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  作者: 葵月詞菜


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楽しい音<前編>

【主な登場人物紹介】

・笠木 矢㮈(かさぎ やな)…彩楸学園高校2年生。バイオリンを弾く。

高瀬たかせ 也梛やなぎ…同上2年生。キーボードを弾く。

海中わたなか 諷杝ふうり…同上3年生。ギターを弾く。

【その他】

村住むらずみ 華南かなん…バイオリン奏者。

渥美あつみ 和香わか…也梛の元ピアノの先生。

一.

 線香の独特の匂いが鼻の奥に染みる。

 矢㮈(やな)は合わせていた手を下ろし、仏壇に置いている祖父の遺影をじっと見つめた。バイオリンの演奏会がある時には、家を出る前に挨拶するのが恒例になっていた。

 小さな額の中で時間を止めた祖父は、生前と同じままに微笑んでいた。

「おじいちゃん、行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 祖父に代わって声変わりが終わった少年の声が答えた。振り返れば襖の端に寄りかかるようにして弟の弓響(ゆき)が立っていた。

「……で、大丈夫なの?」

 真面目な顔で弟が問うてくるのに、矢㮈は困ったように笑った。

「大丈夫だよ。今のあたしの精一杯で演奏するだけ」

 まだ焦りも惑いも、自分ではどうしようもないくらいの思いも色々あるが、それらが今すぐに解決することはまずない。前に高瀬に言われたように、今ある技術を高めることに努めようと決めた。

 弓響は曖昧な表情の姉にまだどこか心配そうな顔をしていたが、やがて小さく息を吐いて笑みを作った。

「そっか。なら頑張れ」

 まるで弟ではなく兄のようなそれに、矢㮈は内心で苦笑した。

 いよいよ演奏会の当日がやってきた。会場までは高瀬の姉の(あおい)が車で送迎してくれることになっていた。

 葵は約束の時間五分前に矢㮈の家の前に到着した。いつものポニーテールに、今日はパリッとしたパンツスーツ姿だ。どこかの社長秘書と言われても納得できてしまう出で立ちだった。

「矢㮈ちゃん、準備はいいかしら?」

「は、はい。今日はよろしくお願いします」

「こちらこそ! じゃあ車乗って」

 黙っていたら姉弟だなあと感じる部分もあるのだが、こうして会話をしていると高瀬の姉だということを忘れそうになる。全然似ていない。どちらかというと、彼女たちの妹に少し似ていた。

「あの、高瀬たちは」

「也梛たちは後で迎えに行くことになってるから心配しないで」

「……そうですか」

 別に心配などしていなかったのだが。むしろ来ると聞いて胃がぎゅっと縮こまった。

(来るって分かってたけど、それはそれでプレッシャーだ……)

