音楽祭二日目 其の一
【主な登場人物紹介】
・笠木 矢㮈(かさぎ やな)…彩楸学園高校2年生。バイオリンを弾く。
・高瀬 也梛…同上2年生。キーボードを弾く。
・海中 諷杝…同上3年生。ギターを弾く。
【その他】
・臣原 千佳…2年生。矢㮈のクラスメイト。
・村住 華南…バイオリン奏者。高瀬と同じ音楽教室に通っていた。
・相田 将…雲ノ峰高校3年。音楽祭実行委員長。
・淡海 あやめ(おうみ あやめ)…同上3年。将の幼馴染みで音楽仲間。
・若宮 拓…高瀬の中学時代からの友人。
一.
陸上部の朝練や試合で朝早くに家を出るのには慣れている。それらに比べたら、今朝ははるかにゆったりとした時間で準備をすることができた。
だが臣原千佳は、これまでに体験したことのないような緊張感と高揚感が体中を駆け巡っているのを感じていた。
本日はクラスメイトの笠木矢㮈たちが出演する、音楽祭の二日目を観に行くことになっていた。つい先日、矢㮈のバイオリン演奏を聴いたばかりであるが、今回はまた全然違う趣向の舞台ということで楽しみにしていた。
(別にあたしが演奏するわけでもないのに)
彼女たちの出演は午後からで、それに間に合わせるだけならもっと遅くに起きても良かった。しかしそわそわと落ち着かず、結局朝から家を出てきてしまった。ハニーマスタード色の裾タックTシャツに白の半端丈パンツにサンダルというラフな格好で電車に乗る。
午前中から出掛ける親子連れや同じ年頃の学生、それからご年配の団体と一緒に電車に揺られていると、ふと視線が窓際に立つサングラスをかけた女性に惹きつけられた。
正確には、彼女が肩から下げたショルダーバッグについていたキーホルダーに。
(バイオリンだ)
今までだったらそこまで気にすることはなかっただろうに、バイオリンを弾く彼女の姿を目にしてから、バイオリンをモチーフにしたものがあると目に留まるようになった。
(そういえばこの前雑貨屋で見たキーケースかわいかったなあ)
今度、矢㮈の誕生日にでもプレゼントしてみようか、などと考えているうちに目的の駅に着いた。
ここから先は徒歩かバスだ。腕時計を見るとまだ時間に余裕はあるし、徒歩でも十分だろう。
「今日って食堂やってたっけ?」
「えー、さすがにやってないでしょ」
駅の横にあるコンビニの前で夏の制服を着た女子の二人組がいた。
(あれ、風橋学園の制服)
これから行く予定の音楽祭の会場校が風橋学園だった。千佳は陸上部の方で何度か行ったことがあった。
周りを見ると他にも制服姿がちらほら窺える。風橋学園のだけでなく、他の学校の生徒も混じっているようだ。もしかしてみんな音楽祭に行くのだろうか。
駅の前の横断歩道が赤信号に変わったので足を止める。ふと道の向こう側を見ると、見覚えのある姿が歩いていた。
(あ、あのキーホルダーの人だ)
日傘をさした横顔にサングラスが見える。先程電車の中で見た女性だった。遠目でも背が高くスタイルが良いのが見て取れた。
(肌も白いしモデルさんみたいだなあ)
そう思って、ふと自分の焼けた腕を見下ろした。
「うーん、今年もよく焼けたなあ」
それはこの夏も頑張った勲章であったが、女性と比較すると少し悲しくなってきた。小さく息を吐いて顔を上げようとしたその瞬間、視界の端で何かが光った。
「ん?」
光を反射して鈍く光る小さなそれは、バイオリンの形をしていた。
千佳は信号が青に変わるなり地面を蹴り、横断歩道を駆け抜けて日傘の女性を追いかけた。
「あの、そこの日傘のお姉さん!」
自分で言いながら下手なナンパみたいだなと思ってしまった。
日傘の女性が足を止め、ゆっくりと振り返った。背中に垂れたポニーテールの黒髪がさらりと流れる。
「……私?」
「そうです。これ、落としてませんか?」
走ったにも関わらず千佳は息を切らすことなく女性に手を差し出した。
