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  作者: 葵月詞菜


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二度目の夏の幕開き<前編>

【主な登場人物紹介】

・笠木 矢㮈(かさぎ やな)…彩楸学園高校2年生。バイオリンを弾く。

高瀬たかせ 也梛やなぎ…同上2年生。キーボードを弾く。

海中わたなか 諷杝ふうり…同上3年生。ギターを弾く。

【その他】

並早なみはや…彩楸学園の英語教諭。二年連続音楽祭担当教員。

相田あいだ しょう…雲ノ峰高校3年。昨年の音楽祭実行委員長。

・淡海 あやめ(おうみ あやめ)…同上3年。将の幼馴染みで音楽仲間。

一.

 今年の音楽祭の開催校となる風橋学園(かぜはしがくえん)は、中高等学校に加え付属幼稚園から付属大学まである学校だった。中高の建物と同じ敷地内に大学キャンパスの一つと大学の体育館、記念ホールなどがあり、授業はもちろん施設の使用でも提携がとれているらしい。

 この度風橋学園側の都合で――野球部とバドミントン部の活躍により施設使用等に優遇措置がとられた――元々音楽祭に予定されていた場所が利用できなくなった。とはいえ中止にすることもできないので、付属大学の施設を融通してもらい合宿期間を大幅に短縮して開催されることになった。

「じゃあ相田(あいだ)君、今年も実行委員長をお願いできますか?」

「……はあ。何かこのシチュエーションにデジャヴを覚えるんですけど」

 クーラーのきいた視聴覚室。規則正しく教壇に向かって並ぶ長机の端に座った笠木矢㮈(かさぎ やな)は、今しがた指名された男子学生を見て納得の表情を浮かべた。

「うん、相田さんなら安心しかない」

「だよね」

「分かる」

 隣の海中諷杝(わたなか ふうり)とその向こうに座っている高瀬也梛(たかせ やなぎ)が相槌を打つ。

「そこの彩楸(さいしゅう)のメンバー……特に海中、お前は笑うな」

 相田将(あいだ しょう)が呆れた表情をこちらに向けた。名指しされた諷杝は気にすることなく微笑んだままだ。昨年の音楽祭ではまさに諷杝が実行委員長を蹴り、それを相田に押し付けたのである。だが結果的には彼が実行委員長で周りは助かった。副委員長の諷杝はほぼ名ばかりで、どちらかというとただの実行委員だった高瀬の方が暗躍していた。

「あはは。やっぱり将ちゃんに落ち着くんだー」

 相田と同じ雲ノ峰高校の淡海(おうみ)あやめが楽しそうに笑い、相田は諦めたように肩を竦めた。

「副委員長は風橋学園から二年の槙野さんということで」

槙野灯里(まきの あかり)です。よろしくお願いします!」

 風橋学園側の担当教員にふられた槙野灯里は、はきはきと返事をした。背の高いショートの髪の女子生徒だ。日に焼けた肌が健康的で、屋外のスポーツをしていてもおかしくない印象を受けた。

(相田さんと同じタイプかな……?)

 相田もまた見かけはスポーツ刈りにがっしりとした身体をしていて、初めて会った時は野球部にでも所属しているのかと思った。

「では他の実行委員のメンバーは……」

 今更だが、行われているのは音楽祭実行委員会の会議である。第一回目の主な目的はメンバーの顔合わせと役割の確認であった。

 この場にいる矢㮈たちも当然、実行委員のメンバーに組み込まれてしまっている。特に高瀬はその要領の良さから、彩楸学園(さいしゅうがくえん)の音楽祭担当教員の並早(なみはや)から「ぜひお願いしたい!」と嘆願された経緯があった。

