知らない君の話
【主な登場人物紹介】
・笠木 矢㮈(かさぎ やな)…彩楸学園高校新2年生。バイオリンを弾く。
・高瀬 也梛…同高校新2年生。キーボードを弾く。
・海中 諷杝…同高校新3年生。ギターを弾く。父親の残した楽譜を探している。
【その他】
・並早…英語教諭。諷杝のクラスの担任。
・臣原 千佳…2年生。矢㮈のクラスメイト。
・衣川 瑞流…2年生。也梛のクラスメイト。
・佐々木…3年生。諷杝のクラスメイト。
・世良…3年生。諷杝のクラスメイト。軽音部部長。
・笠木 弓響…中学3年生。矢㮈の弟。
一.
「ああ~数学やば~」
名簿順に並んだ座席、たまたま今のクラスでは隣に位置する衣川瑞流が机に突っ伏した。
高瀬也梛は横目に見ながら手元の筆記具を片付けた。中間テスト三日目、本日は古典と数学Ⅱの二本立てだ。
衣川がくるりとこちらに顔を向けて、恨めしそうな目で見上げてくる。
「お前は相変わらず涼しそうな顔しやがって~」
「今回もテスト勉強に付き合ったんだから、もちろん結果を出せるよな?」
溜め息を吐きながら問うと、彼はさらに大きなため息で返して来た。
「だからやばかったんだって、数学!」
「ちゃんと教えたところが出てただろ?」
「出てたけど! 見覚えはあったけど! でも自信ねえ……」
赤点はギリギリ回避できてる気はするんだけど、とぶつぶつ言うのを聞き流して、也梛は鞄を持って立ち上がった。
「あれ、高瀬もう帰っちゃうの?」
「今日はバイトだ。俺がいなくてもしっかり勉強しろよ」
「うう~高瀬の鬼~」
「誰が鬼だ」
迷惑な八つ当たりを適当にいなして也梛は教室を出た。
階段の方に足を進めながら、ふと隣のクラスの窓に目を遣った。ガラス越しに見えた二組の教室も先程の自分たちのクラスと同じ様な景色が広がっていた。テストに疲れて脱力する者、友人たちと回答について話し合っている者、さっさと帰る用意をしている者。
自然と窓寄りの席に目を遣り、そこに彼女の姿がないことを確認していた。――そう、今日そこに座っているはずの彼女は休みだ。
(さてどうなったんだかな)
別に自分には直接関係などないのだが、テスト中もちらちらと頭を過ぎっていたのは否めない。
「あ、高瀬君!」
弾むような声に呼ばれ、上の空だった自分に舌打ちしたくなった。也梛の目の前には二組の臣原千佳が立っていた。
「テストお疲れ様! 数学、教えてもらったとこバッチシだったよ! ありがとね」
衣川の反応とは全く正反対である。思わず苦笑してしまった。
「……それは良かったな。そういえば松浦はどうだった?」
同じく二組の友人を思い出して訊いてみる。彼も毎回の勉強会のメンバーなのだ。千佳は軽く自分の教室の方を振り返った。
「松浦君は数学が終わった瞬間に机に突っ伏してたわね」
「衣川と同じか」
「あら、そうなの?」
也梛は小さく息を吐いた。自分には教師の資質がないのかもしれないと改めて思う。
(まあ、赤点じゃないなら良いけど)
「高瀬君は今からバイト?」
「ああ」
「このテスト中にバイトっての、ホントすごいわよね……」
千佳が感嘆するように言って、不思議そうに也梛を見上げる。
「もし松浦たちが今日もテスト勉強するなら手伝ってやってくれ」
「はいはいオーケー。いつものことだから少しくらい付き合ってあげるわ」
ただし高瀬君ほど面倒見はよくないけどね、と付け加えて千佳は笑った。
じゃあ、と也梛が去ろうとした時、千佳がふいにブレザーの袖を引っ張った。
「何だ」
「……えっと」
いつもサバサバして快活な彼女にしては珍しく口籠る。だが也梛には彼女が何を言おうとしていたのか分かっていた。
「――臣原はあいつの追試を心配しとけ」
也梛の言葉に千佳は一瞬虚を突かれた顔になり、それから小さく噴き出した。
「……そうね。そうする」
千佳の手が離れたのを見て、也梛は今度こそ背を向けた。
二.
