交流合宿
【主な登場人物紹介】
・笠木 矢㮈(かさぎ やな)…彩楸学園高校2年生。バイオリンを弾く。
・高瀬 也梛…同上2年生。キーボードを弾く。
・海中 諷杝…同上3年生。ギターを弾く。
【その他】
・相田 将…雲ノ峰高校3年。昨年の音楽祭実行委員長。
・淡海 あやめ(おうみ あやめ)…同上3年。将の幼馴染みで音楽仲間。
・並早…彩楸学園英語教諭。
一.
「わあ、すごい! 良くなってるよ! 実歩ちゃん」
「ホントですか!」
拍手をして声をあげた矢㮈に、築地実歩が頬を上気させて破顔した。彼女のバンドメンバーの面々もそれぞれ安堵と嬉しさを滲ませていた。
「何とか形になったねえ」
諷杝もほっとしたように微笑んでいた。
いよいよ音楽祭本番が明後日に迫っている。前日の今日は朝早くから風橋学園に入り、各グループ最後の調整をしているところだった。明日は一日リハーサルである。
矢㮈たちは軽音部一年の実歩に練習の成果を見てくれとせがまれ、彼女たちの練習を覗きに来たのであった。
「ちゃんと曲になってたな」
「いや、曲になってなきゃ困るんだけど……」
高瀬の捻くれた感想に、一緒に見ていた軽音部部長の世良が苦笑を挟んだ。
「海中先輩にご助言いただいたので、思い切って部長にも教えてもらったんです」
実歩が少し照れた様に笑うと、諷杝が大きく頷いた。
「世良君、教えるの上手そうだもんね」
「海中が誰かに教えてる姿はオレには想像できねえ」
世良が腕を組んで溜め息を吐く。
「この調子で本番はもっと上手に弾けるように頑張ります!」
実歩は俄然やる気を出したようで、そんな彼女がとても眩しく感じられた。
(あたしも頑張らないと)
矢㮈の方も自然とやる気をもらったのだった。
矢㮈たちのグループに割り当てられた練習時間はすでに終わり、当番に当たっている夕食準備の時間までは自由だった。
だが三人はそれぞれの楽器を手にしたまま、とある練習部屋に向かった。雲ノ峰高校の淡海あやめたちが練習している部屋である。
防音室ではないので、各部屋からは様々な音が漏れ聞こえて来る。音も調も全然噛み合っていないはずなのに、不思議と不協和音に聞こえないのが奇跡だ。
諷杝が代表してノックし、扉を開ける。
「お、来た来た」
淡海がペットボトルの蓋を開けながら笑う。丁度一息ついていた所だったようだ。ドラムの相田将の他、ギターとベースの二人も体を楽にさせていた。
「さて今回の作戦会議と行こうじゃないの」
淡海がペットボトルを置いて、矢㮈たちに椅子に座るよう勧めた。手近な所にあった椅子を引き寄せて、相田のいるドラムを囲むように半円を描くように座る。淡海は立ったままだった。
「作戦会議も何も、もう弾いて歌うだけだけどね」
諷杝が苦笑すると、淡海は人差し指を上に向けて振った。
「甘いわね、海中。私たちが選んだ曲はちょっと特殊なんだから、いかに観客を引き込めるかが勝負よ」
「まあ、去年の『ねこふんじゃった』と真逆を行くような感じですもんね……」
矢㮈の言葉に淡海は大きく頷いた。
「そう、『ねこふんじゃった』はだいたいみんな知ってるけど、『校歌』は自校の人以外ほとんど知らないでしょ」
「自校でも完全に歌えるのって野球部くらいな気がするんだけど」
そう言った諷杝に矢㮈も同感だった。強いて言うなら、選択授業で音楽をとった生徒は歌わされるので覚えているかもしれない。
矢㮈たちが今話し合っているのは、今年の音楽祭の交流演奏企画だ。昨年に続き、また淡海たちと一緒にステージに上がることになったのだ。
交流演奏は、一日目と二日目のそれぞれ午前と午後に一回、グループ演奏発表の間に休憩も兼ねてプログラムされている。学校間やグループを越えての交流という楽しさの他に、普段とは違う楽器に挑戦したり、歌だけだったり、即興弾き対決をしたりなど、内容も自由度が高い。
前回のテーマは「カッコイイ打楽器演奏会『ねこふんじゃった』」だった。淡海ののびのびとした圧倒的な歌唱力は観客の老若男女を巻き込み、謎の盛り上がりを見せた。ついでに言うと、並早教諭も飛び入り参加という形で巻き込まれたなかなかの企画だった。
そして今回のテーマはというと。
「まさか『校歌のアレンジ』とはな。しかも替え歌付き」
相田が譜面台に載せた譜を遠い目で見つめる。その譜には淡海が主に考えたという雲ノ峰高校の校歌の替え歌の歌詞が書き込まれている。