「!」
女性ははっとしたようにショルダーバッグを見て、そこについていたはずのキーホルダーがないことに気付いたようだ。
「それ多分私のだわ。ありがとう」
女性はほっとしたように礼を言って受け取った。千佳は「いえいえ」と返し、キーホルダーが丁寧にバッグのポケットに仕舞われるのを見ていた。
「って、あら? あなた、もしかしてこの前の?」
「へ?」
女性がサングラスを外した。その顔を見て、千佳は「あっ」と声を漏らしてしまった。
「笠木の演奏会の! バイオリンの!」
「やっぱりあの時の笠木さんのお友達だったのね。私は村住華南よ」
「あたしは臣原千佳です」
彼女は先日矢㮈と一緒に共演していたバイオリン奏者だった。学年は一つ上らしいが、矢㮈にとってはライバルになる存在だった。
「もしかして村住さんも風橋学園の音楽祭に行くんですか?」
千佳が訊ねると、華南は一瞬何とも言えないような表情になり、諦めたように息を吐いた。
「……ええ、そうよ」
「そうなんですか。あたしも行くところだったんですけど、良かったら一緒に行きませんか?」
「別に良いけど」
そんなわけで、並んで風橋学園へ向かうことになった。
「村住さんも笠木のバイオリンが気になるんですか?」
興味本位で、軽い調子で訊いてみた。
「まあ、それもあるけど……高瀬君のキーボードも聴いてみたくて」
「高瀬君の」
同級生の男子の名に千佳は反応した。一年の時に同じクラスだった高瀬也梛という男子は、色々な意味でずっと気になる存在であったからだ。
「えっと……村住さんは高瀬君とはどういう?」
「彼とは昔、同じ音楽教室に通っていたの。この前の演奏会でピアノを弾いていた渥美先生のところのね」
「ああ」
ということは華南は昔の高瀬を知っているのか。しかも千佳の知らない、ピアノを弾いていた彼のことを。
「高瀬君、本当に上手かったの。だからまさかピアノをやめてたなんて思わなくて……」
華南は微かに眉を寄せて独り言のように呟いた。
そして、千佳の方を見た。
「あなたは高瀬君のキーボード、聴いたことある?」
「いえ、ないです」
キーボードどころか彼のピアノすら聴いたことがない。
「だから今日が初めてなんです、聴くの。笠木が音楽祭で是非聴いて、っていうもんで」
苦笑しながら返すと、華南もつられたように苦笑した。
「そう、私と一緒ね。――あれだけえらそうなことを言ってくれたんだから、あっちもそれなりの演奏を聴かせてくれないとね」
「?」
千佳には彼女が何のことを言っているのか分からなかったが、華南がどこか楽しそうだったのでそれ以上尋ねることはしなかった。
二.
「……どうしよう、今日が来てしまった」
「来ちゃったねえ」
「どうしようもねえな。根性見せろ」
笠木矢㮈の独り言のような呟きに、海中諷杝が相槌を打ち、高瀬也梛がバッサリ切る。――全く以て三人とも、通常運転のやり取りだった。
音楽祭二日目。矢㮈たちの出番は午後からだ。それもグループの発表後に続いて雲ノ峰高校の淡海あやめたちとの交流演奏会がある。
「昨日、散々実歩ちゃんたちに、大丈夫だよ、頑張って、って言ってたのに。あたしもおんなじだよお~」
先輩風など吹かせるのではなかった。一日目の出番に緊張していた一年生たちに、経験者として声掛けをしていた自分が恥ずかしい。
「でも矢㮈ちゃん、バイオリンの演奏会の方がよっぽど緊張するでしょ?」
「それとはまた違うんだってばー! 一人じゃないことの安心感と同時に、三人だけどミスったらどうしようっていう……」
「特にお前の独奏な」
しれっと高瀬が言うのにさらに頭を抱えた。
「ああ~高瀬の馬鹿~」
「誰が馬鹿だ」
高瀬は緊張の「き」の字も窺えない程、いつもの無表情で落ち着いている。
(こいつが緊張することってあるのかな?)
