盆休みの前に
【主な登場人物紹介】
・笠木 矢㮈(かさぎ やな)…彩楸学園高校2年生。バイオリンを弾く。
・高瀬 也梛…同上2年生。キーボードを弾く。
・海中 諷杝…同上3年生。ギターを弾く。
【その他】
・相田 将…雲ノ峰高校3年。昨年の音楽祭実行委員長。
・淡海 あやめ(おうみ あやめ)…同上3年。将の幼馴染みで音楽仲間。
・並早…彩楸学園英語教諭。
・『ZIST』…諷杝の父親が高校生の時に組んでいた4人のバンド。
一.
音楽祭二日目の片付けが終わるとあっという間だった。祭の後の名残惜しい空気を漂わせながらも、参加者たちはそれぞれの学校へと引き上げていった。
本来であれば翌日からは夏休み――だったのだが。
「打ち上げするわよ!」
雲ノ峰高校の淡海あやめの一声で、音楽祭実行委員を中心にお疲れ様会をすることになった。
「悪いな。打ち上げをしないで受験勉強に集中できるわけないでしょ、って言うことをきかなくてな」
淡海の幼馴染であり、二年連続音楽祭実行委員長を務めた相田将は、何かを諦めたように言った。
「打ち上げしたら本当に受験勉強に集中できるの?」
海中諷杝が正直に疑問を口にすると、相田は明後日の方角に視線を逸らせた。
「次は文化祭だーとか言い出すんだろうよ」
さすが幼馴染というべきか、淡海のことがよく分かっている。
結論として淡海を止められる者がいるはずもなく、お盆休みになるぎりぎり前くらいに打ち上げが行われた。
実行委員のメンバーを中心に声掛けされ、そこからさらに広がって最終的には大所帯になっていた。何と言うか、合宿の締めといった感じか。
今年も確かに充実した音楽祭であった。打ち上げも終わってしまうと、心の中にぽっかりと穴が開いたような空虚な気持ちが襲って来た。
打ち上げの帰り道、笠木矢㮈は海中諷杝と高瀬也梛とともに駅まで歩いていた。
お昼ご飯を中心にした打ち上げだったため、まだ外は明るい。相変わらず蝉が鳴いていて、まだ夏は続いていると主張しているようだ。
「まだお盆休みは明日からだけど、何か夏が終わった気分」
音楽祭が夏のメインイベントだったせいか、もう今年の夏が通り過ぎ去ってしまったような錯覚を覚えた。
「まあとりあえず無事に終わって良かったね」
諷杝がしみじみと言った。少し疲れた顔に見えるのは、予想以上に大勢の打ち上げに参加したからだろうと思う。
「僕はお疲れ様会はこの三人くらいで丁度良かったんだけど」
諷杝の本音が漏れて苦笑する。彼らしい。
「まあまあ。でもそうだね、あたしたちだけでもやりたいね」
「お疲れ様会っつーより、反省会かもしれないけどな」
ずっと黙っていた高瀬が嫌味を飛ばしてくる。
しかし矢㮈にとっては、お疲れ様会だろうが反省会だろうがどっちでも良かった。どちらにせよ、明日からしばらく二人に会う機会がなくなるのだ。
(いや、しばらくって言うか――)
もしかして次に会うのは夏休み明けでは?
矢㮈たちは特に部活やサークルに入って活動しているわけではない。高瀬はバイトがあるだろうし、諷杝も受験生として忙しいだろうし、矢㮈もバイオリンのコンクールに向けての練習がある。
学校があるならまだ顔を合わすこともあるだろうが、まだ休みは半月以上あった。
彩楸学園の寮で生活している諷杝と高瀬は、明日それぞれの実家に帰省するそうだ。早くて盆休み明け、諷杝と高瀬が寮に戻って顔を合わせるくらいだろう。
「ね、二人はいつ寮に戻って来る?」
できるだけ自然を装って訊いてみる。
「んー、来週半ばには戻ってると思うけど」
不思議がる様子もなく、諷杝が顎に手をあてて答えた。
「高瀬は?」
背の高い同級生を見上げると、彼はこちらをちらとも見ずにぶっきらぼうに答えた。
「俺も諷杝と同じくらいには戻る予定だ」
「! それなら……」
「お前のコンクールの練習に隙間時間があれば反省会をしても良いぞ」
高瀬がふっと笑ってひねた物言いをするので、矢㮈は頬を膨らませた。
「言い方!」
「也梛は意地悪だなあ」
諷杝までもが呆れた顔でため息を吐いていた。
「じゃあ場所は――僕たちの場合はあそこしかないか」
「マスターのとこ?」
「そう。マスターには僕から連絡しておくね」
「ありがとう!」
矢㮈が嬉しい気持ちをそのまま声に乗せると、諷杝も嬉しそうに目を細めた。
「也梛も良いよね?」
「ああ」
諷杝の確認に高瀬のそっけない答えもいつも通りだ。
また日時は相談するということで、矢㮈は駅で二人と別れた。
(ちゃんと携帯確認しておかないと)
普段、携帯電話を携帯しないことで定評のある諷杝と高瀬である。彼らからの連絡を見過ごさないようにしなければ。
さっきの今で連絡が入るはずなどないのに、矢㮈はわくわくした気分で自分の携帯を握り締めた。
二.
