた。
「でも、二人とも中身の譜面を見ることはなかった。――ですよね?」
諷杝の確認に、二人は何も答えない。
やがて、唱奈が小さく息を吐き出した。
「――あの頃、私はまだ樹がいなくなったことが受け入れられなかった。同時に受験も控えていて、それを口実に『ZIST』から離れたの。旋はちゃんと向き合おうとしてたのに」
母親のこんな震える声を聞くのは初めてだった。矢㮈は今にも彼女の傍に駆け寄って背をさすってあげたい気持ちに駆られたが、自分が踏み込んではいけないような気もして動けなかった。
ふと足元に気配を感じて視線を落とすと、そこにはイツキがいて矢㮈の足に身を寄せていた。わずかに温かさを感じてほっとした。
「でもこの楽譜を持ってることも返すことも捨てることも出来なくて……」
「それで、ロッカーに入れたんですね」
諷杝の言葉に唱奈は頷く。
「『268』の鍵がかかった敦葉さんのロッカーに」
「!」
敦葉が眉間に皺を寄せて怪訝そうな表情になる。
「ええ。旋はロッカーを倉庫代わりにしか使わなかったから気付かないと思って。でも、敦葉なら絶対に旋の楽譜を確認すると思っていたから」
つまり唱奈は敦葉に託したわけだ。
「でも、敦葉さんも同じだったんです」
「え?」
「敦葉さんもまた譜面を確認できなくて、『407』の鍵がかかった唱奈さんのロッカーに封筒を入れたんですよね」
「……そうなの?」
唱奈が唖然とした表情で眉間の皺を深くした敦葉を見遣る。
「結局、お互いにロッカーを確認することなく卒業してしまったんです。だからそれぞれのロッカーから中身が同じ封筒が出て来たんです」
「なるほど、そうだったのか」
松殿が何か納得するように声を漏らした。
「多分ですけど、父さんもそれに気づいていたんじゃないかと思います」
考える素振りを見せながら諷杝が言う。
「二人のロッカーの鍵をそのままにしていたのは、万が一にも取りに来るかもしれないと思っていたのかもしれないし、どっちにしても将来自分が取りに来るつもりだったんです」
諷杝が鞄から今度は四角い缶を取り出した。錆びて所々変色している蓋を開け、中に入っている三枚の紙を順に説明した。
「この朴の樹の下に、この缶が埋められていました。中には三枚の紙が入っていて、二枚には二人のロッカーの開錠ナンバーが、そして三枚目には父さんのメッセージが書かれていました」
メッセージの書かれた紙を読み上げる。
『僕だけでは完成させられない。でもきっと、いつか絶対完成させて届けるから。
それまであの楽譜はあのままあそこに置いておく。未来の僕が迎えにいくまで待っていて』
先程の敦葉の話を聞くに、旋はそのメッセージの通り楽譜を迎えに行って、元音楽仲間たちと共に曲を完成させようとしていたのだろう。その矢先に無念にも事故に遭ってしまった。
結果、二十年以上経って矢㮈たちがロッカーの中から発見することになってしまったわけだ。――諷杝の『楽譜探し』によって。
暫く沈黙が下りた後、唱奈が戸惑いを隠せない表情で敦葉を窺った。
「……あんたが旋の楽譜を見てなかったなんて……本当なの?」
敦葉は眉間に寄った皺を解すように手で揉む素振りをした。何を言おうか考えている風にも見える。
「――俺もその理由が聞きたいな」
ずっと黙っていた高瀬だった。敦葉の視線がつと息子を捉える。
矢㮈は二人を見比べて、なるほど似ているなと思った。きっと敦葉が高校生の頃は今の高瀬で、高瀬の数十年後は今の敦葉なのだろうと思わせる。
(そういえば母さんが諷杝も諷杝のお父さんに似てるって言ってたっけ。私も母さんと似てるのかな……?)
