彼女の音、彼の音<中編>
※前第54話「彼女の音、彼の音<前編>」の続きです。
【主な登場人物紹介】
・笠木 矢㮈(かさぎ やな)…彩楸学園高校2年生。バイオリンを弾く。
・高瀬 也梛…同上2年生。キーボードを弾く。
・海中 諷杝…同上3年生。ギターを弾く。
【その他】
・淡海 あやめ(おうみ あやめ)…雲ノ峰高校3年生。歌うのが好き。
・相田 将…同上。あやめの幼馴染、ドラム担当。
・村住 華南…バイオリン奏者。
三.
校門を出る頃にはとうに矢㮈も諦めて諷杝についていくことにした。練習ができない不安とサボっているという罪悪感が消えず胸だけが苦しい。
「さて矢㮈ちゃん」
「……はい」
諷杝は駅に向かって歩き出した。
「どこか行きたい所はある?」
「……」
行きたいところ――早く家に帰って練習をしたい。矢㮈はその言葉を呑み込んで怪訝そうな表情を彼に向けた。諷杝は微笑んでどこかしら楽しそうだ。
「家に帰りたい気持ちは分かるけど、そこ以外でお願いしたいなあ」
「……じゃあ特にない」
矢㮈の返答に諷杝が「そっかあ」と頷いた。
(本当に何なんだろう)
きっとこんな状況でなければ、諷杝と出掛けられること自体が嬉しいに決まっている。街に出て買い食いしても良いし、楽器店を覗きに行っても良いし、マスターのいる音楽喫茶『音響』に行って珈琲を飲んでも良い。
だが今の矢㮈にはどれも気が乗らなった。諷杝と出掛けることすらも煩わしく、一刻も早く家に帰りたいと思っていた。
いつの間にか俯いて黙り込んでいた矢㮈の前に、諷杝がしゃがんで顔を覗き込んでいた。
「ねえ矢㮈ちゃん。元気もらえるところに行こうか」
「え?」
「向こうも矢㮈ちゃんに会いたがってたから。きっと元気もらえるよ」
一体どこに、と尋ねる前に諷杝は立ち上がってまた歩き出す。矢㮈はわけが分からないまま、ただ諷杝の背を追って歩き出した。
最寄り駅から自宅とは反対方向へ向かう電車に乗って六つ目の駅で降りる。電車に乗っている間も矢㮈は話す気になれず黙っていたが、諷杝も同じように黙っていた。
だが隣の彼から感じる空気は何でも受け入れてくれるような温かさがあって、決して居心地悪くはなかった。
駅を出た頃にはもう五時を過ぎていたが、夏前の空はまだ明るい。
諷杝はとある方向に迷いなく歩いて行った。だんだんと制服を着た生徒たちの姿が多くなっていく。彼らが駅の方に向かって行く中、矢㮈たちは逆行するように進んで行った。
(あれ、この制服どこかで……)
白いポロシャツにチェックのスカートとスラックス。
ちらちらと他校の矢㮈と諷杝に視線が飛んでくるものの、諷杝は全く気にせず歩いているので矢㮈も倣う。
やがて、生徒たちが大勢出て来る場所に辿り着いた。
「諷杝、ここって……」
目の前の校門の横にある名称を確認する。
市立雲ノ峰高等学校。矢㮈はその名前と、そこに通っている者たちを知っていた。
「あ、来た来た。やーなちゃん! 久しぶり!」
諷杝に尋ねる間もなく矢㮈に突撃して来たのは、長い髪を片側で一つにまとめた元気な女子生徒だった。雰囲気は友人の千佳に似ている。
「淡海さん!」
淡海あやめはまるで後輩にするように矢㮈の頭をポンポンと叩き、にっこりと笑う。矢㮈も姉に再会したかのような錯覚に陥った。
「あやめ、校門前で騒がしいぞ」
彼女の後ろからのっそり現れたのは、淡海の幼馴染で同じバンドグループの相田将だった。短髪でスポーツ少年のような引き締まった身体つきをしている。背は高瀬と同じくらい高い。
