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  作者: 葵月詞菜


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87/98

完成した曲と招待状

【主な登場人物紹介】

・笠木 矢㮈(かさぎ やな)…彩楸学園高校2年生。バイオリンを弾く。

高瀬たかせ 也梛やなぎ…同上2年生。キーボードを弾く。

海中わたなか 諷杝ふうり…同上3年生。ギターを弾く。

一.

 気付いたらあと一月で今年も終わろうとしていた。

 早い。先週末で二学期の期末テストも終わり、その結果が返って来たら本格的に冬休みが待っている。

(何か……先週の記憶があんまりない……)

 笠木矢㮈(かさぎ やな)は窓の外をぼんやり眺めて溜め息を吐いた。

 先週は個人的に盛り沢山の一週間だった。


 月曜にバイオリンコンクールの全国大会、その翌日からは期末テスト――しかも休んだ月曜日の分の予備テストもあった。

 コンクールの方は祖母が同伴してくれた。結果は三位までに入ることは出来なかったものの、市民審査員の特別賞をもらうことができた。

 あの舞台で演奏できたこと自体が矢㮈にとっては信じられなくて、今でもまだ半分夢みたいな心地でいる。

 姉の健闘の結果に、弟の弓響が珍しくずっと興奮していたのだけははっきりと覚えていた。

(自分が野球で表彰された時でさえクールだったのに……)

 両親はというと、驚きながらもいつものように穏やかに笑って褒めてくれた。少しだけ、昔もこうやって褒めてもらったなあと思い出して、その頃のようにバイオリンを弾けるようになったことに嬉しくなった。

 あれやこれやとバタバタとしていたせいで、携帯に入っていた連絡にきちんと目を通したのは夜だった。学校の友人たちにはどうせ明日会うのだから直接伝えようと思い携帯を閉じようとした時、一通のショートメールを受信した。

「……んん?」

 珍しい送信者からのメッセージを開くと、


『特別賞おめでとう。お疲れ。諷杝も隣でおめでとうって言ってる』



「っ――」

 矢㮈は暫くその文面から目が離せなかった。

 ネットの情報を見たのか、それとも弓響から速報が入ったのかどうかは知らない。だが、その短いメッセージで十分だった。


『ありがと。明日のテスト頑張ります』


 矢㮈はそれだけを返信し、携帯を閉じた。

(あとは直接二人に話そう)

 どんな舞台だったか。どんな気持ちだったか。

 どんな演奏者がいて、どんな演奏だったのか。

 その夜は、すぐに深い眠りへと誘われていった。


「笠木、テストどうだった?」

 その声にぼんやりしていた意識が引き戻される。

 見ると、友人の臣原千佳(おみはら ちか)がそばに立っていた。

「お、ちゃんと点数取れてるじゃん」

 返却されたテスト用紙を見せると、彼女が嬉しそうに言った。

「バイオリンの方と両立してよく頑張ったね」

 ぐりぐりと頭を撫でられて少し恥ずかしいやら嬉しいやら。

「千佳ちゃんに教えてもらったからだよ」

「それを言うならあの朝勉のおかげでしょ。あたしも高瀬君に教えてもらえてラッキーだったし」

 二学期から、矢㮈はバイオリンの朝練の都合で登校時間も早くなっていた。

 同じくなぜか早くに登校していた隣のクラスの高瀬也梛(たかせ やなぎ)と、とある楽譜作りに時間を使っていたのだが、テスト週間に入るとその時間はテスト勉強をする時間になった。

 部活停止期間になると千佳もその朝勉強に加わり、高瀬がいるならと松浦大河(まつら たいが)衣川瑞流(ころもがわ みずはる)も参加するようになった。

「朝だったら笠木さんもいるしね」

「そうそう。前回もそうだったけど、しごかれ仲間が減って寂しかったんだ」

 松浦と衣川の言葉に思わず苦笑してしまった。矢㮈たち三人は高瀬にとって一番困った生徒たちなのだ。千佳は一人でも問題ないのだが、高瀬と一緒に勉強したいという理由で参加していた。

