音楽祭二日目 其の三
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これは僕から『ZIST』への宣戦布告なんだ。
海中諷杝はそう言って、微笑んでいた。
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一.
風橋学園内の指定された駐車スペースに車を停めて外に出ると、うだるような暑さが全身を襲った。彼は手庇をつくって目を細めた。
頭上は清々しいほどの晴天、容赦なく照り付けて来る強い日差しが恨めしい。
音楽祭の会場である第三体育館に向かって歩き出す。体育館の建物に近付くほど人が増え、ざわめきも大きくなった。
遠く校舎やグラウンドを眺めながら、久方ぶりに学校という雰囲気を感じ取っていた。
そういえば最後に子どもたちの学校行事に参加したのはいつだったろうと考えた。彼は仕事を優先することが多かったので、その類は専ら妻に任せきりだった。
今日も音楽祭に足を運んだのは、単に子どもの出演を見に来ている妻と長女を迎えに来ただけだった。――それだけのつもりだった。
(そうは言っても、な)
正直に言って、自分の子どもの発表を見ようという気持ちはほぼなかった。だが、一緒に演奏をしているだろう一人の少年のことがどうしても気掛かりだった。
かつての友人の息子だった。
今年で高校三年の彼はこれが最後の音楽祭になる。仕事が入れば見に来るつもりはなかったが、幸か不幸か何も用事は入らなかった。
(これもあいつの導きか)
だったら笑えない話だ。自分はいつまであの困った友人に付き合わされるのだろう。
彼は会場の前で足を止めた。ここまで来てもなお入ろうか迷う自分がいた。
「おや、奇遇ですね」
後ろからゆったりとした声をかけられた。
振り返ると、眼鏡をかけた小太りの初老の男が微笑んでいた。グレーのジャケットを腕にかけている。
彼は一瞬驚いた表情を顔に浮かべたが、すぐに頭を下げた。
「ご無沙汰しています、松殿先生」
高校時代に世話になった恩師だ。当時は歴史の授業の教鞭をとっていたが、今は特にクラスは持たず副理事としてあちこち飛び回っているらしい。年に一回年賀状で挨拶はしていたが、こうして顔を合わせるのは久しぶりだった。
「最後に会ったのは海中君のお葬式でしたか」
「そうですね。その後一度彩楸学園に行きましたけど、あの時はお会いできなかったので」
「そうだった。あの時は急遽予定が入ってしまって。申し訳なかった」
松殿が恐縮したように白髪交じりの頭を下げるので、急いで手を振る。
「いえ、急に訪ねたこっちが悪いのでお気になさらず」
松殿に渡したいものがあり彼を訪ねたのだが、あいにく会えずじまいになってしまったのだ。結局、『モノ』だけを置いて帰って来た。
顔を上げた松殿は改めて微笑みを浮かべ、体育館の方を見遣った。
「君も聴きに来たんですね」
「……まあ」
恩師にそう言われては頷くしかない。
「先生もわざわざ? お忙しいとお聞きしていますが」
「何とか都合をつけて来たんですよ。海中君――諷杝君が今年で最後でしょう」
「先生も気になってたんですね」
「ええ、それはもちろん。並早君から昨年の音楽祭について聞いてから楽しそうだなと思っていたのもあって」
諷杝のことも含め、音楽祭そのものも楽しみに来たようだった。
「ああもちろん也梛君に笠木さんの演奏も楽しみにしていますよ。君も息子さんの演奏を聴きに来たんでしょう?」
「俺は別に……」
松殿の笑顔を前に、特に興味はないと言い切ることもできず言葉を濁した。松殿はそんな彼の内心を知ってか知らずか、切り替えるように肩を叩いた。
「さあ、中に入りましょう。もうすぐ彼らの出番ですよ」
「え、ちょっと待っ……」
最後まで迷っていた足が、松殿に引っ張られるように体育館へと吸い込まれていった。
二.
