同じ道か違う道か<後編>
※前話「同じ道か違う道か<前編>の続きです。
【主な登場人物紹介】
・笠木 矢㮈(かさぎ やな)…彩楸学園高校2年生。バイオリンを弾く。
・高瀬 也梛…同上2年生。キーボードを弾く。
・海中 諷杝…同上3年生。ギターを弾く。
【その他】
・海中 旋…諷杝の父親。『ZIST』のメンバー。
四.
***
お盆の辺りから続いていた出張が一段落し、久しぶりに家に帰って来られた。
彼は玄関の扉を開けたところで立ち止まった。
上の階からピアノの音が聞こえて来る。
一番上の娘がたまに弾いているのは知っていたので一瞬それかと考えたが、違う。この弾き方は、音は、彼女ではない。
滑らかな、癖のない音。
一体どうやったらこう弾けるのかという程正確な音の連なり。
何度聞いても、相変わらず羨ましくなる腕だった。
(あいつか……)
ついそのまま聴き入ってしまっていたらしい。
微かに笑う声に我に返ると、リビングの方から出て来た娘の葵がいた。先程は彼女が弾いているのかと思ったのだった。
「お帰りなさい」
「ああ」
葵は自分から進んで父親の荷物を持ち、再びリビングへと向かう。
まだ少し階上のピアノの音が気になったが、振り切って彼女の後を追った。
「お帰りなさい、あなた」
ご飯の用意をしてくれている妻に、何かを言おうとして言葉に詰まる。しかし彼女にはお見通しだったようで、笑われてしまった。
「ああ、也梛のピアノ? あの子最近うちに来てよく弾いて帰るのよ」
「……なぜ?」
「さあ? 気になるならあなたが直接あの子に訊いてあげたら?」
それができれば苦労しない。あの息子と面と向かって話したのはいつが最後だったろう。
「父さん、そろそろ仲直りの潮時かもよ?」
葵が一人前なことを言うのに思わず眉間に皺が寄る。
「仲直りも何も……そもそも俺は別にあいつと喧嘩なんてしていない」
いつからか、向こうが一方的にこちらを避けるようになったのだ。――まあ、そこでこちらも歩み寄ることをしなかったのは認めるが。
微笑ましそうにこちらを見る妻と娘にまた溜め息が漏れた。
一体いつまで弾いているつもりだろう。
少なくとも、自分が帰って来てからご飯を食べ終わるまで、ピアノの音は一度も途切れなかった。
「……いつもああなのか?」
「ええ。さすがにもうそろそろご飯食べさせて帰らせるけど」
妻が葵に「呼んで来てあげて」と声をかけるのを聞いて、何を思ったか「待て」と呼び止めていた。
「?」
不思議そうな顔が二つ揃って返って来る。一番不思議なのは自分だった。
「――俺が行こう」
なぜそう言ってしまったのか分からない。だが、自然と口を突いていた。
妻と娘は一瞬顔を見合わせ、静かに頷いた。
足音を立てないように、慎重にゆっくりと階段を上る。
聞こえて来る曲は先程までとは一転した調べで、どうやら別の曲に変わったらしいと分かる。
そして、その調べに階段の中程で足を止めた。
自分はこの曲を知らない。――だが、知っている。
(……この曲は……)
自分の体の奥から、ぞわぞわとした何かが湧き上がってくる。
この曲は知らない。
だが、この曲の雰囲気と、詰め込まれたリズムは体が覚えている。
(この曲は――)
――アイツの曲だ。
顔から血の気が引く一方で、体中の血液が活性化したように蠢き、体温を上げたように感じられた。
(旋の曲だ……間違いない)
自分が彼の曲だと分からないはずがなかった。
気持ちを落ち着かせるように大きく息を吐き出す。そして階段をまた一歩一歩上がって行く。
部屋の扉の前に立った時、丁度音がやんだ。
今頃になって震えそうになる手を握り、扉をノックする。
返事もなければ出て来る気配もない。
こちらもそのままでいると、向こうも訝し気に思ったのだろう、扉越しに足音が近づいて来たのが分かった。
「何だよ。いつもは勝手に入って来るくせに――」
扉を開いて、そこに立っていたのが姉でないと分かった息子が目を見開いて絶句した。
***
何でそこに父親がいたのか心底分からなかった。
どこから現れた? 超常現象? 特殊召喚?
いや、どういう方法であったとしても、そもそも何でここにいる?