教室のあちこちでクラスメイトたちがテストの手応えを話し合う中、海中諷杝はのんびりと筆記用具を片付けていた。
何とか三日目が終了した。その出来具合は考えない。まあなるようになるだろう――そんな楽天的思考は毎回のことである。ルームメイトがこれを聞いたら恨めしい目で睨んでくるだろうから口には出さないが――きっと諷杝の表情と態度からとっくに察してはいるだろう。
そんなルームメイトは呆れた顔をしながらも、残りのテスト勉強も付き合ってくれるのだ。今日はバイトだと言っていたが、彼が帰るまでしっかり自主勉しておくよう念を押されている。
苦笑ともつかない溜め息を零した時、頭の上から声が降って来た。
「諷杝」
「海中」
同時にそれぞれ氏名が呼ばれて一瞬混乱する。
クラスメイトの佐々木と世良が諷杝の机を囲むように立っていた。
「どうしたの」
「どうしたのじゃねえ。英語のグループ課題」
佐々木の言葉に暫し記憶を探り、ああと頷いた。
「あったね、そんなの」
「そんな他人事のように。お前もメンバーなんだぞー」
佐々木が呆れた顔でため息を吐いた。同じくメンバーの世良も腕を組んで、
「テーマは何でも良いんだったよな?」
と確認した。佐々木が頷く。
課題は確か英語圏の国や文化などについて調べ、それをクラス内でプレゼンするというものだった。諷杝たち三人は同じグループだったが、まだ内容は何も決まっていない。それどころか二人には悪いが意識の外に飛んでいた。
「無難に食文化とかどうだ? とっかかりやすそう」
佐々木の意見に、世良が「うーん」と唸りつつ、
「ハンバーガーとか肉とか?」
彼が持つイメージを出す。とはいえそこを調べて行くのが学習であるから、とりあえずテーマを決めなくてはいけない。
諷杝はふと机の横にかけた鞄に目を遣り、いつも入れているファイルに目を留めた。そこに入っているのは――
「ねえ、音楽はどう?」
諷杝の意見にすぐに反応したのは軽音楽部部長の世良だった。
「洋楽?」
「そう。僕や世良君にはそっちの方がとっつきやすいかもしれない」
「確かにな。オレも何曲か洋楽で演奏したことあるし、興味もある。佐々木はどう? 食の方が良かったらそっちにするけど」
ここでさらりと佐々木へ配慮する辺りが部長気質だなと思う。
佐々木の回答はあっさりしていた。
「オレはお前たちがやる気をもって取り組んでくれるならそれで良いよ」
「あ、そう……」
思わず世良と諷杝の声が重なった。
「しかし何から取り掛かるかな。ジャンルも多いしなー」
早速とばかりに話を進める世良に諷杝が助言を出した。
「並早先生に頼んで音楽室開けてもらおうよ。あそこ、洋楽の譜面も結構揃ってるから」
「そうなのか。お前よくそんなこと知ってんな」
「掃除当番の時とかに見てたから」
にこやかに答えると、すかさず佐々木がツッコんできた。
「お前まさかサボってたんじゃないだろうな?」
諷杝は曖昧に笑ってスルーした。
テスト期間中の職員室は入り口までしか立ち入ることができない。
教員たちがみんな忙しくしている中、こちらも例外ではない担任の並早に声をかけると、彼は微笑んで快諾してくれた。
「先生、ありがとうございます」
「いやいや。これくらいお安い御用だよ」
諷杝が慣れたように佐々木と世良に楽譜の詰まった棚を示すと、二人は「おおー」と感嘆の声を上げ、楽し気に譜面を引っ張り出し始めた。映画などの主題歌になっている有名な曲を見つけては盛り上がっている。
「そういえば僕も授業で使う曲について諷杝君に相談したことがあったね」
並早が懐かしそうに言った。
「そんなこともありましたね」
確か去年のことだったか。まだ彼が彩楸学園に来て暫くした頃だったように思う。
「なあ海中、ここの歌詞ってどういう意味?」
世良が見せて来た英語の歌詞を訳すと、彼はなるほどと頷きながら少し意外そうな顔をする。
「しっかし海中、英語だけはすげえよな。テストの点も良いし」
「コミュニケーションの方も問題なしだしな。日本語はたまに意味不明なのに」
思わずと言ったように佐々木も口を挟んだ。諷杝は苦笑した。