午後の体育館の中はすでに人でいっぱいで、空調や扇風機が稼働しているにも関わらず熱気がすごかった。
この中のどこかに妻たちもいるのだろうが、探そうとは思わないしできれば会いたくない。一緒に息子の演奏を聴くなんてことになったら最悪だ。
彼は周りに視線を配りながら、松殿と一緒に空いているスペースを探して移動した。体育館の前方には椅子が並べられているが、半分より後ろは立ち見となっている。
「あ、松殿先生!」
真ん中辺りを越えるかどうかというところで声がかかった。
「並早君――いや、並早先生、お疲れ様です」
松殿が律義に言い直して労うと、元彼の教え子だった並早は僅かに照れた様に笑った。彼の半袖のシャツの胸元には、関係者を示すスタッフ証が躍っている。
そして、松殿と一緒に現れた彼を見て並早は目を丸くした。
「え、先輩? え?」
「……何でそんなに驚く?」
彼がじろりと見ると、並早はぶんぶんと首を横に振った。
「い、いえ。まさかあなたが来るとは思わなかったので……」
それは自分でもびっくりしている。まさか松殿に会ってこうも簡単に体育館に足を踏み入れてしまうとは思わなかった。
「でも、何か嬉しいです。ほっとしました」
「は?」
並早のその安堵を滲ませた顔に昔の友人の面影が過ぎった。彼の兄のことを思い出してしまった。
(今度はあいつか……)
すでにこの世にはいない友人たちが、今も時々こうして自分を翻弄する。
「言っておくが、俺は別に――」
一言言わずにはいられなくて口を開きかけた時、ステージの上で軽快なキーボードの音が鳴った。
その場にいた三人は自然とそちらに目を向けていた。
彼の目に、キーボードを弾く少年の姿が飛び込んできた。
久しぶりに聞くあの音。
(あいつはまだあのキーボードを弾いているのか)
何度も修理には出しているだろうが、それでもあの音は当時と変わらないように聞こえた。むしろ自分が使っていたあの頃よりも洗練されている気さえした。
キーボードの音を追うように、ギターの音が滑り込む。
(ああ、あの音。あの弾き方……)
彼は小さく溜め息を吐いた。否が応でも、友人のことを思い出さずにはいられなかった。
「……嫌になるくらいそっくりだな。あいつが弾いてるみたいだ」
思わず漏らした言葉に、並早がふふと笑った。
「あなたもですけどね」
「……俺はあんな弾き方はしない」
キーボードとギターの音の確認が済んだ頃、今度は少し意外な澄んだ音が空間を震わせた。
――バイオリンだ。
舞台に立つのは少年たちと同じく夏の制服に身を包んだ少女だ。
彼はその少女を見つめ、僅かに眉間を寄せた。
「……あの少女は」
会った記憶はない。だが、どこかで見たことがあるような気がした。
「君は知らないかい? 笠木矢㮈さん――小峰唱奈さんの娘さんですよ」
松殿の言葉に彼は一瞬息を止めた。
またしても出て来た昔馴染みの名前にげんなりすると同時に納得する自分がいた。
(最後はあいつの娘か……)
確かに似ている。母親と違ってどこかほわっとした柔らかさがあるが、彼女の娘だろうと思えた。
(――つまりは)
改めてげんなりした。
今ステージに立っている三人は、自分と友人たちの子どもたちなのだ。
その事実に気付いた彼のそばで、並早と松殿は黙って微笑んでいた。
「一体どうしたらこんなことになるんだ……」
偶然と片付けるにはあまりにも納得がいかない。だが偶然としか言いようがない現実だった。
もうこれ以上何も知らず、足を突っ込まずに家に帰りたい。
しかしすでに時遅く、ステージは始まろうとしていた。
「これが、諷杝君たちの音楽ですよ、先輩」
並早が呟いたと同時に、音楽の時間が始まった。
三.
