音楽祭一日目 先輩と後輩<前編>
【主な登場人物紹介】
・笠木 矢㮈(かさぎ やな)…彩楸学園高校2年生。バイオリンを弾く。
・高瀬 也梛…同上2年生。キーボードを弾く。
・海中 諷杝…同上3年生。ギターを弾く。
【その他】
・相田 将…雲ノ峰高校3年。昨年の音楽祭実行委員長。
・淡海 あやめ(おうみ あやめ)…同上3年。将の幼馴染みで音楽仲間。
・世良…彩楸学園高校3年。軽音部部長。
・築地実歩…彩楸学園高校1年。軽音部。
・並早…彩楸学園英語教諭。
一.
少し雲が広がっているが、天気は概ね晴れの予報だった。昨年同様、朝から蝉が元気に鳴いている。
これまた緊張のせいなのかどうか、昨年同様早くに起き出した笠木矢㮈は、まだすやすやと眠る女子生徒たちの間を縫って静かに外に出た。毎朝ランニングが日課だと言っていた槙野灯里よりも早い。
「そういえば去年はイツキさんと朝のお散歩をしたんだっけ」
イツキとは、ある日姿を消してしまった白い鳩のことだった。音楽仲間の海中諷杝がとてもかわいがっていた鳩だ。
一年前、今朝のように緊張で眠れず外に飛び出した矢㮈と一緒に、彩楸学園の敷地をぐるりと散歩した記憶が蘇る。
建物の入り口まで降りて、白い羽をもってひょこひょこと歩く生き物を探すように、窓越しに外の様子を窺う。そこには鳩の気配も人の気配もなく、まだ少しだけ柔らかな日差しが雲間から地面を照らしていた。
「また緊張して眠れなかったのか」
「っ!」
まさか誰かがいるとは思わず、矢㮈は肩をビクッとさせて振り返った。
「おはよう、矢㮈ちゃん」
先程聞こえた声とは違う優しい声が挨拶をした。諷杝がひらひらと手を振っている。そして隣に、背の高い黒髪眼鏡の男子・高瀬也梛がいた。二人とも彩楸学園のジャージ姿だった。
「ふ、二人とも早いね!?」
自分のことは横に置いて驚いた。特に諷杝は朝に弱いと聞いたことがあったからだ。いつもルームメイトの高瀬がオカンの如く叩き起こしているらしい。
「何かそわそわしちゃってね。慣れた寮の部屋じゃないってのもあるかも」
「いや、お前は教室でも屋上のベンチでもすぐにうたた寝するだろ」
横から疑わしい視線で高瀬がツッコむのを無視して、諷杝は軽く首を傾けた。
「矢㮈ちゃんも早いね? さっき也梛が言ったように緊張してる?」
「う、うん……ちょっと。あたしたちの出番は明日だけど、いよいよ本番が始まるんだなあって。みんなのステージ楽しみだなあって」
音楽のお祭りだ。自分が演奏するのはもちろん、他の演者たちのパフォーマンスも楽しみだった。
折角だからと三人で外を散歩することになった。諷杝と高瀬は飲み物を買いがてらコンビニに行くところだったらしい。
「矢㮈ちゃんのところはまた弓響君が見に来るの?」
「うん、来るって言ってた。あとは多分、母さんも」
「そっか」
諷杝は微かに頬を緩ませた。どこかほっとしたような様子だった。
「諷杝のところはあの小さな妹さんと大きなお兄さんたちが?」
「あー、うん、多分。真生さんのことだからみんなで来るんだろうなあ」
真生とは確か諷杝の養父だ。諷杝は中学生の時に両親を亡くしている。前年の音楽祭の折、彼の今の家族に会って挨拶をしたが、みんな明るくて優しそうな人たちだった。――少しだけ、諷杝が遠慮しているように見えなくもなかったけれど。
「也梛のとこは? 若葉ちゃん来るの?」
流れで諷杝が高瀬に振ると、彼は眉を顰めて苦い表情になった。
「若葉は部活だから来ないと思う。その代わり、姉さんと母親が来そう」
「そういえば若宮君は?」
ふと彼の友人のことを思い出して、矢㮈は諷杝越しに身を乗り出して聞いてみた。
途端に高瀬が片手で額を覆って空を仰いだ。
「あー……言ってないけど、来るだろうな……ああああ……」
珍しく唸っている。若宮は高瀬の中学時代の友人で、進学校一の成績をおさめながら見かけと性格はチャラい以外の何ものでもない自由人だ。しかし何だかんだ言いながらも若宮の相手をするところを見ると、高瀬にとっても大事な友人なのだろうということは分かった。ちなみに若宮は歌がとても上手い。
「若宮君のことだから絶対来るだろうねえ」
諷杝は楽しそうに笑っている。矢㮈も同感だった。若宮は高瀬のことが大好きだからだ。
「――也梛」
笑いを止めた諷杝が静かに高瀬を窺う。
まだ複雑な表情をしている高瀬が「何だ」と視線だけを寄越した。
「也梛のお父さんは来ないかな?」
一瞬、虚を突かれたような高瀬の顔が、次第に先程以上の苦々しい表情になったのを見た。
「――さあ、知らねえ。少なくとも俺は連絡とってないし」
「そっか」
諷杝の表情は変化がなかったが、声には少しだけ残念そうな響きがあったように感じた。それに気づいたのかどうか、高瀬が「でも」と続けた。
「母さんたちの送迎でもしかしたら来るかも、な。まあわざわざ演奏を聴いて行くとは思わねえけど」
諷杝は微かに頷いただけだった。矢㮈はなぜ諷杝が高瀬の父親のことを気にするのか分からずに内心で首を傾げた。
(何か高瀬のことで言いたいことでもあるのかな?)