「也梛、帰省前のお土産とかはもう買った?」
笠木矢㮈と別れてから、諷杝が買い物があるというので也梛はそれに付き合っていた。
「別にいらねえだろ。うちはそこまで遠くない」
也梛の実家は県を跨ぐというレベルの場所にあるわけではない。実際、実家からでも十分彩楸学園に通うことができる範囲だった。寮に入っているのは単に也梛の個人的な理由に過ぎない。
「いや、それを言うなら僕の家もそうだよ。けど家族にお菓子とかさあ」
諷杝には小学生の義理の妹がいる。さっきからバラエティに富んだかわいらしい菓子を見ているのはきっと彼女へのお土産だろう。
「なら俺は若葉用にファミリーパックの菓子でも買って帰る」
今年高校生になった妹の若葉には安くて量が多いのが一番だ。毎日也梛の倍以上の運動をしているから、あっという間になくなってしまうだろう。
諷杝は也梛の言葉に小さく笑いを漏らし、選び抜いた菓子の詰め合わせを持ってレジに向かった。
その他必要な買い物を済ませると、也梛と諷杝は電車に乗って彩楸学園の最寄り駅に降り立った。
まだむしむしとした熱さが鬱陶しいが、陽が傾き始めているせいか通り抜ける風が心地良かった。昼間に比べると蝉の鳴き声もマシになっている。
学園の近くにある音楽喫茶『音響』の店の前を通ると、残念ながら閉店していた。
「あ、閉まってたか。マスターに挨拶して行こうと思ったんだけど」
帰り道で矢㮈と話していたお疲れ様会は、ここ『音響』でやるつもりだった。開いていたらマスターに予定を聞いておこうと思ったのだろう。残念だがまた日を改めるしかない。
「ああそうだ、也梛。寮に戻る前にもう一ヵ所、寄っても良い?」
「?」
諷杝は真っ直ぐ寮へ戻らずに、彩楸学園の校門へと向かった。そのまま昇降口へ続く並木道を進んで行く。
「うわ、まだ部活してるんだな」
運動場の方から聞こえてきた掛け声に視線を向けると、野球部と陸上部の姿が見えた。明後日から一週間学園全体が休業に入るが、そのギリギリまで部活動は行っているようだ。
(あ、あれは)
トラックを走る姿勢の良いランナーが目に留まる。也梛の悪くない視力はそれが同級生の女子であると判断した。部活時の彼女は普段の騒がしさが嘘のように思える。
(相変わらず綺麗なフォームだな)
頭の中に現れた矢㮈が「当たり前でしょ!」と口を挟んできたので苦笑しながら追い出した。
昇降口の扉は一つだけ解錠されていた。そこから校舎に入る。
諷杝は真っ直ぐ職員室に向かった。ノックをして引き戸を開けると、冷やりとした空気が吹き抜けた。部屋の中には数人の教員の姿があった。
「並早先生」
諷杝が声をかけると、三年の担当教員が集まっている机の一つから並早が顔を上げた。
並早は作業する手を止め、わざわざ廊下に出て来てくれた。
「先生、夏休みも来てるんですか?」
思わず也梛が訊ねると、並早は「まあね……」と小さく苦笑した。お疲れ様です、と心の中で呟いてしまった。
「そういえば、打ち上げは楽しかったかい?」
今日の打ち上げに教員は参加していなかったが、一応事前に話は伝えてあった。
「はい。淡海さんが相変わらずでした」
「最後まで相田さんがきっちり締めてくれていたので大丈夫でした」
諷杝と也梛の感想に並早は苦笑しながら頷いた。
「そっか。相田君たちだから大丈夫だろうと思ってたけど、楽しかったなら何よりだよ」
そして笑いをおさめた並早は、改めて二人に訊ねた。
「で、どうしたんだい。わざわざ打ち上げの報告に来てくれたわけではないだろう?」
也梛は諷杝を見た。ここに自分を連れて来たのは彼である。
諷杝は廊下の窓の向こう、暗くなりつつある中庭を見つめながら口を開いた。
「後片付けでバタバタしていてちゃんと聞けなかったので来たんです」
くるりと並早の方を振り返る。
「僕の宣戦布告、どうでしたか」
也梛が目を見開いたのと、並早の顔が少し緊張したのが同時だった。
(そういえば音楽祭前に言ってたな……)
――まずは宣戦布告だよ。僕から『ZIST』への。
音楽祭一日目の朝、諷杝が言ったことだった。
その場には並早と也梛がいた。だが、也梛にはどういうことなのか意味が分からなかった。何より、諷杝から『宣戦布告』などという物騒な言葉を聞いたのが衝撃だった。
(あれは一体どういう意味だったんだ?)