どう考えても彼の方から自分に会いに来るなんて考えられなかった。
だから也梛は、自分でもびっくりするくらい間抜けな顔で立っていたと思う。
開いた扉の前で、どれくらいお互いにらめっこをしていただろう。
「……何で」
ようやくそれだけを発した也梛に、父親が小さく息を吐いた。
「……そろそろ飯の時間だと」
父親はそれだけ言った。本当はそんなことを聞きたかったわけではないのに、也梛もそれ以上何を言って良いか分からず「ああ」と頷いた。
まだ麻痺したように固まった体を無理やり動かして、持って来た荷物をまとめる。
諷杝から預かった楽譜が詰まったファイルをしまおうとしたところで、再び父親の声が耳に届いた。
「――お前、さっき弾いていた曲」
まだそこにいたのか。父親は扉に寄りかかるようにして腕を組んで立っていた。視線は也梛にではなく、壁際のピアノに向いている。
也梛は内心でドキリとした。手の中にあるファイルを持つ手に力が入る。
「……あの曲は」
あの曲は、諷杝の父親が残した曲だ。
かつて『ZIST』のメンバーだった海中旋が、同じくメンバーだった者に向けて作った曲だ。
也梛が言葉の先を躊躇して黙り込むと、父親はそれを咎めるでもなく微かに笑った――ような気がした。それがまた珍しくて、思わず也梛は顔を上げた。
「どこか懐かしい曲だと思っただけだ。……ほら、早く飯食って寮に戻れ」
父親はさっと身を翻して背を向ける。
「父さん」
考えるよりも先に声を出していた。
「父さんは、何で諦めたんだ?」
言ってから、自分が何を言ったのか分からず也梛は驚いた。
(俺は何を……?)
テンパっていたのは認める。だがそれにしたって自分は何を口走ったのか。
父親が足を止めたのを見て、也梛はもう一度考えた。
(俺がこの人に聞きたかったことは何だ)
ピアニストになる道を歩まず、父親とも向き合うことがなくなってからどれくらいが経っただろう。
思い返せばきっと色々ある。もっとゆっくり考えれば、これが一番というものが他にあったかもしれない。――だけど。
「……キーボード、何で弾き続けなかったんだよ」
也梛がいつも持ち歩くあのキーボードは、昔父親が使っていたお古だ。父親が也梛に一番初めに触らせた楽器だった。
也梛は、彼の弾くキーボードが好きだった。
「何で――仲間への最後の曲を諦めたんだ?」
今手の中にある曲。それは本来、目の前の彼が手にしているべきものではないのか。――『ZIST』のメンバーの一人である、高瀬敦葉が。
父親はこちらを振り返らなかったが、この場を立ち去りもしなかった。
暫く待ったが答える気配がなかったので、也梛は諦めとやるせなさを噛み殺しながら小さく息を吐いた。
(やっぱり答えは返って来ないのか)
ふいに脳裏に過ぎった諷杝の顔に、また何とも言えない怒りのような気持ちが沸き起こる。
ファイルを鞄の中に突っ込み、荷物を持って立ちあがる。
「――もういい。あの曲の続きは俺たちが考える。あんたはずっとそのままでいたら良い」
精一杯の皮肉をぶつけて、也梛は父親の脇を擦り抜けて階段を降りた。
本音を言うともう今すぐにでも帰りたかったが、ご飯の用意をして待ってくれていた母親の厚意を無碍にできず、大人しくご馳走になることにする。
「あら、そういえばお父さんは?」
どこかそわそわして訊いて来る母親に、也梛はばっさりと言い返した。
「知らない」
リビングにいた葵が目を丸くしてこちらを見ていた。
五.
帰りの車の中では一切会話をしなかった。姉も空気を読んで黙ってくれていた。
寮に戻ると、部屋に入る前に一度仕切り直そうと深呼吸をした。也梛の個人的な問題でルームメイトに八つ当たりしてはいけない。
「――ただいま」
「あ、お帰り――どしたの?」
いつもの仏頂面で、何事もなかったように部屋に入ったつもりだった。だが、ルームメイトの諷杝は当たり前のようにそう返して来た。
「別に何も……」
「あー、はいはい。じゃあとりあえず荷物置いて手洗ってきなよ」
諷杝はよっこらせと立ち上がって、湯沸かしポットに水を入れ始めた。
也梛が黙って動き、ミニテーブルの前に落ち着いた頃、諷杝は目の前にあたたかい即席ココアを出してくれた。珍しく気が利いている。
小さく礼を言って一口飲むと、口内から体へとじんわりと温かさが広がって行った。
諷杝はココアを啜る也梛をただ眺めていた。まるで兄のように。
「落ち着いた?」
「……ああ」
諷杝はやっと頬を緩ませ、大げさに息を吐き出した。
「はあー、良かった。繕ってたつもりかもしれないけど、結構酷い顔してたよ」
「……どんな」
「怒ってるような、泣いてるような、悲しいような、なんか複雑な顔。也梛にしてはレア中のレアだと思う」
それは酷い顔だ。できれば誰にも見られたくはなかったが、それが諷杝だけだったのは幸いなのかどうなのか。
「そんな顔のやつによく声かけたな、お前」
