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  作者: 葵月詞菜


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84/98

あの曲の続き

【主な登場人物紹介】

・笠木 矢㮈(かさぎ やな)…彩楸学園高校2年生。バイオリンを弾く。

高瀬たかせ 也梛やなぎ…同上2年生。キーボードを弾く。

海中わたなか 諷杝ふうり…同上3年生。ギターを弾く。

一.

 一気に気が抜けた。

 バイオリンコンクール本選を終えてほっとしたのも束の間、翌日には普通に学校の中間試験があり、さらには欠席したテストの追試が待っていた。

 その全てを完了して机に突っ伏してから、笠木(かさぎ)矢㮈(やな)の記憶はどうも曖昧だった。目標だったコンクール本選を突破できた喜びも今一つ実感として湧いてこない。

(これが燃え尽き症候群というやつか……?)

「おい。お前それ空だぞ」

 音楽喫茶『音響(おとひびき)』のマスターが淹れてくれた絶妙なバランスのカフェオレはいつの間にか空になっていた。矢㮈は傾けたカップをしずしずと置き直した。

「……そうだった」

 遅れて羞恥が込み上げる。

「ちなみにそれ二回目な」

 目の前に座る高瀬(たかせ)也梛(やなぎ)が半目でこちらを見ながら言った。

「一回目でどうして言ってくれないのよ」

「うっかりは誰にもあるだろうと思ったんだよ。まさか二回目があるとは思わなかったが」

「……うるさい」

 相変わらず一言多いやつだなあと思いながら矢㮈が溜め息を吐くと、カウンターの方からマスターがコーヒーポットと新しいカップを載せた盆を手にやって来た。

「もう一杯、今度はブラック珈琲でもいかがかな?」

「お願いします」

 矢㮈が頭を下げると、マスターは朗らかに笑ってお代わりの一杯を注いでくれた。

 苦みと酸味、そして少しの甘みを味わいつつ黒い液体を喉に通すと、不思議とぼやっとしていた頭がクリアになっていく感じがした。

 矢㮈が改めて机の上のファイルに目を落とした時、斜め前から柔らかい笑いが零れるのを聞いた。

「さて、矢㮈ちゃんの目も覚めたようだから本題に入ろうか」

「! ごめん、諷杝(ふうり)

 はっとして笑いの主を見ると、彼はいつもように微笑んでいた。

「いやいや、本選とテストが終わったところなのにすぐに呼び出してごめんね」

 海中(わたなか)諷杝(ふうり)が申し訳なさそうに謝るのを見て矢㮈はぶんぶんと首を横に振った。

「こっちこそ全部任せきりでごめん。どこまで進んだか聞かせてくれる?」

「もちろん。そのためにここに集まったんだからね」

 こうして三人で集まってじっくり話すのも随分久しぶりだ。学園祭中はそれぞれのクラスのことで忙しかったし、学園祭が終われば今度は中間テストがやってきてそれどころではなかった。そして矢㮈はバイオリンのこともあった。

 それでも彼らはルームメイトであることもあり、空いている時間を見つけて進めていてくれたようだ。

 例の楽譜の曲の続きを考えるという一大イベントを。

「也梛がずっと頑張ってくれて、ひとまず一通りの流れはできたんだ。見てくれる?」

 諷杝が机の上のファイルから譜面の束を取り出して矢㮈に差し出した。その譜にはすでに色々な書き込みがされている。

「色々書き込んじゃってるけど、とりあえずメロディー部分を辿ってくれたら良いよ」

 五線譜に並ぶ符を追いかけると自然と頭の中にメロディが流れて行く。

 あの諷杝の鼻歌で知ってから何度も弾いた曲が駆け抜けて、矢㮈の知らないその先へと続いて行く。

(すごい……繋がってる。先がある……)

 全く違和感のない続きだった。元々存在していた前半の雰囲気を壊すことなく、ベース部分に同じものを残しながらも彼ららしい音やフレーズが織り込まれている。

(これは諷杝の好きなアクセントだな……こっちは高瀬の遊びの音が入ってる)