「ここじゃ目立つからさっさと中入れ」
「そうだね。部室行こう!」
「え、え? あたしたち他校の生徒なのに入っていいんですか!?」
こんな時にも関わらず思ったよりも頭は冷静だった。困惑する矢㮈に諷杝のふふっと笑う顔が答える。
「大丈夫。『音楽祭』の打ち合わせってことになってるから」
「無理矢理だけどな」
「まあまあ、うちの顧問がオッケー出せば問題なしよ」
それで本当に良いのかと疑問しか浮かばなかったが、諷杝を含めた三年生三人に囲まれつつ、淡海と相田の案内で雲ノ峰高校の軽音部の部室へと向かった。
雲ノ峰にも彩楸学園と同じ様に部室が集まった部室棟なるものがあった。
「彩楸学園と比べたらお粗末なもんだけど、それは市立だからってことで勘弁してね」
「はあ……」
部室棟は三階建てで、元々は白かっただろう外壁はペンキが剥がれたり汚れたりで所々黒ずんでいた。部室棟と言われなければ、教室がある棟となんら変わりなく判断がつかないくらいだ。
「……静かですね?」
入り口に足を踏み入れると簡素な下駄箱と簀子が敷かれた空間が出迎えた。部室棟だというのに、建物全体がしーんとしている。
「そりゃあテスト期間に入ったからなあ」
「え!?」
相田の呟きに矢㮈はぎょっとする。そうだ、普通はだいたいこの時期がどこの学校もテスト期間ではないか。
「もしかしなくても部活動停止中……?」
「ピンポーン! だから遠慮しないで入って良いよ」
淡海が訳の分からない理窟で矢㮈と諷杝を招き入れた。
「諷杝、大丈夫かな?」
「さあ? でも僕たちは招き入れられたんだし、何かあったら淡海さんと相田君に任せよう」
「何でそんな無責任なの!?」
けらけら笑う諷杝に矢㮈は頭を抱えつつ、それでも淡海たちについて部室へ向かった。
軽音部の部室は二階の一番奥に二つあった。
「こっちこっち」
淡海が手招きしたのは最奥の部屋で、どうやらそこは防音設備が整っているらしかった。
「この学校で唯一誇れるのはこの部屋だと思うのよね。吹奏楽部も一つ立派な部屋持ってるんだけど」
最後に部屋に入った相田が扉を閉めると、外から聞こえる音が遮断されてますます静かになった。
部屋の中は壁面にロッカーや机が並べられている他はガランとして広かった。恐らくここには余計なものを入れず、楽器や演奏に必要な機器だけを持ち込んで演奏する部屋なのだろう。ステージに見立てられた空間には大きなスピーカーが鎮座していた。
淡海が早速とばかりにマイクをセットし始めた。
「お、淡海さん?」
「折角お客様が来たんだから、歌で歓迎しなきゃね」
「ええ?」
いきなり淡海のリサイタルが始まるのか。矢㮈は驚きを通り越して呆然としてしまった。相田が申し訳なさそうな顔で片手で拝む。
「悪い。あいつ最近ストレスが溜まっているんだ。歌うことが一番ストレス発散になるらしいから付き合ってやってくれ」
実は俺はもう二週間もあいつのカラオケに付き合わされているんだ、と相田の衝撃の告白を聞いてしまったからには、矢㮈も諷杝も淡海の歌を聞くしかなかった。
マイクの前に立った淡海は不敵に笑う。そして相田を指差した。
「ちょっと何で将ちゃんまでそっちにいるの! ドラムでしょ!」
「……はいはい」
相田は溜め息を吐きながらドラムの用意をしてスティックを握る。
「ではまず一曲目は――」
(一体あたしは何をしに来たんだっけ……?)
