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  作者: 葵月詞菜


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彼女の音、彼の音<後編>

※前第55話「彼女の音、彼の音<中編>」の続きです。

【主な登場人物紹介】

・笠木 矢㮈(かさぎ やな)…彩楸学園高校2年生。バイオリンを弾く。

高瀬たかせ 也梛やなぎ…同上2年生。キーボードを弾く。

海中わたなか 諷杝ふうり…同上3年生。ギターを弾く。

【その他】

村住むらずみ 華南かなん…バイオリン奏者。

渥美あつみ 和香わか…也梛の元ピアノの先生。

五.

 矢㮈(やな)が建物の外に出ると、思いがけない人物がそこで待っていた。

「高瀬?」

「お疲れさん」

 高瀬は手に持っていたペットボトルを鞄にしまうと、矢㮈のバイオリンケースに目を留めた。

「調子は?」

「……まあ、そこそこ」

 答えながら、表情は硬くなる。前より不安や焦りが薄まったとはいえ、全くなくなったわけではなかった。やはりこの後のコンクールのことを考えれば気が焦るし、まだまだ練習が足りない、努力が足りない、と自分に思うことはたくさんあった。

「そこそこ、か」

 高瀬は矢㮈の言葉を繰り返し、歩き出した。

「ちょっと付き合え。今日の練習はもう終わったんだろ?」

 渥美(あつみ)の元で練習をした後は家に帰ってからバイオリンには触らないようにしていた――あまりに練習に熱中しすぎるのを見た祖母が禁止令を出したのである。

 矢㮈は高瀬の後を追いかけながら、訝しむ気持ちを隠しもせずに訊いた。

「何で高瀬がここにいるの?」

「何でだろうな。俺だって面倒くさいことは嫌なんだけどな。でも、俺の番だってあいつが――」

 ぶつぶつと言う高瀬に矢㮈はますます首を傾げる。面倒で嫌ならこんなところに来なくても良かったのではと思う。わざわざそんな思いをしてまでここに来たのはどうしてなのだろう。

 高瀬は慣れた道を通るように矢㮈の知らない道を進み、やがて小さな公園に出た。真ん中に噴水があって、静かな夜の街にバシャバシャと水音が響いていた。他に人の姿は見えない。

 高瀬は噴水の淵を覗き込んだ。その横顔はどこか懐かしそうな表情をしていた。昔、ここに来たことがあるのかもしれない。

「お前、自分の音が分からないって言ったんだって?」

 彼の言葉にはっとする。

諷杝(ふうり)から聞いた。どうしてまたそんなことを思った?」

 矢㮈はまだ噴水の淵を見ている高瀬の横顔をじっと見つめた。

 なかなか答えようとしない矢㮈に痺れを切らしたのか、高瀬がこちらを向いて目を合わせた。

「察するに、村住の演奏を聴いたからじゃないかと思ったんだけど。……違うか?」

 矢㮈はふるふると首を横に振った。彼の推測は正しい。そして、きっと彼には全てが分かっているのだろうと悟った。

 矢㮈が何に不安を抱えて、焦って、今こんな状態なのか。

「今日は何でも話を聞いてやろうと思って来たが、言いたいことはあるか?」

 高瀬が腕を組んで仁王立ちする。言ってることとその態度に差があり過ぎて、矢㮈は束の間頭の中が混乱した。

「……え? 何て?」

「だから言いたいことがあるなら何でも聞いてやると言ってる。何もないならそれでいいが」

 それは上から目線で言うことなのかとツッコみたい気持ちを押さえて、矢㮈は彼を睨んだ。――睨んでいないと、何だか泣きそうになったからだった。

 暫しの間睨み合いが続き、やがて高瀬が溜め息を吐いた。

「笠木」

 名前を呼ばれる。その声は今までとは違って、少しだけ優しいような気がした。

「っ……」

 矢㮈の胸元まで何かがせり上がってきて、とても目を合わせていられなくなって横を向いた。

 次に口を開いたら、きっと矢㮈の腹の底に溜まっていた叫びが飛び出して抑えきれなくなりそうだった。

(何で)

 どうしてここにいるのが高瀬なのだろう。なぜ彼は矢㮈にそれを吐かせようとするのだろう。

 そして、なぜ自分は、これから彼に全てを吐き出そうとしているのか。

 千佳でもなく、諷杝でもなく、家族でもなく、

(よりによって、こいつに……)