 彼らと曲を作ったり演奏をするうちに、そんなことも自然と分かるようになっていた。矢㮈は楽しい気持ちで夢中になって譜を追いかけた。

 どこか切なさを感じさせるその曲の最後は、柔らかい音の連なりで締めくくられていた。ぽっと心が温かくなるような、どこか安心するような終わり方だった。

 矢㮈は曲の脳内再生が終わっても暫く目を瞑って余韻に浸っていた。

「――最後、悩んだでしょ」

 矢㮈の呟きに諷杝が苦笑した気配がする。

「そこなんだよね。あのまま切ない感じで突き通すか、それとも逆に明るいくらい吹っ切った終わり方にするかでだいぶ迷った」

「決め手は何だったの?」

 目を開けて尋ねると、諷杝はその視線を受けて隣の高瀬に流した。

「――諷杝はこれが鎮魂の曲だと言ったが、それだけじゃないと俺は思った」

 高瀬が矢㮈の手元にある譜面を見つめて口を開く。

「旧友のための曲であっても、それは同時に残された者たちの曲でもある。だったらこの曲を聴くやつらの心の中にある蟠りも解ければ良いなと考えた」

「蟠り……」

 確かにこの曲は二十年以上も前に亡くなったあるメンバーへの鎮魂歌だという。そこには空白の長い時間があって、残された各々が抱え続けた思いはきっと大きく、それぞれに蟠りがあるだろうと察せられた。

「折角俺たちが間に入って曲を作り直してるんだ。いい加減抱え続けたものを下ろせと言いたい」

「也梛は優しいなあ」

 諷杝が茶々を入れると、「うるせえ」と高瀬は突っぱねた。

「……でも、きっと(いつき)さんもそう思ってると思うよ。この曲を聴いたみんながほっとした気持ちになって、今まで凝り固まっていた何かが解けたら良いなって僕も思う」

 だから、この終わり方に落ち着いたのか。矢㮈は改めて腑に落ちた思いがした。

「うん、良いと思う」

 自分の知らない間にここまで曲が出来上がっていたとは驚きと同時に少し悔しい気もするが。

「じゃあベースはこれで行こう。この先の細々とした提案は譜面に書き込んであるんだけど――」

 矢㮈はもう一度譜面に目を落とし、諷杝の説明に耳を傾けながら今度は書き込みに注目していった。なるほど、結構細かく注文が足されている。

「お前も遠慮なく書き込んで良い。全部検討して、反映できる部分はする」

 高瀬が腕組みをして頼もしいことを言う。だがこいつの場合はこれが有言実行されるのだから恐ろしい。

(燃え尽きてる場合じゃないな)

 まだバイオリンコンクールも次のステージが待ち構えているのだが、それはそれとして。

(今はこっちに集中)

 矢㮈は譜面の中へと意識を沈み込ませていくようにそれだけを見つめた。



二.

「ふう、こんなところかな。矢㮈(やな)ちゃん、オッケー?」

「うん、とりあえず今はそんなとこ」

 元々、すでに色々な書き込みがされていた譜面はさらに書き加えられて空白を見つけるのが難しい。

「はい、也梛(やなぎ)

 その譜面を受け取った高瀬は嫌な顔をするどころか、逆になぜか楽しそうな顔をしているように見えた。

「へえ。これは読むのが楽しそうだ」

 すでに苦労して作り上げただろうベースの譜にここまで注文を書き込まれて楽しそうとは恐れ入る。仲間からの意見とはいえ、矢㮈だったら凹みそうだ。

(こういうところが高瀬よねえ)

 珈琲で乾いた喉を湿らせる。マスターが淹れてくれた珈琲はとっくに冷めきっていたが、それでも美味しく飲めるところがお気に入りだ。

「そういえば矢㮈ちゃん、次はいつだっけ?」

「ん?」

 さっきまで真面目な表情で譜面を見ていた諷杝(ふうり)は、一転していつも通りの柔らかい表情でこちらを見ていた。

「コンクール。全国大会行くんだよね?」

「! あ、うん、一応」

「一応って何」

 矢㮈の返答に諷杝が小さく笑う。

「ちゃんと実力で勝ち取ったんでしょ。自信もって大丈夫だよ」

「……うん、ありがとう」

 先日行われたバイオリンコンクールの本選。昨年は叶わなかった全国大会への挑戦権を今年は手に入れることができた。

 正直まだまだ自分の技量については納得できない部分も多いのだが、一朝一夕でどうにかなるものではない。――と祖母たちに口酸っぱく言われ続けたせいで、矢㮈はどうにか今の自分の力でベストを出し切れるよう練習を重ねて来た。