 そんな朝勉が功を奏したらしい。見事に全教科、前回よりも点数が取れていた。

「もう今年はやり切った感満載だよ……」

 矢㮈はしみじみと呟いた。

「何言ってんの。これから冬休みが待ってるってのに。クリスマスに年末行事もあるでしょ」

 千佳が呆れたように言う。

「それに、あんたはまだ大事なことが残ってるって言ってなかった?」

 その言葉に、矢㮈ははっとした。そうだ。まだ大本番が一つ残っているではないか。

 今週末に。

 テスト用紙を折り畳んでファイルにしまい、ふうと息を吐く。

 ある意味、今週末のそれはコンクールよりもテストよりもドキドキと緊張しているかもしれない。

(全く、どうなるのか想像がつかない)

 そう、一体どのようなものになるのか想像がつかない。そこに誰が集い、何が明らかになるのかが全く分からなかった。

 たった一つ分かっているのは、矢㮈がその場で彼らと音楽を奏でるということ。

(きっと、大丈夫)

 矢㮈が動けない間も、他の二人は動いてくれていた。矢㮈も楽譜作りには真摯に向き合ったつもりだ。

「それから、冬休みに入ったらあたしとも遊んでくれるんでしょ?」

 千佳が少し悪戯っぽい表情で言うので、

「当たり前だよ! てか千佳ちゃんこそまた部活で忙しそうだから、ちゃんと予定空けといてね!」

 矢㮈は自分よりもずっと部活で忙しいだろう千佳に言い返した。



二.

 店内にはいつものように珈琲の良い香りが漂っている。その中に時々ふんわりと甘い香りが混じり、矢㮈(やな)たちの鼻先を掠めて行った。

 しっとりとしたバックミュージックを背に、少しメタボ気味のマスターがカウンターの中で作業していた。

「いやあ、それにしても驚いた。矢㮈ちゃん、おめでとう」

「ありがとう、マスター」

 マスターが本当に嬉しそうに破顔したのを見て、矢㮈も嬉しくなってしまった。

 彼は矢㮈の祖父の旧友で、矢㮈のことも幼い頃から知っている。さらに弦楽器の調律師であることから、バイオリンの手入れでお世話になっていた。矢㮈が一時期バイオリンを弾かなくなったことも知っているので、家族と同じ様に心配してくれていたのだ。

「はい、これはお祝いのケーキ。リクエストのガトーショコラだ」

「わあ!」

 マスターが出してくれたプレートには粉砂糖がまぶされ、断面がしっとりと光るチョコレートケーキが載っていた。しかもケーキの上には、バイオリンと音符の形のホワイトチョコレートがちょこんと飾り付けられている。

(マスターのケーキ、父さんが作ったのとはまた違った手作り感があって好きなんだよなあ)

 思わず携帯を取り出して写真を撮る矢㮈に構わず、マスターは他の二人の前にも同様にプレートを出して行った。

「はい、也梛(やなぎ)君はクリーム増しのやつね。諷杝(ふうり)君のは少し小さめにしておいたよ」

「ありがとうございます」

 高瀬の心なし弾んだ声と、諷杝の落ち着いた声が重なる。

「きっと君のおじいさんも喜んでいるだろうね。ひょっとすると演奏を聴きに行っていたかもしれないが」

 マスターが微笑みながら、追加の珈琲を注いでくれる。

「おばあちゃんはおじいちゃんの写真も持って行ってたらしいです。今度は弦が切れないようにってめっちゃ心配してました」

「矢㮈ちゃんは心配じゃなかったかい?」

「……心配がなかったと言えば嘘になりますけど、でも直前にマスターにしっかり見てもらってましたから」

「嬉しいことを言ってくれるなあ」

 照れた様に顎を撫でるマスター。矢㮈はふふと笑った。

「それに、ただ弦が切れるだけならまだ良くて……あたしが本当に怖いのは、それが誰かの不幸や危機に繋がらないかっていう……」

 中学生の時、演奏の最後に弦が切れ、そのすぐ後に祖父の危篤を知った。もう一度バイオリンが弾けるようになってからはその記憶に対する恐怖も次第に薄まっていったが、まだ完全に吹っ切れたといえば嘘になる。

「別にお前の演奏やバイオリンが、家族や他人の危機に関係してるわけないけどな」

 冷静な声が口を挟む。ガトーショコラを味わっていた高瀬が小休憩とばかりに珈琲に手を伸ばした。

「それは分かってる」

 矢㮈は苦笑しながら頷いた。そう、それは分かっている。自分の相棒であるバイオリンにも失礼な考えだと。

「大丈夫だよ。今回の特別賞は、矢㮈ちゃんの演奏を聴いて感銘を受けた人たちがいたってことでしょ? そんな演奏ができる矢㮈ちゃんも、バイオリンも、誰かの不幸に繋がるなんてないよ」

