静かな時間とお疲れフィナンシェ
【主な登場人物紹介】
・笠木 矢㮈(かさぎ やな)…彩楸学園高校2年生。バイオリンを弾く。
・高瀬 也梛…同上2年生。キーボードを弾く。
・海中 諷杝…同上3年生。ギターを弾く。
一.
元々、洋菓子店の朝は早い。それは実家の店も例外ではなく、矢㮈が起き出した頃には疾うに父親は調理台の前に立って本日の準備に取り掛かっていた。
母親は台所の方で家族の食事の準備をしている。こちらが落ち着いたら、父親の手伝いに入るのがいつもの流れだった。
「あら矢㮈、おはよう」
「おはよう……」
眠い目を擦りながらテーブルに着き、コップ一杯の水を煽る。
「いつまでたっても慣れないわねえ」
母親が苦笑するのを見て、矢㮈も苦笑いを浮かべた。
二学期が始まった頃から、矢㮈は登校前の朝練を取り入れていた。祖母のレッスンでも使用する部屋は防音設備が整っているので、騒音を気にする必要もない。
だがもう二ヵ月は経つというのに、一向に慣れる気配はなく、毎朝眠気と闘って辛勝する日々を送っていた。
「まあ弓響はもうランニングに行っちゃったけどね」
「あれはすごいよね……意識が違う」
弟の弓響は中学三年で、すでに部活動は引退、さらには先日推薦入試で見事合格している。今は体が鈍らないようにと自分でトレーニングをしたり、特別に部活動に参加させてもらっているらしい。その意識の高さには我が弟ながら感心する。
その時、ダイニングの扉が開いて寝間着の上にカーディガンを羽織った祖母が顔を出した。
「おはよう。ちゃんと起きてるわね」
「おばあちゃん。おはよう」
「指慣らしが終わったら私も聴きたいから呼んでちょうだい」
「はーい」
朝練に関して祖母はたまに顔を出す程度だが、時々こうして初めから予告してくることがある。そういう時はどこか引っかかっているところがあるのだ。
時刻は午前五時になろうという頃。
笠木家の全員がすでに起き出して、それぞれに活動を始めていたのだった。
朝練はきっちり七時には終了し、片付けまで完了するように決まっている。これは祖母が決めたことで、だらだらと引っ張らないようにするための一つの工夫だった。学校に遅れないように、という配慮でもある。
それほど朝の用意に時間をかけない矢㮈は、朝練を始めてから自然と登校する時間も少し早くなった。時間に余裕をこいてぼけーっとしていると、眠気に負け逆に遅刻をしそうで怖いのだ。――では学校に着いてから眠くならないのかというと、それはまた別の問題である。
通学時間のラッシュより少し早い道は空いていて、余計にスイスイと学校に到着する。ガラガラの自転車置き場も好きな場所に止め放題だ。
学校には朝練に来ている生徒の他にも、朝勉をするのだろう生徒――受験生だろう――の姿もちらほら窺える。
二年二組の教室に入ると、矢㮈は教室の電気を点けて自分の席に着いた。登校時間を早めてからずっと一番乗りだ。
(まあ千佳ちゃんは朝練でとっくに学校には来てるんだろうけど)
今日も昇降口に向かう途中、グラウンドの隅で陸上部が朝練をしているのを目にしていた。もちろん彼女の姿もあった。
「――はあ」
鞄を置いて、とりあえず息を吐く。
この静かな時間にこそ予習や勉強、もしくは読書などすべきなのだろうが、矢㮈の場合はだいたいぼんやりとしているうちに時間が過ぎて去って行く。しかもいつも予習はしないタイプだ。
(こういうところで頑張っておけばテストも楽なんだろうなあ)
そう思いつつも手は動かない。つまりはやる気がないのである。
「はあ」
もう一度溜め息を吐いた時だった。
「おい」
「!」
一瞬、その声が自分にかけられたものだと気付かなかった。
だが教室には矢㮈しかおらず、扉のそばに立つのは彼しかいない。
黒髪眼鏡の長身の彼は、いつもの無表情でスタスタと矢㮈の机の前までやって来た。
「お前、何でこんなに早いんだ?」
挨拶もなしにいきなり聞いてくるところが彼らしいというか何と言うか。
「失礼ねって言いたいとこだけど、別に大した理由はないわよ。朝練で早く起きるようになったから、自然と登校時間も早くなったってだけ」
矢㮈の答えに高瀬は少しだけ驚いた表情をした。相変わらず失礼なやつだ。