(あたしはただ挑戦するだけだから)

 よく考えれば、二年のブランクを経てまたこうしてバイオリンを弾いていること自体がすごいことかもしれなかったのだ。

「次は十一月の終わり頃だろ。また期末と重なるな」

 高瀬がさらりと日程を把握していることに目を剥く。

「あんた何で知ってるのよ……」

「調べたら分かる情報だ」

「ふふ。也梛は矢㮈ちゃんのこと気にかけてるんだよね」

「変な言い方するな。こっちの曲作りのこともあるからスケジュールを把握しておこうと思っただけだ」

「はいはい。矢㮈ちゃんの邪魔しちゃ悪いもんね?」

「……そうだが何か引っかかる言い方だな?」

 にこにこ顔の諷杝と仏頂面の高瀬が対照的だ。矢㮈は話題を変えようと、ふいに思い出したことを口にした。

「あ、そういえば村住(むらずみ)さんも本選通過したよ」

「そりゃしてもおかしくないだろうな」

 矢㮈の言葉に高瀬はあっさりと頷いた。村住はかつて高瀬と同じ音楽教室にいたという一つ年上の女子だ。

 矢㮈と彼女の出会いはあまり良い印象ではなかったが、今では顔を合わせると普通に挨拶を交わしアドバイスなどをもらうこともあった。

「あいつの技術力からしたら十分想定内だ」

 高瀬がここまで言うのは珍しく、矢㮈は少しだけ複雑な気分になった。確かに彼の言う通りなのだが、しかし。

「……何だその顔」

 矢㮈の微妙な表情に気付いた高瀬が眉間に皺を寄せる。

「べっつにぃ……。あたしももっと技術を上げなきゃなあと思っただけ」

「そうだな。でも技術はこれからの練習次第で身について来る。お前はお前の今の武器を大事にしたら良い」

「あたしの武器?」

「今のお前の音だよ。村住には出せない音を持ってるんだから大事にしろ」

 淡々と言ってのける高瀬の表情は相変わらず無表情だ。矢㮈はその顔を思わずじっと見つめてしまった。

「あんたにそんなことを言われるとは思わなかったわ」

「俺も別に言うつもりはなかったが、お前が不満そうな顔をしてるから特大サービスでおまけしてやっただけだ」

 だから何でそんな偉そうに言うんだろう? 矢㮈は頬を膨らませて横を向いた。

「はいはいそれはお気遣いどうもです!」

「也梛、もう少し言い方」

 呆れた顔で諷杝が溜め息を吐くのを、高瀬は鼻で笑ってスルーする。

「全く、素直に褒めれば良いのに……ごめんね、矢㮈ちゃん」

「諷杝が謝ることじゃないよ! 高瀬の意見を聞いたあたしが馬鹿だった」

「お前らな」

 矢㮈たちが三人でぶつぶつ言い合っていると、マスターがパンケーキの載った皿を運んで来た。

「相変わらず楽しそうだなあ君たちは。はい、今日のおやつだよ」

 矢㮈たちの視線が一気にパンケーキへと注がれる。特に高瀬の目が光っていた。

「いただきます!」

 先程までの応酬は一旦中断とし、三人はフォークを持って合掌した。



三.