「実は昔、二年くらいアメリカで暮らしてたことがあって」
「え!?」
「は!?」
二人がここ最近で一番素っ頓狂な声を上げて目を見開いた。
「え? そんなに驚くこと?」
そんな反応をされては逆に諷杝の方が驚いてしまう。友人たちはポカンとしたまま何も言葉を発しない。
「いや、小学生の時のことだからホントだいぶ前の話だけど。父方の祖父母が今もそっちにいるから何だかんだで英語には馴染みがあって」
「初耳すぎる……」
「同感……」
そういえば誰かにこんな話をしたのは初めてかもしれない。諷杝も不思議と新鮮な気持ちだった。
ちなみに両親が亡くなった時にアメリカにいる祖父母の元に行くという選択肢もあったのだが、父親の楽譜が気になって彩楸学園に入学することを決めていた諷杝を引き取ってくれたのが今の養父母たちである。
「諷杝って帰国子女だったんだな……」
「こいつの英語がすごい問題解決しちまったな」
佐々木と世良がお互いに顔を見合わせてしみじみと頷き合う。――何だか複雑な気分になるのは何でだろう。
ちらと並早を見ると、彼は相変わらず微笑んだまま諷杝たちを見守っていた。
「――いやいや、僕のことはいいんだよ。課題しに来たんでしょ」
ついに、このまま自分に注目され続けるのがむず痒くなった諷杝はいつになく強引に話題を変えたのだった。
三.
もう十月の半ばだと言うのに、昼間はまだ気温が下がらない日が続いていた。残暑が長すぎる。このままでは秋などすっ飛ばして冬に突入するのではないかとさえ思う。
バイト上りの也梛はちらと腕時計を見た。いつもより少し早めに切り上げさせてもらったのは、これから寮に戻ってルームメイトの勉強を見てやらなければならないからだ。
(諷杝のやつちゃんとやってんのかな)
也梛が戻るまでは一人でやっておくよう念を押して来たが、果たして真面目に取り組んでいるのかどうかは怪しい。彼のことだから一回休憩を挟んだが最後、そのまま勉強に戻って来ないことも十分あり得る。例外があるとしたら英語科目だけだろうか。
(あいつ、英語だけは問題ないんだよなあ)
発音も綺麗だし、たまに也梛の方が教えてもらうこともあった。
足早に駅前の交差点を渡った所で、覚えのある顔を見つけた。思わず声をかけてしまったのは、彼が珍しくぼんやりしていたからだろう。
「笠木弟」
「! 高瀬さん」
向こうは也梛を認識した瞬間シャキッと背を正して、学ランに包んだ身を前に倒してお辞儀した。
「こんにちは!」
何ともスポーツ少年らしい清々しい挨拶だった。也梛は若干苦笑しながら彼に近寄った。
「こんな所で会うなんて珍しいな。どっか行ってたのか?」
「あ、はい。実は今日入試で……」
「ああ」
彼は現在中学三年の受験生だった。野球部のスポーツ推薦で受験するのだと彼の姉から聞いていた。
「ぼーっとしてたように見えたけど、ダメだったのか?」
「あ、いえ! 入試は小論と面接だけなんで、特に問題はなかったです」
その答えから彼が気にしていたのは入試ではなかったことを知る。となれば――
「そうか。入試だから笠木のコンクールには行けなかったのか」
「はい。まあ、そもそも今日は月曜で学校なんですが」
彼が眉を八の字にして頷いた。
也梛は彼が浮かない表情なのが気になり、つられたように眉間に皺を寄せた。
「結果は聞いたのか」
「……いえ、まだです。でも姉貴からも、母さんたちからも何も入らないんでちょっと不安になって」
そう、今日は彼の姉、笠木矢㮈のバイオリンコンクールの本選の日なのだった。そのため彼女は学校のテストを休んでいたのだ。
昨年は本選を通過できず、今年は突破して全国大会に出ることを目標に練習に励んでいた。
いつもより一回りくらい小さく見える少年を前にして、也梛は小さく息を吐いた。
「――なあ、少し時間あるか」
「え?」
「俺はバイト上りで甘いものが飲みたいんだ。ちょっと付き合え」
早く寮に戻って諷杝の勉強を見てやらなければいけないのだが、このまま彼を放っておくことがなぜかできなかった。
彼は――笠木弓響は、少し意外そうな顔で也梛を見上げていたが、やがて小さく頷いた。
四.