いやでも性格は全然違うけどな、と思い直す。
高瀬がいつもの無表情で――だが真剣な声で言葉を紡ぐ。
「もう一度同じ質問をするよ。何で弾くことを諦めた? 何で、仲間への最後の曲を諦めた?」
高瀬の声には絶対に逃がさないとでもいうような強さがあった。他でもない、彼自身が一番答えを知りたいのだと感じられた。
「――諦めたなら、何でこのキーボードが今ここにあるんだよ。俺と姉さんに音楽を教えたのは、父さんのキーボードだろ」
高瀬の手元にあるキーボードの由来を知って矢㮈は純粋に驚いた。何度も修理をしつつ使用しているというあのキーボードは、あれだけ高瀬が苦手としていた父親が使っていたものだったのか。
敦葉が苦々しい顔で大きく息を吐き出した。
「父さん」
「――俺にとっても受け入れがたい現実だったからだ」
吐き出された硬い声に、高瀬が口を閉じる。
敦葉は息子の視線を受け止めたまま、淡々と続けた。
「俺は旋ほど強くはなく、切り替えることはできなかった。本当は樹を弔ってやるべきだったんだろうが、とてもそんな気にはなれなかった。今まで寝ても覚めても音楽がそばにあったのに、ずっと一人でも弾いていく自信があったのに、もうとても手を伸ばそうと思えなかった」
「敦葉……」
唱奈が初めて聞いたように目を見開いていた。
「也梛、お前には理解できないかもしれない。だが、俺も大人になって整理ができるまで理解できなかった。それだけあの時のあいつらとの音楽は大きなものだったんだ」
恐らく、彼の中で整理ができた頃というのが、高瀬たち姉弟がキーボードに触れた時期なのだろう。
「だからお前にピアノの才能があることが分かった時、俺と同じ道は歩ませたくなかった。ピアノをやるならそれに専念してほしかったし、やめるなら学業に専念してほしかった」
「……極端すぎるだろ」
高瀬がボソリと呟いたのに、敦葉が小さく苦笑を漏らした。少しだけ和らいだその表情が意外だったのか、高瀬が唖然とする。
「そうだな。今となっては浅はかな考えだったと思わなくもない。お前と来たらピアノをやめたくせに進学校に進んでもキーボードにのめり込んで、挙げ句旋の息子がきっかけで高校を退学して彩楸学園に再入学。――全くこちらの気も知らないで」
「――俺のせいばっかにしてんじゃねえよ。だいたい諷杝と出逢ったのだってただの偶然だ。出逢いはどうこうできるもんじゃないだろ」
そう言い返す高瀬の口調は、今までの父親に対する攻撃的なものとは違っていた。やっと彼の中で何かが腑に落ちたような、そんな感じがした。
「確かに、出逢いはどこでどう繋がるか分からないものだ。敦葉君が旋君や樹君たちに会ったのもまたそうでしょう?――それが結果的に良かったと感じるかどうかは本人次第ですが」
相槌を打つような松殿の穏やかな声に、敦葉が微かに頷いた。
「はい。……少なくとも俺の中に後悔はないです」
「……それなら良かった」
松殿の顔に浮かんだ安堵は、きっと彼もずっと教え子のことを気にしていたからだろう。
敦葉は「それに」と小さく続けた。ちらと諷杝と矢㮈に視線を向けて、息子に言う。
「お前のあんなに生き生きした音を聴いたのは久しぶりだった。またピアノを弾き始めたのもお前の音楽仲間から刺激を受けたせいなんだろう?」
「!」
完全に虚を突かれた表情の高瀬を置いて、彼の父親はふっと笑った。
「お前にとってプラスの出逢いだったなら良かったな」
高瀬が珍しく頬を赤くして隠すように下を向いた。何も言い返さないところがまた珍しい。諷杝も興味深そうに高瀬を窺っていた。
矢㮈もまた彼のレアな反応が気になりつつも、敦葉が言った言葉を頭の中で反芻していた。
(さっき、またピアノを弾き始めたって言ってたよね?)
あの高瀬が。あれだけピアノを弾くことを躊躇っていた高瀬が。
(もしかして、いつかステージでピアノを弾く高瀬が見られるのでは)
どんな心境の変化かは分からない。だが、そんな未来の可能性を考えるとドキドキする。もちろん彼のキーボードも好きだが、ピアノを弾く姿も見てみたいと思う。
まだ足元にいたイツキがポッポーと鳩らしく鳴いた。
四.