「良いですけど、だったらこいつらも巻き込みますよ」

 高瀬はいつも通りの無表情で、こっそり逃れようとしていた矢㮈と諷杝を引きずり込んだ。まるで連帯責任だとでも言うように。

 彩楸学園からはさらにもう二人。

「私、邪魔にならないかな……」

「大丈夫だよ。そこの海中なんて去年副委員長だったくせに全然役に立ってなかったから」

 軽音楽部一年の築地実歩(つきじ みほ)と、同じく軽音部部長の三年世良(よら)だ。

「え、世良君、ひどくない?」

 彼の言葉を聞き咎めて驚く諷杝に、世良は「事実だ」とにべもない。諷杝の隣にいる高瀬もフォローはしなかった。

「はいはい、君たち少し静かにしてね」

 並早が私語を注意して、全員が配られたプリントに視線を落とした。そこには今回の音楽祭の実行委員メンバーの名前とスケジュールが記されていた。

 昨年度は五日間の合同練習合宿と二日間の音楽祭本番という日程だった。それが今回は合宿二日に本番二日とほぼ半分の日程になる。合宿合同練習という名の二日間は主にリハーサルと交流会であっという間だろう。

(昨年は楽しかったなあ)

 矢㮈は淡海と、春に彩楸学園を卒業した春日井(かすがい)と一緒だった女子のお泊り会が印象に残っている。

(春日井さんどうしてるかな。音楽祭に招待してみようか)