也梛が訊ねようと口を開く前に、並早が言葉を発した。
「なかなかだったんじゃないかな。正直、彼らがどう思ったのかは分からないけど、でも、確かにあの場で君たちの演奏を聴いてたよ」
そして、松殿先生も一緒にね、と付け加える。
「……ちゃんと来てくれたんですね」
しみじみと呟く諷杝に、並早が苦笑した。
「僕の方が驚いたよ。松殿先生があの先輩と一緒にやって来たんだから」
(先輩……?)
也梛は内心で首を捻りつつも黙っていた。
「松殿先生が引っ張って来てくれたのかもしれないですね」
微笑んだ諷杝に、並早は同意するように頷いた。
「それから、あの数字の件、松殿先生が訊いてくれたんだ」
「数字? ……もしかしてあの『407』と『268』ですか?」
やっと也梛にも分かる話題が出て来た。諷杝が探している楽譜の所在に関するかもしれない二つのナンバーだ。
「そう、それ。その時は分からないって答えられたんだけど、松殿先生と別れる時にね、一つ思い出したって」
「え!?」
諷杝と也梛の驚きと期待する声とが重なった。
「何だったんですか?」
「僕も詳しい話は聞けてないんだ。でも、とある鍵を解除するナンバーじゃないかって」
「解除するナンバー……」
今まで、ロッカーに割り振られたナンバーではないかと推測して探したことはあった。だが、鍵を解除するための数字までは考えていなかった。
「どこの鍵なんでしょう?」
「さあ……。お盆休みが明けたら、松殿先生がまた諷杝君たちに会いたいって仰ってた」
「それは願ったりもない話ですけど」
どうやら今すぐに謎が解けるわけではないらしい。
諷杝と高瀬は顔を見合わせて、同時に息を吐き出した。並早が八の字の眉で「期待させてごめんね」と謝った。
「いえ、そのお話を聞けただけでも前進しました」
気を取り直した諷杝が感謝の意を示し、横で高瀬も頷いた。
現状、楽譜探しは八方塞がりの状態だった。何であれ、新たなヒントが見つかったなら儲けものだ。
「というわけで、お盆休み明けを楽しみにしていてくれるかい? 松殿先生から連絡があったらすぐに伝えるから」
「分かりました」
「それから二人とも、事故には気を付けて、ゆっくりお盆休みしておいでね」
並早が笑って、二人の背中をポンと叩いた。
諷杝と高瀬は揃って頭を下げ、校舎を後にした。
三.