「オレ、オリジナルの校歌より先に、姫の考えた替え歌を完璧に覚えちゃったんですけど」
「分かる。オレもオリジナルの歌詞はあやふやだけど替え歌だけはバッチシ頭に残ってる。姫の声で再生される」
雲ノ峰のメンバー二人が頷き合っている。ちなみに彼らの間では淡海のことは『姫』と呼ばれ、彼女の決定に異論を挟むことはないそうだ。前回の『ねこふんじゃった』についても、「うちの姫が賛成ならそれでいいっス!」と清々しいほどの従順ぶりだった。
「淡海さん、なかなか作詞のセンスあるよね」
雲ノ峰の替え歌の譜を見ながら諷杝が言った。矢㮈も改めて歌詞を目で追った。自然に頭の中に少しアレンジされたメロディも流れてくる。――端的に言うと、ロック調のなかなか独創的な歌詞だ。
淡海が諷杝を横目に見て溜め息を吐く。
「無理矢理捻り出したようなもんよ。なんか校歌が前提って考えるとあんまり自由に思い浮かばなくて」
「いや、充分独創的だと思いますけど」
高瀬がにべもない感想をぶっこむと、淡海がより複雑な表情になった。
「これ本当に難しかったのよ!? 将ちゃんもそこの二人も『なーんも思い浮かびませーん』みたいな顔するし、私がもう無理矢理埋めたって言うか!」
「いやこれは無理だろ。しかも下手したら校長やらに何言われるか……編曲がバレなきゃいいなあ」
「ちょっと将ちゃん今更それ言う!? これ私たちみんなの責任だからね!?」
「あやめが超カッコよく歌い上げてくれるんだろ? 期待してるぞ」
「うああああそういう問題じゃないい! ていうかこれ本当に歌って大丈夫なのかなあ!?」
淡海がリーダーに詰め寄って連帯責任を認めさせるのを見ながら、矢㮈たちは乾いた笑みを浮かべていた。
一方矢㮈たち彩楸学園メンバーはと言うと、校歌に関して曲のアレンジも考えていなければ替え歌もまた考えることをしなかった。
なぜなら、もうすでにアレンジされた替え歌の譜が存在していたからである。それは――あの楽譜だ。
矢㮈の母親が卒業記念に合唱部に残した校歌の替え歌。
そして、諷杝の父親が残した校歌が元になっているだろう編曲。
正直自分たちが何も考えないことに少しずるい気がしなくもないが、矢㮈たちはこの曲をそのまま演奏することに決めた。
初めに言い出したのは諷杝だった。
「ねえ、今回の演奏会でこの校歌のアレンジ使えないかな?」
本当は矢㮈たちの持ち時間で使っても良かったのだが、淡海たちに相談して実際に譜面を見せたところ、「何これ面白い!」と予想外にもウケてしまったのだ。それから淡海たちも自分の学校の校歌で何か作ってみるという話になり――それがまさかこの本番前になって責任の擦り付けあいに発展するとは思わなかったが――今に至る。
(諷杝が何であんな提案をしたのかはよく分からないけど)
単に高校生最後の音楽祭だから校歌を使いたかったのか? ――いや、そんな理由ではない気がする。仮にそうだとしたら完全なオリジナルの校歌か、新しく矢㮈たちでアレンジしたものを選ぶはずだ。
(母さんにも言ってないけど驚くだろうなあ)
母親にはこのことを話していないが、まさか、かつて高校生だった自分が作った替え歌を娘たちに歌われるだろうとは思うまい。
「彩楸のは絶妙な出来だよね」
淡海が褒めてくれるのに、矢㮈は微笑みを返しながら心の中で母親に「良かったね」と呟いた。
「というわけで、これをいかにカッコよく、ださくないように歌い上げるかが勝負よ!」
一応交流演奏企画なので、両校のアレンジ校歌をみんなで演奏する。矢㮈たちも予め雲ノ峰の譜面をもらって練習をしていた。昨年は打楽器を演奏したが、今年はそれぞれ自分の楽器をそのまま担当する。
歌は主に淡海と諷杝が担当することになるが、一番目立つのが淡海だろう。彼女しだいで全体の印象が決まる。超重要なポジションだ。
矢㮈はバイオリンを取り出しながらぼやいた。
「校歌をバイオリンで演奏する日が来るなんてなあ」
同じく隣でキーボードを取り出していた高瀬が鼻で笑う。
「俺も初めて聞くな」
「いやいや、ピアノはともかくキーボードで校歌もあんまり聞かないでしょ?」
「でもバイオリンよりは確率高そう」
「変わらないわよ! ――きっと」
二人でぶつぶつ言いながら用意をする。相田たちもドラムの調整をしていた。
さて、一体どんな交流ステージが完成するのやら。
二.