そんな矢㮈の思いを吹き飛ばすように、淡海がセットしたマイクを握って叫ぶ。とんでもないエネルギッシュな歌声を響かせて、全身でリズムを取っている。歌のバックには相田が奏でるドラムのメリハリのあるリズムが響いていた。ハイテンションロックだ。
歌とドラムだけなのに、それは彼女たちの音楽だった。音楽祭で聴いたそれと同じだった。
「はい、続きまして――」
矢㮈はただ一心に歌う彼女を見つめていた。彼女から、目が離せなかった。心の中に響いてくる歌とリズムが勝手に身体を動かそうとしてむずむずした。
(ああ、この感じ、懐かしいな……)
ふいに、去年の春のことを思い出した。
まだバイオリンを敬遠していた頃、諷杝と高瀬のギターとピアノを聴いた時のことを。
あの時も、矢㮈の身体は勝手にリズムを感じてどきどきしていた。自分もあの音楽の中に混ざりたくて、一緒に弾いてみたいと思って、自分の一番の楽器に再び手を伸ばした。
「矢㮈ちゃん、大丈夫?」
「へ……?」
気付くと諷杝がハンカチを差し出して、そのまま矢㮈の頬に軽く押し当てた。どうやら涙が出ていたらしいと後から知る。
「淡海さん、本当楽しそうだよねえ」
諷杝が優しく微笑むのを見て、今度は涙が滲むのを自覚した。
(あたしは……また弾けるようになれただけで嬉しかったのに)
彼らと一緒に演奏できることが嬉しくて、楽しくて。
彼らに自分のバイオリンを認めてもらえたことが嬉しくて。
彼らが自分のバイオリンを聴きたいと思ってくれることが嬉しかった。
「……諷杝、あたしの音って、何だろう……?」
諷杝のハンカチを持った手に自分の手を重ねて、縋るように尋ねていた。
軽く笑む気配と共に、諷杝のもう一方の空いた手が矢㮈の頭の上に載った。
「矢㮈ちゃんの音は、矢㮈ちゃんにしか出せないね。だから、矢㮈ちゃんが出したいと思って心を込めた音は、どれも矢㮈ちゃんの音だと僕は思うよ」
彼の言ったことは当たり前のことで、正しいと矢㮈には思えた。
きっとそれは心の底で自分でも分かっていただろうことなのに、不安と焦りがそれを見えなくさせていたのだとも。
「さてさてウオーミングアップも済んだので、ここからさらにギアを上げていきましょー!」
「あやめ、ほどほどにしとけよ」
「聞こえな―い! はい、じゃあそろそろ良いかな、二人とも?」
淡海が矢㮈と諷杝に向かって両手を広げた。
「海中はそこにギターあるからそれ使って。矢㮈ちゃんは――」
矢㮈は今日バイオリンを持っていない。
「私と一緒に歌う?」
そう言って誘う淡海にきょとんとするしかできない矢㮈のそばで、
「じゃあ矢㮈ちゃんはこれをどうぞ」
諷杝が何かを取り出して矢㮈の手のひらにそっと乗せた。
「……カスタネット?」
一体どこから取り出したのか、手のひらに収まる小ぶりな楽器が演奏に加わるのを待っていた。
「前に矢㮈ちゃんと也梛と並早先生で打楽器演奏会してたでしょ。あれ僕も混ざりたかったんだよね」
諷杝がさらりと言って、淡海に指示されたギターを用意し始める。
「何にしようかなあ? あ、音楽祭でやったロックな『ねこふんじゃった』にしよう!」
もう誰も淡海の決定に口を挟めはしない。彼女の気が済むまで、このステージは続くのだろう。
結局、淡海のステージに終止符を打ったのは、淡海たち軽音部の顧問の先生の登場だった。
「こら淡海! 打ち合わせと聞いていたはずだが、何だこれは!」
「うわ、松先!」
「相田も止めんか!」
「いや、無理でしょ。先生も知ってるっしょ」
松先こと松井先生は、淡海と相田に軽い説教をした後で、矢㮈と諷杝に目を向けた。鋭い視線と迫力に気圧されて言葉が出て来ない。
