始まりの音色
【主な登場人物紹介】
・笠木 矢㮈(かさぎ やな)…彩楸学園高校2年生。バイオリンを弾く。
・高瀬 也梛…同上2年生。キーボードを弾く。
・海中 諷杝…同上3年生。ギターを弾く。
【その他】
・臣原 千佳…2年生。矢㮈のクラスメイトで親友。
・松浦 大河…2年生。矢㮈のクラスメイト。
・衣川 瑞流…2年生。也梛のクラスメイト。
一.
二学期は何かと忙しい。
学校行事で言うと主に学園祭である。彩楸学園の学園祭は、文化祭二日と体育祭一日の三日間の行程となっていた。
文化祭の例年のパターンからいくと、二、三年生が体育館や講堂を使った劇を選択でき、その他は模擬店やテーマ展示、教室劇を含むミニ発表になる。
それに加えて、文化系の部活やサークルの展示や発表などがあった。
昨年同様、二学期の登校が始まる少し前に、クラスで集まって何をするか話し合った。
今年のクラスは約三分の二が文化系の部活に所属しており、残りの三分の一が運動系、若干名帰宅部という具合だ。
「体育祭はちょっと不安だけど、文化祭の出し物はそんなに心配いらなさそうね」
運動部に所属する臣原千佳が言った通り、文化祭のクラスの出し物はするすると決まって行った。文化部の女子たちが率先して意見を出し、それに反対する者がいなかった――正確に言うと、口出しできる猛者は存在しなかったからだ。
「みんな部活の方もあるだろうにすごいやる気だなー」
クラスメイトの松浦大河が感心したように、次々に決定事項が書き込まれていく黒板を見て言った。
矢㮈たちのクラスは教室を舞台に短時間の演劇をすることになった。
「松浦君はもう少しやる気があっても良いんじゃない? 今年の体育祭は動いてもらうわよ」
体育委員の千佳ににっこりと不敵な笑みを向けられて、松浦は頬を引き攣らせた。
「……やだなあ、臣原さん。もっと期待すべき運動部員たちがいるでしょ」
松浦も一応サッカー部に所属する運動部員である。すでに千佳には体育祭要員として目を付けられているようだ。
「あのねえ、松浦君。私たちは自分の部活発表の準備もあるから、さっさとクラスの出し物を決めたいんだよ」
近くの席にいた合唱部の川崎真梨香がこちらを振り返った。彼女も話し合いに積極的に意見を出していた女子の一人だ。
「なるほど」
思わず納得して頷いた矢㮈だった。
つまり、先にクラスの出し物を決めて準備を進め、各々部活発表にも集中したいということだ。
「さすがね」
千佳も同意するようにうんうんと頷いていた。
「合唱部は合唱の発表が?」
「うん、そう。もう練習は始めてるんだけど。あ、良かったらまた聴きに来てね!」
以前、矢㮈は合唱部の練習にお邪魔したことがあった。部長とも顔見知りになり、川崎もこうしてちょくちょく声をかけてくれる。
矢㮈はひとまず「うん」と頷き返し、そのまま参加させられたらどうしようと少しだけ懸念する。
(前も一回ヘルプで参加させられたしなあ)
新入生の入部体験の時、部員が少ないからという理由で矢㮈も巻き込まれたのだ。
(まあ、あれはあれで楽しかったけど)
「それはそうと、隣の三組は何をするのかしらね」
千佳が頬杖をついて微かに眉を寄せた。悩ましいポーズもどこかかわいらしく見えるのが彼女らしい。
「さあ……?」
矢㮈が首を傾げた時、隣の教室からワーッという歓声が聞こえた。
「?」
突然のことにクラスの面々も振り返って、見えない壁越しに三組を窺う。
そういえば今日は他のクラスもこうして文化祭の件で集まっているようだった。
「え、何だろ何だろ?」
隣のクラスに俄然と興味を示す千佳。恐らく、三組には彼女お気に入りのアイツがいるからだ。
「後で高瀬君捕まえて聞かなきゃね!」
「衣川君の方が説明役として適任だと思うけど」
千佳に捕まって高瀬が大人しく口を割るとは思えない。
「衣川にメッセ送っとく」
仕事の早い松浦が、スマホをスイスイと操作した。
二.