「――なるほどね。つまりあの曲はこの封筒の中に入っていた楽譜の曲だったの」
唱奈が愛おしそうに封筒の中を覗き込みながら呟く。
「はい。父さんがお二人と一緒に作ろうとしていた、樹さんのための曲でした」
唱奈は何かを言いかけたが結局言葉は漏れず、また唇を噛みしめた。ぎゅっと瞑った目尻に水滴が浮かんで流れた。
「母さん」
今度は矢㮈も彼女の傍に駆け寄った。ハンカチを差し出すと、母親は「ごめんね」と言って受け取り、目に押し当てた。その謝罪が矢㮈に対してだったのか、はたまた彼女の音楽仲間に対してだったのかは分からない。
「その楽譜は本来あなた方へ渡るものだったので、封筒ごとそのままお返しします。――僕にはもう新しい楽譜があるので」
諷杝はそう言って、頭上に広がる朴の樹を仰いだ。微かな日差しがキラキラと樹に降り注いでいるように見えた。
彼の焦げ茶の髪も光を受けて煌めく。――いつかの日のように、彼の姿がふと消えてしまいそうに儚く見えて瞬きをした。
「――さて、もう一度お聞きしますが」
諷杝が振り返ってにっこり笑う。
その顔には珍しく自信満々の表情が浮かんでいた。
「僕たちの音楽はいかがでしたか? 先輩方」
ハンカチで涙を拭った唱奈が顔を上げて笑う。
「……ええ、何も言うことはないわ。完成させてくれてありがとう」
言って、またその目尻に涙が溢れていた。
諷杝が今度は期待する目で敦葉に視線を向ける。敦葉は苦い顔でため息を吐いた。
「やっぱりお前はあいつの息子だな」
「それは褒め言葉として受け取っておきます」
「……」
再度ため息を漏らし、敦葉が真面目な顔になった。
「――諷杝」
「?」
黒いコートが翻って、諷杝の目の前に移動する。
焦げ茶の頭の上に大きな手が載って、その髪をぐしゃりと撫でた。
「――あいつの……旋の想いを汲んでくれて感謝する。お前のギターはあいつの音を思い出さずにはいられない、懐かしい音だった」
「敦葉さん」
「でも旋の音そのままというわけではなくて、ちゃんとお前たち三人の音楽だった」
「!」
羽ばたきの後、諷杝の頭の上にイツキが止まった。そして敦葉をじっと凝視した。敦葉も暫くイツキを凝視していたが、「なるほど」と小さく呟いた。
「――確かに樹にどこかしら似ていなくもないような気がする」
白い鳩は満足したのか飽きたのか、羽根を広げて諷杝の頭を飛び立ち、高瀬のキーボードの方へと舞い戻った。
諷杝は今度は、成り行きを見守っていた松殿の方をひょいと窺った。
「松殿先生はいかがでしたか」
松殿は何かを噛みしめるようにゆっくりと首を横に振った。
「私からは何も言うことがないよ。ただ胸が一杯だ」
その答えに、諷杝は少しだけ困ったような顔で頷き返した。
そして最後に、並早の方を振り返る。
「――並早先生。僕たちの音楽は樹さんへの鎮魂曲になりましたか?」
並早は泣くのを堪えるように眉を下げて唇を引き結び、無理に笑みを浮かべた。
震える声で、言う。
「――十分だよ、きっと。ありがとう」
諷杝はただ穏やかな顔で頷き、「こちらこそ」と呟いた。
自然としんみりした空気になり、大人たちは感傷に浸っている。
矢㮈も色々と思うことはあれ、しかし当事者たちほど深刻ではない。
(これどうやって収拾つける気なんだろう)
ちらと諷杝を見ると、彼は数ヵ月ぶりの友鳩とにこやかに交流していた。――ダメだこれは。
では高瀬はどうかというと、彼は彼でキーボードを弄っている。――いつも通りだが期待できない。
矢㮈は溜め息を吐いて、諷杝にそっと近付いて制服の袖を引っ張った。
「諷杝。これからどうするの?」
「ん?」
諷杝はきょとんとした顔で小首を傾げる。
「いや、この状況……まさか自然回復するまで待ってるの?」
矢㮈が信じられない気持ちで言うと、諷杝は大人たちを見回してから「ああ、そろそろいいかな」と呟いた。
「そろそろ?」
今度は矢㮈が首を傾げる番だった。諷杝がニヤリと笑うのを見て少しだけ嫌な予感が過ぎる。
「このまま湿っぽく終わるのはやっぱり僕たちとしても後味悪いよね。だから、昨日少し考えたんだ」
「一体何……ちょっと高瀬、あんた知ってる?」
一人で聞くには怖すぎて、思わず高瀬を引っ張り込んだ。だが高瀬はすでに諦めたような顔をしていた。
「今更諷杝が何を言い出そうが、俺たちにはどうにもできないだろうな」
「ねえ、諦めるの早すぎない?」
「俺がこいつと会ってから今までで学んだ結果だ」
高瀬が言うと説得力がある――全く以て嫌な説得力だ。
そわそわする矢㮈を置いて、諷杝がにこやかな笑顔で大人たちのしんみりムードをぶち壊しに行く。
「先輩方、後輩から提案があるのですが」
その後輩には矢㮈も含まれてしまっているのだろうか? だとしたら勘弁してほしい。
果たして、諷杝は先輩たちにこんなお願いをしたのだった。
「やっぱり樹さんへ贈る曲は、先輩方も参加してこそだと思うんですよね! というわけで、先輩たちもすぐ参加できる曲を用意しました! はい、これ楽譜です! 先輩たち自身で、ちゃんと樹さんにさよならしてください!」
「……」
呆然とする矢㮈の隣で、高瀬が溜め息を吐いた。
「つまり、自分たちのケツは自分たちで拭けってことだな。――まあ、今回ばかりは俺も同感だ」
呆然としたまま楽譜を受け取った先輩たちは、その譜面を見てさらに口を開けて愕然とした。
その楽譜は、いつか矢㮈たちが文化祭ステージで披露した、『ZIST』が作った彩楸学園校歌の替え歌だった。
大変お待たせしました。長いですね…。ここまで読んでくださってありがとうございます。
山場は越えましたが、まだ少し続きます。もしよろしければお付き合いくださいませ。
(2023.07.02)