今度こそ寮に戻るのかと思いきや、諷杝は正門を出て寮とは反対側へと歩き出した。学園の外周に沿って進んで行く。
「諷杝、まだ寄る所があるのか」
「ううん。ないけど……ちょっと遠回りして帰りたい気分で」
もうほとんど日が傾いている。遠くグラウンドでは後片付けをしている部員の影が見えた。
「也梛、僕に訊きたいことがあるならどうぞ」
何の前触れもなく飄々と言ってのけた諷杝に、也梛は少し考えてから口を開いた。
「あれ、どういう意味だったんだ? あの『宣戦布告』」
先程訊けずにいた疑問だ。ずっと考えていたが分からなかった。
諷杝は特に考える間を開けず、むしろその問いがくるのを待っていたように答えた。
「そのままの意味だよ。僕から『ZIST』へのメッセージ」
宣戦布告からいくぶん柔らかい表現になったが、やはりその真意はさっぱり不明だった。
也梛の怪訝そうな顔を見て、諷杝は首の後ろに手を遣りながら付け足した。
「前に、僕が探してるあの楽譜が樹さんのための鎮魂歌なのかも、って話したでしょ。それはつまり、あの曲が父さんを含めた『ZIST』のための曲だってこと」
分かるようでまだ分からない。也梛は眉間の皺を深くした。
「父さんが生きてたらあの楽譜は完成してただろうね。けど、無念にもそれは叶わなかった」
不慮の事故で亡くなってしまったからだ。諷杝が僅かに眉を八の字に顰める。
「多分、父さんは樹さんに捧げることを考えてた。それは残された手紙からも明らかだ。でもこれは父さんだけの問題じゃなくて、他の『ZIST』のメンバーも一緒にってことだったんじゃないかな」
「それは……」
也梛の言葉を遮って、諷杝は続けた。
「僕は父さんの意志を半分引き継ごうかなと思ってるんだ」
「半分引き継ぐ?」
「父さんが残した楽譜がどんな状態で残っているのかは分からない。けど、僕に楽譜探しを提案したということは不完全であれ何かしら残っているということになる。……まだ見つけられていないけど」
諷杝が一瞬歯痒そうな表情になったのを也梛は見逃さなかった。
「今までの僕は、楽譜が見つかったら君たちと一緒に演奏したいなあくらいに考えてただけだった。でもこれが『ZIST』のための曲なら、それではダメだと思ったんだ」
諷杝の目に力が籠る。いつになく真剣な彼に、也梛はごくりと唾を飲み込んだ。
「今回の音楽祭で僕が『ZIST』のアレンジした校歌を披露したのはわざとだよ。他のメンバーに、まだ『ZIST』のことを心のどこかに留め置いてくれていますか、って尋ねたかったんだ」
『ZIST』はメンバーの一人、並早樹が亡くなった後、自然解散したと聞いている。諷杝の父親は樹のために曲を作っていたと言う話だが、他のメンバーがそれに関わっていたのか、その辺りはよく分からない。
「……何で直接当人たちに尋ねないんだ?」
「純粋に音楽で聴いてほしかったから。その方が伝わると思ったから」
也梛なら分かるでしょ? と諷杝の目が言っている。
(……まあ、分からなくはない)
音楽で伝えられるものは確かにあると也梛も思う。
「それぞれ何を感じたかは、確認する術がないんだけど」
苦笑する諷杝は普段の幼さが消えて大人びて見えた。
「もし他の『ZIST』のメンバーが今もまだ父さんの楽譜を待っていてくれるなら、僕はそれを代わりに伝えたい。父さんの楽譜が未完なら、僕らで完成させてその音楽を届けたい」
「……」
「父さんが残した手紙を読んでいて思ったんだ。多分『ZIST』のメンバーは、『ZIST』として樹さんとちゃんとお別れができてない。長い間、整理する時間が必要だったんじゃないかな」
なるほどそれはあるかもしれない、と也梛は心の中で思った。
「僕だって、もし仮に、也梛か矢㮈ちゃんと永遠に会えなくなったら、きっと同じだろうって思うから」
「――そうだな」
也梛だって、諷杝はもちろん矢㮈とも一年以上一緒に演奏をしたりして関わってきたからには、少なからず仲間の情がわいている。これを突然失う――それも永遠に失うとなれば、そう簡単に整理することはできないだろう。下手をしたら、音楽を続けることだって不可能になってしまうかもしれない。
(――音楽ができなくなる?)