食事作りは当番制ではなく、学食で全て賄われることになっていた。みんなでわいわい自炊した昨年が少し懐かしい。ただし配膳の用意などはスタッフの割り当てが決められている。その他掃除当番や交流会準備のスタッフも同じくきっちり振り分けられていた。
矢㮈たちは夕食の準備に割り当てられており、淡海たちとの打ち合わせと練習が終わるとすぐに楽器を置いて食堂に集合した。
高瀬がテキパキと出す指示に従って配膳の準備をする。少し、小学校の頃の給食当番を思い出した。
「あったなあ、給食当番。自分の分は、こっそり嫌いなものを抜いて器に入れてた」
諷杝がポロリと白状し、矢㮈は思わず笑ってしまった。
「え、何それ。諷杝そんなずるいことしてたの!?」
「だって食べるまで先生に見張られるの嫌じゃん。いつまでも食べ終われないし」
「いや克服しようとは思わなかったの?」
「……まあいいかな、って」
「あー、そっち行っちゃったのかー」
ちなみにグリーンピースと煮物に入っていた角切りのにんじんが苦手だったらしい。
「今は食べれるの?」
「どうかなあ? 進んで食べないから」
「……なるほど」
克服できてるかは怪しい。
「まあ也梛に見つかったら無理やりにでも食べさせられそうだけど」
あははと笑った諷杝の後ろにいつの間にか長身の影が近付いていた。――高瀬だ。
「へえ、じゃあ今日は特訓の日だな。グリーンピースと角切りにんじんの入った煮物があるぞ」
「え」
諷杝の笑顔が固まる。矢㮈はすっと視線を逸らした。オカンの高瀬には何も口を挟むことはできない。頑張れ諷杝、と心の中でそっとエールを送った。
夕食で頑張って煮物を食べ切った諷杝はそこで精神的に疲れ切っていたが、今日のプログラムはまだ終わらない。むしろこれからが交流合宿の肝である。
合宿に集まった人数は総勢五十人弱といったところだった。今年はステージ参加グループが多いと聞いたが、合宿に参加しない組も一定数いるようだ。だが交流をメインにする合宿としては丁度良いくらいの人数かもしれないと思う。
本番の会場にもなる第三体育館でレクリエーション大会が予定されていて、担当の実行委員が司会進行をする。マイクを握っていたのは風橋学園二年で副実行委員長の槙野灯里だ。
はきはきとした声で進めていく様は堂々としていて、矢㮈はとても同じ学年とは思えずすごいなと感じていた。
「槙野ちゃん上手いわねえ」
隣にいた淡海も感心したように、前方で喋る彼女を見ていた。
「淡海さんはレク担当にならなかったんですね」
彼女はこういうのが好きそうに思えるのに。
「やっても良かったんだけど、ああして頑張ってくれる二年生がいるからね。私たちが出張らなくても良いかな、って」
淡海はしみじみと先輩染みたことを言って、
「あ、でも自分の高校の文化祭は別よ? 音楽祭は譲るけど、自分ちの学校なら最後なんだから好き放題するわ」
何とも彼女らしいなと笑ってしまった。
それからいくつかチームに分かれてのレクリエーションがあり、みんなの緊張も解れて来ただろう頃からは自由交流会となった。
場所も食堂に移し、軽い飲食を交えての談笑があちこちで行われる。彩楸学園の軽音楽部の実歩たちも楽しそうに笑って話しているのが遠目にでも確認できた。一年も畏縮せずに交流に参加できているようだ。
「あー、やっとグリーンピースの味が喉から消えた気がする」
諷杝がほっとしたようにお茶を飲むのを見て矢㮈は苦笑した。
「遅すぎない?」
「もうしばらくは食べたくないなあ」
「……頑張ったね」
矢㮈は諷杝と一緒にいて特に自らは動かなかったのだが、他の学校の生徒が何人か声を掛けて来てくれた。だいたいが去年の音楽祭のことを口にして、思いの外多くの人が覚えてくれていたことにびっくりした。