例えば愚痴とか、と考えて、彼に限ってそれはないかと打ち消す。
「それより笠木は臣原に声かけたのか?」
今度は高瀬が諷杝越しに矢㮈に問いかけて来た。臣原千佳はクラスメイトで親友だ。
「うん。千佳ちゃん、今日は練習だけど明日は休みだから来れるって。高瀬にもよろしく伝えといてって言われた」
「ああそう」
高瀬は自分から聞いておきながらどうでもよさそうに返した。その対応に、千佳の代わりに矢㮈がむくれておく。いい加減な。
諷杝が思い出したように付け加えた。
「そういえば春日井さんも来てくれるらしいよ。しかも今日と明日の二日とも」
「え、二日とも来てくれるの!?」
土日開催とはいえ、大学の方は大丈夫なのだろうか。
「世良君の話だと、もう大学も夏休みだから、何があっても音楽祭優先で聴きに行くわよって言ってたらしい」
「そ、そうなんだ……」
軽音部部長の世良は本日一日目の午後に発表だ。仲が良かった後輩の姿を見に来るのは納得だが、二日目まで聴きに来てくれるとは。
「春日井さん、僕たちの演奏も楽しみにしてくれてるんだって」
昨年は彼女も同じ音楽祭実行委員のメンバーだった。それから仲良くなって、彼女は矢㮈たちのステージをずっと楽しみにしてくれていた。文化祭の時には矢㮈たちが出ないことを心底残念がって、逆に春日井のステージの熱量に矢㮈たちに方が感化された。
同じ部活の後輩でもないのに、卒業してもまだ気にかけていてもらえるのは純粋に嬉しい。
「春日井さんに会えるの楽しみだなあ」
「そうだね。楽しんでもらえるように頑張らないと」
「笠木が頑張ったらいいだけの話だ」
しれっとプレッシャーをかけてくる高瀬に、矢㮈は唇を尖らせた。
「万が一あたしがミスっても高瀬が素晴らしい演奏でカバーしてくれるんでしょうね~」
「俺がカバーできる範囲でミスってくれるならな」
「……っ、ミスミス言うなー! あたしはミスりません~!」
つい剥きになって言い返してしまう。高瀬が口の端にニヤリと笑みを浮かべた。
「へえ? それは楽しみだな」
「高瀬の馬鹿―!」
「誰が馬鹿だ」
「はいはい、二人ともその辺でストップ。也梛も意地悪言わないの」
諷杝が息を吐きながら仲裁に入る。矢㮈は頬を膨らませて、高瀬はそっぽを向いていた。
「……本当、君たちは時々小学生みたいだよね」
時々落ち着いた大人になる諷杝がしみじみと呟く。
「ええ?」
「はあ?」
聞き捨てならないとばかりに、矢㮈と高瀬は揃って諷杝を見たのだった。
二.