 諷杝が珍しくはっきりとした口調で言った。矢㮈は不覚にも胸が詰まって、頷くことしかできなかった。

「今後がさらに楽しみになったなあ」

 マスターがまた笑って、自分用に淹れた珈琲を啜った。


「そういえばあの子も出てたんでしょ。えーと……」

 ガトーショコラをつつきながら諷杝が思い出したように言う。

「ほら、也梛と昔音楽教室が同じだった……」

「ああ、村住(むらずみ)か。あいつは三位入賞だ」

 諷杝の言わんとする者が誰かを察した高瀬があっさり答えを言う。

「そう! 村住さんの演奏はあたしも聴けたんだけど、すごく良かったの!」

 矢㮈が間髪入れずに声を上げると、諷杝が「へえ」と目を見開き、高瀬は無表情で「だろうな」と頷いた。

「ついにスランプから抜け出して本領を発揮したんだろう。俺の携帯に、渥美(あつみ)先生経由でドヤ顔の写真が送られて来た」

「村住さんのドヤ顔、ちょっと見たい」

 あのクールな彼女のドヤ顔とはどんなものなのか。少し興味惹かれる。

「見ていてムカついたから、すでに削除済みだ」

「ええ?」

 高瀬のにべもない返答に矢㮈は不満気な声を出してしまった。諷杝がクスクスと笑った。

「どうせ何か発破をかけられたんでしょ、也梛」

「……知らない」

 ふいとそっぽを向く高瀬を見て、それが図星なのだと悟る。

 かつて同じ音楽教室にいて、今も共に渥美の生徒同士、案外刺激を受け合っているのかもしれない。――楽器は違えど、彼らはそうなれるくらいの同じレベルにいるのだ。

(あたしはまだそこに届かない)

 矢㮈が高瀬のピアノから何かしら刺激を受けることはあれ、その反対、彼が矢㮈から刺激を受けるなど想像できなかった。

(いつかあたしもそれくらいになれるだろうか)

 高瀬にまたピアノの演奏をしたいと思わせるくらいの、彼を動かせる存在に。

「何だ、笠木」

「え」

 気付くと高瀬が不審げな目で矢㮈を見ていた。

「クリームが欲しいならマスターにリクエストしろ」

「別にそんなんじゃないですー!」

 先程まで考えていたことが馬鹿らしくなり、矢㮈は自分のプレートに向き直った。バイオリンの形をしたチョコを手でつまみ、そっと口の中に放り込んだ。

(ああ、おいしい)

 甘さと共に、ゆっくりとチョコが溶けていくのを味わった。



三.

 最後の一音の余韻が消える。

 それぞれが楽器から手を離した。

「――よし、形にはなった気がする」

 諷杝(ふうり)が頷いて、「だな」と高瀬が珍しくほっとしたように息を吐いた。

 矢㮈(やな)はまだぼんやりと空を見つめていた。曲は終わったはずなのに、頭の中で先程の演奏がぐるぐると回っている。心臓がドキドキしたまま静まらない。

 弦を持った手が微かに震えていた。

(何だこれ……コンクールの時もこんなことなかったのに)

「矢㮈ちゃん……大丈夫?」

 諷杝に心配そうに声をかけられてはっと我に返った。

「どこかまずいところがあったか?」

 続いて高瀬が訊いて来るのに、ふるふると首を横に振った。

 そうではない。

「っ、すごかった! 今までの演奏の中で、何か、一番……」

 どう伝えたら良いのか分からない。

 矢㮈は震える手を抑え込むようにバイオリンと弦を持った手を重ねた。

「……矢㮈ちゃん?」

 諷杝がその震えに気付いたのか、矢㮈の手に自分の手を重ねた。

 目の前で、焦げ茶の髪の少年がふんわりと微笑んでいた。

(――そっか、やっとあの曲を奏でられたんだ)