「みんな覚えてるもんだねえ」
「矢㮈ちゃんのバイオリンが強烈だったんじゃないかなあ。ほら、他にいなかったし」
「そうかなあ? だったらあたしのバイオリンに見せ場をくれたあの曲と二人のおかげだよ」
「ふふ。それは也梛が喜ぶね」
「……本当のことだけど、何か悔しいから内緒にしててね」
「えー、なんでさ。言ってあげたら喜ぶのに」
「絶対捻くれたことしか返ってこないに決まってるもん。あいつ天邪鬼だから!」
「あはは。そうだねえ」
「誰が天邪鬼だ」
「「うわ!」」
噂をすれば何とやら。またもや気付けばすぐそこに高瀬がいた。今度は矢㮈も一緒に驚いてしまった。
「ちょっとあんた、気配消して出て来るのやめてよ!」
「はあ? そっちこそ気付けよ。注意力ねえな」
「何であんたに注意力を向けなきゃなんないのよ」
「じゃあ勝手に驚いて逆ギレするな」
今日の高瀬は口の悪さも絶好調だ。――疲れているのだろうか。
まあまあ、と諷杝が仲裁に入った。
「也梛ももう自由にして良いの?」
「いや、完全に自由じゃあない。このまま馬鹿やらかすヤツらが出ないまま早く就寝時間になってほしい」
つまりは見回りがあるようだ。矢㮈と諷杝も一応実行委員のメンバーだが、高瀬ほど仕事を受け持っていない。
「お疲れ様」
諷杝が困ったように微笑んで労うと、高瀬も眉間の皺を指で解しながら溜め息を吐いた。
「ホント、お疲れ様だよ」
声のトーンから疲れが滲みだしている。これは珍しい。
「あ、笠木さん発見!」
溌剌とした声に振り返ると、小柄な男子が近寄って来た。風橋学園ジャズバンド部二年の本田陵というサックス奏者だ。何度か風橋学園に来るうちに話すようになっていた。
「ちょっと本田、しれっと抜け駆けしないで!」
そんな本田の後を追うように来たのは先程までレクリエーションの司会進行を務めていた槙野灯里だった。近付くと彼女の背が高いことに気付く。高瀬よりは低いが諷杝とあまり変わらないくらいか。当然矢㮈よりは高く、彼女から見下ろされる立ち位置になる。ショートの髪と日に焼けた肌が屋外の運動部をイメージさせた。
槙野は高瀬に軽く「お疲れ様です」と会釈して、改めて矢㮈に向き直った。前のめりなせいか、身長差のせいか、その迫力に少し腰が引けてしまう。
「彩楸学園の笠木矢㮈さんですよね! バイオリンのイメージも強いんですけど、同じ二年っていうこともあって個人的に気になっていたんです。高瀬さんや淡海さんからもお話聞いてましたし」
淡海はともかく、高瀬は一体自分の何を話したのだろう。ちらりと彼を見遣ると、すいと視線を逸らされた。気になる。
「おい槙野。お前こそ抜けがけすんなよ。お前はどうせ女子部屋で一緒だろ。俺はもうすぐお別れなんだよ」
「私だって実行委員の仕事で忙しいの。こうやって貴重な時間を見つけて話しに来てるの!」
矢㮈は応酬を続ける二人に困った笑みを浮かべた。
「はい、そこまで。そろそろ終了時間だ」
腕時計を覗いた高瀬が声をかけてピタリと静かになる。
「ええ~俺まだ全然話してない!」
「私だって! 笠木さん、後でまた時間くださいね!」
「うわ女子ずっりー」
「うるさい」
本田がしぶしぶ部員の元へと戻って行き、槙野は相田の方へ指示を仰ぎに向かう。慌ただしい二人の背を矢㮈はポカンと見送った。まるで台風一過のようだ。
「じゃあ俺も相田さんたちのとこ行くから、お前らもちゃんと部屋戻れよ」
「はーい」
素直に返事をした矢㮈の隣で諷杝が高瀬の腕時計をじっと見つめていた。
「ねえ也梛」
「あ?」
「……終了時間にはちょっと早くない?」
諷杝が小首を傾げるのを見て、高瀬は軽く肩を竦めた。
「さあな?」
高瀬の背を見送りながら、矢㮈も携帯を出して時刻を確認してみた。終了予定時刻まで、まだ十分以上あった。
三.