発表がない矢㮈たちは、今日は一日裏方として忙しい。
「笠木さんはあやめと一緒に会場のお客さんたちの誘導整理を頼む。海中は――高瀬と一緒に行動」
タイムスケジュールを手に、音楽祭実行委員長の相田将が指示を出す。
「オッケー、矢㮈ちゃんよろしくね」
「こちらこそよろしくお願いします!」
淡海あやめがこちらに向かって笑ってくれたのを見て少し安心する。淡海がそばにいてくれるなら、万が一何かトラブルがあっても大丈夫な気がした。
対して高瀬は神妙な顔で頷いていた。
「相田さん、助かります。目を離すとこいつ絶対サボるんで」
「ええ~也梛ひどくない? 相田君も也梛は貴重な人材でしょ。僕は一人でも大丈夫だから……」
唇を尖らせた諷杝に高瀬がじとりとした視線を送る。
「どの口がそれを言うんだ?」
「確かに高瀬は役に立つからな、本当はもっと動いてほしい。だがお前の姿が見えないと余計に高瀬の心労を増やしそうだからな」
矢㮈は何となく相田の言うことに納得してしまった。きっと高瀬は諷杝がそばにいようといまいと心配するに決まっている。オカンだから。
「というわけでよろしくな? 海中センパイ?」
わざとらしく言う高瀬に、諷杝が珍しく頬を引き攣らせた。
「……わざとらしいなあ。也梛の方が先輩のくせに」
高瀬は聞こえないふりでスケジュール表を確認していた。
昨年と違って大いに助かるのは、すでに会場である第三体育館に備え付けのステージがあることだ。彩楸学園で行った時は組み立て式のステージをみんなでせっせと用意しなければならなかったので人手がいったのだ。
開場の一時間前には一日目の参加グループが揃い、相田がリーダーたちを集めてタイムスケジュールの確認を始めた。基本的に、一日目に参加するメンバーは裏方スタッフの仕事が免除されている。
「笠木先輩~」
そんな泣き声とともに矢㮈に突進して来た者がいた。
「うえ!?」
思わず変な声が出てしまった。慌ててそちらを見ると、彩楸学園軽音部一年の築地実歩が今にも泣きそうな表情で矢㮈の腕を摑んでいた。その手が微かに震えている。
「ど、どうしたの実歩ちゃん」
何かあったのかと心配になって尋ねると、彼女は顔を歪めた。
「き、緊張ってどうしたらなくなるんですか~。もう何をしても手が震えるんです~。助けて下さい~」
「……うーん」
それは矢㮈にもどうしようもない。初めての舞台はみんなそんな感じだ。矢㮈だって、未だにステージの上に上がると緊張する。
「あはは。実歩ちゃん、それはもう慣れるしかないない!」
一緒にいた淡海があっけらかんと言って笑う。実歩は「そんな~」と頭を抱えた。
実歩のグループは午前中の四番目だった。あっという間に出番が回ってくるだろう。
「失敗したらどうしよう~てかこんな震える手でちゃんと弾けるのかなあ~?」
実歩は軽いパニックに陥っているようだった。恐らく今矢㮈たちが何を言っても同じなような気がした。
「実歩ちゃん、とりあえずちょっと落ち着こう。ほら、お茶でも飲もう?」
矢㮈は実歩を手近な椅子に座らせて、差し入れでもらった紅茶のペットボトルを紙コップに注いで渡した。震える手でコップを受け取った実歩は慎重に口に運び、それからほっと息を吐いた。もう一口飲むころには、心なし震えがおさまったように見えた。
「……すいません、ありがとうございます」
「ううん。緊張するよね。あたしも発表会の前とか同じようになる時あるよ」
「笠木先輩もですか?」
「うん。でもバイオリンの発表会を思えばまだ音楽祭の方が気が楽かな。諷杝も高瀬もいるし」
音楽仲間が二人いると思えば心強い。ステージに立つのが自分一人ではないというだけでどんなに気が楽になるか。
「実歩ちゃんも一人でステージに立って演奏するわけじゃないんだから。グループのみんなも一緒でしょ?」
「……はい。そうですね」
実歩は頷いたが、しかし。
「……でも笠木先輩。みんな私と同じように朝から手が震えてるんです……」
「……」
彼女のメンバーはみんな緊張しいだったのだろうか。矢㮈のグループの場合は諷杝も高瀬もわりと飄々としているので、全員がぐらつくということはまずない。