 ともすれば村住に対して抱いているのと同等の思いを高瀬にも抱いていると言えるのに。

「笠木」

 もう一度、高瀬が名を呼ぶ。矢㮈はキッと睨み上げて、口を開いた。――開いてしまった。

「っ……練習しなきゃ、技術は上がらないでしょ。村住さんの演奏を聴いて、心底思った。あたしはあの子に敵わない。肩を並べるだけの技術を全然持ってないって!」

 あの一回の演奏で、ああも容易く彼女の音が頭の中を侵食し、自分の音が――自分が弾きたいと思う音が分からなくなるとは思わなかった。

 村住がそれだけの技術を身に付けるために必死に努力してきただろうことは想像に難くない。それは分かっている。

 だがそれが分かると今度は自分の力量のなさに目が行って愕然とした。同じくらいの年数を、自分は一体どうしていたのか。

「昨年まではバイオリンがまた弾けるようになったことが純粋に嬉しかった。私は私の好きな人たちと楽しくバイオリンを弾く。それで満足してた」

 諷杝と高瀬と一緒に演奏したり、マスターの店で客を前に演奏したりすることで心は満たされていた。ああ、バイオリンを弾くのは楽しいなと子どもの頃のように思っていた。――ずっとそのままでいられたら良かったのに。

(ああそうだ。あれが初めか……)

 矢㮈の脳裏を昨年の夏のある演奏会が過ぎる。それは高瀬と村住が共演した例の演奏会だった。

 あの演奏を前に矢㮈は圧倒されたのだ。彼女のバイオリンに敵わないと思うと同時に、高瀬のピアノもまた遠くなった気がした。

 矢㮈がバイオリンから離れていた約二年の間に、かつて自分もいたであろうあの世界は自分から随分と遠退いてしまったのだと気付かされたのだ。

「……楽しいままなら良かった。諷杝たちと演奏して、たまにマスターの所で演奏して、自分の趣味でバイオリンを続ける……それで満足してれば良かったのに」

 実際は、それで満足できなかったのだ。

 千佳が陸上をやめずにスランプを乗り越えて競技者であり続けたように、矢㮈もまたあの世界に行きたいと思ってしまった。

 そんな思いを抱いた自分にまた驚いて、そうありたい自分とそうなれない今の状況を前にして途方に暮れる。不安を解消するただ一つの方法が練習だった。

「上を目指すことは何も悪いことじゃない。お前がその道を行きたいなら行けばいい」

 ずっと黙っていた高瀬がふいに口を開いた。

「だが同時に、無理に焦ってどうなるものでもないのは確かだ。お前はまだそこまで後がない状況ではないだろう」

「焦るに決まってる! だってコンクールだってもうあっという間に始まる! 今までみたいに悠長にリハビリだとか腕試しだとか言ってる場合じゃない」

 反論した矢㮈に、高瀬は特に表情を変えず淡々と耳を傾けていた。

「あれだけの技術を持ってる高瀬には分からないかもしれないけど、あたしはそこまで余裕を持てない。だから今できることは全てやりたい。そうじゃなきゃ不安に押しつぶされそうになる」

 少しでも身につくことがあるなら練習をしたい。しないよりかはした方が良いに決まっている。

 高瀬がふいに首を傾げた。

「お前は技術を上げるために練習をしているのか? 不安を消すために練習をしているのか? どっちだ?」

「どっちもだよ!」

 思わず声を荒らげて肩で息をする。

 こんなことを彼に言い続けて何か意味があるのだろうか。

「だいたい、高瀬こそあれだけの力があるのに何でピアノを弾かないの。あたしはそれも信じられない」

 これは八つ当たりだ。分かっている。

 しかし矢㮈にとって村住と高瀬は同じだった。二人とも楽器の違いはあれど同じように確かな実力を持っている。

 その時初めて高瀬が無表情の中に微かに苦いものを滲ませた。

「俺は……」

 何かを言いかけて結局黙る。矢㮈は拳を握って畳みかけるように言い募った。

「あたしだってこれが付け焼刃だってことくらい分かってる! でも何もしなかったらまた弾けなくなりそうで怖いんだもん! あたしは目に見える結果が欲しいの!」

 そう、目に見える、もしくは感じられる確かな結果が欲しい。自分がまだ上を目指せるという自信が欲しい。

「……なのに……何で……みんなは心配するの……大丈夫なのに」

 矢㮈の必死な姿を見て、周りは応援するというよりは心配の色を濃くする。バイオリンを指導してくれていた祖母や先生も「少し休みなさい」と口を揃える。休んでいる場合ではないのに。少しでも練習して、技術を磨きたいのに。

