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  作者: 葵月詞菜


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調べの中のかくれんぼ<後編>

※前話「調べの中のかくれんぼ<前編>」の続きです。

【主な登場人物紹介】

・笠木 矢㮈(かさぎ やな)…彩楸学園高校2年生。バイオリンを弾く。

高瀬たかせ 也梛やなぎ…同上2年生。キーボードを弾く。

海中わたなか 諷杝ふうり…同上3年生。ギターを弾く。

【その他】

相田あいだ しょう…雲ノ峰高校3年。昨年の音楽祭実行委員長。

・淡海 あやめ(おうみ あやめ)…同上3年。将の幼馴染みで音楽仲間。

・トバ …風橋学園の大学生。たまたま出会った優しそうな青年。

三.

 音楽祭が近付くにつれて、風橋学園(かぜはしがくえん)に赴く回数も増えて来た。あと数日もすれば、風橋学園に泊まり込みになる。

 その日もまた打ち合わせがあり、也梛(やなぎ)たちは揃って風橋学園に来ていた。

 初めの方は指示を待って動いていた風橋の実行委員メンバーたちも、今は開催校として積極的に準備に奔走している。おかげで実行委員長の相田(あいだ)もだいぶ余裕ができたようだった。彼のそばで働いて来た也梛は少しだけほっとした。

「今日もお疲れ様でした。あと少しですね」

 会議室でプリントをまとめ終わった也梛は、もうすぐ始まる二日間の交流合宿のスケジュールに目を通す相田に声をかけた。

「そうだな。早く終わってほしいけど、終わってほしくねえ」

 相田が顔をあげて苦笑した。気持ちは何となく分かる。

「プリントここに置いておきます」

「ああ、サンキュ。高瀬もお疲れ様」

 相田が軽く手を上げたのに会釈を返し、也梛はキーボードケースと自分の荷物を持って部屋を出ようとした。

「なあ高瀬」

「はい……?」

 相田は手元のスケジュールに目を落としたまま、こちらを見ずに言った。

「お前は来年どうするんだ?」

 あっさりと投げかけられた問いだった。ただ、少し試すような響きがあったかもしれない。

 まだ今年の音楽祭はこれからなのに、なぜそんなことを訊くのか。

 也梛は少し考え、彼が本当に聞きたいことが何か悟った。

 来年――それはつまり、相田たちがいない音楽祭で、当然()もいない音楽祭だ。

 諷杝がいなくても、也梛は出るのか。相田はおそらくそう訊ねたのだ。

「……さあ、どうでしょうね」

 也梛は曖昧に返し、相田に背を向けた。相田は何も言わなかった。

 ここで彼が「来年はお前によろしく頼むぜ」と言わなかったことに少しだけ安堵した。


 風橋学園から割り当てられた練習場所は、同じ敷地内にある大学の第三体育館がある建物だった。会議室や教室代わりになる小さな部屋がいくつかあって、也梛たちのように他校から来た生徒たちの練習場所として開放してくれていた。

 部屋に着くと、すでに音楽仲間の諷杝(ふうり)矢㮈(やな)が待っていた。楽譜を広げて何か話していたようだ。

「あ、お帰り、也梛」

「お疲れ様―」

 二人が同時に也梛をふり返って言う。何だか自分の家にでも帰ったような錯覚に陥った。

「……お疲れ。楽譜広げて何してるんだ?」

「ここのリズムが変わるところのタイミングが気になってたから、諷杝にきいてたの」

「どこ」

「この小節の最後のとこ――」

 荷物を置くのも後にして、つい楽譜を覗き込んでしまった。元は自分が作ったものなので気になる。

「ああ、そこな――」

 也梛は彼女が示した部分を見て内心驚いていた。

 実を言うと、その小節を含めた前後は作曲する時に最後まで迷った部分だったのだ。迷いながらも最後には自分の中で落としどころを見つけ、何とか曲として成り立たせたつもりだ。

 だが矢㮈が気になったという部分はまさにそこで、きっと偶然に違いないが、也梛は心の中で苦笑いせざるを得なかった。

「……笠木はこの辺り、弾きにくいか?」

「いや……むしろここから始まる数小節は明るく楽しい光のイメージで、弾いてて楽しいよ。だけどその直前までちょっと音調が違うでしょ? ここってバイオリンだけが前に出てがらっと雰囲気変わるから難しくて」