「と、とりあえず、みんなでこうやってお茶飲んだりして、リラックスを心掛けよう?」
ダメだ。自分ではフォローできる自信がない。
淡海にヘルプの視線を送るが、彼女もまた軽く肩を竦めた。彼女のところもまたメンバーが飄々としているタイプのグループなのだ。
「おう、築地。ここにいたのか。あっちでメンバーのやつがお前探してたぞ」
そこに表れたのは軽音部部長の世良だった。実歩がはっとしたように立ち上がる。
「あれ、笠木さんと淡海さんまでどうしたの」
「世良先輩。実歩ちゃんががちがちに緊張してるみたいで……」
矢㮈が訳を話すと、世良は腕を組んで息を吐いた。
「うーん、それはもうしょうがないよな。緊張するもんは仕方ない」
「ですよね。でも、彼女たちにとっては深刻なので、少しでも和らげる方法があればと……」
矢㮈の隣では実歩がこくこくと頷き続けている。世良はしばらく黙って考え込み、やがて首を捻った。
「……別に弾けなかったらそれはそれでいいんじゃね?」
「え?」
矢㮈と実歩は目を見張った。
「たった十五分のステージだ。弾けなくても時間は短くも長くもなりはしない。もう潔く諦めろ」
「そんな……部長~」
実歩が信じられないという顔をして部長の腕をぺちぺちと叩く――その様子を見るに二人は馴染んではいるらしい。
「いや、オレも一年の時おんなじセリフを先輩から言われて――」
「先輩?」
矢㮈が首を傾げた時だった。
「あ、はっけーん!」
快活な声がその場の空気をぶち抜いた。ぎょっとしてそちらを向くと、声と同じく元気な女性が立っていた。
「春日井さん!」
矢㮈と淡海の声が重なった。昨年の合宿中にお喋り大会をしたメンバーだ。
「笠木ちゃんに淡海ちゃん、久しぶり。いよいよ本番ね~」
春日井は肩口まであった髪をバッサリ切ってショートヘアになっていた。
「うわ、先輩、ますます男前になってるじゃん」
「開口一番それなの、世良?」
春日井は挨拶そっちのけの後輩の言葉に苦笑した。
彼女のことを知らない実歩にちょいちょいと制服の袖を引っ張られて、矢㮈は紹介した。
「実歩ちゃん。こちらは春日井さん。この春彩楸学園を卒業した元軽音部の先輩だよ」
「そうそう、この先輩だよ、オレに潔く諦めて腹括れって言ったの」
世良が先程の話を戻して言った。――なるほど、確かに春日井ならそう言いそうな気もする。
「ちゃんと練習してきたんだからそれでできなきゃ仕方ないって」
「あら、まだ世良は緊張してるの? いい加減腹括りなさいよ」
「いや、違うって。オレはもう大丈夫だよ。緊張して震えが止まらないのはそっちの一年」
世良がまるで世話焼きの母親に対して言うように言い、実歩の方を示した。
春日井は実歩の方を見てふふっと笑った。
「ああ、もしかして築地ちゃんの妹?」
きょとんとする実歩を見ながら、矢㮈はああそうだったと思い出した。実歩には果歩という姉がいる。その果歩は合唱部部長であるのだが、以前軽音部にも所属していたことがあるのだ。春日井とはその頃から引き続き仲良くしているらしい。
「そっか。緊張してるのかあ。うん、するよね。果歩ちゃんも昔同じ様なこと言ってたなあ」
「お姉ちゃんもですか?」
「うん。見た目は全然そんな感じに見えないんだけど、がっちがちだったんだって。その時はね――」
そこからは春日井が実歩の相手を引き受けてくれた。彼女がどんな話をするのか興味があったが、矢㮈も淡海も仕事がある。世良も本日午後の出番を控えている。
「世良先輩はこれから練習ですか?」
「いや? ステージ裏の雑用を手伝うつもり」
「ええ? 今日が出番なんですから仕事は免除でしょう?」
「いやいや。これでも実行委員の一員だから。それにあの後輩たちを放って練習もできないからな。舞台袖ででも見守っとくよ」
先輩らしい風を吹かせる世良に、矢㮈は失礼ながら不思議な感じがしてしまった。先程春日井と一緒にいる彼を見たからだろうか。彼女といる時の世良は完全に後輩の時の彼だった。
(だけどやっぱり先輩で部長なんだなあ)
春日井がいるからこそ、ちゃんと部長としての役割をこなそうと思うのかもしれない。
たまに諷杝が大人びて見えるのと同じくらい、新鮮に感じた。
三.