 マスターお手製のパンケーキを御馳走になった矢㮈(やな)たちは、お決まりの如く店の奥にあるステージを借りて数曲演奏をしてから店を出た。

「あー! 何か久しぶりに楽しかったー」

 ここ最近はずっとコンクールのための練習を一人でしていたからだろう。久々の二人との演奏は解放感があって心から楽しいと思えた。

「矢㮈ちゃんの音乗ってたねえ」

「元気良すぎで暴走気味だったけどな」

 一言多い高瀬の言葉はスルーすることにする。

「でも練習の成果かな? 音が滑らかだった気がする」

 諷杝(ふうり)の感想に思わず嬉しくなった。

「ホント? 実はあたしも前より弾きやすいなって感じてたんだ」

 コンクールのために練習していた曲は今日弾いた曲と全く違うものだが、それでも確かに矢㮈の力にはなっているらしい。

 どうだとばかりに高瀬の方を見ると、彼は「何だその自慢げな顔は」と眉間に皺を寄せた。

「でもね、不思議なんだ。前よりスムーズに弾けるようになったら、次はもっとこうしたらどうだろうとか、こう弾けたら良いのにとか、どんどん出て来るの」

 矢㮈の言葉に諷杝が微笑んだ。

「演奏って、これが最高の演奏!ってのがなかなかないよね。最高の演奏をしたと思ったら、次はもっとできるんじゃないかって欲が出て来る」

「そう、それなの!」

「そう思えるってことは矢㮈ちゃんは毎回進化してるってことだね」

「そっか、進化してるのか、あたし」

 言われた言葉を心の内で反芻する。大丈夫、自分はちゃんと進化しているのだと。

 誰かに言われると自分で思うよりも実感が伴うのが不思議だ。

『音響』を出た三人は彩楸学園の方に向かって歩いていた。

 諷杝と高瀬は寮に帰るためであり、矢㮈は学校に置いたままの自転車を取りに行くためだった。

「とりあえず期末までは学校行事も特にないし、曲作りに専念できるな。――笠木はコンクールの練習第一だけどな」

 少しだけ涼しくなった夕方の風に乗って高瀬の声が聞こえる。

「でも曲ができたら教えてね。あたしも弾きたいし」

 諷杝越しに彼に言うと、高瀬は「はいはい」と適当に返事を寄越した。その言い方がまた気に入らなくて矢㮈が言い返し、いつもの不毛な応酬が始まる。

 二人に挟まれた諷杝は聞いているのかいないのか黙ったまま歩いていたが、やがてふと立ち止まった。

「諷杝?」

 矢㮈と高瀬が数歩先で同時に振り返る。――同時に同じ反応をしてしまったのが若干悔しいが、それは向こうも同じだろう。

 諷杝は一呼吸おいて、矢㮈たちを順に見た。

「二人にお願いがあるんだけど」

「お願い?」

「何?」

 改まったふうな諷杝に高瀬が神妙な表情になり、矢㮈も首を傾げた。

「今度の期末テストが終わったら、あの曲と『ZIST』の件に決着をつけようと思うんだ」

「!」

 矢㮈たちは揃って微かに目を見開いた。

「どっちにしろ、あの楽譜が見つかってたら年内にはケリをつけたいと思ってたんだ。矢㮈ちゃんはコンクールがあるし、也梛にはそれまでに楽譜を完成させてもらわなきゃならなくなるんだけど……」

 諷杝が困ったように眉を八の字に下げる。

「――俺は問題ない。むしろ早く決着してほしいくらいだ」

 高瀬がため息交じりに呟いた。

「曲は大丈夫?」

「大丈夫なようにする。もちろん妥協もしない」

 心強い即答に諷杝の方がぎょっとしているのが伝わって、矢㮈は思わず笑ってしまった。

「諷杝。あたしもそれで良いよ。さっきも言ったけど、コンクールと並行でこっちにも関わって行くから」

 矢㮈の方こそ、この曲に妥協するつもりはさらさらないのだ。この曲があったからこそ、彼らに出会えてまたバイオリンを弾いているのだから。これまでも、自分を支え続けてきてくれた曲だ。

「お前、そんな大きなこと言って大丈夫なのか?」

 高瀬が真顔でこちらを見るので矢㮈は鼻で笑い返してやった。

「あんた程大口叩いてないわよ」

 高瀬はきっときっちり曲を完成させてくる。矢㮈はそれをバイオリンを弾く自分用にアレンジし、彼らに合わせるだけだ。

(それくらい、できる。やってやる)