そこで、ふとあることを思い出した。
いつだったか、『音響』でマスターから聞いた話だ。
ピアニストを目指すくらいの腕を持った男の子が、高校で音楽仲間たちに出会い、彼らと共にキーボードを弾く楽しさに目覚めた。
だが色々あって音楽仲間たちがバラバラになり、その男の子はピアノもキーボードも弾かなくなってしまった。結局、音楽に関する学科のない四年制の大学に進学したという。
(俺がキーボードを弾かなくなる、か……)
全く想像もつかない。だが、それが絶対にないとも言い切れない。
認めるのは癪だが、諷杝も矢㮈もそれだけの存在になっている。
今日は珍しくキーボードケースを担いでいない肩が急に寂しくなった。
あのキーボードとは長い付き合いだ。也梛が初めて触れた楽器だった。
(元は……父さんの)
也梛の足がピタリと止まった。
「どうしたの、也梛?」
数歩先で諷杝が振り返る。すぐそばの電灯がチカチカと点滅した。
「――諷杝。さっき並早先生が言ってた先輩って」
今も生きている『ZIST』のメンバーの一人を也梛はもう知っている。直接当人に問いただしたことはないが、楽譜に残されたものから導き出し、諷杝はそれを否定しなかった。
諷杝が逆光の中で微笑んだような気がした。
「ピンポーン。松殿先生と一緒だったのは、高瀬敦葉さん――君のお父さんだ」
「本当に来たのか?」
也梛にはそちらの方が信じられない。母親と姉が来ていたことは聞いているが、父親は来ても彼女たちの送迎くらいだと思っていた。
「それは並早先生も言ってたじゃない。一緒に聴いてたって」
「……」
並早を信用していないわけではないものの、それでもやはり信じられない。諷杝が肩を竦めた。
「本当にお父さんとの仲こじれてるねえ……」
「今さらだ」
こじれていなかったらもっと会話をしていただろうし、もっと早くに『ZIST』の話の一つも聞いていたかもしれない。
也梛は少し考えて、
「……俺は、父さんに何か聞くことがあるか?」
もしも諷杝が知りたいことに繋がるのなら、也梛は苦手とする父親とも会話を試みるべきだろうか。諷杝のためであれば、それができるような気がした。
だが諷杝はあっさり首を横に振った。
「ううん、君を通して敦葉さんに訊いてほしいことは何もないよ。あるとしたら、それは也梛自身がお父さんに訊きたいと思ってることだよ」
彼に問うべきことは、諷杝のことではなく也梛自身のことだと。
「――だったらまだすぐには無理だな」
諦めて横を向いた也梛に、諷杝がクスクスと笑い出す。
「似た者親子だなあ。――でも、折れどころを見失わないでね。いつまでもそこにいるなんて思ってちゃダメだよ」
笑いの後に続いたのは、か細い諷杝の本音だった。彼はある時急に、両親を失っているのだ。この盆休みの間に、墓参りにも行くのだろう。
也梛は頷くことも言葉を返すこともできず、ただ星が瞬く空を眺めていた。
「さて、帰ろうか、也梛。お腹すいたね」
次に聞こえて来た声はすっかり元の彼らしい陽気な声だった。
也梛は少しだけ安心して、彼の隣に並んだ。
学園の外周を半分ほど来てしまっていた。このまま行くにしろ折り返すにしろ、また半分を歩かねばならない。
(まあ最近バイトもあんま入れてなかったし、いい運動だと思おう)
もう陽が落ちたというのに、どこからかか細い蝉の声が聞こえた。
「そう言えば前に言ってた鳩のイツキのための曲、休みの間に考えとく」
ふと、いつしかした約束を思い出して言ってみる。
「ホント!? 楽しみにしてるよ」
諷杝が空の星に負けないくらい輝いた顔をしたので笑ってしまった。
四.
「おはよう、おじいちゃん」
今年も祖父が帰って来た。仏壇の傍には、生前祖父が使っていたバイオリンが置いてある。今も祖母がメンテナンスを欠かさず大切にしていた。
矢㮈は部屋の窓を開け放し、掃除機をかけ始めた。今日は昼から親戚たちがやってくることになっている。弟の弓響も他の部屋を片付け、母親と祖母は食事の用意をしている。
店も休店しているが、父親は厨房で親戚たちをもてなすためのデザート作りをしている――やっていることはいつもとあまり変わらない。
こんなことを言っては父親に申し訳ないが、矢㮈個人的には、叔母が土産に持って来てくれる和菓子がとても楽しみだったりする。
「姉貴、掃除機終わったら次貸して」
開いた襖からスポーツ刈りの少年がひょっこり顔を出した。
「オッケー、弓響。さっさとかけちゃうからちょっと待ってね」
掃除機のスイッチを強にして、敷物の上を丁寧にかけていく。
「それ終わったら、母さんが台所で手伝ってって言ってた」
掃除機の音量に負けない声量で弓響が言う。さすが野球部、腹から声を出すのには慣れている。
「はーい!」
矢㮈も大きな声で返事をした。