 矢㮈たちの演奏を楽しみにしてくれていた春日井のことだから、誘ったら本当に来てくれそうな気がした。もしかしたらすでに軽音部の後輩の世良から聞いているかもしれない。

「それにしても今回は参加者が多いな」

 学校別の参加者数に目を通した高瀬が呟く。横からプリントを覗き込んだ諷杝が「本当だ」と相槌を打った。

 前回の倍とまではいかないが、一.五倍くらいには相当する。その理由は並早が教えてくれた。

「昨年のステージを見て参加を決めたってグループが多いみたいだよ」

 それは前回の音楽祭が好評だったことを改めて教えてくれていた。


「まーた今年も相田君は忙しくなるね」

「全くだな。俺はこれでも受験生なんだけどな」

「でも将ちゃんはちゃっかり勉強もしてるから大丈夫でしょ?」

「心配なのはお前だぞ、あやめ。俺が忙しくなったら一人でちゃんと勉強しろよ」

「うげ、飛び火だ~」

 あやめが肩を竦めて矢㮈の方に避難してくるのを苦笑して迎える。

 会議後、矢㮈たちは相田たちと共に会議室を出て歩いていた。

「まあでも相田君もあまり無理はしないようにね。一、二年生も今後の勉強になるからできることはどんどん任せたら良いよ」

 引率していた並早の提言に、相田は頷いて頭を下げた。

「はい、お気遣いありがとうございます。――ってことで高瀬、よろしく頼むぞ」

 突如振られた高瀬が遠慮なく眉間に皺を寄せて複雑な表情になった。他校の先輩相手にこの不快そうな表情を隠そうとしないところはすごいと思う。

「何で俺指名なんです?」

「一番頼れるのはお前だろ。昨年も海中の代わりに色々活躍してくれたし」

「……」

 瞬間、高瀬が諷杝を鋭い目で睨んだのを矢㮈は見逃さない。

 お前のせいで俺は……! という感じだろうか。

 対する諷杝はにこやかに微笑んだままだ――全然気にしていない。

「あ、あの、私もできる限りお手伝いしますので! よろしくお願いします」

 この場で唯一の一年生の実歩が精一杯伝えてくれた言葉に、ようやく高瀬も溜め息を吐いた。

「……一年を困らせないくらいには動きますよ」

「おう、頼りにしてる」

 相田がにっかり笑い、諷杝が高瀬の背中をポンと叩いた。

「さっすが頼れる也梛だね!」

「いやお前は黙ってろ。お前だけは許さん」

 すかさず高瀬が諷杝の明るい頭に手刀を下ろした。

「矢㮈ちゃん、今年はお泊り会も短いけど、またよろしくね」

 あやめが矢㮈の隣に並んで楽しそうに言う。

「あ、はい。こちらこそ」

「練習も学校ごとって感じになりそうだけど、もし都合つくならたまに一緒に練習するのも良いよね。矢㮈ちゃんたちは普段どこで練習してるの? やっぱ彩楸?」

「基本は学校ですけど、たまに違う場所でも……」

 答えかけて、矢㮈はふと首を傾げた。そういえば自分たちはどこで練習をするのだろう。

 普段なら学校の屋上に集まっていたが、さすがにもう気温が高くなってきて屋外ではやっていられない。

 矢㮈たちは別に部活に所属しているわけではないので、部室もなければ他の部活が使用する予定の空き教室も使えない。

(マスターのとこで……いや、そんな毎日は無理だし。あたしん家は……狭いしなあ。他の場所といえばどこだろう)

 黙り込んだ矢㮈にあやめが心配げな目になったので、慌てて笑みを向ける。

「そ、そうですね! また時間合わせて一緒に練習しましょう!」

「うん。じゃあまた連絡するね」

 あやめと相田と別れてから、矢㮈は二人に練習場所について聞いてみた。

「ああ、そういえば。去年は彩楸学園が開催校だったこともあったし、他の部とも調整してもらえたから空き教室とか使えたんだっけ」

 今年はそうはいかない。部活に所属していない矢㮈たちはまず学校内か他のどこかに練習場を確保するところから始まりそうだ。

「軽音部の練習室使わせてやりてえけど、今年参加グループが多いから割り当てがきついんだよなあ」

 そばで話を聞いていた軽音部の部長が頭をかきながら困ったように言う。

「今から軽音部入るか?」

「いや、仮に入っても割り当てがさらに厳しくなるだけでしょ。他の部員の手前もあるし……ありがと、こっちはこっちで探してみる」

 諷杝が世良に礼を言って腕を組んだ。

「うーん、どっかあるかなあ?」

「僕も融通してあげたい気持ちは山々なんだけど、屋内で活動する部活は他にも結構あるからなあ」

 並早も申し訳なさそうに言う。

「ちょっと狭いけど、最悪あたしのうちでやるのもありかなあとか思うんだけど」

 矢㮈が軽く手を上げて考えていたことを口にする。バイオリン教室に使っている部屋は広くないが防音仕様になっている。

「それはありがたいかも。一応候補に入れとくね。あとは……」

「俺にもいくつか心当たりがある――あんまり気が進まないとこもあるけど」

 後半をぼやき気味に高瀬が口を挟んだ。とりあえず、場所を検討する候補はいくつかありそうだ。

「どうにもならなかったら軽音部ってことで捻じ込んでやるから言えよ」

 世良が最後までありがたいことを言ってくれるのに感謝しながら、矢㮈たちは彩楸学園への帰路に着いた。



二.

「じゃあ一学期お疲れ様~!」

「夏休みようこそ~!」

 オレンジジュースが入ったグラスがカチンと音を立てた。矢㮈と諷杝が笑顔で飲み交わす中、高瀬だけが呆れた顔で同じくグラスを手にしていた。

「ほら、也梛も! お疲れ様!」

 諷杝にグラスと突きつけられ、渋々高瀬がそれに付き合う。

「そうだな、お前のテスト勉強に、笠木のテスト対策ノート作りに、俺は今回もよく頑張ったと思うよ。その結果が二人ともぎりぎりで補習回避っつーのは納得がいかない部分もあるが、まあよしとする」