「それで、朝勉でもするのか?」
テキストどころか筆記用具すら出していないまっさらの机の上を見て、高瀬がわざとらしく訊ねて来る。
「……い、今からしようと思ってたの!」
謎の意地で言い返した矢㮈に、高瀬は軽く鼻で笑った。
「嘘つけ。それよりもっとやる気の出るもん持って来た」
「え?」
彼が目の前に突き出したのは譜面の入ったファイルだった。
「前にお前が言ってたことを付け足してみた。確認してくれ」
「早!」
矢㮈はファイルを受け取って中身を取り出した。一曲分ある。
高瀬はそのまま前の席に座り、半身をこちらに向けた。
「まず始まりの部分だが――」
「ちょ、ちょっと待って待って!」
予告もなくいきなり説明に入るのはやめてほしい。矢㮈は慌てて譜面を広げ、説明を聞く準備をした。
「ていうか、わざわざ解説してくれるの?」
「勝手に解釈されても二度手間だからな」
「まあ、確かに」
高瀬は流れるように譜面の上に長い指を滑らせ、ポイントごとに説明していく。矢㮈は譜を追いかけると同時に頭の中で音を再生して確認を進めた。実際に弾いてみないと感覚などは分からないが、彼の意図を掴むことはだいたいできる。
朝勉となるとまるでやる気が出ないのに、彼とする譜面の擦り合わせには驚くほど集中していたらしい。
「笠木、おはよう」
朝練上りの臣原千佳にポン、と肩を叩かれてはっとした。
「え、あ、おはよう、千佳ちゃん」
時計を見るともう始業の十分前になろうとしていた。教室内にもクラスメイトたちが揃って来ていた。
「高瀬君もおはよう」
「ああ」
高瀬が千佳の挨拶に返しながら、座っていた席から立ち上がった。と同時に、その席の主がやって来て着席する。一瞬だけ高瀬を見て面食らった顔をしていた。
「お前、今日の放課後は直帰か?」
自分の教室に帰る前に高瀬が確認してくる。
「ううん。今日は時間作れると思う」
「分かった。じゃあ続きはその時に」
それだけ言うと、譜面は矢㮈の机の上に置いたまま教室を出て行った。扉付近で友人の松浦大河と鉢合わせ、挨拶と何か軽口を叩き合っていた。
「何々? 朝から二人で何してたの? 秘密の相談会?」
千佳が興味深そうに尋ねて来るのに、矢㮈は一瞬ポカンとした。
「いや、違っ……これ、譜面の確認をしてたの」
変な勘繰りをされては困る。矢㮈は慌てて手元にある譜面を千佳に見せた。
「何の楽譜?」
「えっと……諷杝のお父さんが作った曲で……」
これをどう説明して良いものか迷う。少し複雑なのだ。
しかし千佳はそんな矢㮈の様子から何かを察したらしい。ふふっと笑った。
「よく分かんないけど、大切な楽譜なのね」
「うん、そう!」
彼女のこういうところが大好きだ。
だが千佳はこれみよがしの溜め息を吐いて肩を竦めた。
「でも良いなあ、朝から高瀬君と二人で顔付き合わせて話し合いなんて……」
確かによくよく考えてみれば、朝早くの他に誰も居ない教室に高瀬と二人きりでいたのは事実だ。矢㮈は今頃になって、他にも自分たちを誤解した生徒がいなかったか気になって来た。
だが、これだけははっきりと言える。
「絶対、千佳ちゃんが思うようなシチュエーションじゃないからね?」
矢㮈が眉を顰めて千佳に訴えると、彼女はケラケラと笑った。
「まあ笠木ならそうでしょうね。さっき声かけるまでも、全然そんな甘い雰囲気じゃなかったし」
「どういう雰囲気だったの……?」
「何か、静かにバトルしてる感じだった。ちょっと声かけるのに躊躇するくらい」
「……なるほど」
矢㮈は心なしほっとしていた。高瀬と音楽の話をする時はだいたいその通りだったからだ。
高瀬の仕上げて来る譜面は純粋にすごいと思うし、指摘も納得することが多い。だが一方で、矢㮈も意見するところはするし譲れないところもある。高瀬にはそれをきちんと説明しなくてはならず、彼もそれを求めてくるのだ。
(疲れるけど、嫌じゃない)
むしろ、少し楽しくもある。そういうのを経て出来上がった譜面はまた一段と理解度が深まって、弾くと心地良いのだ。
(それに唯一あいつに言い負かされることのない土俵だから)
矢㮈は机の上の広がった譜面を見つめて小さく笑むと、丁寧にファイルにしまったのだった。
二.