也梛と諷杝は外で、第三体育館への誘導やその他案内を行っていた。すっかり高くなった日は容赦なく人々の上に熱を降り注ぐ。広がっていた雲も今やどこへやら状態だ。清々しくも忌々しいくらい晴れ渡った空がとにかく青い。
「春日井さん、元気そうだったねえ。ショートカットも似合ってた」
「ああ。なんかすっかり大学生って感じだったな」
先程、この春に彩楸学園を卒業した元軽音部の先輩が来場した。
高校の制服を着ている彼女のイメージが強いからだろうか。卒業して私服の姿を見ると、途端にずっと大人びて見えた。
「来年の僕もあんな感じなのかなあ?」
「……お前はあんなにパリッとした感じにはならないと思う」
「失礼な」
「どの口が言う」
也梛は溜め息を吐いて、入り口に迷っているらしき人に声を掛けて案内した。
体育館に入っていく親子を見送った時、今度は声をかけられた。
「高瀬君」
「あ、トバさん」
そこに立っていたのは肌が白いひょろりとした大学生だった。隣にはがっちりした体躯の同じ年頃の男性がいた。大学の友人だろうか。
「お疲れ様だね。聴きに来たんだけど、高瀬君たちの出番は今日?」
「ありがとうございます。でもすいません、俺たちは明日です」
建物の入り口で配っているのと同じパンフレットを彼らに見せる。
諷杝もいつの間にかそばに戻って来てトバに会釈した。
「そっかあ。明日だったんだね。じゃあまた明日も来ようかな」
「……トバさん、お暇なんですか?」
「実はそうなんだよね。でも色んな演奏を聴ける音楽祭なんだから、じっくり味わいたいし」
「高校生の演奏ですけど」
暗に上手い下手が混同していると伝えたつもりだったが、トバは楽しそうに微笑んだ。
「うん、それが良いんだよ。僕にはとても懐かしいから」
「そうですか」
トバは大きく頷いて、友人と共に第三体育館に入って行った。
その背を見送っていた也梛を、諷杝がじいっと見ているのに気付いた。
「どうした」
「いや? トバさんとずいぶん馴染んだなあって思って」
也梛は言葉に詰まって黙った。以前、トバに話を聞いてもらったことを諷杝には話していない。
「……良い人だから」
也梛の答えに諷杝はまた珍しいものを見たような顔をしたが、やがて「ふーん」と頬を緩ませた。
「……何だよ」
「いや? 僕もトバさんは良い人だなーって思うよ」
諷杝が何を考えているのかさっぱりだったが、これ以上深堀されるのも面倒なのでこの話は終わりにした。
「それにしても、昨年より多いな。開場時でこれだけの人数だと、これからまだまだ増えるんじゃないか」
「そうだね。まあ彩楸より会場も広いから余裕はあるだろうけど」
想像以上の人出だった。出演する生徒の家族以外にも友人らしき姿が結構見られる。
「あ、諷杝君、高瀬君。お疲れ様」
正門に続く道から、並早が足早にやって来た。肩には大きなクーラーボックスを担いでいた。恐らく差し入れの類だろう。
「おはようございます、並早先生」
也梛たちが揃って挨拶を返すと、並早も「おはよう」と頷いた。
「すごい人だね。駅からこっちに向かって歩いて来る人をいっぱい見たよ」
ということはさらに来客が増えることは決定だ。
「今日は二人とも裏方だっけ」
「そうです。僕たちの出番は全部二日目なので」
「そうだったね。じゃあまだ緊張はそこまで?」
「音楽祭が始まる、という点では緊張もありますけど、自分たちのステージについては特に……」
落ち着いた諷杝のセリフに並早が苦笑した。
「なら良かった。まあ今日はサポートの方を頼んだよ。世良君たちは今日だったかな」
「そうなんですけど、世良先輩はスタッフの仕事の手伝いしてますよ」
どこかの誰かさんと違って助かります、とちらと諷杝を見るも、
「さすが世良君だよね」
諷杝に皮肉は通じなかったようだ。並早がまた困ったように笑っている。
体育館の裏口に足を向けた並早が、去り際に思い出したように言った。
「ああ、そうだ。ここに来る前に彩楸学園に寄って来たんだけど、たまたま副理事長先生に会ってね。明日、観に来れそうだって」
諷杝の目が大きく見開く。也梛は「そうですか」と頷いた。
「……そっか。松殿先生、来てくれるんだ」
「良かったな」
あの忙しい副理事長が本当に来てくれるとは思わなかった。幸いにも偶然余暇ができたのか、それともわざわざ時間を都合してくれたのかは分からない。
しかし、也梛の隣にいる諷杝はとても嬉しそうだった。
「――まずは宣戦布告だよ」
「あ?」
いきなり聞こえた物騒な言葉に、しかもそれを発したのが諷杝だとは思えず也梛はいつになく素っ頓狂な声を発してしまった。
諷杝は人差し指を唇の前に立て、微笑んだ。
「僕から『ZIST』への。松殿先生は立会人みたいなものかなあ」
也梛の眉間に深い皺が寄った。
「……お前何考えてるんだ?」
その問いに、返答はなかった。
ここまで読んでくださってありがとうございます。<後編>に続きます。
とうとう1日目が始まりました。矢㮈たちの出番はまだですが、いろんなところでそれぞれの音楽祭が幕を開けたんだなあという感じです。(2021.10.24)