矢㮈は信じられない気持ちで彼を横目に見ていた。
「それに春日井さんとか築地先輩も聴きに来るって言ってたし! 千佳ちゃんも来るしー!」
「お前が招待したんだろ」
「そうだけど! だって高瀬のキーボード聴いてほしかったし」
「何で俺のキーボードなんだ」
高瀬が眉間に皺を寄せて不機嫌な表情になる。
「はいはい、どっちにしてもみんな僕らの音楽を聴きに来てくれるんだから」
睨み合った矢㮈と高瀬の間に諷杝が入り、手を叩く。
「ひとまず午前中は他のグループの音楽も楽しもう?」
今日は発表があるためスタッフの仕事も免除されている。最終日、他のグループの発表も目一杯楽しまないと損だ。
「也梛も今日は片付けまで自由なんだよね?」
確認するように諷杝が問うと、高瀬が肩を竦めた。
「ああ、そのはずだけどな」
「相田君も?」
「相田さんは実行委員長として気にかかることもあるようだったけど、副実行委員長の槙野がやる気満々だったから多分大丈夫だろ」
「そう」
「淡海さんが無理矢理、相田さんを引っ張って行ってたし」
「ああ、想像できるなあ」
淡海からしたら、今日はさすがに同じグループの一員として相田に演奏に集中してもらいたいに決まっている。
会場である第三体育館の周りにはぼちぼち人が集まりつつあった。各学校の制服を来た生徒やその家族、その他老若男女がわいわいとやって来ていた。
諷杝がぼんやりと遠目に来客たちを見つめていた。
「諷杝?」
思わず矢㮈が声をかけると、彼は小さく首を振って微笑んだ。
「――大丈夫。僕たちは僕たちの音楽を届けるだけだ」
それは誰かに向けての言葉のように聞こえた。
「三人とも、おはよう」
彩楸学園の英語教諭で音楽祭の担当になってしまった並早が近付いて来た。ラフな格好のせいで一般客の中に容易に紛れ込んでしまいそうだ。首から下げた関係者のスタッフ証が細やかに身分を主張していた。
「調子はどうだい?」
「笠木だけが緊張マックスですね」
高瀬がしれっと答えると、並早が苦笑して矢㮈の方を見た。
「そうなの? 笠木さん」
「緊張しますよ! 先生だって去年はステージの上で緊張したでしょう!?」
「いや、去年のあれは緊張というか突然のことに呆然としてたんだけど」
並早が苦々しい表情になる。昨年、諷杝の企みで出番直前にステージに引っ張り出されて一緒に演奏するという体験をしたのだ。
「先生、安心してください。今年はあんなことしないので」
諷杝がにっこり笑って言う。
「こちらこそ御免だよ。心臓に悪い」
ご愁傷様です、と矢㮈はこっそり内心で呟いた。高瀬も同じようなことを思っている表情だった。
並早が一つ息を吐いて、改めて諷杝、高瀬、矢㮈、と順番に見た。
「――本当に、懐かしいな」
彼の微笑みには少し寂しそうなものが含まれていて、矢㮈は首を傾げた。
「先生?」
「――いや、何でもない。楽しみにしているよ。君たちの音楽だ」
先程の諷杝と同じ様なことを言っている。ますます不思議に思う矢㮈に構わず、諷杝が頷いた。
「そうです。今は僕たちの時代です」
(……何の話?)
高瀬は黙って並早と諷杝を見ていた。何を考えているのかは分からない。
「諷杝君もたのもしくなったなあ」
笑う並早に、諷杝が困ったように眉を下げた。
三.