最近、ルームメイトの海中諷杝は早起きだ。
先日の三者面談でいよいよ進路の方針を決めたらしく、真面目に勉強も始めた。――全く以て今更の話なのだが。
也梛は彼の進路について細かい話を聞いていない。向こうが話すまでは聞くまいと考えていたし、彼が何かしら助けを求めてくるならそれに応じようと思っていた。もちろん、卒業するとは本人も言っていたので成績についてはサポートを続けるつもりだった。
諷杝は朝に強いとは言えない。とりあえず早起きして、暫くぼーっとして頭が目覚めるのを待つスタイルだった。別に早起きして寮の部屋で勉強をしようとする様子はない。
しかしこれまで半分寝惚けたまま朝ごはんを食べて、也梛に学校に連行されていた姿を思えば少しは努力していると考えるべきだろう。
諷杝と同じクラスの佐々木と世良が教室で朝勉を始めたらしく、諷杝もそれに混ざることにしたと言う。というわけで、随分と早めに登校するようになった諷杝に合わせて也梛も自然と早く教室に着くようになったのである。
也梛の場合は勉強でも読書でも時間の使い方は色々あったが、今は専ら例の譜面の作成が何よりの優先事項だった。
そして早く登校するようになって、早起きは三文の徳並みにラッキーなことがあった。
隣のクラスにいる音楽仲間もまた、なぜか早い時間に登校しているのを知ったのである。
彼女――笠木矢㮈は、現在バイオリンコンクールの練習に注力している。そちらを第一に考えると、以前よりも一緒に活動する時間を確保するのが難しくなった。
だが、この朝の時間を使えるならば都合が良い。失礼を承知で言うが、どう考えても彼女は朝勉をするという様子ではなかった。このままぼけーっとして過ごすのなら、自分の音楽の時間に付き合ってもらおう。
「高瀬、昨日やったこの部分だけど」
「何だ」
「やっぱりこの音が引っかかって――」
毎朝彼女と譜面をにらめっこしながら調整を繰り返す。時には教室に他に誰もいないのを良いことに、キーボードを弾き鳴らすこともあった。
朝の限られた時間というのも良かったのだろう。想像以上に濃い時間を共有していたように思う。恐らく、ここ最近が今までで一番彼女と会話をしているに違いない。
調整した譜面は昼休みや放課後を使って諷杝にも共有する。たまに三人で集まれる場合はひたすらに弾き、さらに調整を繰り返した。
「……お前、本当に言うようになったな」
ある時、ポロリと内心の声が漏れたことがあった。目の前にいた彼女は束の間唖然とし、すぐにニヤリと笑った。
「これくらい言い返さないとあんたに太刀打ちできないじゃない」
「……そうかよ」
全く良い度胸だ。初めて会った時の彼女はどれだけ謙虚だったのか。
(まあでも、妥協しないって言ったのは俺だ)
今までも関わった曲に関して妥協したことなどほぼないが、今回は特にその思いが強かった。
「妥協しないんでしょ。あたしだってそれに乗ったからね」
也梛の心の中を読んだかのような矢㮈の言葉に、若干悔しい思いがして眉が寄る。
同時に、同じ思いでいてくれていることが嬉しいと感じるのも否めない。
(――諷杝、お前はすごいな)
結局、どちらも諷杝のあの鼻歌に惹かれて彼の音楽仲間になった同士だ。諷杝がいなければこうして一緒に音楽をやるなんてこともなかっただろう。