 ぶつぶつと言う彼を矢㮈と諷杝はスルーして、カウンターの中にいるマスターにオレンジジュースの追加を頼んだ。

「マスター、お代わり!」

「はいはい。しばしお待ちを。サンドイッチももうすぐできるよ」

 ノリのいいマスターは謎のテンションの高校生に寛容だ。

 終業式の今日は午前中で終了し、矢㮈たちは軽い昼食がてら彩楸学園近くの音楽喫茶『音響(おとひびき)』にお邪魔していた。

 昼食の時間には少し遅いこの時間、幸い他に客の姿はなく、矢㮈たちは先程のようにお疲れ様の乾杯をしていたのである。

「矢㮈ちゃんはバイオリンの演奏会もお疲れ様だね」

 マスターが出してくれたサンドイッチを一切れ掴み、諷杝が優しい声で労ってくれた。

「何とか無事に終わって良かったよ……諷杝たちも聴きに来てくれてありがとう。あと、その他も色々心配かけちゃって」

 矢㮈が微笑み返すと、諷杝は一つ頷いて応えた。

 自分のバイオリンに納得できなくて悩み焦っていた矢㮈を、無理やりにでも外に引っ張り出してくれた諷杝には感謝している。あの時彼があやめたちに会わせてくれたおかげで、彼女たちの歌を聴いてメンタルを持ち直したところがある。

 そして、もう一人。

 矢㮈はまだ仏頂面で呆れた顔をしていた高瀬に向き直った。

「高瀬も……色々ありがとう」

「俺が特別に対策ノートを作ってやったのにあんまり高得点が出なかったのは納得いかないけどな」

 高瀬は眉間に皺を寄せたまま溜め息を吐くだけだ。

「……そっちも感謝してるけど、そうじゃなくて」

 矢㮈が上手く言葉にできずに詰まらせると、高瀬は目の前で軽く手を振った。

「はいはい、最後は気持ちよく演奏できて良かったな」

「!」

 恐らく彼にはお見通しなんだろう。

(……勢いとはいえ、こいつには本当に色々とぶちまけてしまったからなあ)

 あの時自分が抱えていた焦り、苛立ち、そして挙げ句の果てには八つ当たり。

 後から思い出すとそれだけでげんなりする。あの時の自分はどうかしていたと思うし、それを何より高瀬にぶちまけてしまったというのがダメージ大だ。

 だが一方で、今まで決して知ることのなかった彼の思いも垣間見たような気がした。


『俺は自分のピアノが好きになれない。お前の言葉を借りるなら、俺は俺のピアノの音が好きじゃない』


 あれは高瀬の本音だったのだろう。彼にも矢㮈とはまた違う、彼の中で燻り続ける問題があるのかもしれない。

(あたしにはまだ聞く勇気はないけど)

 自分のことでいっぱいいっぱいの矢㮈には彼の問題に深くつっこむ余裕もなければ勇気もない。

 そう考えると、成り行きとはいえ矢㮈の抱えていたものを聞いてくれた彼にはその余裕があったということになる。

(ああ……何か悔しいな)

 矢㮈は心の中でため息を吐き、気分を変えるように注いでもらったオレンジジュースを飲んだ。

「ああそうだ矢㮈ちゃん。バイオリンのメンテナンス終わってるから持って帰りなよ」

 ここのマスターは管弦の調律師でもある。矢㮈は祖父の代から世話になっていた。

「いつもありがとう、マスター」

 矢㮈は礼を言って、諷杝の前に置かれた皿からハムとチーズとレタスが覗いたサンドイッチを一切れ摘んだ。


「で、いよいよ音楽祭の話だけど」

 腹を満たして食後の珈琲を出してもらいながら三人はテーブルを囲んでいた。マスターの淹れてくれる珈琲は絶品で、普段はブラックでは飲めない矢㮈もここのだけは例外だった。店中にほんのりと珈琲の匂いが広がっている。