昨夜は日付けが変わる時間近くまで、淡海と槙野、それから実歩を巻き込んでお喋りをしてしまった。
合宿特有の、寝たのか寝ていないのかよく分からない気分で矢㮈は起床した。すでに槙野は学校のジャージに着替えて部屋を出る準備をしていた。
「あ、笠木さんおはよう」
「おはよう。もう行くの? 早いね」
「毎朝軽く走るのが日課なんで、ひとっ走りしてきます」
「お、おお……それは行ってらっしゃい……」
「はい!」
笑顔で去って行く槙野はやはりどう見ても運動部に見えた。今まで何かスポーツをやっていたのだろうか。
隣を見るとまだ実歩は爆睡していた。反対側の淡海は軽く目を擦って、覚醒しようとしているようだった。
今日は一日リハーサルだ。合宿組でないグループも来る。
今回の音楽祭は、矢㮈たちの出番はグループ発表、交流演奏会ともに二日目だ。昨年一日目のトップバッターだった淡海たちは、今年二日目の大トリだった。
(いよいよだな)
もう明日の数時間後には一日目が開幕している。そしたらきっと二日目なんてあっという間にやってくるのだろう。
まだ出番は二日も先なのに、ドキドキと落ち着かなくなってきて、矢㮈はそれを静めるようにゆっくりと深呼吸を繰り返した。
「……何か微妙」
リハーサル後、高瀬がぼそりと呟いて矢㮈はドキリとした。
リハーサルは流れの確認と機材、立ち位置の確認が主になるので、どのグループもさらりと曲を流してどんどん進めていく。
矢㮈たちも予定していた二曲を弾いて特に問題ない流れでステージを後にしたのだが、体育館の外に出た所で高瀬が眉間に皺を寄せて立ち止まった。
「微妙、とは?」
数歩先を行っていた諷杝が振り返る。
「んー、何か、気になる……」
高瀬にしては珍しく言葉にしあぐねているようだった。
「――あそこだよね。音がブレた」
矢㮈が小さく呟くと、高瀬が「ああ」と頷いた。
「そう、ブレた――という程でもないが……ちょっと不安定で気持ち悪かった」
「うん、ごめん。それあたしも思ってた」
矢㮈と高瀬のやり取りを聞きながら、諷杝だけが軽く小首を傾げている。
「え、そんな変なとこあった?」
彼は特に引っかかるところはなかったようだ。そんな諷杝に高瀬が一つ頷きながら続ける。
「いや、別に流せる範囲内のことだから良いんだが……」
歯切れが悪い。だがその気持ちは残念ながら矢㮈の中にもあった。
恐らく彼と同じところが矢㮈も気になっている。
「――高瀬、もう一回あの曲やろう。部屋じゃなくて外でもいいから」
「ああ。悪いが諷杝も付き合ってくれ」
「僕はいつでも付き合うよ」
にっこり笑って諷杝が大きく頷いた。
「分かった。ここのタイミングはあえてズラせば良いんだ」
「ていうかその後の和音の連続がキツいんじゃないか?」
「……でもここは重音だからこそ、その後の単音が軽やかになるんだよ」
曲の中でバイオリンパートはほぼ単音で音を紡いでいくが、この曲は一部和音が続くところがある。この二重音が安定していないと、美しく聴こえない。先程も台無しにする程ではなかったが、不安定さが勝って違和感と言うか気持ち悪さが残ったのだ。矢㮈ですら感じたものを、あの高瀬が見逃すわけがない。
「僕は特に気にならなったけど、二人にはそんなに気になったの?」