「――俺の妥協しないってのは曲に関わる全てだぞ? お前のバイオリンパートもだ」

「望むところ」

 矢㮈が引かないのを見て、高瀬が漸く微かに微笑んだ気がした。

「――だってよ、諷杝。俺たちは大丈夫だ」

「也梛、矢㮈ちゃん……」

「曲のことは心配しなくて良い。その他はお前に任せる」

 その他のこと――それが『ZIST』に関してのことだとすぐに気付いた。そちらは諷杝に任せるしかない。矢㮈は彼がどう動くつもりなのかも、どうしたいのかも分からなかった。

 諷杝は一度唇をぎゅっと引き結び、それから大きく頷いた。

「『ZIST』のことは僕が何とかする。二人は曲のことだけ考えてくれれば良い。どうか、樹さんたちに届けて」


 期末テストの終わりは十二月の頭だ。残り、一か月と少しだった。



四.

 寮に戻るなり、也梛(やなぎ)は早々に楽譜の書き込みをチェックし始めた。

 諷杝(ふうり)矢㮈(やな)それぞれの意見が書き込まれた文字を目で追い、時折傍らに置いたキーボードを弾いて確認する。変更した箇所は真っ新な譜面に改めて書き出していく。

「いつ見ても也梛はマメだなあ」

 隣からそんな声が聞こえたが、也梛はそちらを見ることなく口だけで対応する。

「マメとかじゃねえよ。このやり方が一番自分に合ってるってだけだ」

 まず自分用の譜面を作り上げ、その上で必要なものだけを残して諷杝たちに渡す。矢㮈はそこからさらにバイオリン用にアレンジをする。

「思えば也梛は勉強とかもそうだよね。ノートもオリジナルのを絶対作ってるし。僕たちには要点をまとめたのをくれる」

「それも勉強してるうちに自分が一番身につくやり方だと感じたからだ」

 あくまで自分にとってその方法が最適だったにすぎない。友人の若宮(わかみや)などは、自分用のノートなど作らずテキストさえあれば内容を理解するのに十分だと言うタイプだったが、也梛はそれだけでは理解を深められない。

(そういえば……ピアノを習ってた時はそうでもなかったか)

 ピアノに関して言えば、いつも譜面はとても綺麗な状態だったように思う。お手本を聞いて何となく感覚で理解し、後はひたすらに弾いていた。

 逆に自分で作曲する場合は、フレーズの型はあれど一から作り上げていくことになる。当然譜面を起こしていくことになり、繰り返すうちに修正部分は増え、新たなメロディが蓄積されていく。――その過程が、也梛には楽しかった。

 一区切りがついたところで、タイミングを見計らったかのように諷杝がマグカップを差し出して来た。湯気の立つそれはふわりとレモンの香りを漂わせた。

 諷杝と違って猫舌でない也梛は、礼を言って早速口をつけた。液体を通して喉からじんわりと体が温まっていくようだった。

 諷杝はというと、自分のマグカップは机の上に置いたまま――恐らく冷ましているのだろう――ぼんやりと天井を見つめていた。

 也梛がせっせと作業をしている中、なかなか優雅な状態である。

 しかしその横顔はいつもののほほんとした間抜け面ではなくて、彼なりに何かを考えているように見えた。

 恐らく、彼は彼で考えているのだ――『ZIST』の件をどうするのか。どう持って行くのが正しいのかを。

(こればかりは俺には何も口出せねえからな)

 実際は也梛の父親もまた『ZIST』のメンバーの一人であったと言うから、全く関係がないことではない。

 だがこの件に関して也梛は父親から直接その話を聞いたことがなかったし、向こうも話すつもりなどさらさら無いように感じていた。

(きっと諷杝なら――(ぜん)さんの息子の話なら聞くだろう)

 諷杝の父親の旋は『ZIST』をまとめていた人物だ。父親ともそれなりに親交があったに違いない。

 しかしよく考えてみると、ルームメイトになった友人の親と自分の親にそんな関係があったとは不思議だ。

(ただ偶然、俺はこいつと会っただけなのに)