「別にもう練習はしたんだし、スタッフの仕事の手伝いをしていてもいいだろう?」
「はいはい、将ちゃんは責任感が強うございますねえ」
淡海あやめは自分より二十センチ以上も高い男子生徒の腕を引っ張って歩いていた。小学生の中学年頃まではあやめの方が背が高かったのに、それからめきめきと成長して今や見上げる程になってしまった。
「おい、あやめ?」
「最後の音楽祭。しかも今日が最終日だよ。少しは観客目線でも楽しみなよ」
「そうは言っても一応実行委員長だしな」
言い募る相田将にあやめは溜め息を吐いた。
「大丈夫よ、槙野ちゃんたちもそう言ってくれたでしょ。確かに三年として責任はあるけど、次の学年も信用して任せないと。来年は彼女たちの番なんだから」
「……そうだな」
スポーツ刈りの頭をかきながらしぶしぶ言う幼馴染に、やれやれと苦笑する。
「将ちゃん。私たちの音楽祭も最後だよ」
「でもまだ雲ノ峰の文化祭のライブもあるだろ」
「音楽祭と文化祭は違うでしょ」
全然違う。他校の生徒と色んな音楽に包まれるこの空間と、学校行事の一つである文化祭の賑やかな空間では。
「将ちゃんの今日のお仕事は、海中たちとのコラボ演奏会と大トリのステージを成功に導くことです!」
腰に手をあてて仁王立ちして宣うあやめに、今度は相田が苦笑した。
「その大部分はあやめの歌にかかってると思うんだが、調子は?」
「今のところ問題なし。絶好調よ!」
自信満々に答えたあやめに、相田が「そうか」とあやめの頭に手を置いてポンポンと叩いた。
「まあお前が楽しく歌えるならそれで良い」
「ええ? それはダメでしょ。将ちゃんも、みんなも楽しくなきゃ」
ステージにいる全員が、さらには聴いている人たちみんなが楽しめるものでなければ。
あやめが考える「楽しいステージ」とはそういうものだった。
あやめはふふと微笑んで、くるりと彼に背を向けた。
「それに、将ちゃんには今までずっと私の歌に付き合ってもらってきたからね。一番近くで、私の一番の歌を聴かせてあげる」
しばらく何も返答はなかった。あやめが振り返ろうとしたその瞬間、
「――あやめの歌はまだまだ聴き続けることになりそうな気がするけどな」
先程とは違って雑な手があやめの頭に載って、髪をくしゃりと乱していく。そして気付けば、相田は数歩先に進んでいた。
あやめは口の端に笑みを浮かべて髪を整えると、彼の大きくて広い背中を追いかけた。
四.
とうとう二日目が幕を開け、午前中のグループが順調に終了していった。矢㮈たちも会場内で観客として、他のグループの演奏に純粋に聴き入っていた。最近のポップスは諷杝と口ずさみ、しっかり聴かせる楽器の音色にはじっと耳を澄ませた。
隣にいた高瀬が真剣に見入るステージは、なるほど何か惹きつけるものがあるように感じた。彼の無表情が消えて笑みが浮かんだ時には、その演奏者もしくは演奏に何を見つけたのかとちょっと興味が沸く――高瀬は教えてくれないだろうが。
しかし午後に近付いてくるにつれ、だんだん緊張感が邪魔をしてステージに集中できなくなってきた。
見兼ねた諷杝が「休憩しようか」と連れ出してくれた。
「ああ~」
花壇のへりに腰掛けると、意味のない音が意味もなく口から漏れ出た。