 矢㮈は憂鬱な気持ちを抱えながら、会場へと走る車窓に視線を逃がした。


 会場は客席数が百席の小さなコンサートホールが予約されていた。本当に内々の限られたメンバーのみ招待されているようで、ほぼ演奏者の家族や友人等で埋まるのだろう。

 葵と一緒に会場に入ると、この演奏会の主催者である渥美和香(あつみ わか)が忙しく立ち働いて指示を出していた。

「おはようございます、先生」

 葵が声をかけると、渥美が気付いて手を上げた。

「葵ちゃん、それから笠木さんも。今日はよろしくお願いね」

「は、はい。こちらこそ」

 緊張する矢㮈に渥美は微笑み、そのまま控室に案内してくれた。

「先生、何かお手伝いできることはありますか?」

「あ、あたしも何かできることがあれば」

 葵に続いて矢㮈も進言すると、葵が苦笑した。

「いやいや矢㮈ちゃんは演奏の準備しつつゆっくりしてて」

「この隣に練習室があるから自由に使ってね。他の演奏者もいるからその辺は上手くやってくれる?」

「あ、はい」

 渥美は矢㮈に練習室の場所を教えると、葵に向かって作業の手伝いを頼み込んだ。葵が頷いて、颯爽と控室を出て行く。

「じゃあ笠木さん。もう少ししたら軽いリハをするから、それまで待っていてね」

「はい」

 渥美もまた慌ただしく部屋から出て行き、矢㮈だけがポツンと取り残された。

「とりあえず……練習室行こうかな」

 矢㮈はロッカーに荷物を入れると、バイオリンケースを手に練習室へと足を向けた。

 どうやら練習室は二つ用意されているらしい。片方は扉が閉まっていたので、もう一方を覗いてみた。誰もいないことにほっとして部屋に入る。

 バイオリンケースを開けた所で、足音と共に入り口に人の気配がした。

「あ」

 どちらともなく声が漏れた。矢㮈の動きが止まる。

 入り口にはバイオリンケースを片手に、華やかな柄の衣装を着たモデルのような少女が立っていた。――村住華南(むらずみ かなん)だ。

「えっと……」

「……おはよう。今日はよろしく」

 とりあえず挨拶を口にしかけた矢㮈を遮って、華南の方から先に挨拶の言葉が飛んで来た。思いもよらぬことに声が閊えて出てこない。

 華南は気にしたふうもなく矢㮈がいる場所から対角の位置に陣取り、そばの机にバイオリンケースを置いた。

 矢㮈はしばらく呆然としていたが、やがて我に返ったように口を開いた。

「お、おはようございます。こちらこそよろしくお願いします……」

 華南はちらとこちらに視線を向け軽く頷いただけだった。すぐに矢㮈の存在など忘れたように、彼女は自分の世界に入っていく。

 矢㮈は不躾にならない程度に華南の方を盗み見た。彼女の演奏をちゃんと聴いたのは、色々と打ちのめされたあの一回きりだった。それからは彼女の演奏が気になりつつも、また聴けば心が揺さぶられそうで、自分の練習に集中することを盾に避けていた。

 だが一方で、ここ最近気になることもあった。

 渥美のいるピアノ教室へ行った日は必ず華南もどこかにいて、矢㮈と目が合うことも度々あった。向こうから声をかけてくるわけでもなく、矢㮈からもあえて声をかけることはしなかったが、なぜか視線を感じていた。

(あれは一体何だったんだろう……。あたしの自意識過剰? でも確かに目が合ったしなあ)

 村住華南という同年代の少女は、矢㮈にとって強敵であると同時に最近はよく分からない存在になっていた。

(かと言って、決して仲良くしようという雰囲気も感じられないんだけど)

 決して友好的な雰囲気でもない。それははっきりとしていた。だからこそ矢㮈の方も自分から声をかけることができなかった。

 華南の方は完全に矢㮈のことをスルーしているとはいえ、同じ部屋に二人きりというのは居心地が悪い。そう思っていた矢先、他の演奏者が救世主の如きやって来た。

 目が合ったので軽く挨拶を交わすと、そこでやっと張り詰めていた空気が緩和されたような気がした。

(……村住さんのことを気にしてる場合じゃない。あたしも自分のことに集中しなきゃ)