 たまたまバイト先が同じで、たまたま彼の鼻歌に興味を惹かれて声をかけただけなのに。

「――なあ、諷杝」

 無意識に声をかけていた。聞いていないかと思っていたが、ちゃんと也梛の声は届いていたらしい。

「……どうしたの?」

 諷杝がワンテンポ遅れてこちらを振り返った。

「ああ、いや、悪い。考え事してたならいい」

「大丈夫だよ。どうせそんなすぐに答えが出るようなもんじゃないし」

 諷杝は困ったようにため息を吐いた。なかなかに苦戦しているらしい。まあたまにはそれくらい頭を使っても良いんじゃないか、と心の中で彼に呟いたのは内緒だ。

「……お前は俺の父親についてどれくらい知ってるんだ?」

 自分でも何でこんなことを聞いたのか分からなかった。だが何となく気になっていたことだったのだと思う。

 諷杝は少し考えるように間を置き、それから「うーん」と小首を傾げた。

「僕との接点で言うと、数回会ったことがあるくらいかな。小さい時のことはよく覚えてないけど」

「どこで?」

「記憶にあるのは、父さんたちの葬式の時と、中二頃のお墓参りの時と、あとは……彩楸学園(さいしゅうがくえん)に入学して少しした頃、かな」

「彩楸学園で?」

 也梛は不思議に思った。あの父親が一体何の用で卒業した高校を訪れたのだろう。

「あの時は偶々すれ違ったってくらいだったから、向こうが気付いてたかどうかは分からないけどね」

「ふうん……」

 諷杝はふいにまだ熱いだろうマグカップを手で包み込んだ。ふうふうと息を吹きかける姿は小さな子どものようだった。

「――でも、多分、君のお父さんは毎年うちのお墓に欠かさず参ってくれてるよ」

「え?」

「僕と顔を合わすことはなかったけどね。参ってくれてるのは知ってるんだ」

 そう呟く諷杝は少し寂しそうな表情に見えたが、也梛はかける言葉が見つけられずに黙っていた。

「……ああ、そういえば聞いた話によると、うちの父さんとは中学からの付き合いだったとか」

「中学?」

 それは随分と長い付き合いだ。也梛と諷杝の数年の付き合いなど大したことがないように思えてくる。

「まあきっと、うちの父さんが無茶言って振り回してたんじゃないかなあと予想してる」

 そこでようやく笑った彼に、少しだけほっとした。

「あの父親が誰かに振り回される姿なんて想像できないけどな」

 也梛もわざと冗談交じりに返すと、諷杝があははと笑った。

「僕もそう思う。けど、もし振り回されてたらちょっとおかしいよね。うちの父さんやばくない?」

「やばいってか、すごいと思う」

 これはちょっとだけ本心だ。あの父親を振り回せる人がいるなら、本気で見てみたいと思う。

「也梛」

 諷杝がマグカップ越しにこちらを見つめる。

「『ZIST』のメンバーはもう二人しかいない。つまり、当時のことを知っているのはその二人だけだ。その内の一人である君のお父さん――敦葉(つるは)さんに、僕は絶対あの曲を聴いてもらう」

 諷杝の真剣な眼差しが痛いほど也梛を刺してくる。也梛はそれを逃げずに受け止めた。

「……ああ。絶対あの父親に聴かせて全部吐かせてやる」

 当時、何があったのか。

 なぜ父親は弾くことをやめてしまったのか。

 それは也梛もずっと気になっていたことだった。

(それが分かれば、少しは理解できるかもしれない)

 今までの父親の態度も、考えも。也梛が頑なに拒否してきたそれらの奥にあったものを。

(……そうか。俺はまだ理解したいと思ってるのか)

 もしかしたら今回の件の決着次第では、也梛の中にある父親への蟠りも解けることがあるのかもしれない。――納得できるかどうかは別として。

 也梛は一つ息を吐くと、マグカップを机の上に戻した。

 譜面の続きに目を戻す。

 とりあえず、自分はこの曲を仕上げるのが仕事だ。

 少し離れた所で、諷杝もまた熟考に戻る気配がした。

 小さな部屋の中には、也梛が時折鳴らすキーボードとペンを動かす微かな筆音だけが響いていた。


ここまで読んで下さってありがとうございます。そろそろ畳まなければと思っていたら思いの外今回急激に諷杝が動きだして驚いています。え、急すぎない…?

もう暫く続きますが、よろしければ引き続きよろしくお願いいたします。

(2023.01.22)

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