 何とか言葉にして説明する矢㮈に、也梛は黙って頷いた。確かに彼女が言うことは間違っていない。楽譜通りに弾こうと思ったらそうなる。彼女は正確に也梛の作った曲を理解していた。

「諷杝はどう思った?」

 横で話を聞いていた諷杝に投げかけると、彼も「うん」と頷いた。

「矢㮈ちゃんの言いたいことはもっともだと思う。僕もここ弾けって言われたら多分まごつく。だけど逆に言うと、矢㮈ちゃんが一番弾きやすいように弾くのが良いと思うけど――也梛にこだわりがないならね」

「そう、あたしが好きに弾いて良いなら何となくイメージはあるの。ただ高瀬がここに何か意図があるならその通りに弾きたいというか――」

「別にこだわりという程のものはない。むしろ笠木のイメージが気になるからまずそれを聞かせてくれ」

 也梛が言いながら荷物を置いてキーボードを準備する横で、矢㮈がそわそわしながらバイオリンを手にした。

(こういうところは良いよな)

 也梛なりに一応曲を完成させて譜面にしているとはいえ、実際に三人で弾き始めてみると改良の余地はいくらでも出て来る。彼らは也梛の曲に寄り添った上で、各々の楽器の演奏で違和感があったり疑問が出てきたりすると声に出してくれる。

 例えば也梛はギターとバイオリンについて彼らより分かっていないだろうし、またそれらの楽器を想定して譜面を作っていても、彼らの弾き方に関わる個性までは完全に落とし込めていない。

 楽器は同じでも、奏者によって演奏の味は変わる。もっと言うとその日の気分でも変わる。面白いのは、也梛が譜面を作ったところでまだまだ曲の完成が見えないことだ。もしかしたら一生完成することはないのかもしれない。

 今回のように、也梛が思いもしなかったようなイメージを矢㮈が持っている場合もある。それを知ることができるのがまた楽しい。

笠木(かさぎ)もだいぶ遠慮なく言うようになってきたよな)

 昨年はまだ遠慮の方が勝っていたような気がする。だが今は彼女もしっかり主張するようになってきた。

 也梛は矢㮈が弾くのを聴きながら、自分の手元にある譜面にペンを入れ直した。


「あ、良いんじゃない?」

 矢㮈の提案通りに合わせてみた後で諷杝が頷く。

「ホント?」

「うん。聴いててナチュラルだったよ。ね、也梛?」

 話を振られて也梛も異論はなかったので頷いた。

「そうだな」

「よし、也梛のお墨付きだよ、矢㮈ちゃん。やったね!」

「うん!」

 そこで二人でハイタッチをする意味が分からない。也梛は自然と眉を寄せた。

 その時、閉めていた部屋の扉をノックする音が聞こえた。

「はい……?」

 諷杝が代表して答えると、遠慮がちに扉が開いて、そこからひょろりとした青年が姿を現した。

「あ、『トバさん』!」

 矢㮈が思わず声をあげると、青年は少し恥ずかしそうに笑った。

「覚えててくれたんだね。良かった」

「あの時は第三体育館を案内してもらってありがとうございました」

 諷杝も青年を思い出したらしく、軽く頭を下げた。

「……どこの人?」

 彼を知らないのはどうやら自分だけらしい。説明を求めて諷杝を見ると、以前第三体育館に案内してくれた風橋学園の大学生だと教えてくれた。要するに、諷杝と矢㮈がお世話になったようだ。