「本当、大丈夫? 矢㮈ちゃん」
「大丈夫じゃない……」
「うーん……とりあえず飲み物持ってくるからここで待ってて」
素直に甘えることにして諷杝の背を見送り、ぼんやりと膝に肘を置いて頬杖をついた。第三体育館からはテンポの速いドラムの音と叫ぶような歌が聴こえていた。
ふわふわとしていたせいか、目の前に黒い影が落ちるまで、そこに人が立ったことに気付かなかった。
はっとして顔を上げると、にっかり笑う黒髪の少年がいた。ストライプの半袖シャツに細身の黒いパンツ、そして携帯と財布だけが入るような小さなバッグを斜め掛けにしていた。
「……もしかして、若宮君?」
「当ったり! 良かった、気付いてくれて!」
矢㮈は彼が誰だか当てておきながら、頭の中では少し混乱していた。記憶にある彼のイメージが違うせいだ。
「金髪はやめたの?」
「もうすぐ特別入試の面接とかがあってさ。そろそろ周りがうるさくなってきたから黒に戻した」
「何かイメージがガラッと変わるね」
「だろ? 俺も未だに自分の姿を鏡で見て慣れねえもん」
髪の色が変わっても、人懐っこく笑う彼の性格は健在でほっとする。正直に言うと、金髪の時よりは近付きやすくなったかもしれない。
彼は高瀬の中学時代からの友人で若宮拓と言う。以前は金髪で全体的にチャラい雰囲気だったが、高瀬曰く、進学校の成績首位をキープする実力の持ち主らしい。あの高瀬でもテストでは一度も彼より高得点を取れなかったと聞いた。
そして彼は歌を歌うことが好きで、且つとても上手い。中学の時は高瀬のキーボードに合わせてよく歌っていたらしい。
「そういえば高瀬と海中は?」
「諷杝は今飲み物を取りに行ってくれてて、高瀬は――」
恐らくまだ体育館の中だろう、そう言いかけた時だった。
「……若宮?」
「お、噂をすれば」
建物から出て来た高瀬が、矢㮈の前に立つ若宮を見て珍しく驚いた表情をした。
「お前もよく分かったなー。さすが俺の親友」
「……どうしたんだその頭」
若宮の「親友」という言葉に少し眉を顰めながら高瀬が訊ねた。若宮は先程矢㮈に説明したとおりのことを繰り返した。
「中学以来だな」
「そういえばそうかも。何か高瀬とお揃いみたいだよな。眼鏡もかけちゃおうかな」
冗談めかして言う若宮に、高瀬が隠しもせずに舌打ちをした。
「黒髪のやつは他にもいっぱいいるだろ。それにお前は眼鏡をかけると逆にもっとチャラくなりそうだ」
「ええ~冷たーい」
「うるさい」
諷杝に対してとはまた違う、高瀬の遠慮のないやりとりから、二人の仲の良さが窺えた。思わず笑ってしまった矢㮈に、若宮が「あっ」と声をあげる。
「矢㮈ちゃん、やっと笑ったな。さっきまであんまり顔色よくなかったけど」
「え。……若宮君見てたら緊張が溶けたからかな」
顔色で見抜かれていたことに気恥ずかしい気持ちになる。
「そっか。俺の黒髪がお役に立てたなら染め直した甲斐もあったってもんだ」
若宮が笑って矢㮈の頭に手を伸ばして――高瀬に横から叩かれた。
「どさくさに紛れて何しようとしてる」
「ええー、ここは優しく頭をぽんぽんってしてあげるとこだろ」
「しなくていい」
「じゃあお前で勘弁しといてやるよ」