 脳裏に過ぎったのは、二年前の春のことだった。

 初めて屋上で諷杝に出会って、彼の鼻歌を聴いた。

 あの鼻歌が、今、矢㮈たちの演奏で一つの曲として完成していた。

「――ごめん、何か今やっと実感したっていうか……。あの諷杝の鼻歌が、ちゃんと曲として完成したんだって……」

 あの鼻歌が矢㮈にとっても特別なものだったのだと、改めて感じたのだ。

 諷杝が頷いた。

「――うん、ありがとう。僕もまさかこんな曲になるだなんて思わなかった」

 彼の指が矢㮈の頬に触れて雫を払う。その時に自分が泣いていたのだと気付いた。

「君たちが僕の鼻歌を好きだと言ってくれて嬉しかった。一緒に楽譜を探してくれて本当に嬉しかった。見つかったら君たちと一緒に演奏するんだって決めてたけど」

 諷杝は高瀬を振り返って、それからまた矢㮈の方を見た。

「想像以上の曲が完成して僕もびびってる。父さんも絶対羨ましがるよ」

 にっかりと笑う様は何かを成し遂げた子どものそれで、矢㮈もつられて笑ってしまった。

「――感動してるとこ悪いけど、まだこれ本番じゃねえぞ?」

 高瀬が冷静にツッコむのを矢㮈たちはスルーした。折角の感動に水を差さないでほしい。

「――って、マスターも大丈夫ですか?」

 ぎょっとしたような高瀬の声に顔を上げると、カウンターの中のマスターが顔面をハンカチで覆っていた。

 ――そう、矢㮈たちは『音響』の小ステージを借りて演奏をしていたのである。当然店主であるマスターはカウンターの中から聴いていて、いつの間にか先述の通りになっていた。

「何だか懐かしくて、切なくなるような曲だね……」

「泣くほどですか?」

「こう、胸に迫るものがあったというか……。それに君たちがずっと探していて、試行錯誤しながら完成させた曲だろう。それも考えるともうおじさんの涙腺は決壊必死だよ……」

 そう言うそばからまたくぐもってしまった声に、矢㮈たちは思わず顔を見合わせて苦笑を漏らした。

(マスターの胸に迫ったような演奏が当日もできたら良いな)

 諷杝が本当に聴いてほしいと願った人たちへ。

 高瀬のキーボードが軽快なメロディを奏でた。思わずそちらを見ると、彼は珍しくニヤリと笑った。

「どうせだから、今までの曲も演奏するか――ずいぶん久しぶりだろ」

 そういえばここ最近はずっと例の楽譜の曲ばかりだった。

「する!」

 矢㮈と諷杝の声が重なる。

「譜面忘れてても止めないからな。置いてきぼりになるなよ」

「まあ也梛のキーボードは最後まで止まらないだろうから大丈夫だよ。ね、矢㮈ちゃん」

「諷杝、最初から諦めないで!」

 諷杝を励ます矢㮈に、さらに高瀬が追い打ちの爆弾を落とす。

「笠木こそ音楽祭の曲、バイオリンの難関ポイントクリアできるんだろうな?」

「それはっ、今日の調子次第ですう!」

 ムキになって答えた矢㮈に、愉快そうな笑い声が返ってくる。

(珍しいな。高瀬がこんなに楽しそうなの)

 少し不思議な感じがした。

(ひとまず楽譜と演奏がどうにかなって安心したのかな)

 本当は、楽譜作りに一番苦心していた高瀬こそが、今日一番安堵したんじゃないだろうか。

 いつも何ともない顔でひょいひょいとこなしてしまうから、彼がどれだけのプレッシャーと闘っていたのか、矢㮈には想像がつかない。

(高瀬が楽しいなら、いくらでも演奏に付き合ってあげるわよ)

 矢㮈にはそれくらいしか返せるものがない。

 そして同時に、矢㮈にとっても彼らと奏でることは楽しい。

 もう手の震えは止まっている。

 矢㮈は改めてバイオリンを構えた。さあ、次の曲を奏でよう。



四.