 目の奥に熱いものが込み上げて来て俯いた。堪えるように両の拳をぎゅっと握る。右手に持っていたバイオリンケースの取手がギシリと音を立てた。

 高瀬は何も言わなかった。沈黙が二人の間を満たす。

 矢㮈が鼻を啜り上げた時、上から静かな声が降って来た。

「俺は、お前の音が好きだけどな」

 ゆっくりと顔を上げると、相変わらず無表情で腕組みをして仁王立ちする高瀬がいた。

「俺だけじゃない。諷杝も、臣原も、きっとお前のバイオリンが好きなやつはみんなそう思ってる」

「……そんなこと」

「そして同時に俺はそんなお前が羨ましい」

「え?」

 矢㮈はその言葉に驚いて涙を引っ込めた。自分が高瀬の技術を羨ましいと思うことはあれ、まさか彼が自分に羨ましいと思うことがあるなど思いもしなかったのだ。

「俺は自分のピアノが好きになれない。お前の言葉を借りるなら、俺は俺のピアノの音が好きじゃない」

「何言って……」

「お前と一緒だ。俺も俺の音が分からない。でも確かに分かっていることは、俺が望む理想の音じゃないことだ。いくら周りが誉めそやしても、すごいと言っても、俺は自分の音が好きになれない」