矢㮈たち二組の話し合いは正午前に終わった。
幸いにも隣のクラスより早く終わったことから、千佳は三組の話し合いが終わるタイミングを見計らい、見事に彼らを捕まえた。
「松浦からメッセ来てたけど、まさか臣原さんが教室の前で待ち構えてるとは」
衣川瑞流が呆れを通し越して半ば感心したように言い、
「お前、だんだんストーカー染みて来てないか?」
高瀬也梛が遠慮なく半眼を向けた。
「そんな! 高瀬君の熱烈なファンと言ってよ!」
どこかズレた答えの千佳に、高瀬が諦めたようにため息を吐いた。
丁度昼ご飯の時間だったので、そのまま食堂へ移動した。メニューは少なめだが、寮が再開していることもあって営業している。
「へえ、二組は劇するんだ。しかも臣原さんが魔女役?」
「ピッタリだろー?」
「二人とも、それはどういう意味かしら?」
衣川と松浦の言葉に、チキン南蛮定食の前で合掌した千佳が微笑んで首を傾げるが、目が笑っていない。
そうなのだ。二組の小劇は、クラスの文芸部員によるオリジナル脚本となる予定で、そこには三人の魔女が登場するらしい。その内の一人がクラス投票で千佳に決まった。
「オレは笠木さんの魔女も見たかったけどなー」
松浦が本気なのか冗談なのか分からないふうに言う。
「何それ俺も見たかった。ほわほわした感じの魔女だろうね」
衣川もうんうんと頷くのに、矢㮈は居たたまれない気分になる。そんなに期待されても困る。
「ドジ魔女決定だな」
ボソリと呟いたのは高瀬だ。矢㮈は思わず彼を睨んだ。相変わらず余計なことを。
「それで、三組は何をするの? 何か教室すごい盛り上がってなかった?」
千佳が逆に話題を振る。そういえば歓声が上がっているのが二組まで聞こえていた。
「ああー、うちはお化け屋敷だよ」
「和風にするか洋風にするかで謎の盛り上がりを見せてたな」
衣川と高瀬が淡々と答える。
「お化け屋敷……」
どちらかというと苦手だ。矢㮈が微かに眉をめた横で、千佳は正反対にわくわくした顔になっていた。
「高瀬君はお化け役やるの?」
「まだそこまでは決まってない」
「高瀬は背え高いから、色々仕事が回ってきそうだよなあ」
どこか他人事のように言う衣川に、高瀬がまた溜め息を吐く。
「衣川は?」
松浦に尋ねられて、衣川はあははと笑った。
「俺は小物準備担当。何かそれっぽいものを探してくる係」
「へえ」
簡単なようで結構難しそうだなと思う。
「高瀬君がお化け役だったら、あたしめっちゃ探すよ! 絶対声かけてね!」
「臣原さん、それすでにお化け屋敷の楽しみ方じゃなくない?」
「お化け高瀬君を写真に収めないと!」
さすが千佳、ブレない。松浦が若干引いている隣で、高瀬もげんなりしたように呟いた。
「……お化け屋敷内、撮影禁止にしてもらおう」
それを聞いた衣川がずっと笑っていた。
お昼を食べ終えると、それぞれ解散となった。
矢㮈と高瀬以外はそれぞれ部活に寄って行くという。
「松浦はともかく、衣川が部活って珍しい」
一応サッカー部に所属している衣川だが、実はサボり癖があるらしい。高瀬が思わずといったように言うと、衣川はわざとらしく眉を顰めた。
「高瀬、失礼だな~。俺だってたまには顔出すよ」
「たまには、か」
「まあ今日クラスの話し合いがなかったら面倒臭くてサボってたけどな」
「……納得」
飄々と言ってのける衣川はいっそ清々しい。
衣川と松浦が手を振って去って行くのを見送ると、千佳もうーんと伸びをした。
「さて、あたしも行こっかなー」
「千佳ちゃん、今度は新人戦だっけ?」
「そ。今のトコ調子はわりと良い方なんだ。夏休みは笠木たちの演奏でやる気もらったし、今度はあたしの番」
にっかり男前に笑った千佳は、矢㮈と高瀬に手を振って「じゃあ」と走って行ってしまった。後ろ姿も綺麗なフォームだ。
「新人戦、千佳ちゃん応援に行こうかなあ」
千佳は矢㮈たちの音楽祭を観に来てくれた。今度は自分が応援したいと思う。それに、ちゃんとした競技場で競技している彼女をまだ見た事がない。
「臣原のことだから喜ぶんじゃないか」
「いや、あんたが行った方が絶対喜ぶでしょ」
高瀬効果でものすごい記録を叩きだすのではないか――冗談でなくそんなことを思う。
高瀬は苦虫を噛み潰したような顔になりつつも、小さく息を吐いた。
「……まあ、考えておく」
(お?)