若宮の手が今度は高瀬の頭に伸びるのを、高瀬は鬱陶しそうに振り払った。
「何で俺で勘弁したことになるんだ」
「ええ、これもお気に召さないの? だったら高瀬が俺の頭を――」
「もう黙れ」
高瀬のドスの効いた声に若宮はようやく静かになったが、それでもニヤリと笑った顔からはとても反省しているように見えなかった。
「あ、若宮君だ」
ペットボトルを手に諷杝が戻って来た。お茶の入ったボトルを矢㮈に渡してくれる。
「あれ? 海中も俺に気付いたの?」
若宮が目を見開く。さすがに三人共にこんなにすぐバレるとは思っていなかったようだ。
「いや、也梛と一緒にいたから雰囲気で」
諷杝の答えに、若宮は「何だそうか」と若干気の抜けた顔になった。
「今日は学校は休み? 補習とかないの?」
「今日は日曜だからオフ。まあ家で勉強はするけど、ちょっと気晴らしに。それに高瀬のステージだからな」
ちらと高瀬を見遣る若宮の視線を、高瀬はすいと躱した。それを見て諷杝が笑う。
「あはは。也梛、愛されてるねえ」
「そう、俺、高瀬のこと大好きだからな」
「……二人とも黙れ」
高瀬が深い溜め息を吐く。矢㮈はお茶で喉を潤しながら、彼らのコントみたいなやり取りを見ていた。
「っと、矢㮈ちゃん、落ち着いた? さっきよりは顔色もマシになったみたいだけど」
諷杝が矢㮈の顔を覗き込んで訊いてくる。近付いた彼の顔に緊張して、今度は少し頬が熱くなったような気がした。
「……だ、大丈夫。お茶ありがとう」
「どういたしまして」
諷杝が微笑んで、矢㮈の頭に自然と手をのせた。ポンポンと二回程叩いてくれる。
「あー! 海中、ずるい!」
「え?」
叫んだ若宮に諷杝が驚く。若宮は高瀬を振り仰いだ。
「ってか何で高瀬も止めない!? 俺のはダメだっつったのに!」
「いや、お前と諷杝じゃ違うからに決まってんだろ」
「何がだよ!」
やんややんやと言い合う二人を、諷杝はきょとんとした顔で見比べていた。きっと意味が分からないだろう。
「じゃあ高瀬も矢㮈ちゃんの頭をぽんぽんしたらいいだろ! そんで俺もする!」
「意味が分からん! 何で俺がそんなことをしないといけないんだ」
矢㮈は呆れたように彼らを見ていたが、ふと思い出した。
(そういえばあの時……)
先日のバイオリン演奏会の時のことだ。色々と悩みを抱え込んだ矢㮈が、高瀬にそれをぶちまけた挙げ句八つ当たりをするという大失態を犯した後、彼は珍しく矢㮈を励ましてくれた。
その時になぐさめるように頭の上にのせられた、指の長い大きな手を思い出した。
(あれは何だったんだろう)
今思い返しても、高瀬自身がどうかしていたとしか思えない。
だが矢㮈は、頬に不思議と熱が集まってくるのを感じた。
「え、矢㮈ちゃん、大丈夫?」
気付いた諷杝が心配そうに見るので、矢㮈は慌てて腕で顔を隠した。
「な、何でもない!」
本当に何でもないのだ。なぜ自分でもあの時のことを思い出したのか分からない。
「今日も暑いから、熱中症には気を付けないと。しんどかったら遠慮なく言ってね」
「……ありがと」
もういっそのこと、熱中症のせいにしてしまいたいと思いながら、矢㮈はしばらく顔を上げられずにいた。
五.