 とある日の夕方のことだった。

 後一時間ほどで店も閉まるという頃に、その少年はやって来た。

 あちこちに跳ねた焦げ茶の髪は天然か、それともただの寝ぐせか。どこか飄々としたその雰囲気は、かつての彼の父親にそっくりだった。

「こんにちは」

「いらっしゃい、諷杝(ふうり)君」

 ショーケース越しに挨拶を返すと、彼は真っ直ぐにこちらにやって来た。

 ショーケースの中のケーキを選ぶでもなく、接客する彼女に話しかける。

「今日はお届け物があって来ました」

「あら、矢㮈(やな)に何か?」

 娘が何か忘れ物でもしただろうか。そう思って小首を傾げたが、諷杝は首を横に振った。

「いえ、矢㮈ちゃんではなく――あなたに」

 彼は鞄の中から一通の白い封筒を取り出した。

「どうぞ」

「私に?」

 不思議に思いながらも受け取ってしまう。封を開けようとしたら、諷杝にストップをかけられた。

「それは後で、お店が終わった後にゆっくり開けて下さい」

「あらあら。何だかラブレターをもらった気分ね」

「僕も渡しながらそんなことを思いました」

 少し照れたように笑う少年にはどこか懐かしい面影があり、彼女の胸が少しだけ切なくなる。

「矢㮈が知ったら焼きもちを焼かれそう」

「ええ? でも矢㮈ちゃんに手紙を渡すとなったら、もっと緊張するような気がします」

 諷杝が真面目な顔で言うので、つい笑ってしまった。娘たちが仲良くやっているようで安心する。

 それから諷杝はショーケースに並ぶケーキを吟味し始めた。

也梛(やなぎ)へのお土産、何にしようかな」

 どうやらルームメイトへの土産らしい。

「イチ押しはイチゴとチョコのタルトかしら。あとはピスタチオのナッツケーキも人気ね」

「じゃあそれ一つずつ下さい。えっと、僕は――この抹茶シュークリームにしよ」

「もしかして二つのケーキは也梛君の?」

「そうです」

 これまた真面目な顔で頷く諷杝に苦笑してしまった。そうか、相変わらず彼の友人は甘党らしい。

 娘の友人ということで、心ばかりのおまけをして彼の背を見送った。

 接客の間棚に置いていた、白い封筒を改めて眺める。これを開けたら何が待っているのだろう。

 ふと彷徨わせた視線が、ショーケースの端に並ぶチョコレートケーキに止まった。オペラだ。

 このケーキは、この店が開店した当時から並んでいる。――もっと言うと、パティシエの夫と付き合うきっかけになったケーキだった。

 もう一度、白い封筒に目を遣る。

(諷杝君が来た時点で、そろそろかなとは思っていたけど)

 何となく、予感はしていた。

 夏の音楽祭で、諷杝があの校歌の替え歌を披露した時に、いつかその日がやって来るのだろうなと。

 娘が話す学校のあれこれの中に、彼女が気になるキーワードもいくつか飛び出していた。

 それは、とある楽譜の話。

(諷杝君が探していた楽譜。――(ぜん)の作った曲)

 かつての音楽仲間が作曲して、結局完成しなかった譜。いや、もしかしたら完成していたのかもしれないが、彼女はそのことを知らなかった。

(逃げたのは、私だ)

 最後まで向き合わずに先に逃げ出したのは自分だ。

 挙げ句、そのまま二十年以上が経って、もう旋はこの世にいない。

 もうどうしようもないとどこかで諦めていたのに、娘を通じて再会した彼らが今日を運んで来た。

(今度こそ、最後まで見届けないと。旋の曲がどうなったのか、確かめないと)

 白い封筒をエプロンのポケットにしまい、彼女は作業に戻った。



五.

 その日はいつもより仕事が長引き、帰宅する頃にはとっくに日付けが変わっていた。

 家族には先に休むよう伝えていたから、てっきり暗い玄関が待っているのだと思っていた。

 玄関から続く廊下の先、リビングの磨りガラスから光が漏れ出ていた。

(こんな時間まで誰か起きてるのか)

 もしかして妻がまだ起きているのか、それとも娘たちが夜更かしをしているのか。

 眉間に皺を寄せながらそっと扉を開くと、そこにあったのは思いがけない姿だった。

「……ああ、ようやく帰って来た。……お帰り」

 ヘッドホンを外しながらぶすっとした声でそう言ったのは、いつもは学園寮で生活している息子だった。

 彼はソファーに座ってキーボードを膝の上に載せていた。ヘッドホンをして弾いていたらしい。

「ただいま……じゃない。どうしてお前がこんな時間にここにいる?」

「とりあえず鞄置いてスーツも着替えて来たら。母さんが夕食用意してくれてる。――食べてないんだろ?」

「……ああ」

 仕事で疲れているせいもあり、現状に意識が追い付かない。仕方なく、言われるがままに一旦自室に向かい、上着を脱いでリビングへ戻った。

 食卓の上には妻が作り置いてくれていたらしい夕食が、温め直されて並べられていた。――どうやら、息子が用意してくれたらしい。

(何なんだ)