意外な返答に矢㮈の方が驚いた。彼からこんな前向きな言葉が出るとは。
「――というか」
「?」
高瀬がふいに真面目な顔に戻って矢㮈を見た。
「お前こそ、そろそろコンクール予選じゃないのか」
「……」
やはりチェック済みだったか。昨年も、矢㮈は家族以外の誰にも言っていなかったにも関わらず、高瀬だけはちゃっかり日程を把握していたのだ。
国内の音楽コンクールの地方予選が九月初週にある。――つまりは、来週だ。本音を言うと文化祭云々よりも気になって仕方ない。
一年前は何とか予選を突破したが、本選止まりだった。今年は本選の先に行くのが目標だ。
「調子は?」
「……まずまず、かな」
千佳のように調子が良いとは言い切れず、煮え切らない答え方をしてしまった。
しかし高瀬は「ふーん」と軽く相槌を打っただけだった。何か嫌味の一つでも言われるか、発破をかけられるかと構えていた矢㮈は少しだけ拍子抜けした。
(いや、もうちょっと何かないの?)
そっちから訊いて来たくせに、と心の中でぼやいた時、
「どれだけ伸びしろが埋まったのか、楽しみだな」
「!」
上から降って来た彼の言葉にはっとした。
『お前はまだまだ伸びしろがあるってことだ』
去年、コンクールを終えて悔しさの残る自分に投げかけられた言葉を思い出す。あの言葉を、言った高瀬も覚えていたのだろうか。
黙り込んだ矢㮈に、高瀬が訝しむ視線を送って来る。
何か言い返そうとして、思ってもみないことが口から飛び出した。
「……高瀬はピアノ、やっぱり出ないの?」
向こうも唖然とした表情で固まっているのが分かった。やがて、
「――そんな予定はないな」
彼がくるりと背を向ける。声のトーンに変化はないが、もしかしたら不機嫌にさせてしまったかもしれない。彼がコンクールに興味がないことはとうに知っていた。
(でも……やっぱりあたしはもったいないなあと思っちゃうな)
あんなにすごい演奏をするのに。高瀬のピアノは一度聴いたら頭から離れない。
矢㮈は心の中でそっと溜め息を吐いた。
三.