散々高瀬に構ってもらった若宮はひとまず満足したのか、
「俺、先に飯食ってくるわ!」
そう言ってあっさり去って行った。
「……あいつは一体何しに来たんだ」
高瀬だけが一人疲れたように額に手を遣って溜め息を吐いていた。
と、今度はそこへ、
「笠木!!」
聞き覚えのある元気な声が割り込んできた。
見ると、私服姿の臣原千佳が手を振ってこちらに向かって来た。
「千佳ちゃん!」
「やっと捕まえられた。早く来てたんだけど、観始めたらつい時間を忘れて……」
どうやら千佳はすでに体育館で様々な音楽を楽しんでくれているらしい。それを聞いて嬉しくなった。ぜひ矢㮈たちの演奏以外も楽しんでいってほしい。
千佳とハイタッチを交わしてそのまま手を繋ぐと、今度こそ矢㮈は落ち着いてくるのを感じた。
「笠木さん」
「! 村住さん!?」
落ち着いたと思った心がまた騒めいた。なぜ彼女までここにいる?――しかも千佳と一緒に。
今日は心の中がジェットコースターだ。
矢㮈の驚いた表情を見て、村住華南は微かに眉を傾けた。
「折角だから来たんだけど……お邪魔だったかしら?」
「いえ! そんな! わざわざありがとうございます!」
変な緊張で力の入った答えになってしまった。華南は呆れた顔をしていたが、ふと高瀬の方に視線を向けた。
「こんにちは、高瀬君。笠木さんの演奏会の時はどうも?」
高瀬があからさまに怪訝な顔をするのを華南はスルーする。
「……どういたしまして。てか何でここにいるんだよ。先生と来たのか?」
「ううん。今日は一人で。途中でそこの臣原さんに偶然出会ったから一緒に」
「……」
高瀬は眉間に皺を寄せて華南と千佳の二人を見比べた。
何でよりによってこの二人が一緒になってしまったのかと、心底理解できないししたくないという顔だ。
(高瀬にとっての苦手なタイプがタッグを組んじゃった感じかな)
矢㮈は心の中でそんなことを思った。
対して華南は全く気にしていないように彼を真正面から見つめた――というか挑発するような強い視線を向けた。
「今日は高瀬君のキーボードを聴きに来たの。前は私に好き放題言ってくれたでしょう? だからピアノを弾かなくなったあなたがどんなキーボードを弾くのか気になって」
高瀬のピアノに関する云々をここまで面と向かって言えるのは、恐らく幼い頃に共に同じ音楽教室にいた華南だからだろう。
高瀬が普段ピアノのことを口にしないのを知っている矢㮈は、少しはらはらしながら二人の様子を見ていた。
無表情に戻った高瀬が、じっと華南を見ている。
「……村住が何を期待しているのか知らないが、俺は俺のキーボードを弾くだけだ。そこから何を感じるかはお前の勝手だ」
華南は「そう」とあっさり引き下がった。あとは実際に音楽を聴いてから、とでも言うように。
華南から視線をそらした高瀬が、今度は矢㮈の手を握ったままの千佳を見た。
「……お前も来たんだな」
「笠木に行くって連絡した時に、高瀬君にもよろしくって言ったんだけど。聞いてない?」
「あたしはちゃんと伝えたよ」
思わず矢㮈が口を挟むと、わざとらしく高瀬が明後日の方向を向いた。とぼけるつもりか。
「まあ臣原のおかげで笠木の緊張が解けるなら万々歳だけどな」
そして一言多い。
「でも千佳ちゃんの顔見たら本当にほっとした」
矢㮈が正直に言うと、千佳がにっこり笑った。
「そう言ってもらえると嬉しいな。今日は楽しみにしてる」
「うん」
もともと、彼女にはバイオリンの演奏会よりもこちらを先に聴いてもらう予定だったのだ。
千佳がもう一度高瀬の方に声を投げる。
「高瀬君」
「何だ」
「高瀬君のキーボードも楽しみにしてるよ。なにせ、笠木の一押しだったからね」
「……」
じっとりした睨みが矢㮈に返って来る。とばっちりだ。
「だって高瀬のキーボード、聴いてほしかったんだもん」
「……はあ」
高瀬は諦めたように息を吐き、微笑ましそうに見守っていた諷杝に言った。
「――そろそろ行くぞ」
「はいはい」
諷杝がおかしそうにクスクスと笑っていた。
そろそろ午前の部が終わりに差し掛かっていた。矢㮈たちも軽く軽食をとるなりしなければならない時間だ。
「矢㮈ちゃん、行こう」
諷杝がこちらに手を差し出してくれた。
矢㮈は小さく息を吐くと立ち上がり、諷杝の方に手を伸ばした。
さあ、いよいよステージが始まる。
ここまで読んでいただいてありがとうございます。まだ「其の一」です…。それにしても登場人物が多いので、もう流してくださいね。
どんなペースになるか分かりませんが、もしよろしければ引き続きよろしくお願いします。
(2011.11.01)