「……君たちも。淡海に勝てるとは思わないが、仮にもテスト期間だ。何かがあって他の部員たちに迷惑がかかったら困るし、反省しなさい」
「はい、すみません」
矢㮈と諷杝は声を合わせて頭を下げた。
「松先、悪いのは私で……」
「ああ、お前はくれぐれも反省しなさい」
ぴしゃりと言われて淡海が首を竦める。しかし彼女と松井の間には、ちゃんと理解し合えているような空気があった。だからこそ淡海もしおらしくしているのだろう――心の中でどんなことを思っているかは知らないが。
「いやー、ごめんねえ、矢㮈ちゃん。ついでに海中も」
「い、いえ!」
「僕はついでなんだ」
淡海たちと部室棟を出ると、もうすっかり日が暮れようとしていた。
「ていうか淡海さんと相田君もテスト期間なんでしょ。大丈夫なの?」
諷杝が訊くと、淡海はふふふと笑った。
「大丈夫よ! 私には将ちゃんという頼もしい味方がいるからね!」
「それはつまり……」
「明日から俺がテスト勉強に付き合わされるってことだな。あやめの親からも頼まれてるからもう諦めてるけどな」
相田の淡々とした答えに諷杝と矢㮈は揃って頬を引き攣らせた。
「そういうお前らは大丈夫なのか」
「ああ、僕には也梛が――」
諷杝が言いかけて、言葉を詰まらせる。矢㮈の頭の中にも教科書を片手に腰に手をあてて仁王立ちしている高瀬の姿が過ぎった。
「……也梛がいるから、大丈夫だよ……」
何とか絞り出した諷杝の声は微かに震えていた。相田が不思議そうに首を傾げる。
駅の手前で電車に乗る矢㮈たちと別方向に帰る淡海たちは別れることになった。
「今日はありがとう、二人とも!」
「打ち合わせなんかこれっぽっちもしてないけどね」
諷杝が苦笑をするのを横目に、淡海が矢㮈の方に身を寄せて耳元で囁いた。
「矢㮈ちゃん、楽しめた?」
「!」
淡海が片目を瞑って諷杝の方を親指で示した。
「海中から将ちゃんに連絡が来たと思ったら、いきなり来るって言い出すからびっくりしたわ」
「諷杝が……?」
「矢㮈ちゃんが元気ないって聞いたから心配してたんだけど……もう大丈夫?」
今まで子どものようにはしゃぎまくっていた目の前の女子高生が、急に年上のお姉さんのように見えてくる。
「……はい、淡海さんたちから、元気もらいました」
「それは良かった! 私も元気もらったからテスト頑張れそう」
淡海は綺麗な笑みを浮かべて、矢㮈の背中をポンポンと叩いてくれた。
「テストが終わったらいよいよ音楽祭ね! 今年も矢㮈ちゃんたちと同じステージに立てることを楽しみにしてるわよ。高瀬にも言っといて」
「はい」
淡海は最後にまた矢㮈の頭をなでると、手を振りながら相田と帰路についた。
矢㮈は諷杝と一緒に帰りの電車のホームに向かう。
「諷杝」
「ん?」
「今日は誘ってくれてありがとう」
今はもう一刻も早く家に帰らなければという気持ちはない。不安も焦りも、不思議と感じなかった。
諷杝は「どういたしまして」と歌うように言ってから苦笑を漏らした。
「僕一人ではどうにもできなかったのは悔しいけどね。淡海さんと相田君のおかげだ」
「……そんなことないよ。あたしを連れ出してくれたのは諷杝だから」
二人の元に連れて行ってくれたのは紛れもなく諷杝だ。本当に、「元気をもらえるところ」だった。あの時強引に連れ出してくれた彼には感謝しかなかった。
電車が近付いて来たアナウンスに紛れて、諷杝の声が耳に届いた。
「あとは、君の世界に近いところにいるあいつに聞いてもらったら良いよ」
目の前に、乗って来たのと同じ色の電車が滑り込んできた。
四.