「さっきも言ったけど、許容範囲内だ。だが、耳に残るのは否めない」
高瀬が腕を組みながら唸り、矢㮈は溜め息を吐いた。
「うん……弾いてるあたしが一番やっちまった感を味わってるよ」
逆に言うとそこさえハマればすごく気持ち良いのだが。
「でも今まで練習して来た時は特に課題として上がらなかったけど、今日になって何で?」
諷杝が不思議そうに訊く。矢㮈はふるふると首を横に振って白状した。
「……ごめん、実は度々気になってはいたの。もちろん上手く行っていた時もあったんだけど」
「え?」
驚いたような諷杝に、高瀬もぼそぼそと補足した。
「むしろそれ以外のところで修正箇所が多くて、今まで優先順位が低かったんだ」
そう、実際ここに至るまでの様々な点でバランスが悪いだの音の繋がりが悪いだのと改善することが多く、和音まで辿り着けなかったのだ。それこそ高瀬の言う『許容範囲内』だったせいもある。
つまりは、他の点がほぼ及第点となったことで、今までスルーして来た細かいプラスアルファの粗が気になってきたということだ。
矢㮈個人としては、このまま和音を何とかクリアしたいと思う。
(だけど)
矢㮈は目の前にいる二人の音楽仲間を見つめた。
どう考えてもこれは矢㮈の技量の問題だ。自分一人の発表会ならいざ知らず、これは三人で演奏する曲だ。ハマるかハマらないかの演奏に賭けるくらいならば、安定して二人が――特に高瀬が気にならないような――演奏に変えるべきではないだろうか。
「――やっぱり重音減らして単音にする?」
思い切って言ってみた。
諷杝が窺うように高瀬を見て委ねる。
高瀬はしばらく腕を組んで黙ったまま、じっと譜面を睨んでいた。
「……お前はどうしたいんだ?」
「え?」
高瀬がすっと視線を上げて、矢㮈とその手にあるバイオリンを見る。
「バイオリンはお前しかいないんだから、俺たちでは何もフォロー出来ない。和音を上手く弾けるかどうかはお前次第だ」
バイオリンを持つ手に僅かに力が入った。
「諷杝は気にならないみたいだし、俺だって気になっても流せる範囲だ。どっちに転んでもお前が最後まで弾き通せるなら別に構わない」
最後まで弾き通せるなら。それは一人で弾くにしても絶対条件だが、仲間が一緒ならずっと心強い条件になる。
先程高瀬はフォロー出来ないと言ったが、諷杝も高瀬も曲は絶対最後まで弾き続けてくれる。矢㮈が失敗したところで、曲が途切れることはないのだ。
「――このまま挑戦したい」
「そうか。ならこのままでいく。頑張れ」
高瀬は何でもないことのようにサラリと言って、「このまま続行」と一言諷杝に告げた。諷杝は「オッケー」と笑い返す。
「矢㮈ちゃん、気負いすぎずに頑張ってね」
「うん」
「まあ去年の独奏パート見る限りじゃ本番に強そうだからな。きっと大丈夫だろ」
高瀬が言いながら譜面をファイルにしまった。
「……地味にプレッシャーかけてきてる?」
「コンクールに比べればこれくらいプレッシャーでも何でもないだろ?」
「っ……!」
口の端で笑った高瀬が憎らしかったが、矢㮈は何も言い返すことができず唇を結んだ。
(これは絶対にぎゃふんと言わせてやりたい……!)
視界の端で、諷杝が小さく溜め息を吐いたのが見えた。
四.