「ああ、ここ! ここは、悔しいけどあんたの言った方が正しかった……!」
矢㮈が譜面の一部分を示して悔しそうに言う。也梛はふっと笑いながらその箇所に丸をつけた。そのままでOKの印だ。
「でもね、こっちは――」
次々と出て来る彼女の言葉に耳を澄ます。それがこんなに楽しいと思うとは自分でも驚きだ。
(本当、何なんだろうな、こいつは)
彼女のバイオリンに関してはもうだいぶ前から認めている。だが、彼女自身に関しても少し面白いと思い始めたのはいつからだったろう。――今までずっと、そう思う自分を認めようとしなかったが。
(俺は多分、こいつとも――)
心のどこかでは分かっていた。
諷杝とずっと音楽仲間でいたいように、彼女ともまた音楽仲間でいたいと。
也梛はそんな思いなど表情に一ミリも出さず、矢㮈の出した意見に冷静な言葉を返した。
反論に詰まって苦い表情になった彼女を見て、内心で苦笑した。
三.
「あら、海中君も朝勉強の仲間に入ったのですか?」
自分史上、恐らくこんなに早く登校したことはないという時間に教室に向かうと、そこには当然のようにすでに勉強を始めようとする女子の姿があった。
「築地さん。おはよう、早いね」
「おはようございます。朝が一番集中できるので」
この秋まで合唱部部長だった築地果歩だ。
「それ也梛もよく言うやつだ……」
諷杝が苦笑を返したところで、後ろから新しい声がかかった。
「お、諷杝。ちゃんと来たな」
佐々木だ。さらに、
「すげえ、音楽祭の合宿中もなかなか起きられなかった海中がこんな早くに教室に来てる……」
失礼なことをずけずけと言いながら顔を出したのは世良だった。
「それを言うなら世良君も一年生の時は結構サボり魔かつ遅刻魔で春日井先輩に怒られてましたね」
さらりと果歩が暴露して微笑む。彼女は一年の時、合唱部と軽音部を掛け持ちしていたため世良のことも知っているのだ。
「おい築地姉、そんな昔のこと思い出してくれるな」
世良は渋い顔になって唇を尖らせた。果歩のことを「築地姉」と呼んだのは、彼女の妹が現在軽音部に入部しているからだ。
「でも悪いな、築地さん。俺たちの勉強若干うるさいかもしれない」
佐々木がまだ勉強を始めてもいないのに先に謝ると、果歩は思わずと言うように苦笑した。
「大丈夫です。少々のうるささには負けない集中力がありますので。まあどうしてもの時はこれで」
彼女はどこからかイヤホンを取り出して見せた。なるほど、耳を塞いで完全に彼女の世界に没頭する作戦らしい。
「ちなみに、分からないことがあったら教えてくれるのか?」
世良がついでとばかりに訊くと、果歩は束の間きょとんとした顔をした。
「……世良君が私に訊くことがあるんですか?」
「どういう意味だそれ。少なくともオレよりお前の方が頭良いのは確実だからな。お前の妹にギター教えてやったんだから、姉はオレに勉強を教えてくれても良いだろ」
すごい言い分だな、と傍で聞いていた諷杝は思う。
果歩は少し呆れた顔をしていたが、結局断りはしなかった。
「良いでしょう。でも、しっかり理解してくださいね。ステージの本番さながら一度で決めてください」