 矢㮈はふうと息を吐くと、あらためて自分のバイオリンに手を伸ばした。



***

「ああ~緊張する……。姉貴大丈夫かな……」

 出会ってからずっとそわそわしているのは、見るからにスポーツ少年な短髪に鍛えた体つきの中学生男子だ。矢㮈の弟の弓響である。

「わあ~緊張するなあ~。楽しみだねえ~」

 その横では同じく、いやそれ以上にそわそわと落ち着きがない男子高校生がいた。言うまでもなく諷杝(ふうり)である。

 也梛(やなぎ)は呆れたように諷杝を眺め、じっとしていられないという子どもみたいな彼の肩を掴んで物理的に止まらせた。

「いい加減じっとしてろ。もうすぐ迎えが来るから」

「逆に訊くけど、何で也梛はそんな平然としてられるわけ? 矢㮈ちゃんの演奏会だよ?」

「ああ? 笠木の演奏会だからって何でそんな浮かれなきゃなんねえんだよ」

 意味が分からない。諷杝は信じられないと言わんばかりの顔で也梛を見上げたが、信じられないのはこっちだと舌打ちする。

「高瀬さん、すいません。俺まで誘ってもらって」

 諷杝よりよほどしっかりしている弓響が遠慮がちに頭を下げた。

「気にしなくていい。お前が一番あいつの演奏聴いて来てるんだから、今回も聴いてやれ」

「はい!」

 也梛の言葉に弓響は嬉しそうに元気よく頷いた。也梛には彼と同じ年くらいの妹がいるが、妹とはまた違うかわいさが弟にはあるのかもしれないと思う。何となく弓響のスポーツ刈りの頭を撫でてしまった。――姉と妹に挟まれた者として、男兄弟が少し羨ましく感じる時がある。

 約束の時間の少し前に姉の車は現れた。すでに午前中に矢㮈の送迎をしていて、也梛たちは午後の開場時間に合わせて迎えを頼んでいた。

「お待たせしました、御三方」

「よろしくお願いします」

 弓響と諷杝を後部座席に乗せて、也梛も助手席に収まったその時、携帯が振動した。電話だ。

「はい」

 也梛が電話に出ると、相手がほっとしたように二言三言話す。也梛は最後に「了解」と告げて電話を切り、シートベルトを締めた。

「也梛、直行して良いんだっけ?」

 ハンドルを切りながら姉が訊いて来る。

「――いや、一ヵ所寄ってくれ。もう一人乗せて行く」

 真後ろに座っていた諷杝が座席越しに首を傾げたのが分かる。

「もう一人? 誰か招待したの?」

「まあ、な」

 也梛は曖昧に答え、その場所に到着するまで黙っていた。



二.

 本日の演奏会は演者八名による全七曲が予定されている。時間としてはおおよそ一時間。主催者である渥美が声をかけた奏者たちが集まり、内五曲は渥美が共演することになっていた。