「えっと……トバさん?」

 也梛が確認するように訊ねると、彼は微笑んだ。

「うん、トバさんで良いよ。友達もそう呼ぶし」

 ひょろりと背が高く、全体的に線が細くてどこか儚い印象を受けた。肌が白いせいもあり、病み上がり的な雰囲気がある。だが至って彼は元気だった。

「で……トバさんはどうしたんですか? 何か用が?」

 第三体育館が大学の施設とはいえ、演奏練習中の高校生にわざわざ声をかけてくるとは思えなかった。

 明らかに不審そうな目を向けた也梛に、トバは焦ったように手を振った。

「あ、ごめんね、急に声かけて練習の邪魔しちゃって。ちょっとこの建物に用事があって通りがかったんだけど、君たちの演奏が聴こえてきて……」

 ここは防音設備が完璧ではないので、当然音も外に漏れる。現に、他で使用している部屋からもギターの音や歌声などが漏れ聞こえて来ていた。

 トバは諷杝のギターと、矢㮈のバイオリン、そして也梛のキーボードを順に見て目を輝かせた。

「面白い組み合わせだね。君たちは軽音部?」

「あ、いえ。あたしたちはただ勝手に集まって弾いてるだけっていうか……」

 矢㮈が要領を得ない説明をする。

「どこの部活にも所属してない、未公認サークルみたいなものです」

 諷杝が助け舟を出すように口添えした。言い得て妙だなと思う。

「そうなんだ。ああ、彩楸は生徒の活動に関して結構自由な校風だもんね」

 青年はどこか納得するように頷いた。彩楸学園のことを知っているような口振りだが、学園に通う兄弟や友人でもいたのだろうか。

「それより、さっきの曲。前半と後半でガラリと変わるんだね。途中ダイナミックに変わるからびっくりした」

「本当に聴いてたんですね」

「聴いてたよ。聞いたことない曲だったけどあれは?」

「元は俺が作った曲です」

 トバの熱をもった質問に思わず也梛が答えると、彼は目を見開いた。

「そうなの!? すごい。コピーとかはよくあるけど、君たちはオリジナルなんだ」

「ええ、まあ……」

 なるほどなあ、とトバはとにかく楽しそうだ。

(この大学生……一体何なんだ)

 危害を加えるような怪しい者ではないようだが、いきなり自分たちの音楽にここまで食いついてくるとはただ者でもないような気がした。

「前半は抑え気味で、そこから途中バイオリンを前に出したリズム転換、同時に音調も変わって一気に明るいまま駆け上がっていくイメージかな」

 トバはぶつぶつと呟いている。

(本当にちゃんと聴いてたんだな……)

 その後に続く、独り言のように連なる彼の言葉も的を射ていて、音楽という形のないものを正確に彼の言葉で表現していた。その時にはさすがに也梛も「この人実はすごいのでは?」と思い始めていた。

「あの、トバさんって何か楽器されてたんでしたっけ?」

 矢㮈が訊ねると、トバは首を横に振った。

「ううん。高校の時は一応軽音部だったけど、何も楽器はやってなかったよ」

「じゃあ歌ってたとか?」

 今度は諷杝が訊く。トバはまた首を横に振った。

「ううん。歌ってもないかなあ。音痴だったし」

「それなのに軽音部?」

 最後に也梛も口を挟んだ。トバが苦笑して頷いた。

「そう、それなのに軽音部。みんなの演奏を聴くのが好きでね。色んな人の演奏を聴いて回ってた。後は裏方のお仕事とかね」

「マネージャーみたいですね」

 矢㮈が思い付いたように言う。

「うーん、そこまで優秀な働きはできなかったけどね」

 トバは当時を思い出すように少しだけ寂しそうな顔をしたが、気を取り直すように明るい笑みを浮かべた。

「他にも曲はあるの?」

「ありますよ」

「聴きたいなー。今からそっちの曲も練習したりする?」

 練習すると答えたら絶対ここで聴いて行くんだろうなと思いながら、也梛は「しますよ」と答えた。

「聴いて行ってもいいかな?」

 大学生が小さな子どものようにキラキラした目をしている。そこまで楽しみされては断る理由もなかった。

(この人暇なのか……?)

「まだ練習段階なんで未完成ですけど、それでよければ」

「大丈夫。それに完成っていつになるか分からないものでしょ? ――この完成ってのは作曲のことじゃなくて、演奏のことね」

 トバもまた、也梛と同じ様に曲が完成することはないと考える人らしい。そんな些細なことに、少しだけ親しみを覚える。

 也梛たち三人は顔を見合わせ、すぐにもう一曲の楽譜を取り出した。

それぞれが確認の時間を取っている間も、トバは楽しそうに耳を澄ませていた。

「――ああ、やっぱりこうして生の音聴けるのって幸せだなあ」

 彼がしみじみと呟いた声は、三つの楽器の音の間に消えて行った。



四.