にっこり笑う果歩に、今度は世良の顔が引き攣ったのが分かった。全く、どちらもどちらだ。
「じゃあ早速始めるぞ」
佐々木が腕時計を見て、始まりの号令をかけた。
さすがに日が経つと早起きにも慣れてくるが、困るのは丁度二時間目くらいに眠気がくることだろうか。ついでにお腹もすいてくる。
(毎朝ヨーグルトだけでも十分だったのになあ)
佐々木やルームメイトの也梛からは揃って「信じられない。もっと食べろ」と言われていたが、今はまさしくヨーグルトだけではもたない。ちゃんと頭を使っているのだなあと自分のことなのにどこか他人事のように思った。
諷杝が朝早く寮を出るのに合わせて也梛もまた早くに登校している。話を聞くと、この朝の時間に彼は曲作りをしているらしい。隣のクラスにいる矢㮈もまた朝が早いようで、二人で調整をしているそうだ。
(僕もそっちに参加したいんだけどなー)
本音を言うとそうなのだが、諷杝が励むべきは自分の教室で勉強することだ。
諷杝の場合、正確には佐々木たちのように受験勉強とは言えなかった。だがいつも定期テストでギリギリの点数を出している身としては、残りの点数は少しでも上げておきたいところだった。そうすれば家庭教師役の也梛の負担も減るだろう。
(まあ曲作りはほぼ也梛に任せてるから、あいつが矢㮈ちゃんの意見をちゃんとキャッチできてるならそれで良し)
例の曲に関して、諷杝は也梛にほぼ全てを委ねている。それだけ信用しているし、彼ならそれに応えてくれるだろうことも分かっていた。
(ただ音楽に関しては容赦ないの知ってるから、矢㮈ちゃん凹んでないと良いけど……)
唯一心配なのはそこだ。今度矢㮈と顔を合わせたら聞いてみようと心に留める。
その日の放課後、諷杝はのんびりと昇降口に向かって歩いていた。今日は也梛がバイトのため、学校内で集まる予定はない。彼が帰って来るまで勉強をするか、それとも気分転換という名で逃避をするか――『音響』に行けばマスターが美味しい珈琲を淹れて励ましてくれそうだと考えた。
「――あ」
たまたま覗いた窓の外に、グレーのスーツに小太りの身を包んだ初老の男性の姿を見付けた。――多忙で捕まえることが難しい副理事長だった。
諷杝はいつになく機敏に動き、すぐそばのドアから上靴のままコンクリートの路に飛び出した。
「松殿先生!」
このチャンスを逃してはならぬと必死で声をかけた諷杝に、対して松殿はおっとりした動作で振り返り目を見張った。
「海中諷杝君。どうしたんですか、そんなに慌てて」
「……っ、だって先生、全然捕まらないじゃないですか」
少し走っただけなのにすでに呼吸が荒くなっている諷杝に、松殿は困ったように眉を下げた。
松殿は諷杝が深呼吸して落ち着くのを待ち、改めて訊ねた。
「それで、私に何か用があったのかな?」
諷杝はじっと松殿の目を見つめ、真剣な顔で頷いた。
「あります。松殿先生の予定をお聞きしたくて」
「予定?」
「今度の期末テストが終わったら、僕たちは『ZIST』へ向けて演奏会をします」
諷杝の言葉に、松殿が驚いた表情をした。
「諷杝君、それは……」
「今、也梛が頑張って曲を作ってくれています。矢㮈ちゃんもコンクールの練習の間を縫って参加してくれています。そして僕の役目は『ZIST』のみなさんを引っ張り出すことです」