駅の近くのチェーン店のカフェに入る。
遠慮なくクリームをたっぷりトッピングした飲み物を注文した也梛とは対照的に、弓響はホットのカフェラテを注文した。
たまたま空いていた窓側のスツールに並んで腰かけ、それぞれの飲み物に口をつける。也梛は今更ながら、何を話したら良いのかよく分からなくなった。
(思わず付き合わせてしまったが、別に話すこともない……)
どこかポツンと置いてきぼりになった子どものような弓響が、過去の何かと重なって見えたのだ。
(だいぶ前の若葉か、もしくは大昔の自分か――)
暫くの沈黙を破ったのは弓響の方だった。
「……高瀬さん、ありがとうございます」
「いや、俺は何も」
紙コップを置いてこちらを見た少年の顔は先程より少し明るく、頬も緩んでいるように見えた。
「……こんなこと言ったら馬鹿みたいに思われるかもしれないんですけど、俺、実は今日自分の入試よりも姉貴のコンクールの方がずっと気になってて」
「……そうか」
口には出さなかったが、也梛もまたテスト中に矢㮈のことが気掛かりだったのは一緒なので何となく気持ちは分かった。
「姉貴、本当にずっと頑張ってたから。昔、夢中だった時が返って来たみたいで俺も嬉しくて」
矢㮈は也梛たちと会うまでの二年間ほど、とある理由でバイオリンが弾けなかった期間があった。弟の弓響はその間の姉の姿を見て来ている分、思うところがあるのだろう。
「そういえば、お前はバイオリンやろうと思わなかったのか?」
ふと疑問に思い尋ねてみる。
也梛自身が昔、姉のピアノに憧れたことがきっかけで自分も始めたのだ。彼は慕っている姉のようにバイオリンを弾きたいと考えなかったのだろうか。
弓響はふふっと小さく笑いを零した。
「やろうと思ってやってみたんですけど、納得できなかったんです」
「納得?」
「はい。小さな俺はバイオリンを弾いたら、自分が大好きな、姉貴やじいちゃんみたいな音がすぐに出ると思ってたんですよ。でも出た音は全然似ても似つかなくて、音楽とさえも呼べるものではなくて」
「始めたばかりの頃は誰でもそうだろう」
「ですよね。今じゃ当たり前のことだって分かるんですけど、当時の俺はそこで諦めてしまったんです。ただ、姉貴のバイオリンの音は大好きで、そこからずっと一番のファンです」
「……へえ」
也梛の場合はむしろどうやったら姉のように弾けるのだろうとさらに夢中になったものだが、弓響はあっさり見限ってしまったようだ。
「高瀬さんはどうしてピアノを始めたんですか?」
今度は逆に弓響から問い返された。
也梛は少し考えながら、しかし正直に言葉にしていた。
「お前と似たような感じだな。俺も、姉のピアノの音が好きで、憧れて始めたんだ」
「お姉さんってあの、この前演奏会まで運転してくれた人……?」
「そう。まあ、うちの場合は二人でピアノを弾き続けて、結局こじれてしまったパターンだけど」
姉とのごたごたをこうして誰かに話すことができるようになったのは、やっと心の中で整理ができたからかもしれない。
「俺は姉さんにピアノを弾き続けてほしかったけど、周りの評価とか色々あって、姉さんはピアノをやめたんだ。俺はそれに勝手に腹を立てて、同時に周りからの期待にもうんざりだった」
何より、姉がピアノをやめた最大の理由が、恐らく一番近くにいた也梛という弟の存在だっただろう事実を認めるのが嫌だった。
「……俺は一番好きだった音を、自分で奪ったんだ」
ただ大好きな音に憧れて、そう弾けるように日々練習していただけなのに、どうして姉がピアノをやめることになってしまったのか。
也梛の独白を、弓響はじっと耳を澄ませて聞いていた。横並びの席のおかげで、目を合わせないで済むのは有り難かった。
「――高瀬さんはそれでもそこで弾くことをやめなかったんですね」
ポツリと弓響が呟く。也梛は自嘲気味に笑った。
「弾くものはキーボードに代わったが、やめることはなかったな。いやむしろやめることはできなかった、が正しいような気がする」