 交流合宿前日、音楽祭実行委員の最終打ち合わせがあった。連絡事項を共有するだけの簡単なものとのことで、彩楸学園からは也梛(やなぎ)が代表で出席した。

 タイムスケジュールと役割分担を最終確認し、打ち合わせはほんの三十分程で終了した。

「高瀬、明日からよろしくな」

「はい。こちらこそ」

 相田(あいだ)が「いよいよだなー」と大きな息を吐く。その横で、一緒に来ていた淡海(おうみ)が彼の肩をバシバシと叩いていた。

「楽しみね! もうこの夏最大のイベントだからね!」

 彼女のテンションは順調に右肩上がりのようだ。

「イベントが終わったら受験勉強ですもんね」

 也梛が苦笑しながら言うと、

「はいはいストップ! 高瀬、今は余計なことを思い出させないでちょうだい!」

 淡海は大袈裟に両手で耳を覆うジェスチャーをした。相田が申し訳なさそうな顔で也梛に言う。

「悪いな、高瀬。明日からあやめには気をつけろ。絡まれないようにな」

「了解です」

「ちょっとそれどういう意味?」

 淡海が相田に矛先を変えた隙に、也梛はしれっと会議室を後にした。

 一人で風橋学園に来るのは初めてだが、一人で帰るのも初めてだ。あのまま会議室に残っていたら、流れで相田たちと一緒に帰ることになっていたかもしれないが、也梛は暫し一人になりたかった。

 もう夕方の時刻だというのに、まだまだ日が沈む様子はない。蝉も元気に鳴いている。

 也梛は出口となる中高の校門の方へは向かわず、何となく大学キャンパスのほうへ足を向けた。明日からお世話になる第三体育館に向かってのんびりと歩く。じわりじわりと汗が噴き出て来るのも無視して歩き続けた。

(そういえば大学って他に行ったことないな。姉さんの大学もこんな感じなんだろうか)

 そんなことを思いながら第三体育館の施設の前を通り過ぎた。ちらほらと大学生らしき人や、大学関係者らしき姿を見かける。

 丁度道の裏側にあたる場所にベンチを見つけた。頭上には木々の葉が広がっていて陰になっている。周りに人がいないことを幸いに、也梛はベンチに腰掛けて膝の上にキーボードケースを置いた。

 少し考えて、黒いケースを開く。愛用のキーボードを取り出し、適当に爪弾いた。

 あとはもう勝手に指が動いていた。いつものことだ。この曲を弾く、という意識を持って鍵盤に触れることもあるが、そうでない時はだいたい無意識に指が滑り出している。たまに自分の指が独立した存在のように思える時があった。

 そして也梛の耳に届いて来たのは、あのメロディだった。ここ最近ずっと練習している曲にとても良く似たメロディ。――也梛が迷って選ばなかった小節部分。

 一気に音調が変わるのは同じなのだが、後に続く部分が明るい方向ではなくその逆の方向にいく。先日、矢㮈(やな)は明るく楽しい光のイメージだと言ったが、今也梛が紡ぐメロディは鋭く尖った物悲しさを帯びて、それはまるで――

「どこか暗―い森でも一人でさ迷っているみたいだね」

「!」

 指が止まる。也梛は思考を読まれたことに驚き、声が聞こえた後ろをすぐには振り返れなかった。

「驚かせてしまってごめんごめん」

 その人物が謝りながら也梛の前まで回りこんできた。

「……トバさん」

「こんにちは。えっと……高瀬君だったかな? 作曲の子だね」

 柔らかい笑みを浮かべた青年がそこにいた。雰囲気がどことなく諷杝と似ているように思った。

「隣、座ってもいい?」

「どうぞ」

 断る理由も思いつかず、也梛は頷いた。初めてあった時は変な大学生だなと思ったが、自分たちの演奏を真剣に楽しんで聴いてくれる人だと分かったことで警戒はとっくに解けていた。