残念ながら、メンバー『全員』を、ということは現実的にできないが。
「――その場に、是非松殿先生にもお立合い頂きたいと思っています」
少なからず、当時彼らを指導していた松殿も関係者だ。
「もちろん並早先生も」
彼もまた、諷杝たちと『ZIST』のことをずっと案じていてくれた一人であり外せない人物だ。
「できれば十二月の中旬までのどこかでお時間頂けないでしょうか」
松殿は顎を手で撫でながら、宙に視線を彷徨わせた。
「――なるほど。これは私の方もどうにかして時間を都合しなくてはならないね。十二月の……第二週目の週末はどうだろうか」
「! はい」
松殿からの提案に諷杝は一も二もなく頷いた。
「今のところなら土曜日でも日曜日でも都合がつけられると思うのだが……ああでも『彼ら』の都合もあるか」
彼の言う『彼ら』とは、諷杝に招待される予定の『ZIST』のメンバーを指しているのだとすぐに分かった。
「今のところ、日曜日で進めたいと思っています。早めに招待状を送るつもりですが、恐らくみなさん来て下さると思うので」
正確には、彼らが来るような招待状を諷杝が送ることになるのだが――それに今絶賛頭を悩ませているところだ。
松殿は小さく頷き、
「ではそのつもりで予定を入れておこう。余程緊急のものが入らない限り、大丈夫にしておく」
「ありがとうございます」
恐らく一番忙しくしている松殿の予定を押さえてしまえば、後はあまり心配していない。
諷杝がほっとした表情で笑みを浮かべると、松殿が思い出したように口にした。
「そういえば、諷杝君もようやく進路が定まったそうだね。並早先生から聞いたよ」
「まあ……まだ何となく、ですけど」
「そうだね。まだ曖昧さは残るし、正直学園の教師としてはもう少し固めてほしい所だけれど」
「仰る通りです」
担任である並早は、今まで何も決めずに宙に浮いていた諷杝が今後のことについて話し始めただけで感激するという甘さだったが。
(先生としては、松殿先生の反応がフツーだよね)
松殿はしかし、そこで愉快そうに笑ったのだった。
「よくよく思い出してみれば、君のお父さんもそんな感じだった。もうそろそろ決めないとという時期、ある日いきなりどこどこの大学に行くと急に言い出して」
懐かしそうに目を細める松殿は、当時のことを昨日のように思い出しているかに見えた。
「あんまり褒められた点じゃないですけどね、それ」
言うなれば親子揃って先生たちをヤキモキ心配させてしまっていたということだ。
「はは。でも君のお父さんも何だかんだ上手くいったからね。君もきっと大丈夫だと思うよ。――何より、君自身が決めた道なら」
「――はい」
諷杝が静かに頷くと、松殿はどこか満足そうに頷き返した。
「まあ並早先生はまだまだ心配の種が尽きないだろうがね」
「それは僕からも謝っておこうと思います」
諷杝の答えに松殿が笑う。
「いつまでも教え子を心配してしまうのも教師の性だよ」
そういうものだろうか。
もしかしたら、そうだからこそ、松殿は昔の教え子である『彼ら』のことを今も案じているのかもしれない。
諷杝はどういう反応をしたら良いか分からなくて、ただ松殿の笑みを見つめていた。
四.