「あたしが演奏会で全然関われなくてごめんね」

「ううん、そこはもう初めから覚悟してたから。ねえ也梛?」

「ああ。むしろ中途半端になるならどっちかやめろと言ってる」

 高瀬の言葉は相変わらず容赦がなく、彼らしいなと苦笑する。とりあえずその言葉を聞かなかった矢㮈は、中途半端にならずにいれたようだ。

 諷杝と高瀬がそれぞれの鞄からファイルを二つずつ取り出した。

「今できてるだけの楽譜と歌詞」

「え! すごい! もうできてるの!?」

 まさかここまで揃っているとは思わなかった。昨年のぎりぎりだった工程が嘘のような進捗だ。

「いやいやいや、まだこれは叩き台だから。也梛の曲も、僕の詞もこれから修正していくとこ。とりあえず矢㮈ちゃんが戻って来るまでに何となく形だけは作っておきたくて」

「これでもペース的には遅いと思うぞ。あまり妥協はしたくないが、こだわり過ぎても最後の演奏にあまり時間を裂けなくなる」

 高瀬が早速一つ目のファイルから譜を取り出してテーブルの上に広げた。矢㮈から見て正面になるように置いてくれたのは、まずは一通り目を通せということだろう。

その意を汲んで矢㮈は譜の左上の頭から順に目を動かして行った。同時に頭の中でピアノのメロディが流れ始めた。

 矢㮈が頭の中で曲を再生している間、諷杝と高瀬は邪魔にならないよう黙っていてくれた。彼らもまた別の譜面に目を落としている。

(……あ、終わった)

 再生が止まる。矢㮈はしばらく余韻に浸るように目を瞑り、それから珈琲を一口啜った。

「どうだった」

 高瀬が静かに問う。

「……いやあ、何て言うか」

 矢㮈は珈琲の入ったカップをゆっくりとソーサーに戻しつつ、言葉を探した。

「高瀬の曲だなあ、と」

「あ?」

 期待した答えではなかったのだろう、高瀬が眉間に皺を寄せ、隣の諷杝がプッと吹き出した。

「あはは、分かる! 也梛の曲だよね」

「お前まで何なんだ」

「上手く言葉で説明できないけど、也梛の曲だなって思うってことだよ」

「意味が分からん。俺の曲って何なんだ」

 ますます訝し気な表情になっていく高瀬に、諷杝は笑ったまま譜面を指差した。

「そうだなあ、例えばこのフレーズ。完全に同じじゃないけど、前の曲にも似たような所があった。也梛、こういうの好きだよね」

「……なるほど」

 具体的に指摘されて、高瀬も思うところがあったらしい。

「つまりは俺の癖ってわけだな」

「褒めてるんだよ? 也梛の曲は僕大好きだし」

「はいはい」

 高瀬は適当にあしらったが、声の調子からして機嫌を損なったふうではなく、むしろ満更でもなさそうだった。

「そう、さっき諷杝が言ってくれたことが曲全体にあって、ああ高瀬の曲だなあって思ったんだよね」

 矢㮈も改めて言葉にする。

「何か引っかかったとこは?」

 高瀬はいつの間にか手にしていたシャーペンをくるりと回して訊ねた。

「別に特には……あたしの頭の中で再生しただけだけど」

「バイオリンの譜にしても?」

「ああー、そっちだといくつか気になるとこが……」

 矢㮈が担当するバイオリンの譜は、高瀬が作成した譜を元に最終的に自分で作成する。それをまた高瀬に確認してもらって、初めに彼が構想していた形に近付けていく。

「今気付いた点だけでも教えろ」

 早速高瀬が譜面を捲り始める。矢㮈は気になる箇所を順に指摘していった。

 最後のページに辿り着く頃には、矢㮈はすでに疲れてしまっていた。高瀬は気付いた点だけ教えろと軽く言ったくせに、結構がっつり説明や修正箇所を検討していくはめになったのだ。

 すっかり冷めた珈琲を口に運ぶ。冷めた珈琲は苦みが際立つが、それでも飲めてしまう。向かいでは高瀬がまだ譜面とにらめっこをしていて、余白にあれこれ書き込みをしていた。その熱量には恐れ入る。

(これでまだ一曲目)

 テーブルの上にはまだ手付かずのファイルが一つ残っていて、そちらは二曲目になる。高瀬のことだからいくらたたき台とはいえ、先程の曲同様、一通りは形にしているに違いない。

(……今更だけどこいつは一体どういう時間の過ごし方をしているんだろう?)