 訝しみながらも、黙ってテーブルに着く。

「……で、お前はこんな時間までここでキーボードを弾いてたのか? 寮はどうした」

「ちょっと諷杝(ふうり)の遣いで来ただけなのに、当の本人がなかなか帰ってこないから待ってたんだよ」

 也梛(やなぎ)は今にも舌打ちしそうな口調で言う。

「それより早くご飯食べたら。冷める」

「……ああ。いただきます」

 言われるがままに手を合わせてご飯を口に運ぶ。今夜のメニューは豚の生姜焼きにサラダにみそ汁、それからデザートのフルーツゼリーだ。

 ゼリーを少し見つめて、也梛に視線を向けた。

 食事が終わるまで再び自分の世界に没頭しようとしていた也梛が怪訝そうな顔をする。

「何?」

「……ゼリー、食べるか?」

「……」

 也梛の目が一瞬揺れたのを見て思わず苦笑してしまった。息子の甘党は相変わらずらしい。

「いらな――」

「やる。俺を待ってたせいでこんな時間になったんだろう」

 ゼリーの容器をスプーンと一緒にソファー席の前のローテーブルの上に置くと、也梛は渋々の体で手を伸ばした。

「ちゃんと歯は磨けよ」

「分かってる」

 また食事に戻りながら、そういえばこんな他愛もない会話をしたのはいつ以来だろうと考えた。

(今日は特に疲れているからだな)

 いつもより余計なことを考えたり言ったりしないからかもしれない。それでいつも也梛は不機嫌になるのだ。――いや、今もすでに彼は不機嫌なのかもしれないが。

 食事を終えるまで静かな時間が続き、お茶を飲んで落ち着いた頃、ようやく也梛が見計らったように言った。

「で、用件だけど」

「ああ。待たせて悪かった」

 ひとまず詫びると、也梛は少し居心地悪そうにため息を吐いた。

 そして、ソファーの横に置いていた黒いキーボードケースの内ポケットから白い封筒を一通取り出した。

「これ、諷杝から」

「俺に? これを渡すためにわざわざこんな時間まで待ってたのか」

 残業が分かった時点で、他の家族に言付けて預けるなり、自室に置いておくなりできたのではないだろうか。

 也梛はもう一度溜め息を吐いた。

「こればっかりは直接渡さないといけない気がしたんだ。本当は諷杝が直接渡したかったみたいだけど、父さん忙しいし、こんな遅くまであいつをぶらぶらさせておけないし」

 それで代わりに、也梛が遣いをしたというわけだ。

 白い封筒を受け取りながら、思わずまじまじと息子を見てしまった。

「何だよ」

「……いや、お前が代理を買って出るとは思わなかっただけだ」

 自分で言うのも何だが、この息子が父親のことを煙たく思っているのは知っている。だからまさかこの一通のために、しかも苦手に思う父親に直接渡すために待っていたことが信じられなかった。

(そうさせるのは、あいつの息子が相当お気に入りだからなんだろうな)

 心の中で苦い溜め息を吐く。いや、そもそも也梛は諷杝がいるからと彩楸学園(さいしゅうがくえん)に入学したのだった。

(ぜん)が恨めしい)

 表情に出すことなくそんなことを考えた父親を知ってか知らずか、也梛は役目は終わったとばかりにキーボードを片付け始めた。

「ちなみに、お前はこの中身が何か知っているのか?」

 念のために訊いてみる。

「さあな。俺はただ預かっただけだから知らない」

「そうか」

 息子がキーボードケースを背負ってリビングを出て行こうとし、ふいに顔だけ振り返った。

「なあ」

「?」

「旋さんってどんな人だったの」

「……」

 まさかそんな質問が来るとは想像していなかった。

 何と答えたものかと迷い暫し考えたが、結局この一言しか出て来なかった。

「――小さい台風みたいなやつだったな」

「何だそれ」

 也梛が肩を竦めて、今度こそ背を向ける。

「ちゃんと中身見ろよ」

 最後に念を押して、影と足音が遠ざかって行った。

 手元にある白い封筒を見つめる。

 これを開けたら何が待っているのだろう。

(あいつの息子は何を考えているのか)

 也梛に言われるまでもなく、この封筒の中身を確かめるのはある意味自分に課せられた義務なのかもしれない。誰にか分からないが、全てを見届けろと言われているようだった。

 白い封を開ける。

 それは旧友の息子・海中諷杝(わたなか ふうり)からの招待状だった。


ここまで読んで下さってありがとうございます。やっと始まりの鼻歌に戻って来られた!まだ暫く続きますが、よろしければお付き合いくださいませ。(2023.03.26)

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