今夜は全員参加のレクリエーション企画はない。その代わり体育館や食堂は解放されていて、各自羽目を外さない程度に楽しむのは自由となっていた。
交流会らしく他校の者と積極的に関わる生徒、最後まで調整をするグループなどみんな思い思いに過ごしていた。
矢㮈はまた淡海と槙野に捕まって、さらに他の学校の女子メンバーを巻き込んでの女子会に参加していたが、少し外の空気を吸いたくなって飲み物を買って来るという口実で抜け出した。
本当に喉が渇いていたので、建物に一階にある自動販売機でお茶を買う。体育館の方や部屋の方からわいわいとした声が聞こえてくるが、自動販売機の周りに人の気配はなかった。
今頃、諷杝と高瀬はどうしているのだろう。いつものように二人でのんびりしているのか、それとも相田や世良と一緒に男子会でもしているのか。
そんなことを思いながらふと入り口のガラス扉を見遣ると、その向こうに見知った姿を見付けた。自然と足がそちらに向いた。
「並早先生」
「おや、笠木さん」
彩楸学園の英語教諭で、今年も音楽祭の担当になってしまった並早だ。ショルダーバッグを肩にかけて、何やら膨らんだ手提げ袋を一つ持っていた。
「先生、どこか行くんですか?」
「ん? 家に帰るんだよ。今日は軽音部顧問の笹山先生がいるから、僕は一度帰って明日の朝また来るね」
「そうなんですか」
てっきり矢㮈たちと同じように本番が終わるまで泊まりこみなのだと思っていた。
「今日のリハーサル見た感じだとまずまずってとこだったけど、いけそうかい?」
「んー、が、頑張ります」
矢㮈の曖昧な返事に並早は一瞬きょとんとして、それから不思議そうに尋ねた。
「あれ? どこか不安な点でもあった?」
「……あたしの個人的な課題があるんです」
昼間のやりとりを思い出して矢㮈の声は小さくなる。あれから何度か練習したが、やはり全ての和音を綺麗に響かせることはできなかった。
並早は「へえ?」と少し興味深そうに顎に手を遣り、矢㮈に微笑み返した。
「なんか先生楽しそうですね?」
「いやいや、楽しいのは笠木さんの方でしょ? 課題は課題でも、学校の課題と比べたらよっぽど楽しそうに見えるけど」
「あー……それは確かに」
勉強の課題に比べたら、まだバイオリンの方が進んで頑張れる気がする。
「交流演奏会の方は見れなかったんだけど、今年も派手にやるのかい?」
前回無理矢理巻き込まれて、彼自身も打楽器を持って参加させられた並早はそわそわしながら訊いて来た。
「派手かどうかは分からないですけど、まあテーマはちょっと変ですね」
「……また僕も引きずり込まれたりするのかな?」
一番心配しているのはそこなのだろう。並早が心配そうな声音になる。せめて巻き込むなら事前に教えてくれという気持ちが伝わって来て、去年のことが本当に申し訳なく思えて来る。――いや、そもそもは諷杝の無茶な思い付きが原因だった。
「その点は大丈夫です! 本当に!」
思わず声を大きくして断言してしまった。多分、今回は無茶な巻き込み方はしない――はずだ。今のところ。
並早は少しほっとしたように息を吐き、小さく笑った。
「そうか。なら今年はゆっくり観客席から聴かせてもらおう」
「はい」
「笠木さんのところはまたお母さんと弟君が見に来るのかな」
「そうですね。あとおばあちゃんが来るかどうかってとこです」
敬老会などの用事が入っていなければ聴きに来るかもしれない。
「というか、母さんには是非聴いて欲しいなあと思うんですよね」
「と、言うと?」
「さっきの交流演奏会の話なんですけど、テーマが『校歌のアレンジ』なんです」
矢㮈はざっくりと自分たちが演奏する内容を説明した。静かに聞いていた並早の顔に徐々に驚きの色が広がっていく。
「え、あの校歌の替え歌アレンジを演奏するのかい?」
並早もあの譜面については知っていたらしい。諷杝から聞いていたのかもしれない。
「母さんにはまだ言ってなくて。当時自分たちが作った替え歌を歌われるってどんな気分になるんでしょうね。なんか反応が楽しみで怖いです」
苦笑した矢㮈を、並早はしばし呆然と見つめていた。
「並早先生? どうかしました?」
フリーズした彼がはっとしたように頭を振り、やがて困ったように眉を八の字にして笑った。
「……そうか。まさか二十年も経ってあれが掘り返されるなんて思わないだろうね。そうか、そうか……」
並早の声はだんだん独り言のように小さくなり、少し泣きそうな響きが混じっているように聞こえた。
そして彼は思い出したように腕時計を見た。