 勉強の予習復習は欠かさず、週三日以上のバイトを入れ、ルームメイトである諷杝の世話も焼く。学校の休み時間も今は友人たちの馬鹿話や遊びに付き合い――たまに諷杝の所に消える――矢㮈からすればどこで作曲をする時間があるのか不思議だった。

 内心首を捻っていた矢㮈は、微笑む諷杝と視線が合って固まった。

 諷杝は矢㮈の心の内を読んだかのように言う。

「也梛、本当すごいでしょ」

「……うん、呆れるくらいに」

「僕が会った時からずっとこうだよ。気付いたら何か曲が出来上がってて、僕はいつもびっくりする」

「何か分かる気がする」

 夢中で譜面に向かう高瀬は大きい子どものようで、いつもの憎たらしさが消えて微笑ましくさえ思う。

「じゃあ也梛がこっちの世界に戻って来るまで、僕の作った詞でも読んでる?」

「あ、読みたい!」

「あまり面白くはないんだけどね」

「面白いものを目指してたの?」

「あんまり暗くなりすぎないように、とは考えたかな」

 矢㮈は諷杝から手渡されたルーズリーフを見た。たった一枚、そこにさらさらと文章――というより「ことば」が連なっていた。

 詩を読む感覚で目で追っていく。

「……諷杝、これは」

 あからさまに表に出てはいない。だが、全体を通して浮かび上がる影があった。

「イツキさんがいる……?」

 諷杝は少し寂しそうな顔をして頷いた。

「作り始めた時からちらちら頭を過ぎっていて。出来上がってみたらイツキさんが隠れてた」

 イツキとは姿を見せなくなった白い鳩のことだ。諷杝にとても懐いていて、どこか不思議な感じがする鳩じゃないような鳩だった。

 歌詞を簡単にまとめると、何気ない日常と、その中でふと思う気持ちを素直に歌ったものだった。イツキを知らない人には、単なる学生の青春の日々に聞こえるだろう。

 だがあの白い鳩の存在を知っている矢㮈には端々にその存在が感じられた。諷杝がどれだけイツキの存在を大事にしていたかが伝わって来た。

「それはイツキさんへのはなむけの曲になっちゃったような気がするから、今回の音楽祭には向かないかもね……。他にもまだ候補はあるからそっちにしようかなあ」

 諷杝はファイルを開いて挟まれているルーズリーフを見せてくれた。彼もまた高瀬に負けず劣らずせっせと書いていたらしい。中には英語で綴られた歌詞もある。

 矢㮈はイツキの姿が浮かぶその歌詞にもう一度目を向けた。

「諷杝。これはこれで一曲作ろうよ。音楽祭で発表するんじゃなくても、オリジナルで一つ」

「!」

 矢㮈の言葉に諷杝が軽く目を見開いた。

「高瀬の手が空いたらお願いしてみよう?」

「矢㮈ちゃん……」

「俺の手が何だって?」

 急に割り込んできた声に二人で驚いた。高瀬が休憩とばかりにシャーペンを置いて冷めた珈琲を啜っていた。

「あ、高瀬。諷杝のこの詞にね、曲をつけてほしいなって」

 高瀬は矢㮈から受け取ったルーズリーフを手に一通り目を通した。

「ああこれな。あの白い鳩のやつか」

 高瀬にもイツキの存在が感じられたらしい。諷杝と矢㮈の思いなどとうに見越したように肩を竦めた。

「分かった。暇を見つけて考えてみる」

「也梛……」

 諷杝が何か言おうとするのを遮って、高瀬は二つ目のファイルをテーブルの上にどんと置いた。

「ほれ、次だ。今日中に二曲分の確認は終わらせる。早く目を通せ、笠木」

「……はーい」

 彼が作った譜面を見るのはわくわくする矢㮈だったが、どうせならもっとじっくり味わいながら目を通したいと思うのだった。


二年目の音楽祭に向けてスタートしました。学校をまたいで登場人物が増えます。こんがらがった方はもうさらーっと流していただいて大丈夫です。

だらだらと書いていたら長くなってしまいまして、前編よりさらに長い後編に続きます…。(2021.07.24)

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