諷杝が半ば強制的に彼女を連れ出してから、彼女の周りの空気が少し変わった。放課後は相変わらずバイオリンの練習時間にあてたいとそちらを優先する姿勢は変わらなかったが、彼女につき纏っていた不安や焦りが少し和らいだような気がする。
千佳が提案して、昼休みにテスト勉強会をするようになり、矢㮈も参加している。――つまりは、先生役の也梛はほぼ毎日の昼休みを付き合っていることになる。
「自分の音って何なんだろうねえ?」
寮ではルームメイトの勉強を見ている。数学の問題に飽きたらしい諷杝が宙に視線を投げて呟いた。
也梛は仕方ないと諦めて、諷杝の話に付き合うことにした。
「そんなもの、自分では分からないだろ。聴いている者が勝手に『ああ、あの人の音だな』って感じるだけだ」
「ふふ。也梛の言う通りだね」
諷杝は横に置いていたノートを引っ張って来て、パラパラと捲った。そこには諷杝の手書きの譜や歌詞が秩序なく好き放題に散らばっている。
「僕だって自分の音は分からない。ただ耳慣れたギターの音、聞き慣れた自分の声を認識するだけにすぎない。ギターなんか、別に僕が弾かなくても同じギターなら同じ音なんじゃないかなって思う」
自分が弾かなくても同じ――その言葉に、也梛は微かに眉を寄せた。それと全く同じことを、自分のピアノに思ったことがあったのを思い出したからだ。
「でもね、自分じゃない他人のことだと分かりやすいんだよね。ちゃんと、ああこの人の音だなって分かるよ。矢㮈ちゃんの音も――もちろん、也梛の音もね」
難しい顔をしていた也梛を覗き込むように見た諷杝は微笑んだ。
「しかもその音は生きてるから、変わることだってある。奏者の思いが変われば、それは音にも表れる。僕はそう思うよ」
奏者の思いが変われば音も変わる。彼の言わんとしていることは分かる。
だが、也梛は自分のことに関しては本当にそうなのか分からなかった。自分の音を、自分じゃない誰かになって聴くことができれば良いのに。
(そういえば昔――)
昔ピアノを弾いていた時、自分の演奏を記録して聴いてみたことがある。周りは褒めてくれた演奏でも、自分が思い描いたものとは程遠かった。弾いていた時は満足していたのに、後で聴いてみればとても自分が演奏したものだとは思えず、愕然としたのだ。
(だから俺はここに、自分の音楽を探しに来たのかもしれない)
そんなことをぼんやりと思っていたら、諷杝が目の前で手を振っているのに気付いた。
「おーい也梛、聞いてる?」
「……ああ、聞いてる」
その手を止めさせて、コホンと空咳で誤魔化した。諷杝はきょとんとしたものの、特にツッコミはしなかった。
「というわけで、今度は君の出番だよ、也梛」
諷杝がにっこりと笑う。也梛は反対に苦々しい表情でため息を吐いた。
「……一番めんどくせえ役だろ、どうせ」
「でも多分君が一番近いところにいる気がするんだよね。違う?」
こちらを覗き込む諷杝の瞳が僅かに揺らぐ。也梛はふいと視線を逸らした。
「こればっかりは僕より君の方が言葉に説得力がありそうだから」
「どうだか」
「そう言いつつ、矢㮈ちゃんのことほっとけないんでしょ?」
「……」
也梛は深い溜め息を吐いて頬杖をついた。
「明日は一人で勉強できるな?」
「もちろんだよ! 僕はもう高校三年生だよ!」
「全然説得力ねえよ」
胸を張って言う諷杝に、也梛は秒でツッコんだ。
その日、勉強会を終えた也梛は懐かしいピアノ教室に足を向けた。
白い外壁の、どこにでもあるようなコンクリートの二階建ての建物の窓からは明るい光が漏れていた。磨りガラスの入った扉を通り抜けて中に入る。