也梛が寮に戻ると、ルームメイトの海中諷杝が扇風機の前でまったりと涼んでいた。
「あ、お帰り也梛」
「ただいま。昼飯ちゃんと食ったか?」
本当はクラスの話し合いが終わるなりすぐに戻って来るつもりだったのだが、千佳たちに捕まって学食に連行されてしまった。
諷杝は放っておくとすぐに食事を疎かにするので、つい先程のようにオカンみたいなことを言ってしまう。
「うん、佐々木君たちと一緒にパン食べた」
諷杝も午前中は文化祭関連で登校していたのだ。ひとまず也梛はほっとして、彼の友人たちに心の中で感謝した。諷杝の世話をありがとうございます、と。
「今失礼なこと思わなかった?」
何かを察知したのか、諷杝がすかさず訊いて来る。
「別に。先輩たちに感謝していただけだ」
也梛はさらりと流し、洗面所へ移動して手洗いうがいを済ませた。
ミニ冷蔵庫から飲み物を取り出し、諷杝のいる部屋に戻る。
「也梛たちのクラスは、出し物決まった?」
「お化け屋敷」
「へえ~。也梛、お化け役するの?」
「まだ決まってない」
「やるなら教えてね! 記念写真撮らないと」
「お前までか……」
先程食堂でした会話を思い出し、がっくりと項垂れる。やはり、お化け屋敷内、撮影禁止にしてもらえるよう頼むべきかもしれない。
「そういうお前のとこは何やるんだ。また劇か?」
昨年、諷杝のクラスは演劇発表だった。しかも彼は端役で通行人Cを演じることになったのだが、ただ歩くだけの演技が挙動不審過ぎて苦労したという経緯があった。
練習に付き合わされた也梛は一体どうしたらそこまで不審者になるのだろうとすこぶる不思議だった。
本番は練習の成果が見られ少しはマシになったが、初めて目にした矢㮈や並早教諭は「え、何あれ?」と目を丸くしていた。
「うん、今年も劇らしいよ」
淡々と答えた諷杝は、表情がどこか柔らかい。
「僕は大道具担当だから今年は舞台に出なくて良いんだ」
「ああ、なるほど」
昨年は端役さえこなせばそれ以外の仕事があまり回って来ないからと考えていた諷杝だったが、あの通行人役が相当堪えたらしい。たった十数秒の出番より、大道具の長期間仕事の方を選んだようだ。
「内容は?」
「日本昔話十選」
「何だそれ?」
耳慣れない言葉に思わず聞き返す。
「短い日本昔話十話を集めてアレンジ上演するんだって。今まで水無月祭の仮装で散々昔話シリーズをやって来たけど、その総集編みたいな感じ」
「へえ……」
どうしてそのチョイスになったのか分からないが、有名な話であれば知っている生徒がほとんどだろうから楽しめるかもしれない。
「でもそれ、大道具とか小道具とか大変そうだな」
ついでに背景も。也梛の意見に諷杝の頬が微かに引き攣る。
「……舞台に立って不審者になるよりはマシじゃない?」
「お前、本当にあれで心が折れたんだな」
也梛は項垂れる諷杝に同情する視線を向けた。
「矢㮈ちゃんのクラスは何をするんだろうね」
「何か魔女が出て来る小劇らしいぞ」
「矢㮈ちゃん魔女するの?」
「いや、あいつは出ないみたいだけど。臣原は出るとか言ってたな」
「そっかあ。矢㮈ちゃんのほわほわした魔女、ちょっと見てみたかったなあ」
こいつも松浦や衣川みたいなことを言っている。
「いや、どう考えてもあいつはドジ魔女だろ」
「そのドジってとこがかわいいんだよ」
「……お前ら頭大丈夫か?」
也梛は本気で心配になってきた。諷杝もあいつらも、一体矢㮈にどんな期待をしているのか。
「臣原さんってあの音楽祭に来てくれた子だよね」
「ああ」
「也梛のことが大のお気に入りの」
「……その言い方やめろ」
也梛にとっては、どうしてああも千佳が自分に執着するのか分からない。もう一年以上も付き合っていると慣れて、半分諦めの境地にいるが。
「でもあの子、也梛に告白したりって感じではないよねえ」
自分のこととなるととんと鈍感なくせに、他人に関しては妙なところで鋭い諷杝が首を傾げる。