キーボードにさらにのめりこんで、いつしか諷杝に出会って今に至る。しかも今や、またピアノを弾き始めた自分がいるのだから笑えてくる。
「今でもお姉さんのピアノは好きですか?」
「……ああ。この前聴いたけど、やっぱりこの音だなって思った」
也梛には出せない、彼女の音。姉は今でも時々思い出したように趣味でピアノを弾くことがあるが、それが純粋に嬉しいと感じる。
「お姉さん、高瀬さんにピアノを弾き続けてほしいって言ってなかったですか?」
その言葉にはっとして思わず隣を見た。
弓響は一口カフェオレを飲んで、也梛の方を向いた。中学生にしては大人びた微笑を浮かべていた。
「俺、高瀬さんのお姉さんの気持ち、ちょっと分かるような気がします」
「は?」
「俺と同じように、きっとお姉さんも高瀬さんの演奏の一番のファンなんですよね」
「……」
「もちろん俺たちは勝手に期待するだけですし、姉貴や高瀬さんがこれに応える義務はないです。でも、できることなら、いつまでも聴いていたいから弾き続けてほしいなって思ってしまうんです」
弓響がそこまで言って、困ったような笑みで締めくくる。
也梛はそれには何も答えずにコップに口をつけた。液体よりも先に飛び込んできたクリームの甘さが口内に広がる。いつもなら好きなその甘さが、どこか甘ったるく感じた。
(俺は別に姉さんのために弾いているわけじゃない。だけど――)
目の前の少年のように、姉もまた自分の弾く音を楽しみにしてくれているのなら。
ずっと弾き続けてほしいと願ってくれるのなら。
たとえ也梛自身が好きになれない自分の音であっても、それは嬉しいことかもしれない。
「――あ」
その瞬間、弓響が何かに反応してパッと学ランのポケットに手を突っ込んだ。その手には振動する携帯があった。
「姉貴だ」
「!」
話の流れでどこかぼんやりしていた也梛も一気に現実に引き戻された。
弓響が緊張したように通話ボタンを押し、応答する。
「もしもし」
微かに電話の向こうの声が漏れ聞こえて来るが、店内の騒めきに紛れてはっきりとは聞こえない。
弓響は「うん、うん」と相槌を打っていたが、やがて「お疲れ」と言って通話を切った。携帯をポケットの中に戻し、一つ長く息を吐き出す。
也梛は黙って彼が口を開くのを待っていた。
こちらを向いた弓響の表情はどこか緊張していた。
「……高瀬さん」
その声が微かに震えていて、思わず也梛は唾を飲み込んだ。次に続く言葉に若干覚悟する。
「姉貴……全国行けるって」
「っ……」
弓響が堪え切れなくなったように前を向いて、目元を黒い腕で覆った。也梛はふぅと息を吐き出し、弓響の少し伸びて来たスポーツ刈りの頭を撫でてやった。
「……お前の姉貴はすごいな」
思わず漏れた呟きは、弓響のことを思ってではなく、きっと本心から出た声だった。
弓響が顔を上げるまで、也梛は黙って残りの飲み物を味わっていた。この時はすでにクリームの甘さを感じなくなっていた。
意識が、彼女のことに向いていた。
(笠木、お前は本当に結果を残したんだな)
彼女の伸びしろは大したものだった。也梛が軽い励ましのつもりで言ったことを、彼女は彼女の努力をもってして勝ち取った。
『……高瀬はピアノ、やっぱり出ないの?』
いつかかけられた言葉を思い出す。
彼女はどういう意味で言ったのだろう?
也梛は別にコンクールに興味はない。その思いは今も変わらない。
だが、どうしてこの夏休みからずっと、実家でピアノを弾くようになったのだろう。弾こうと思ったのだろう。今も、それを続けているのだろう。
どうして、彼女のバイオリンを聴くごとに、自分も触発されたかのようにピアノを弾きたくなるのだろう。
考えても、答えは出なかった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。そろそろ大詰めにしたいところではありますが、相変わらずのペースになるかと思いますのでのんびりお付き合いいただけますと嬉しいです。
(2022.12.29)