小さなホールのような場所に、受付らしきカウンターがあり、係の女性が事務作業をしている。也梛の姿に気付くと軽く会釈をした。
受付カウンターの右手に二階へと続く階段が、左手に奥に続く廊下があり、扉が並んでいるのがちらと見えた。どこからか、微かに楽器の音が聞こえて来る。
彼女も今頃どこかの教室で練習をしていることだろう。終了までにはまだ暫く時間があるので、也梛は係の女性に一声かけてからふらりと見学することにした。小学生の頃に通っていた時と比べて、変わっているものもあれば変わっていないものもある。
よく練習していた教室に自然と足が向かうのに従いながら廊下を行く。
そこで、見知った顔に出会った。
「あれ、高瀬君? 久しぶり! 一年振りだね」
「……ああ」
昨年、渥美と共に演奏会をしたバイオリン奏者の村住華南だった。正直記憶が曖昧になっていたが、彼女の反応からして間違いないだろう。
「何でここに? あ、もしかして高瀬君も先生の演奏会出るの? 飛び入り参加とか?」
彼女は以前と変わらず馴れ馴れしい。あまり近付きたくないタイプだが、邪険にするのも躊躇われて也梛はさり気なく視線を外した。
「いや、今回俺は参加しない」
「ええ~残念だなあ。じゃあ先生に会いに?」
「……まあ、そんなところだ」
也梛はそこで会話を切り上げたい気持ちでいっぱいだったが、どうしても一言探りを入れずにいられなかった。
「俺は参加しないけど、俺の知り合いが参加する」
華南は少し驚いたように目を見開いた。
「へえ、高瀬君の知り合い。……どんな子?」
「村住と一緒のバイオリンだよ。ここで会わなかったか?」
「バイオリン……」
華南の口が開いたまま、小首を傾げて固まる。
「笠木矢㮈っていうちょっとぼやっとした女子だ」
その名を聞いて華南の唇がぎゅっと引き結ばれた。
その反応で十分だった。
(やっぱり会ってたか)
也梛は表情は変えずに内心でため息を吐いた。
「単刀直入に訊くけど、あいつの演奏どう思った?」
「……何でそれを私にきくの?」
華南は無理のある笑みを浮かべて返した。
「いや? 単に俺が聞いてみたいと思ったから訊いただけだ」
「ふうん。高瀬君とあの子、そんなに仲が良いんだ」
「仲が良いとは言わないが、でもあいつのバイオリンは認めてるところがあるんだ」
也梛の言葉に再度華南が目を見開いた。
「高瀬君が? それ本気で言ってるの?」
也梛が頷き返すと、彼女は眉間に眉を寄せて少し険しい表情になった。
「あの子の演奏を聴いたけど、私は別に何も思わなかった。はっきり言って、特別下手なわけでもないけど、上手いわけでもない」
「ああ、技術で比べたら村住には到底かなわないだろうな、現時点では」
也梛はあっさり同意した。華南は也梛の言わんとすることが分からないと言うように首を横に振った。
「高瀬君もそう思うなら、どうして……」
「去年の演奏会の時、俺は気付いたんだよ」
「え?」
也梛はふいに昨年の話を引っ張り出した。
「村住の演奏は先生も褒めてたくらい文句なしだった。同年代では技術も申し分ないし、レベルが高いことはよく分かった」
だが。也梛の頭の中で、彩楸学園に戻ってから矢㮈と演奏した『G線上のアリア』が蘇る。
「先生や村住程、俺は満足感を得られなかったんだ。もちろんそれは俺自身の問題もあるんだろうけど、そもそも論として村住のバイオリンの音にあまり惹きつけられなかった」
「!」
華南がはっとした表情になる。也梛は構わずに続けた。