「今になって思えば放っといても良かったかなと思うけど、さっきは先に口が開いちゃったからしょうがないだろ」
僕もお節介になったもんだ、とぼやく彼は困った顔をする。也梛こそ、ここまで彼に気を遣ってもらって恐縮だ。いつもは専らこちらが世話を焼く側だというのに。
「で、何かあったの? 別に話したくないならそれでいいけど」
気を取り直したように訊いて来る諷杝は、やっぱりいつもよりどこか年上のような感じがする。
マグカップの中の濃い液体を見つめていると、その中にずぶずぶと呑み込まれそうな心持ちがしてきた。意識してそこから視線を上げる。諷杝の穏やかな目とぶつかった。
「……少し、父さんと話したんだ」
「へえ」
諷杝の目に少し驚いた色が浮かぶ。
「でも、やっぱり何も返ってこなかった」
也梛が発した問いに、答えはなかった。だから、こちらが先に見限ってその場を去った。
「君は何を訊いたの?」
諷杝はゆっくりとした抑揚のない口調で言う。
「――何で諦めたんだ? って」
マグカップを持つ手に力が入る。也梛はぼそぼそとその時のことを口にした。
なぜキーボードを弾き続けなかったのか。
なぜ仲間への最後の曲を諦めたのか。
「本当はもっと他に聞きたいことあったはずなのに、とびだしたのはそれだった」
「そっか。――うーん、それは難しい質問だ」
諷杝は眉を八の字にして、微かに笑った。
「也梛のお父さんを擁護するわけじゃないけど、でもその質問、めっちゃ難しくない?」
「……そうか?」
「僕だったらそう思うかなって。そんな短時間で、ずっと話してなかった息子に説明するのは厳しいかなあ」
「でもそれにしたって、難しいとかどういう意味だとか、何かしら返す言葉があっても良いだろ」
父親からは一切何の反応もなかった。それがさらに也梛の癇に障ったのだと思う。
「そうだね、その点は也梛に同意する」
あっさり頷く諷杝に少し安堵する。
諷杝はしばらく黙ったままでいたが、すぐ側に置いていた楽譜を何げなく手に取った。きっと也梛が帰って来るまでここで見ていたのだろう。
「でも、そうか。敦葉さんにはあれが父さんの曲だって分かったんだ。――さすがだな」
そう呟いた声には、微かに嬉しそうな響きが含まれていた。
(俺はあの時、あの楽譜を父さんに見せるべきだったんだろうか)
父親に面と向かって『ZIST』の話をしたことはない。だからあの楽譜のことも話すのに躊躇した。
その上で也梛はあの質問をしたのだから、ある意味ちぐはぐなのかもしれなかった。
「……父さんは、この楽譜の曲をどう思ったんだろう」
「さあどうだろうねえ。でも多分、敦葉さん自身がこの続きを考えてくれることにはならないと思うよ」
それは也梛も思う。
「だからどっちにしても、これを完成させるのはやっぱり僕たちなんだよ。完成したら、改めて聴いてもらう。感想はその時に聞こう」
諷杝の笑みにやっと胸がすく思いがする。
「その頃にはきっと、さっきの也梛の問いにも答えが出てるんじゃないかな」
「――だと良いけどな」
「だから、今回のことでお父さんと話すのを諦めちゃだめだよ、也梛」
こちらを見る諷杝の目は穏やかで優しい。諭されているのにすっと胸の中に入ってくる。そのように言われては頷くしかなかった――渋々ながら。
「あ、そうそう。矢㮈ちゃんから連絡来たんだ」
一転して、いつもの軽いテンションで諷杝が言う。楽譜のそばに置いていた携帯を手に取ってメールを確認した。
「今回はちゃんとチェックしてたのか。すごいな」
心から褒めているわけではない。ただの皮肉だ。
「してましたよー! 一瞬、本気で首からぶら下げようかとも思ったけど、学校でそれはまずいしね」
「授業中にメールが来ることはねえよ」
矢㮈の方も授業中である。
「それで、いつだって?」
「明後日。学祭の準備が終わったら『音響』集合」
「了解」
ではその日はさっさと時間通りに作業をこなさないといけない。お化け屋敷会場の段ボールを捌ききるところまではいけるだろうか。
むしろ心配なのは、言い出した矢㮈の方が何だかんだ遅くなったり行けなくなったりしそうなことだ。
「それまでにできてるとこまでちゃんと形にしておきたいよね」
楽譜をパラパラやりながら諷杝が言う。
「そうだな。そうだ、今日も少し新しく考えたところがあって……」
也梛は鞄から自分の楽譜ファイルを取り出し、新しく追加した箇所を彼に見せた。
そのまま二人で検討モードに突入しようとして、諷杝が珍しくファインプレーを見せた。
「也梛! もうすぐ風呂の時間終わるよ!」
自分はすでに上がっている諷杝は寝間着姿だ。也梛は反射的に立ち上がった。シャワーだけは済ませておきたい。
「赤で入れたとこ目を通しておいてくれ」
「オッケー」
諷杝の返事を背中で聞きながら、着替えとタオルを持って急いで共用の風呂へと向かった。
六.