二曲が終わった時、彼は腕組みをして眉間には皺を寄せていた。
「いやあ、すごかったですねえ」
「でしょう! リハの時よりもさらに良くなってました」
隣で松殿と並早が感想を話す中で、彼は黙っていた。
「……どうでした?」
並早が窺うように訊ねて来る。
「……どうも何も」
何と答えれば良いか分からず、彼はまた黙った。
音楽自体は別に悪くはなかったし、むしろあのレベルのオリジナル曲を完成させたことは私情を抜いて評価できる。
ただ彼は、あからさまに称賛を口にできる程の素直さを持ち合わせてはいなかった。
(上手い下手というよりも)
それよりも、彼の頭の中ではステージ上の彼らの残像が消えてくれない。あの光景が目に焼き付いて離れない。
自分はあの光景を知っている。どうしても、過去のあの時が蘇る。
――忘れ去ってしまいたいあの時間を。
(……あいつのあんな音を聴いたのもいつぶりだろう)
別に息子の音楽を聴きに来たつもりではなかった。だが実際に耳にすると、まだあんな風に弾けたのかと父親ながら驚いた。
「何とも複雑そうな顔をしていますね」
松殿がしみじみと言うのに対して思わず苦笑を漏らしてしまった。
ステージの上では次のグループの準備が始まっていた。
一応目当ての発表は終わった。これ以上この場にいる理由は思いつかず、彼はその場を去ろうと思った。
「ちょっと待って下さい。まだ発表は残っていますよ」
プログラムを手にした松殿が彼の足を止めさせる。
「まだ何か?」
あからさまに怪訝そうに聞き返した彼に、並早が横から口を挟んだ。
「このグループの後に雲ノ峰のグループとの交流演奏会があるんですよ」
「……だから?」
「あなたにはむしろこちらの方が馴染みがあるかと思います」
何かを含むような並早の物言いに若干イラっとしつつ、まあこの次の出番なら少し待つだけかと思い直してその場に留まることにした。
「で、今度は何を演奏するんだ?」
音楽祭の関係者としてここにいる並早は彼らが何を演奏するつもりなのか把握しているだろうと思い訊いてみる。
「それは聴いてからのお楽しみです」
もったいぶったようなその言い方は記憶の中の誰かにとても似ていた。――やはり彼の兄にそっくりだ。
「当時はそこまで思わなかったが、お前は兄そっくりだな」
「そうですか? 樹兄さんはもっとネジが飛んでたような気がしますけど」
「嫌というほど知ってる。旋といい勝負だった」
二人には嫌という程面倒ごとを吹っ掛けられた気がする。いつも周りを巻き込む彼らがタッグを組んだのが運の尽きだった。
「懐かしいですねえ」
松殿が当時を懐かしむように目を細めた。
四.
そして、交流演奏会とやらが始まって、一曲目で彼は絶句した。
流れるメロディ、流れる歌が彼の全身を刺激する。
馴染みがあるなんて生やさしい感覚ではない。
なぜこれが――この曲が、この場でこんなに大音量かつ驚くほど歌唱力のある大声量で披露されているのかが分からない。
「懐かしいですよねえ」
なぜかと問いたいくらい並早が楽しそうに聴いている。その横で松殿も同じように聴いている。
彼はというと、今すぐにでもあのステージをぶち壊してやりたい気持ちだった。それができないなら今すぐ耳を塞いでこの場を去りたい。
しかし実際にはただ呆然と音楽を聴きながら、歌を聴きながら、ステージを見つめているしかできなかった。
あるのはただ、羞恥の気持ちだけ。
(一体どこでこの譜面を――)
彼らはどうやって手に入れたのか。
もう一曲は知らないものだったが、先程の衝撃が強すぎてなかなか耳に入って来なかった。
演奏が終わった時、ステージの上にいる焦げ茶色の髪をした少年が観客をぐるりと見回した。
少年は二か所で視線を留め、目を見開いた。
その一つは――彼のいる方向だった。こんなに人がいるのに、目が合ったと思った。
少年は口元に不敵な笑みを浮かべたような気がした。少年の父親そっくりの笑みを。
(……ああそうか)
その時に気付いた。少年は――諷杝は、恐らく自分たちにこれを聴かせるためにこの場で披露したのだと。
かつての彼らが作詞と編曲をした、彩楸学園校歌の替え歌を。
「――並早弟。あいつもどこかで聴いているのか」
名前を挙げずに言ったのに、並早には伝わったらしい。
「いらっしゃると思いますよ。下の息子さんと一緒に来ているはずです」
自分と同じくこの世に生き残っている彼女を想像して溜め息を吐いた。
「なら、あいつも恥ずかしい思いをしているだろうな」
何よりあの替え歌の歌詞を主に考えたのは彼女だ。あの歌詞に関しては天才的な作詞力を発揮したなと彼も思っている。
それを二十年後に子どもたちに暴露されることになるとは。公開処刑も甚だしい。
少しだけ不憫にならざるを得なかった。
「そういえば、君に訊きたいことがあったんですよ」
まだ完全には回復しきっていない彼に、松殿が穏やかに問い掛けて来る。
「『407』と『268』の数字に何か覚えはありませんか?」
「え?」
いきなり突き付けられた二つの数字に唖然とする。
「一体何の数字ですか」
「分からないんですよ。ただ君なら知っているかと思って」
さらに聞いたところ、どうやらそれは海中旋が残したというギターピックに記されていた数字だったらしい。
「……さあ」
すぐに思いつくものはなく首を振ると、松殿の横にいた並早も落胆したように肩を落とした。
「先輩にも心当たりはないか……」
(旋が残した数字)
わざわざ並早の兄に送ったものだというから、何か意味はあるのだろうが――。
ステージでは次のグループが演奏を始めていた。
今度こそ、もうここにいる理由はない。
「おっと、私もそろそろおいとましないと」
腕時計を見てそう言った松殿と共に体育館を後にした。並早はそのまま残っているというので挨拶をして別れた。
ああ、今日は本当に散々な日だった。
妻から連絡が入るまでは時間があるので、松殿を見送りがてら正門へ向かって歩いた。
まだまだ日差しが強い。むしむしする。松殿はハンカチを手に汗を拭っていた。
歩いている間も、頭の中には先程の二つの数字が駆け巡っていた。
(覚えはない……いや、本当に?)