「演奏全体で見れば何も文句のつけようがない出来だった。だけど俺はその後にあいつと演奏したバイオリンの音の方が気になって仕方なかったんだ。――何でなんだろうな」
正直、也梛にもその理由ははっきりしない。だが、実際そうなのだ。
それが彼女の――矢㮈の音、なのかもしれない。
正面から堂々と自分の演奏を批判された華南は、怒るかと思いきやどこか呆然とした顔で也梛を見つめていた。
「……村住?」
「……そうよ」
華南は小さく呟いた。体の横にある長い腕の先で拳が握られるのが見えた。
「……それ、今の先生にも言われたの。私の技術は十分だって褒めてくれるけど、音に関しては特別惹かれるものがないって。いくら感情を込めて弾いているつもりでも、どこかスーッと聴き流されてしまう」
華南が苦しそうな表情を隠すように片手で額を覆った。
彼女のスランプとはこれか、と也梛は察した。そしてその問題は、かつての也梛にも覚えがあった。
(俺のピアノと同じだ)
也梛のピアノもそうだった。弾けばその技術は申し分ないと誉めそやされ、周りの大人たちは也梛の演奏に舌を巻いた。
也梛はただピアノを弾くのが楽しくて、姉のように弾きたくて、次々に弾ける曲が増えていくのが嬉しかった。その一心で突き進んでいった結果、いつの間にか確実に技術が身について、その演奏はまるでお手本のCDを弾いているような楽譜に忠実なものとなっていた。
同時に、也梛自身はだんだん楽しいという気持ちがなくなってきていた。自分の奏でる音が好きになれない。今まで自分が弾きたいと憧れを持った音に程遠い。そんな也梛を救ってくれたのがキーボードだった。キーボードを弾く時だけは、自由でいられた。自分が望む音を目指せるような気分でいられた。周りからとやかく言われないことも大きかった。
(……まあこればかりは村住本人が向き合って解決するしかないよな)
也梛は逃げたままで今に至る。未だにピアノからは逃避し、キーボードに集中するふりをして誤魔化している。ピアノだって最近になってようやくまた時々弾くようになったという有様だ。そう思えばまだバイオリンに向き合ってコンクールにも出場している村住の方がよほど努力家で頑張っている。
「勝手なことを言っといて何だけど、俺からは特にアドバイスとかはない」
「……ここまでズバッと言ってくれちゃって、それ?」
華南が眉をハノ字にしたまま、呆れたように笑った。
「でも、そのヒントをくれるのはあいつかもしれない、とは思う」
也梛の言葉に華南が口を噤む。
「あいつの方もお前の演奏を聴いて色々思うところがあったみたいだ。今までぼやぼやしてたのに、ちょっと顔つきが変わった」
矢㮈の話だ。彼女は彼女でどこか焦っているように思うけれど、間違いなく華南からの刺激があってこその変化だった。
華南は複雑な表情のまま唸った。
「……高瀬君がそこまで言うことにまだ理解が追い付かないんだけど」
「追い付かなくていい。だが、演奏会の日にもう一度あいつの音をちゃんと聴いてやれ。もしかしたら今度は少し違って聴こえるかもしれない」
華南は腑に落ちないというようにまだ難しい顔をしていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……その時の気分によるけど」
彼女自身もまた、何か変わるきっかけを掴もうと必死なのだろう。その気持ちは也梛にも分かる。
「ああ。それで十分だ」
也梛は小さく笑い、昔自分たちがレッスンをしていた教室の扉の前を通り過ぎた。
ここまでお付き合いいただきありがとうございます。後編に続きます。