 トバは今日も楽しそうに也梛の手元にあるキーボードを眺め、それから何ともなしに言った。

「さっきの曲は、この前の練習してた曲のアレンジ?」

 あの時の曲とリンクしていると分かったのか、と也梛は内心でまた驚いた。

「……いえ、本当はこっちも考えていたんです」

 誤魔化す気にはなれなくて、也梛は素直に返した。トバには話しても良いような気がしていた。

「迷って、あっちにしたんだ」

「はい。あっちを選んだことに後悔はありません。でも、こっちの選ばなかった方もなぜか自分の中には残っていて」

 今までにも作曲する中で、選ばなかったフレーズが自分の中に残り続けることはあった。それらは次に作曲する際にまた顔を出し、時にはさらに新たなフレーズになって思い浮かんでくることもある。

 だが、今回のこの「迷い」はわりと存在感をそのままに也梛の心の中に居座っていた。

「高瀬君は明るいのよりちょっと物悲しいようなフレーズの方が好き?」

「いえ、そんなことは。作曲する時もどっちが好みとかそういうのはあまり……」

「じゃあ高瀬君の中に何かあの曲のイメージと合致するものがあるのかな?」

 トバは也梛に語り掛けるというよりも、独り言のように言葉を紡ぐ。

 蝉の声がいつの間にか聞こえなくなっていた。周りの景色も遠退いて、その空間には也梛と彼しかいないような感覚に陥る。

 トバはどこから取り出したのか、手元に小さなノートを広げていた。そこにすらすらとペンを走らせてメモる。

「鋭さと、物悲しさと、切ない静けさと――後は余韻の美しさかな。僕が話しかけて遮ってしまったけど、あの後はどうなるんだい?」

 彼の声に誘われるように、また指が動きだす。

 音調の変化があって、一気に物悲しいフレーズに入り、そのまま切ない音の連続。やがてゆっくりとしたテンポで音が小さく途切れ余韻を残す。

(でもここで終わりじゃない)

 音が聞こえるか聞こえないかのわずかな隙間に、新しい音が飛び込んでいく。その音を道しるべに、音調は上向きになっていった。

(ここからは練習曲とまた同じだ)

 矢㮈が弾くのが楽しいといった明るいところへ駆けあがって行くようなフレーズが続く。その勢いのまま、最後の一音が響いた。

 余韻を楽しむかのようにトバはしばらく黙っていた。やがて、またノートにペンを走らせる。

「なるほど、最後は同じだったんだね。最終的には明るいところに辿り着く」

「……そうですね」

「あの音が途切れた後の一音をきっかけに、新しい一歩を踏み出して駆け上がっていくイメージを僕は思い描いたんだけど……」

「ええ、俺もそんな感じです。……すごいですね」

 自分の曲を初見でここまで感じ入って聴く人がいたことと、也梛が曲に込めたものを見事に言語化してみせることに驚くばかりだ。

 トバはまだ曲を聴いているかのように目を閉じ、耳を澄ませている。彼の耳には今も也梛のキーボードの音が残っているのだろうか。

「ところで高瀬君は、今年の音楽祭に何か不安なことや気がかりなことがあるのかな?」

「え?」

 曲とは全く関係のないことを訊かれて虚を突かれる。

「いや、別に……。昨年も経験してるしこれと言っては……」

「そっか。僕の見当違いだったかな……。何となく、楽しんでいるようで完全には楽しみ切れていないような、そんな感じがしたから」

 トバが目を開いて、也梛の方を見る。

「君はずっと音楽に触れて来た子だろう? そんな君があの曲をずっと心に残しているからにはきっと何かがあると思うんだ。だって音楽祭はすぐそこで、もう曲も出来てるのに、それでもあのフレーズを弾いてしまうんだから」

 それもこうして一人でね、とトバは困ったように微笑む。

 也梛があの曲を諷杝や矢㮈の前で弾かないことを分かっているのだろう。

「別に……そんなことは」

 言いつつ、也梛の中に一番に浮かぶことがある。今まで特に考えてこなかったこと、いや、考えるのを先延ばしにしてきたことだ。

 どうしてそれを言葉にしようと思ったのかは分からないが、気付いたら口を開いていた。

「……全然関係ない話をしても良いですか?」

 トバは「うん」と頷いて先を促した。

「俺の友人が……諷杝が、来年の春には卒業するんです」

 全く脈絡のない話をし始めた也梛に、トバは音楽を聴いている時のようにじっと耳を澄ませている。

「元々俺はあいつと一緒に音楽がやりたくて彩楸に入学しました。あいつが一年早く卒業することなんて初めから承知してました。だからこそ少しでも多く一緒に音楽をやりたいと思っていたんです。でもいざ近付いて来たら……」