「今日は君に会えて良かったです」
正門近くまで来て、改めて松殿がにこやかに挨拶を切り出した。
「こちらこそ。ご一緒出来て良かったです」
本音で言うと、もう少し静かな場所でお茶をしたかったが。
「はは。君が変わっていなくて私も嬉しかったですよ。――高瀬敦葉君」
昔のように名前を呼ばれるのが、少しむず痒い。もういい大人になったからだろうか。
彼は――高瀬敦葉は、苦笑しながら会釈を返した。
「ではまた」
次いつ会えるかなど知らないが、そう言って松殿が踵を返した。
その背を数秒見送って、敦葉はふと思い出した。
「先生」
風にのってその声は届いたらしい。少し先で恩師が振り返る。
「あの数字、一つだけ心当たりがあります」
敦葉の声が、蝉の鳴き声の中に紛れて消えた。
五.
諷杝たちと雲ノ峰高校の生徒たちの交流演奏会のステージを見て、彼女はすっかり固まってしまった。
何であの曲が?
頭の中に浮かぶ疑問はただそれだけだった。
少し前に娘たちがその譜面を彩楸学園合唱部の倉庫から発見したという知らせは聞いていた。彼女自身、自分が残したその譜面を見て苦笑したくらいだ。
だが、まさかこんな音楽祭でこんなに堂々と演奏され、歌われるなんて誰が予想できただろう。
素敵な歌声で聴こえてくるのはあの高校生の時に自分たちが書いた替え歌。
(……冗談じゃないわ)
彼女は思わず顔を覆って下を向いてしまった。顔面が熱い。きっと耳まで赤くなっているだろう。
「……あの、大丈夫ですか?」
隣から心配そうな声が届く。偶然隣に居合わせて一緒に鑑賞していた、娘の音楽仲間の少年の母親だった。
「大丈夫です……」
言いつつもまだ顔を上げられない。こんなにも羞恥を感じている理由は、目の前にいる彼女には分からないだろう。
(どうして矢㮈も一言言ってくれなかったのかしら)
言ってくれていたら、止めることもできたし、止められなかったとしても事前に覚悟ができた。
結局、二曲目に入るまで顔を上げられなかった。
演奏が終わった時、ステージの上にいる焦げ茶色の髪をした少年が観客をぐるりと見回した。
少年は二か所で視線を留め、目を見開いた。
その一つは彼女の方で、こんなに人がいるのに目が合ったと思った。
少年は口元に不敵な笑みを浮かべたような気がした。かつて少年の父親が浮かべたのとそっくりの笑みを。
(……ああそうか)
そこで気付いた。少年は――諷杝は、恐らく自分たちにこれを聴かせるためにこの場で披露したのだと。
かつての彼らが作詞と編曲をした、彩楸学園校歌の替え歌を。
「諷杝君は何を考えているのかしら」
彼女はそっと呟いた。小さすぎて、歓声が上がる周りには聞こえなかっただろう。
「……どこかであいつも聴いていたなら面白いわね」
今もまだ生きている昔の友人を思い出して苦笑した。
彼女は――旧姓小峰唱奈は、微かに困ったようにステージにいる子どもたちを見つめていた。
***
彼らは、彼女は、ちゃんと聴いてくれただろうか。
諷杝の宣戦布告を受け取ってくれただろうか。
受け取ったのだとしたら、どのように感じただろうか。
その答えはきっとそう遠くないところにある。
諷杝はステージの上から、彼が聴いてほしかった人たちに向けて心から頭を下げた。
次はきっと、あなたたちが待ち望んでいた『ZIST』の最後の曲を用意します、と胸の内で呟いて。
ひとまず音楽祭編終了です。(2021.12.13)