「父さんは、何で諦めたんだ?」
也梛から問われた言葉に、返すことができなかった。
まさかあいつからあんな問いが来るなんて思いもしなかったし、それがまた敦葉にとっては心の深い所に突き刺さるものだったからだ。
(何で、か。むしろ俺が訊きたい)
自分が今までしてきた選択は、正しかったのだろうか。
ただの逃げだったのではないだろうか。その挙げ句、自分の叶え得なかったものを息子に押し付けて、今こんなことになっている。
『敦葉は諦めちゃうのか?』
頭の中に、どうしようもない昔の友人の声が蘇る。
彼は最後まで、『ZIST』に向き合おうとしていた。亡くなった友人に向き合おうとしていた。
大人になってからも腐れ縁は続き、二十年も経ってからその連絡は来た。
『敦葉、オレの曲を完成させるの手伝ってよ』
『お前の曲ならお前が完成させろ。俺はもう音楽はしない』
『ダメだよ。これは敦葉にも関係大ありなんだから』
『は?』
『形になったら唱奈にも連絡しなきゃ。あっちには歌詞を渡さないとね』
『何を言ってるんだ』
『これはオレたちのけじめだ。いい加減、みんなで樹に挨拶に行こう』
久しぶりに聞く昔の友人たち――というより音楽仲間たちの名は、驚くほど耳に馴染んで聞こえた。
その時はろくな返事もできず、向こうが「また電話する」と言って切った。
それが最期だった。
その数日後、彼は――海中旋は交通事故が原因で亡くなった。
それからさらに時間が経って、ある日敦葉の元に一通の封筒が届いた。差出人は旋の名前になっていた。
不審よりの不思議な気持ちで封を開けると、中には小さな鍵が一つ入っていた。
目を眇めるようにしてその鍵を確認し、古い記憶を引っ張り出す。
どこかで見たことがあるような気がする。どこだったか。
ここ数年からさらに大学、高校時代へと遡る。
(もしかして)
一つだけ心当たりがあった。だが、これがこんなところにあっていいはずがない。そしてなぜここに送られて来たのか分からない。
(あいつは死んでからも俺を困らせるのか……)
全く意図が分からない。
長い間迷った挙句、これが本来あるべきところに返すことを思い付いた。
昔軽音楽部で世話になり、現在彩楸学園の副理事長を務める松殿に渡すことにした。
その時になって、旋の息子の諷杝が彩楸学園に入学したことを知った。
まさか一年後、自分の息子まで彩楸学園に入学するなんて思いもしなかった。
敦葉は誰もいなくなった練習部屋に足を踏み入れ、アップライトピアノの前に腰掛けた。
最後にピアノに触れたのはいつだろう。初めはピアノを弾いていたはずなのに、いつの間にかキーボードを弾くのが楽しくてそちらに移ってしまった。
(あいつも一緒なんだろうな)
かつて自分が辿った道を、也梛もまた辿ろうとしている。
敦葉はその道を歩ませたくなくて、そのように也梛に接して来た。だがそれが裏目に出た部分もあったらしい。
今まさに、敦葉が想像もしていなかったことになっている。
也梛が諷杝のいる彩楸学園に入学し、おまけに元メンバーの娘まで加わって一緒に音楽をしている。
本当に、この世の中はどうなっているんだろう。世間は狭すぎではないだろうか。
しかし一方で、息子は自分とは違う道を模索しているのだと感じてもいる。
それは今日、彼のピアノを久しぶりに聞いて実感した。
也梛はまだピアノを弾こうとしている。まだ、弾きたいという気持ちがあるのだと分かる。
自分のように、諦めはしないのだろう、あいつは。
彼は彼自身の意志で、ピアノとキーボードの奏者の道を歩んでいくのだろう。
幼い頃、姉と一緒に目を輝かせて敦葉のキーボードを聴いていた彼の姿を思い出す。
今ではもう、彼の方がずっと技術もあってこちらを唸らせる程だ。
本当は、也梛のピアノに期待するのは自分が彼のピアノをもっと聴いていたいだけなのだ。
それならそう素直に言えば良いと妻は言うだろう。だがそれができれば苦労はしない。
敦葉は自分自身に呆れたように、大きなため息を吐いた。
溜め息は、防音の整った壁に吸い込まれていった。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
お話の中で色々なものが同時進行していて頭が忙しくなってきました。引き続きよろしくお願いします。
(2022.04.17)