「おっと、そろそろ行かないと。笠木さんも早く部屋に戻りなよ。また明日」
「はい、また明日。先生もお気をつけて」
並早が駐車場の方へ向かって歩いて行くのを見送って、矢㮈も建物の中へと引き返した。
***
(そうか。あの校歌の替え歌を……)
並早が先程の会話を思い返しながら歩を進めていると、駐車場の手前の木の下に一人の少年がいるのを見つけた。彼はぼんやりと暗い空を眺めている。今夜は晴れ渡っていて、月も星もはっきり見えた。
「今度は諷杝君か」
「あ、並早先生」
焦げ茶の髪を風に揺らして、諷杝がこちらに気付いた。
「こんな所で何してるんだい。折角の交流合宿なんだから、みんなと交流しなきゃもったいないよ」
「さっきまでみんなで話してましたよ。ちょっと疲れたので休憩です」
「なるほど」
この少年が誰かと一緒にいるより一人でいる方を好むことは知っていた。だがだからと言って決して愛想が悪いわけではなく、学校生活では広く浅くの友人関係を築いている。
むしろこの音楽祭関係では、他校の生徒も含め割と彼と打ち解けている者が多い方だ。
「そういえばさっき笠木さんと会って少し話したんだけど、『校歌』の替え歌やるんだって?」
「ああ、聞いちゃいましたか」
諷杝がふふと楽しそうに笑って頷いた。
「はい。僕の提案で、演奏することになりました」
「やはり言い出しっぺは諷杝君だったか。――それは何か意味があってかな?」
並早の問いに、諷杝は視線を宙に彷徨わせ、ポツリと呟いた。
「もしかしたら、副理事長先生が聴きに来てくれるかもしれなくて」
「副理事長……松殿先生が?」
「はい」
彩楸学園の副理事長の松殿は、並早が在学していた当時も学園で教鞭を取っていた。兄が所属する軽音部の顧問だった人だ。
「上手く言えないんですけど……なんかあの譜面をそのままにしておくのはちょっともったいない気がして。作詞した矢㮈ちゃんのお母さんにとったら恥ずかしい過去を思い出しちゃうかもですが、それでも聴いてもらいたいなと思って」
確かに二十年も前の高校生の頃に考えた校歌の替え歌を子どもたちに演奏会で暴露されるなんてたまったものじゃない。並早は先輩にあたる彼女のことを考えて、改めて少し不憫な気持ちになった。
そしてきっと、諷杝がその校歌の替え歌とアレンジした曲を聴かせたいと思っている相手は、松殿や矢㮈の母親、並早だけではないはずだ。
「多分――いやきっと、来てくれると思うんです」
誰が、とは言わなかった。しかし、並早にはその主語が誰を指すのか自然と分かった。
「……きっと来ると思うよ。去年は会場の外にいたけど」
並早も少しだけ挨拶ができたくらいだった。今年は会場内で姿を見れたら良いと願う。
「――それにしても諷杝君」
「はい」
「あの校歌をアレンジした編曲の方は、君のお父さん――旋さんたちが考えたんだろう?」
「そうですね」
「じゃあ……当時のZISTのメンバーは全員恥ずかしい思いをすることになるんじゃないかな」
諷杝は曖昧な表情で軽く小首を傾げ、
「まああの譜面が僕らの手に渡った時点でドンマイですよね。見つかってほしくなければ残さないでおいたら良かったんです」
いつになくきっぱりと言い切った。予想以上にクールな切り返しに言葉が詰まる。
「とりあえずうちの父さんと樹さんは天国から楽しく観ているんじゃないですかね」
「ああ、そうだね」
もうこの世にはいない二人は、諷杝と並早、それぞれの家族だ。
(きっと二人とも、諷杝君のステージを楽しみにしてるに決まってる)
明日は家を出る前に仏壇に挨拶をして来ようと思う。
「並早先生」
「……うん?」
諷杝がもう一度夜空を見上げた。さっきまで晴れ渡っていたというのに、薄っすらと雲がかかり始めていた。
「あの父さんの楽譜が見つかっても見つからなくても、もうすぐけじめはつけようかなと思ってるんです」
諷杝の声がいつもと違って耳に届いた。落ち着いた、どこか大人びた声。少し、彼の父親を思い出させる。
それはどういうことだい? という問いは呑み込んだ。今聞くタイミングではないと思ったからだ。
「――そうか。何かあれば遠慮なく声をかけてね」
並早が静かに微笑むと、諷杝が微かに頷いたような気がした。
ここまで読んで下さってありがとうございます。2話に分けようかと思いつつ、一気に更新してしまいました。先月は更新できなかったので、次回は10月後半にもう1話更新予定です。よろしければまたお付き合いください。(2021.10.03)