掃除機を弓響にバトンタッチして、矢㮈は母親がいるだろう台所に向かった。
「母さん、仏間の掃除終わったよ。……あれ、おばあちゃんは?」
「ありがとう。おばあちゃんはちょっと買い忘れがあってスーパーに」
汁物の入った鍋の様子を見ていた母親が火を止めて振り返った。
「いつもの食器じゃ数が足りないから、戸棚にしまってる食器を出そうと思って。手伝ってくれる?」
「うん」
母親の言う戸棚は上部に取り付けてあり、そのままでは届かない。矢㮈は椅子を運んで来て戸棚の下の位置に置いた。
戸棚を開けると、大小様々な箱が詰めこまれていた。
「母さん、どの箱?」
「正面の下から二番目のと、右側の黒い……」
大きな箱は地味に重く、中に食器が入っていると思うと落とさないようにと変に力が入り、なかなかの重労働だった。
「これ、弓響に頼むべき仕事じゃない?」
「そうねえ。矢㮈には庭と表の掃除を頼んだ方が良かったかしら」
どうやら弓響には夏の日差しが容赦なく照り付ける屋外の仕事が割り当てられていたらしい。
「……こっちで良かったかな」
屋外で部活をしていた野球少年は、ほとんど屋内にいる矢㮈よりも逞しいに決まっている。
テーブルの上に箱から出した食器を並べ、数を揃えて洗っていく。
母親は普段からおっとりとした印象があるが、洗い物をする手はスピード感がある。
「そういえば、母さん」
矢㮈はふと思い出して、音楽祭が終わってから言えずにいたことを口にした。
「……あの校歌、ごめんね?」
ジャージャーと流れる水音に、小さな苦笑が混じった。
「本当よ。まさか今になって、あんな大きな会場であれが流れるなんて誰が想像するの」
「びっくりした……?」
「ええ。当たり前でしょう。恥ずかしくて顔が上げられなかったわ」
キュっという音とともに水が止まる。
「二十年も前の古い落書きから始まったあの楽譜が、あんなふうに日の目を見るなんて」
母親は排水口に水が流れていくのをじっと見つめていた。
横顔に、当時を思い出しているのか懐かしむ表情が見えた。
そして、今度は母親が矢㮈に問いかけた。
「あれを選曲したのは……諷杝君?」
「うん、そう。よく分かったね」
矢㮈が頷くと、母親は納得するように「そう」と返した。
「前に……諷杝君がお父様の楽譜を探してると言ってたような覚えがあるけど、あれはもう見つかったの?」
「え? ううん、それがまだ見つからなくて。色々ヒントは出て来てるんだけど、さっぱりお手上げ」
「ヒント?」
珍しく母親が突っ込んで興味を示したので、矢㮈は思わず答えてしまった。
「例えば……『407』と『268』の数字とか」
現時点での一番のヒントであり、解けない謎だ。
「『407』と『268』……」
母親は思案するように、洗ったばかりの皿をぼんやりと見遣る。
「――もしかして」
「え?」
母親が何か呟いたような気がしたが、消え入るような小さな声で実際聞いたかどうか自信はない。
「母さん、今何か言っ――」
その時、玄関の方がざわざわと騒がしくなった。さらに一際大きな声が台所に届く。
「母さーん! おばちゃんたち来たよー!」
弓響だ。弾かれたように矢㮈と母親は顔を見合わせた。
「矢㮈、洗ったお皿を拭いておいてくれる?」
「あ、うん」
手を拭いて玄関へと迎えに行く母親の背を見送って、矢㮈は作業を再開した。
先程の母親の言葉。矢㮈の聞き間違いでなければ、母親は何か思い当たる節があったのだろうか。
(ていうか、母さんと『ZIST』って何か関係があったの?)
母親たちの年代が重なっていることは確かだが、果たして実際彼女たちはどういう関係だったのだろう。これまでにも疑問に思ったことはあるが、あの校歌の替え歌の件から、単に『ZIST』のファンの一人にしては距離が近すぎるのではと考えていた。
(もしかして母さん、『ZIST』のメンバーだったりして……いやまさかね。だって合唱部だったんだし)
ふわりと浮かんだ思いを打ち消しながら大皿を慎重に置く。
次の皿を手に取ろうとして、また別の考えが浮かぶ。
(あ、もしかして『ZIST』の誰かと付き合ってたとか……?)
母親と恋の話などしたことがないので全然想像がつかない。
(今度、折を見て聞いてみようかな)
廊下の向こう、居間の方からは賑やかな声が聞こえてきていた。
祖母が帰って来たら、直に昼ご飯になるだろう。
矢㮈は考えるのを中断して、皿を割らないよう全神経を集中させて残りの拭き作業に取り掛かった。
ここまで読んで下さってありがとうございます。
今回はあんまり笑いどころがなかったので、次はもう少し楽しい話を書きたいなあと思います。
よろしければ次もお付き合いいただけますと幸いです。(2022.02.23)