ついに期末テストが始まる一週間前――矢㮈のコンクールの一週間前でもある――に譜面が一応完成した。
「これで良いな」
「うん、とりあえず」
朝の静かな時間。二年二組の教室にいるのは相変わらず矢㮈と高瀬だけだった。
机の上にはもう意見を出し尽くした譜面の塊がある。
「はあ~」
どちらからともなく脱力したように項垂れていた。
達成感よりも疲労の方が濃く感じていた。これで譜面は完成したといっても、まだ演奏をしていく中で変わって行く部分もある。矢㮈たちはさらに演奏を重ねて行く必要があった。
しかし今だけは、とりあえず束の間の休息としたい。
矢㮈は鞄の中をがさごそ探って、朝突っ込んできたフィナンシェを取り出した。一つを高瀬の方に渡す。
「お疲れ。母さんの焼いたフィナンシェ」
「ああ、頂く」
さすがの高瀬も疲れていたのだろう、それに甘党なのも相俟って、素直に受け取って袋を開けた。
二人で黙ってフィナンシェをもぐもぐやる。ただ口の中に広がるバターの風味と甘さを噛みしめていた。美味しい。思わず心の中で母親に感謝を呟いてしまった。
「諷杝から聞いてると思うが、十二月二週目の週末に決まったそうだ」
「うん、らしいね」
諷杝曰く、副理事長である松殿も呼んでいるらしい。よくあの忙しい先生を捕まえられたなと少し驚いた。
「――大丈夫、この曲は上手く行くよ」
机の上の譜面を撫でながら小さく呟いた矢㮈に、高瀬が「ああ」と同意する。
今まで音楽祭だなんだとみんなで曲を作って来たが、ここまで詰めて考えた曲は初めてだった気がする。特に、元々のベースがあるからこそどう自分たちらしく弾けるのかを考えるのに苦心した。
矢㮈がフィナンシェの入っていた袋を丸めた時だった。
「――お前の方は大丈夫か」
高瀬が静かに問うてきた。
「へ?」
突然すぎて間抜けな声を上げた矢㮈に、高瀬は無表情のまま続けた。
「コンクールだよ。お前の本命はそっちだろ」
「……ああ。うん、課題曲はだいぶ慣れたし、おばあちゃんからの指摘も減ってる」
朝練も無事にこなすことができたからこそ、こうして毎朝目の前の不愛想の音楽馬鹿と顔を突き合わしていたわけだ。
「そうか」
高瀬はただそれだけ言って黙った。
昨日まで散々ここでああだこうだと言い合っていたのに、譜面が完成して言うことがなくなってしまうと、途端にどこか気まずさを感じてしまった。
(いや別に無理に話すこともないけど、何か話すことあったっけ。てかあたしは普段こいつと何話してたんだっけ)
いつもの学校生活では、千佳や松浦といったクラスメイトたちに交じって会話をすることが多かった。
(こんな時こそ、千佳ちゃん早く来ればいいのに)
だいたいいつも余計なことを言ってくる高瀬が静かだと、矢㮈もどう話せばいいのか分からない。
目の前の男子生徒が何を考えているのか全く分からない。
「高――」
「なあ」
やっと思い切って口を開けばこれだ。タイミングが悪い。
高瀬が「何だ」とこちらに譲ってくるが、矢㮈も何となく声をかけただけだったので、
「何でも。それよりそっちこそ何よ?」
これ幸いと向こうにパスすることにした。
高瀬は少し間を開けてから、何でもないような口調で言う。
「お前は明日もまだこの時間に登校するのか?」
「そりゃ、コンクールまでは朝練が続くからね」
家でだらだらした挙げ句遅刻なんてことになったら祖母から怒られそうだ。
「それに明日からまたテスト週間でしょ。ちゃんと勉強するわよ」
コンクールがあろうとテストが免除になることはない。中間テストで死にそうになった自分を体験しているので、今度は少しでも余裕があるように取り組みたい。
「なるほど」
高瀬は一人で呟くと、席を立った。
いつの間にか、教室の外、廊下の方から誰かが挨拶する声が聞こえ始めていた。そろそろみんな登校してくる時間だ。
机の上の譜面の束を手に取り、それから矢㮈を見下ろして言った。
「じゃあ明日からは勉強な」
「は?」
「どうせ俺も勉強するから一緒に見てやる」
「はあ? ちょっ――」
矢㮈が何かを言い返す前に、彼はさっさと長い足で教室を出て行ってしまった。
(――いやいやいやいや、何でそうなるの!?)
確かに成績優秀な高瀬に勉強を教えてもらえるのなら御の字かもしれないが、いつも渋々の体の彼が一体どういう風の吹き回しか。
「マジで分からん……」
矢㮈が呆然と教室の扉を見つめていると、そこに朝練を終えた笑顔の千佳がやって来た。
「笠木、おはよう!」
「おはよう、千佳ちゃん……」
矢㮈は曖昧に笑い、彼女に手を振り返した。
ここまで読んで下さってありがとうございました。やっと譜面はできあがったようですね…一応。
作中では忙しない時期に突入していきそうです。こいつらテストばっかやってますね(苦笑)
(2023.02.26)