「……あいつも本命が別にいるからだろ」
也梛はあっさり言って水を口に含んだ。諷杝が納得したように「ああ」と頷く。
「それで也梛も特に線引きしたりしてないんだ?」
「まあな」
彼女がどうして自分に関わってくるのか謎なのものの、恋愛に発展しないとどこかで分かっているから放置しているのだと自覚している。――ぐいぐい来る苦手なタイプではあるけれど。
「あはは。也梛の貴重な友人の一人というわけだ」
「……さあな」
松浦や衣川と同じ自分を巻き込む存在という意味では珍しい友人の一人と言えるかもしれない。
諷杝はどこか愉快そうに也梛をじっと見ていたが、ふいに唇の端に笑みを浮かべた。
「――じゃあ矢㮈ちゃんは?」
「あ?」
口の中で転がしていた水をごくんと呑み込んで、変なところに入ったのか少し咳き込む。
「え、大丈夫、也梛?」
諷杝が驚いて声をかけてきたのを睨み返し、也梛は小さく息を吐いた。
「――笠木は音楽仲間だろ」
それ以上でも以下でもない。
諷杝は「へえ?」と探るような目を向けていたが、やがて微笑んだ。
「まあ、そういうことにしといてあげるよ」
「どういう意味だ」
眉間に皺を寄せた也梛に、諷杝はただ笑うだけだ。
(お前こそあいつをどうするつもりだよ)
矢㮈が好意を寄せるのはむしろ諷杝の方だろう、という言葉を呑み込む。間違っても、いつも嫌味と余計なことと意地の悪いことしか言わない也梛にそういう感情をもつはずがない。
(まあ、お前らの問題だから俺は知らない)
也梛はもう一度溜め息を吐くと、棚にしまっていたファイルを取り出した。そこには例の譜が挟んである。
「ほら、これの続きやるんだろ」
先日見つかった、諷杝がずっと探していた楽譜だ。この譜は未完で、これから也梛たちが完成させようとしている。
「笠木はいよいよコンクールが始まるからな。ひとまず俺らで考え始めるぞ」
「オッケー。――よろしくね、也梛」
先程までの空気が一変したように、諷杝がすっと真面目な顔になった。
也梛は頷いて、ファイルを開いた。
四.
演奏が終わると緊張が解けてどっと疲れを感じていたが、会場を後にして足が向かった先は彩楸学園だった。
開催日程が平日だったため学校を休むことになり、若干の後ろめたさがある。だがそれ以上に、あの二人の顔を見て安心したかった。
彼らはいつものように、屋上にいた。
丸太のようなベンチに座って、それぞれの楽器を膝に乗せて譜面を突き合わせていた。
「ここのメロディ、こっちの方が自然じゃない?」
「だよな。じゃあここはこのままで。でもこっちは変化が欲しい――」
ふと、黒髪眼鏡の少年がこちらに気付いて振り返った。高瀬だ。
その向こうから焦げ茶の髪の少年がふわりと微笑んで手を上げる。
「矢㮈ちゃん! お疲れ様」
その二人の姿に急に安堵が込み上げて、矢㮈は唇をぎゅっと噛みしめた。そのまま二人のいる所へと近づいていく。
諷杝の膝の上にはギターが、高瀬の膝の上にはキーボードが載っている。そして二人が手にしている楽譜。
なかなか口を開くことができずにいると、高瀬がふっと笑った。
「何だ、派手にやらかしたのか?」
「っ……そんなわけないでしょ!」
ほとんど反射だった。言い返した矢㮈に高瀬は意地悪く笑う。
「はっ、それはそれはよっぽど自信があるんだな」
「あるわよ! ちゃんと練習の成果が出せたと思うもん!」
夢中だったせいであまり鮮明に覚えてはいないのだが、驚くほどあっという間に終わった実感だけはある。何も引っかかるところはなく聴いていた祖母も弟も今までで一番良かったと褒めてくれた。
「――あっそ。ならお疲れさん」
高瀬はふいと視線を楽譜に戻した。何なんだこいつは。
怪訝な顔のままの矢㮈に、諷杝がくすくすと笑う。
「也梛なりの労いだと思うから、大目に見てあげて」
「これが労い……?」
「ほら、天邪鬼だから」
「ああ、うん」
そこには納得すると、すかさず高瀬から睨みが飛んで来たのでスルーした。