 時間がこんなにも早く過ぎ去るものだとは思わなかった。彩楸学園に来るまでの、日々勉強に追われつつ音楽に没頭する時間はずっと長く感じていたのに。

「……寂しくなっちゃった?」

「……どう、なんでしょう。寂しいよりも、焦りが先にくるような気がします」

「焦り?」

 トバが僅かに首を傾ける。その姿がまた諷杝に重なって見えて心の中で苦笑した。

「諷杝は諷杝でずっと向き合って来たものがあるんです。俺はその手助けもしたいと思っていました。でもそれは簡単なことではなくて、まだあいつの探し物は見つからない」

 そして也梛もまた、自分の探し物が見つからない。――そこまで思って、也梛ははっとした。 

(俺の探し物? ――そうだ、俺は)

 也梛はその時初めて、自分の心の中に潜んでいた焦りと対峙した。

 それを自覚して、何とも情けない気持ちと、恥ずかしい気持ちが入り混じる。

「――本当は、諷杝のことじゃないんです」

「ん?」

「諷杝のことを何だかんだ理由にして、結局俺は俺自身の探し物が見つからないことに焦ってるんです」

 諷杝の将来が気になるふりをして、実は本当に一番気になっているのは諷杝がいなくなった後の自分のことだ。

 諷杝は也梛が思うよりもずっと強い。時には心配になるほど一人でいることに慣れているし、一人で歩いて行ける。

 たとえ例の楽譜が見つからずとも、彼はきっと飄々としたまま卒業し、也梛の前から去って行くのだろう。也梛の中には漠然とそんな思いがあった。

 だからこそ、彼が卒業するまでに、自分もまた自分の探し物を見つけなければならなかった。それは、也梛が也梛でいられるための、音楽との付き合い方だ。

 もっと言うなら、諷杝がいなくなっても、也梛が変わらずに今の楽しさを保ったままやっていけるだけの力だった。

「……でも、少しだけ、置いて行かれる寂しさもあるかもしれません」

 最後に付け加えた也梛に、トバは眉を八の字に下げて口の端に笑みを浮かべた。

「置いて行かれる寂しさは……僕も少しだけ分かるかなあ」

「え?」

「僕の場合はもっと多くの友人たちだったけど」

 彼は自嘲気味に笑って、手持無沙汰な両手を組んでその上に顎を乗せた。

「まあ見ての通り、僕ってちょっと不健康そうな色白でしょ? これでもだいぶマシになったんだけど、昔は持病があって手術もしたんだ。術後の経過観察とかリハビリとかで、結局大学受験を一年遅らせることになってね。今では回復できたことに感謝しかないけど、当時はやっぱり周りのみんなに置いて行かれるような寂しさがあったよ。――だって別に学力は問題なかったし、大学も行くつもりでいたからね」

「……それは悔しいですね」

「本当だよ。……でもまあ、今となってはそれも些細なことだ」

 トバは組んでいた手を解き、膝の上に載せていたノートをパタンと閉じた。ペンを器用に回して、也梛の方に向き直った。

「僕だって偉そうなことは言えないけど、先輩として一つだけ。きっと諷杝君が卒業する頃には、君も君なりの答えを見つけていると思うよ。――君の言葉で言うと、『探し物』が見つかる、かな」

「え?」

「正確に言うと、見つかるんじゃなくて、『見つける』かな。人間ってね、すごくいいかげんで適当で辻褄合わせな生き物なんだよ。だからその時が来たら、たとえそれが仮の答えであったとしても何でも、それなりのものを見つけてしまうんだ」

「……そんな適当な」

 也梛は半分呆れたように苦笑したが、しかし妙な説得力も感じていた。

「そして未来の君はきっと、今日のことを思い出して、あの時の悩みは些細なことだったなあって思うんだ」

 彼の白い頬に夕日が差して橙に染まる。そこに浮かんだ笑みはほっとするような安心感があった。

「でもさ、悩みは些細なことで良いけど、みんなでやる音楽は些細なことにしたくないでしょ? 高瀬君が楽しくて大事にしたい時間はめいっぱい楽しんでね」

「――はい」

「そしてそんな君たちが奏でる音楽を僕は楽しみにしているよ」

 トバが腕を伸ばして、也梛の頭を軽く叩く。

 滅多にされないその仕種に虚を突かれながら、也梛は黙ってされるがままになっていた。



五.