 矢㮈もまた渥美と共演するタイプのステージだった。

「うん、オッケー。こんな感じでよろしくね、笠木さん」

 本当にさらりと合わせただけのリハーサルだったが、渥美は特に何も言わなかったので矢㮈はほっとした。とりあえず、自分はちゃんと曲を奏でられていたようだ。

 渥美はシックなダークネイビーのドレスに着替えていて、先程まで会場内を駆け回っていた姿が嘘のようにピアニストに変貌していた。

「ねえ、笠木さん」

「はい」

 渥美がピアノの鍵盤に適当に指を躍らせながら歌うように言った。

「今日はコンクールでもない、ただの楽しい演奏会よ」

「!」

 矢㮈は思わず渥美の顔を凝視した。なぜその言葉が自分に投げかけられたのかに気付いて、急に恥ずかしくなる。

 渥美は穏やかな顔で音を紡ぎ続けながら、

「ここ最近、ずっと必死に音を追いかけていたでしょう? そろそろ口を出そうかなと思ってたところで少し変わったようだったから、そのまま黙っていたのだけど」

 彼女には全てお見通しだったらしい。ますます恥ずかしい気持ちが込み上げてきて、心なしか顔の温度が上がった気がした。

「……ご心配おかけしてたならすいません」

「心配だなんてそんな。結局はあなた自身の問題だもの。私にもそんな時は何度もあったし、自分で乗り越えていかないといけないことはよく知ってるから」

「渥美先生でも何度もあるんですか?」

「あたりまえでしょう。私は完璧超人演奏者じゃないのよ」

 おかしそうに笑いながら渥美は鍵盤から指を離した。軽快なリズムがやんで、途端に静寂が訪れる。矢㮈の耳にはまだ先程までのリズムの余韻が残っていた。

「もちろん、華南さんや也梛君だってそう。みんな、ぶつかる問題の形やその時期は様々だけど、同じように悩んで音を探してる」

 矢㮈からしたら遜色ない演奏をしていると思うのに、スランプを感じながら練習していた華南。

 まるで手本のようなピアノを弾くのに、本人はそのピアノの音が好きになれないという高瀬。

 そして、技術がないと思い知って、必死に追い付こうと練習をしていた矢㮈自身。

 演奏するのは自分である限り、自分が納得できる答えを見つけるしかないのだ。矢㮈もまだ納得には程遠いところにいるが、それでも地道にできることを増やしていくしかない。

「でもね、それを乗り越えるためのきっかけは、案外身近な所に散らばっていると思うの。それに気付けた人はひょいひょい乗り越えちゃうわけ」

「きっかけに気付けるか……」

「私はもうすでに一つ見て来てるわよ」

「え?」

 きょとんとする矢㮈に渥美はふふと微笑む。

「去年の夏の也梛君がそう。あなたたちと演奏している姿は本当に楽しそうで、彼が小学生だった時のことを思い出しちゃったわ。ピアノの腕は相変わらずで舌を巻いたけど、それでもどこか彼自身が変わったような気がしたの。それはきっと新しい学校で笠木さんたちに出会ったからだと私は思ってる」

 そういえば渥美は也梛の母親の友人だと聞いた。母親経由で彼の転校などの経緯を知っているのだろう。

「それに華南さんもね、今まさに変わろうとしているように見えるの」

 渥美は二人目の教え子の名を口にした。思わずドキリとする。そんな矢㮈の緊張に気付かぬふりをして彼女は続けた。

「この演奏会だって初めは乗り気じゃなかったのに」

「……そうなんですか?」

「そうよー。一人でうんうん悩んでいる感じだったけど、最近はレッスンに来る度に目つきが変わったような気がするのよね。同じバイオリン弾きさんに刺激でも受けたのかしら?」

 渥美の含むような眼差しに耐え切れず横に流してしまう。

(いやいや、まさかそれはないでしょ。……だってあたしの方がずたぼろにされたというか……)

 むしろ矢㮈の方が彼女から受けたダメージが大きい。

 矢㮈が複雑な気持ちで百面相をしているのを見て取ったのか、渥美が苦笑を漏らした。

「勝手なことを言ったわね、ごめんなさい。でも私には嬉しい傾向だから。笠木さんにも良い影響があったならいいのだけど」

「はは……」

 何とも言えず、笑い返す他ない。とりあえず、村住に出会ってより上を目指したいと思うようになったことは変化の一つかもしれない。

 そろそろ次の奏者と交代の時間になるという頃、部屋の扉がノックされてスタッフが焦った顔を覗かせた。

「渥美先生」

「どうしたの」

「それが……」

 スタッフが小走りに渥美に近付いたので、矢㮈は軽くお辞儀をして部屋を出ようとした。

「え、大丈夫なの?」

 扉が閉まる寸前、心配げな渥美の声が聞こえた。



 矢㮈の演奏は四番目となっていた。ちなみに華南はその次、五番目であった。

(村住さんの前で良かった……)

 本気で安堵した。もしかしたらその辺りは渥美が配慮してくれたのかもしれないが、何にせよありがたい。

 先程のリハーサルの終わりに聞こえた渥美の心配げな声が気になったものの、特に変更の連絡はなかった。

 軽食を取って控室でそわそわしている内に、開場の時間になっていた。もう高瀬たちは来ているだろうかと気になる。

 奏者は小学生から大人まで幅広い。控室にいる者の内、渥美の教え子で面識のある者たちは談笑に興じていた。ただ同じ教え子でも村住は隅の方で一人ヘッドホンをして周りをシャットアウトしていた。その姿さえ写真集で見るモデルのようで目を奪われる。

 矢㮈は特に知り合いがいるわけでもなく、もう眺めつくした楽譜を意味もなくゆっくりと目で追っていた。こうしていると落ち着くのだ。

 開演の時間が近付いて、漸く渥美が控室に姿を現した。

「みなさんお待たせ。さあ開演よ」

 第一奏者と第二奏者が、渥美と共にステージへと向かって行った。



三.