「でも高瀬のピアノはすごいよ!」

 高瀬は皮肉な笑みを浮かべた。

「ほら、お前もそう言う。けど俺はそうは思わない。俺の弾く音はどこかつまらない。そうだな、あえていうならお手本通りという感じか」

「お手本通りってすごいじゃないの。だってそれは作曲した人の思い通りに弾けているってことでしょう」

 矢㮈も剥きになって反論した。果たしてそう弾ける人がどれくらいいるのか。それはすごいことなのではないのか。

「すごいんだろうな。でも、そんなふうに弾けるやつはきっと他にもいる。それはイコール、俺が弾かなくても良いってことじゃないのか?」

「!」

 高瀬が目を細めてどこか寂しそうな表情をしたのを見た。

「俺の代わりは他にもいる。そう思った頃にはとっくに楽しさもなくなってて、俺はピアノを弾かなくなった」

 だから、と彼は続けた。矢㮈は言葉が出て来なかった。

「お前のバイオリンにはお前の音がある。技術はまだまだでも、惹かれるものがある。俺はそれが羨ましい」

 素直な彼の言葉に、まだ残っていた涙がポロリと零れた。矢㮈はただ、彼を見つめていた。

 まさにない物ねだりだった。矢㮈は技術を、高瀬は自分だけの音を欲しがっていた。

 高瀬が溜め息を吐いて、仏頂面に戻った。雰囲気もいつもの感じに戻ったのが分かった。

「そもそも、技術が短期間で身につくと思うな。正直に言って、今からでは知れている」

 飛んでくる言葉ももう平常運転だった。矢㮈は頬を引き攣らせた。

「無茶な練習をするくらいなら、今ある技術で完成度を高めることに集中しろ。それでも評価は十分ついてくると俺は思うけど?」

 容赦のない正論だった。きっと祖母も同じことを言うだろうと思えた。

 返す言葉が見つからずに悔しさから頬を膨らませた矢㮈に、高瀬が苦笑しながら手を伸ばしてきた。

 指の長い大きな手がポンと矢㮈の頭の上に載る。

「焦るな、笠木。お前はちゃんと進んでる」

「……えらそうに」

 矢㮈は唇を噛んで俯いた。バイオリンのケースが目に入って、また泣きそうになって目を瞑った。

 それから矢㮈が落ち着くまで、高瀬は黙ってそばにいてくれた。


「ああ、そうそうこれ」

 矢㮈の家の最寄り駅まで送ってくれた高瀬は、別れ際に一冊のノートを矢㮈に突き出した。

「何これ?」

 矢㮈が受け取ると、高瀬はすぐに踵を返してしまった。

ノートをパラパラと捲ると、そこには数学と英語、その他科目の要点がまとめられていた。――今回のテスト対策ノートだ。

「っ……高瀬!」

「演奏会にかまけて勉学を疎かにするのは先生も望まない」

 高瀬は淡々と言って、再び駅のホームに消えて行った。

 矢㮈はノートを胸に抱えて、彼の消えた方向を見る。

「本当、天邪鬼だよね……」

 思わず笑いが零れた。

 矢㮈は夜の空気を胸いっぱいに吸い込んで、どこかスッキリとした気分で家路についた。




***

 也梛が寮に戻ると部屋の電気は点いていて、テーブルの前で唸っているルームメイトがいた。

「ただいま」

「あ、也梛。お帰り」

 諷杝はプリントから顔を上げるとほっと息を吐いた。まるで今まで息を止めて勉強していたかのようだ。

「ちゃんとやってたか」

 少しからかうように訊くと、彼はえっへんと小学生のように胸を張った。

「してたよ! ほらこれ見てよプリント!」

 目の前に突き出されたプリントは数学の問題だった。

「へえ」

 後で楽しみに確認させてもらおう。也梛は入浴セットを手にして部屋を出ようとした。まだ共有の浴場は開いているはずだ。

 特に何をしたわけでもなくただ彼女と話しただけだったが、也梛の中には明らかな疲労があった。

 諷杝は気になる素振りを見せつつも也梛が疲れていることも察したのだろう、「早く入って来なよ」と見送ってくれた。それに甘えてさっさと部屋を出る。

 もう最終の時間帯ともなると他の生徒の姿はほとんど見られない。丁度入れ替わりに二人上がっていった後は也梛だけだった。

 ほうっと息をつきながら湯船に浸かる。すーっと疲れがお湯に溶けていくようだった。

「……あーあ」

 也梛は浴槽の縁に頭を預け目を瞑った。

(あいつ、抉ってくれたなあ)

 今日は最初から彼女の話を聞くつもりだったので、也梛は極力喋らないようにしようと思ってはいた。実際、彼女の中に溜まっていたものを吐き出させることに成功はしたのだが、しかし。

「思い切りブーメラン……つーか俺の話になってたし」

 どういうわけか最後は也梛の話になっていたような気がする。也梛にしては珍しく引っ張られたと言っても良い。

 そして、也梛が彼女に言ったことは全て事実だった。

(俺はあんなことを考えてたのか)

 今までもやもやとしたものを、言葉にすることで改めて実感した。

 自分のピアノについてどう思っていたのか。今も同じ思いなのか。

 目の前で両手を開いてまじまじと見つめてみる。長年の相棒に、ずいぶんと大きくなったものだな、と他人事のように思った。

 この手はこれからもピアノを避け続けるのだろうか? キーボードの上だけで踊り続けるのだろうか?

「別に俺は笠木ほどあの世界に興味はないしな……」

 正直コンクールにもそれほど興味はない。上手くなりたい思いはあるが。

(しっかし……あいつでもあんな風になるんだな)

 也梛と対峙して言葉を吐き出した彼女を思いだす。

 諷杝までとは言わないが、矢㮈も普段はぼやぼやとした天然気味な人物だ。今まで也梛たちの前で演奏していた時も、その性格が表れたような、ゆったりとした雰囲気があった。

 それ故今日みたいな、攻撃的と言うか、何かにこだわる口調で強く話す彼女を初めて見た。ある程度予測していた也梛も意表を突かれ、新鮮な気持ちを抱いたのは否めない。

 蛇口からポチャンと雫が滴る音が耳に届く。

(俺の音……か)

 ぼんやりと思う。

 也梛が矢㮈の音に惹かれるように、也梛の音にも誰か惹かれる人はいるのだろうか。

(俺が好きになれない音を)

也梛の音だと喜び、好きだと言ってくれる人はいるのだろうか。

「あー、分からん」

 結局それは聴くものに委ねる他はないのだと思うことにして、高瀬は湯船の湯に溶けるように体の力を抜いた。


ここまで読んで下さりありがとうございます。「彼女の音、彼の音」後編でした。

私は音楽の世界を経験してきたわけではないので、勝手な想像上でしかありませんが、私の頭の中の彼女たちが抱えているもやもやを形にできればなと思います。

ではまた機会ありましたら次もよろしくお願いいたします。(いつになるのかな…)2021.05.04

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