 トバと別れてキーボードケースを肩に校門の方へ歩いて行く。

 不思議と胸の内は軽くなっていた。――まだあの「迷い」のフレーズが心の中に居座っているのだろうけれど。

 さすがに陽が傾いて、ぽつぽつと明かりが灯る道を行く。自分の影が不思議な形をとって後をついてきた。

「也梛」

 聴き慣れた声に顔を上げる。

 校門のそばに立っていた彼が手を振った。生温い風に焦げ茶の髪が躍っている。

「お疲れ様」

「何でお前がここにいるんだ」

 也梛は気持ち足早に彼に近付き、眉を寄せた。

 諷杝はきょとんとした顔を少し傾けた。

「何でって、今日バイトだったから?」

「はあ?」

 彼のバイトと今ここにいることと、一体どういう関係があるのか。

「お前のバイト先はこの近辺でもないだろ。他に用があったのか?」

「いや別に」

 諷杝は首をふるふると振って、「うーん」と考えるように顎に手をやった。

「ああ、そうだ。臨時収入が入ったんだった。也梛、帰りに甘いものでも食べて帰ろう?」

「……おい、お前本当にどうしたんだ」

 話の展開が支離滅裂すぎてついていけない。そんな也梛に構わず、諷杝は也梛の腕を引っ張って歩き出す。

(本当に何なんだ……)

 わけが分からない。こんなに意味の分からない諷杝を相手にするのは初めてかもしれないと本気で思う程だった。

「也梛は何か食べたいものある?」

「……ドーナツ」

「了解!」

 やっと話が通じた。也梛は溜め息を吐いて、もう余計なことは考えず諷杝の後をついていくことにした。

 諷杝は駅前近くのドーナツ屋に入り、也梛の分のドーナツと自分の分の飲み物を買って席に着いた。

「お前は食わんのか!」

「うん、喉が渇いてるだけだから。どうぞ」

 也梛が遠慮なくチョコレートのかかったドーナツを手に持ったのを見て、諷杝はなぜか楽しそうな表情を浮かべた。

「……何だよ」

「いや、相変わらず無表情で食べるなあと」

「うるさい」

「ふふ」

 諷杝はいつかのように、じゅーと音を立ててストローを吸う。

 暫くの間、二人とも何も話さなかった。也梛は黙々と、甘いドーナツを噛みしめていた。也梛が一つで満足しないことを承知していたのか、諷杝はもう一つプレーンのドーナツも買って来ていた。それもどうぞと勧められたので遠慮なくいただく。

「ねえ也梛」

 諷杝がジュースを半分ほど飲み干した辺りで口を開いた。

「……何だ。今さらドーナツが食べたくなったとか言うなよ」

 也梛は最後の一口を飲み込んだ。諷杝が苦笑する。

「言わないよ」

「どうだか」

「晩ご飯が食べられなくなったらまた也梛に怒られるからね」

「……よくお分かりで」

 少しは弁えているな、と思ってしまった。

「――そうじゃなくてさ。今さらだけど、こういうのも楽しいなって思ったんだ」

「は?」

 ウエットティッシュで手を拭いていた也梛の動きが止まる。

「イツキさんがいなくても一人で散歩はできるけど、でも、誰かとこうして一緒に食べたり話したりするのは楽しいんだなあって」

 諷杝は言葉を探すようにゆっくりと伝える。

「也梛がそばにいるようになってもう一年半経つけど、よく考えたらそれだけ長い間他人と一緒に過ごしたのは初めてだった。でもよくその一年そこら、嫌にならなかったなって正直思う。僕にしたら相当なことだよ」