「次だ、姉貴……」

「楽しみだね、弓響君」

 弓響と諷杝がまるで自分が舞台に立つかのようにそわそわしている。也梛はもうツッコむのも面倒くさくなって放っておくことにした。どうせ自分が何を言ったところでどうにもならないだろう。

「矢㮈ちゃんの後に村住さんと続くのよね」

 左隣に座っていた葵がポツリと呟く。そうなのだ、演奏順がどう決められたのか知らないが、その順番になっていた。

(まあ笠木にとっては村住より前で良かっただろうな)

 ただ次の華南は恐らく舞台袖で待機となるので、矢㮈の演奏を最も近くで聴くことになるだろう。矢㮈は緊張するだろうなと思うとともに、華南には良い機会だろうなと思った。

(あいつがいつも通りに弾けば、気付くこともあるかもしれない)

 也梛が矢㮈の演奏に感銘を受けたように、華南もまた同じように感じるとは決して言わない。もしかしたらやはり何も思うところはなく、彼女にとっては平凡なバイオリンに聞こえるのかもしれない。

 しかしそれはそれで良いのだ。あくまで也梛の勝手な意見に他ならない。

 ステージの上に渥美と矢㮈が出て来る。也梛の右隣に座っている者が小さく息を呑んだ気配がした。

 ステージに立つ矢㮈はその装いのせいかいつもよりも大人びている。心なしか、一年前に初めて見た彼女よりもずっと様になっているように思った。

(さてどんな演奏を聴かせてくれるんだろうな)

 純粋に彼女の演奏が楽しみな自分がいる。ここからは余計なことなど考えず、ただ彼女の音色に耳を澄ますだけだった。

 矢㮈が一礼してバイオリンを構えた。会場は静寂に包まれる。

 滑らかに曲が始まる。ホルストの『木星』だ。

 也梛は数小節を聴いて内心でふっと笑いを零した。

(大丈夫だな。あいつの音だ)

 間違いなく聞き覚えのある、矢㮈の音だった。渥美のピアノに並走し、絡まり、するりと抜けて行く。

 確かにまだ荒削りの部分もたくさんある。だが、一年前、半年前と比べていくと格段に音が洗練されているのが分かる。

 ピアノを弾く渥美は優しい顔で見守るように矢㮈を見ていた。次第にその顔に笑みが広がり、彼女自身が楽しんでいるのが伝わって来た。

 ちょっと羨ましいな、と思って、そんな自分に驚いた。

 今は自然とピアノを弾きたいと感じていた。あの渥美の座っている場所に代わって、自分が弾きたいと。

(……これだから)

 也梛はふうと小さく息を吐いて、また彼女のバイオリンに耳を澄ませた。

 矢㮈の演奏は気付くとあっという間だった。拍手の音に紛れて小さな声が聞こえてきた。

「笠木、すごい……」

「ああ、すごいよな」

 その言葉はするりと也梛の口から零れ落ちた。

 少しの間を開けて、ステージに華南が出て来た。彼女はどこか硬い表情をしていた。

(これは凶と出たか……?)

 也梛が僅かに眉を顰めたところで、ステージの上の彼女は束の間目を閉じて深呼吸をした。

 そして次に目を開いた時には、驚くほどリラックスした雰囲気に変わっていた。一礼をしてバイオリンを構え、渥美とアイコンタクトを取る。渥美もまたどこか安堵したような、嬉しそうな顔をしていた。

(……こっちも大丈夫そうだな)

 全くもっていらぬ心配だった。華南は最初から研ぎ澄まされた音を紡ぎ始めた。マスネの『タイスの瞑想曲』。

 どこがスランプ中なのかと疑いたくなるような圧倒的な調べだった。細かいところまで意識が行き届いている。

 そして一番意外だったのは、演奏する華南が微笑んでいたことだった。昨年共に演奏した時には見なかった表情だ。「余裕」の笑みではなく、「楽しい」の笑みに近い。彼女の中で何か一皮剥けたのかもしれなかった。

 也梛は以前聴いた彼女のバイオリンの音とは違う、華南の音色に耳を傾けていた。



後編に続きます。

無事に演奏会が終わりますように…。(2021.06.27)

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