「ところでそれ、あの楽譜だよね」
矢㮈が諷杝の手元にある譜を覗き込むと、諷杝は頷いた。
「うん。早速続きを考え始めたんだ」
「ごめんね、あたしコンクールの方にばっかりで」
「ううん。矢㮈ちゃんはそっちを優先して良いから。ちゃんと確認してほしい時は見せるし」
「ありがとう」
実際、曲作りに関しては圧倒的に高瀬の役割が大きい。矢㮈ができることと言えば、出来上がってきた曲を確認して、意見を述べるくらいだ。
「どの辺まで進んでるの?」
「いや、まだ全然。也梛のオリジナルならもっと早いんだろうけど、今回は元が僕の父さんの曲だから、それに合わせてくれてて」
別に也梛のオリジナルに切り替えてくれてもいいんだけどね、と諷杝が肩を竦める。
「それじゃ意味ないだろ。これはお前の父さんが完成させるはずだった『ZIST』の曲なんだから」
高瀬が呆れたように口を挟む。
「他のメンバーに聴かせるんだろ。だったら俺の曲じゃ意味がない」
それは彼自身にも何かを言い含めているような口調だった。
「まあ、也梛がそう言うなら任せるよ」
諷杝は軽く頷いた。作曲に関して、諷杝はあまりとやかく言うつもりはないようだ。
手持無沙汰になった矢㮈は、何となくバイオリンケースを開けてバイオリンを取り出した。舞台で弾いて来たと言うのに、まるで今日初めて触れるかのような感覚だった。
「勝手に弾いてても良い? うるさかったら言ってくれて良いから」
矢㮈の問いかけに、諷杝が大きく頷き、高瀬も微かに頷いた。
矢㮈は二人から少し離れて立ち、バイオリンを構えると、譜面を見ずに弓を動かし始めた。
細くて、でも滑らかで強い音が空気を震わす。
どこか切ないその曲は、まさに今、高瀬と諷杝が考えようとしている未完成の曲だ。
初めて聴いたのは、この屋上で、諷杝の鼻歌だった。
諷杝に楽譜のコピーをもらってから、もうすっかり覚えてしまうくらい、バイオリンで繰り返し弾いて来た。
ここで二人を前に初めて奏でた時のことを思い出す。
あの頃より、響きに変化はあるだろうか。
自分の音は成長しているだろうか。
(上手くなってたら良いな)
少しでも軽やかに、スムーズに。
聴いている人が、この切ない曲に心動かされるような音を。
あの時の諷杝の鼻歌が、まさにそうだったように。
矢㮈はただ無心で音を奏で続けていた。
***
バイオリンの繊細な音色が風に乗って耳に届く。
諷杝は目を閉じてその音に耳を澄ませていた。
自分の鼻歌とも、ギターでの弾き語りとも全然違う、バイオリンの旋律。
どこか浄化されるような清々しい音色。
隣に視線を遣ると、也梛もまたじっと耳を澄ませているのが分かった。
「……あの頃より、もっと洗練された音だね、也梛」
「……ああ、そうだな」
ここで初めて矢㮈がこの曲を演奏してくれた時のことを思い出す。
あの時は本当に驚いて、同時に嬉しかった。
彼女がこの曲を大切に思ってくれていたのがただ嬉しかった。
あの演奏に、諷杝だけでなく也梛もまた心動かされて、彼女のバイオリンと一緒に演奏したいと思ったのだ。――あの頑なに人の前でキーボードを弾こうとしなかった也梛が自分からキーボードを取り出したのにもびっくりだった。
(あの時から、僕たちの音楽が始まったんだ)
諷杝と也梛だけではきっとこうはならなかった。彼女の音が加わって今がある。
心の中が満たされていく感覚を噛みしめながら、演奏する彼女の後ろ姿を見つめた。
(君は自信をもって大丈夫だよ、矢㮈ちゃん)
先程まで不安そうな顔をしていた彼女を思い出して、そっと心の中で呟いた。
(君が頑張って来たのを僕たちは知ってるし、ちゃんとその成果はついてきてるから)
諷杝は心地よいメロディーに目を細めて幸せな気持ちになった。
ここまで読んで下さってありがとうございます。いよいよ2学期が始まりました。色々な意味で後半戦の開始ですね。(2022.04.10)