「……だろうな。ていうか俺もよくもまあこんな面倒くさいやつの面倒見て来たなって思う」

「お互い様だね!」

「いや、それは違うと思うぞ。負担が、圧倒的に!」

 そこだけは譲れずに反論すると、諷杝が唇を尖らせて不敵に微笑んだ。

「でもまた急に何でそんなこと言い出した?」

 也梛は訝し気に訊ねる。

「……何となく?」

「何だそれは」

 思わずため息が零れたが、諷杝にとっては本当に何となくだったのかもしれない。

 だが也梛の今のメンタルが、先のトバに吐露したような状態であったため、余計に心に刺さる部分があった。

「――なあ諷杝」

「ん?」

 今度は逆に聞いてみたくなって言ってみる。

「お前は卒業しても、俺と音楽をやってくれるか?」

 諷杝の目が見開いて、おまけに口も同じようにポカンと開いた。

「当たり前じゃん。何、也梛は僕が卒業したらもう音楽をやらないと思ってるの?」

「そうじゃない。けど、お前って何か卒業したら一人でぽーんとどっか行っちまいそうなところあるだろ」

「それで僕が勝手に君の前から消えると思ったの?」

「……思ったな、ちょっと」

「ええ~、そんな薄情じゃないよ!?」

 諷杝は「失敬な!」と言わんばかりに非難の眼差しを向けて来る。

「悪かったって。でも本気で思ってたことは認める」

「……あのねえ、僕だってここまで親しくなった友達相手に、そう簡単に『はいさようなら!』ってしようとは思わないよ」

 親しくなった友達。也梛は諷杝にそう認識されていたのか。

「むしろ也梛の方こそ後悔しても遅いんだからね。君と矢㮈ちゃんはもう僕の音楽仲間なんだから。これは今だけの話じゃないんだからね」

 まるで子どもが自分のものを主張するように言う諷杝がおかしい。也梛は「そうですか」と呟いて、お冷で喉を潤した。

「それにね、僕は君たちそれぞれの音楽の行方も楽しみにしているんだ。矢㮈ちゃんはどんなバイオリニストになるんだろう? 也梛は、どんなキーボードを弾いて、どんな作曲をするんだろう?」

「……」

「もしかしたら、也梛はまたピアノを弾いているかもしれないし」

 諷杝が軽く付け足して笑う。普段の也梛なら「それは絶対にない」と言い返しただろうが、この時は何も言えずに黙っていた。

「僕だって、ギターはずっと弾いているだろうし、歌ってもいるだろうね。作詞も趣味で続けるような気がする」

「進路は?」

 この流れで思い切って訊いてみた。

「まだ未定。でも、考えてはいるよ」

 明確な答えは返ってこなかった。だが、諷杝は也梛の目を覗き込んで言った。

「大丈夫。也梛が心配する必要はないよ。ちゃんと卒業もする」

「……そうか」

 諷杝がこれだけ真っ直ぐに答えるなら、今彼が伝えられることはそれで全てなのだろう。他でもない諷杝の将来だ。也梛がこれ以上とやかく言うことではない。

(諷杝のことを考える暇があるのなら、俺は俺の将来を考えないと)

 トバは、その時になれば『探し物』は見つかると言っていた。だがその時に見つけた答えを前にして、より自信を持っていられるように、自分の『探し物』から目を逸らさないでいたいと思う。

 黙り込んだ也梛を諷杝はじっと見つめていたが、やがて也梛の思いをすべてを見透かすように言った。

「――僕は也梛の作った曲が好きだよ。明るい曲も、力強い曲も、美しい曲も。もちろん尖っていたり、寂しさや迷いや暗さがあるものもね」

 今度こそ也梛は何も言えなかった。たまに、諷杝がどこまで自分のことを見透かしているのだろうと怖くさえなる。

「どちらであってもね、曲を通して也梛の気高さというか、言葉にできない美しさがあるように思うから」

 也梛はふいと顔を横に向けた。諷杝が優しく微笑んでいたのは分かっていた。

 不思議と、二人だけの静かな空間にいるように感じられた。


後編です。が、めっちゃ長くなってしまって申し訳ないです。中編を作ろうとしましたが、切るには中途半端だったので一気に公開しました。ここまでお付き合いくださりありがとうございました。

さて、次回からはいよいよ音楽祭合宿が始まる…みたいですね。(2021.08.31)

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