彼女の音、彼の音<前編>
【主な登場人物紹介】
・笠木 矢㮈(かさぎ やな)…2年生。バイオリンを弾く。
・高瀬 也梛…2年生。キーボードを弾く。
・海中 諷杝…3年生。ギターを弾く。
【その他】
・臣原 千佳…2年生。矢㮈のクラスメイト。
・松浦 大河…同上。
・衣川 瑞流…同上。也梛と同じクラス。
***
「最近矢㮈ちゃん屋上に来ないねえ」
そんな呟きが耳に入ってきたのは、丁度音の確認が一段落してヘッドホンを外したところだった。
高瀬也梛はルームメイトの海中諷杝の方を見た。作詞中の彼はノートを前に鉛筆をくるくると回しながらぼんやりしていた。
「……演奏会の方に集中しているんだろ」
お茶の入ったコップを手に取りながら返すと、諷杝が鉛筆の回転を止めてこちらを向いた。
「僕もそう思いたいんだけど……」
「何だ」
奥歯の間に物が挟まったような煮え切らない言葉に、也梛は軽く眉を顰めた。諷杝はどう言ったものかと悩むように、也梛をじいっと見つめた。
「也梛はどう思う?」
「どうって……」
まじまじとこちらを見つめる諷杝はそれ以上何も言おうとせず、黙って也梛の回答を待っていた。その表情が、「僕の言いたいこと、分かってるよね?」と無言の圧力をかけてくる。
さすがの也梛もとてもスルーできず、溜め息を吐いた。
「……少し、焦りを感じるな」
諷杝は微かに頷いた。
「だよね。前に矢㮈ちゃんが僕たちに内緒でバイオリンの練習をしてた時とはどこか様子が違う」
諷杝が言っているのは昨年の春、矢㮈が再びバイオリンを弾くために練習に集中していた頃のことだ。あの時はまだ也梛たちも彼女がまさかバイオリンを弾くのだとは知らず、ただ何かに熱心に向き合っているのだなと思うくらいだった。
その時の彼女もただ一途に練習に向き合っていたわけだが、見るからに「好きなもの」に向かっているのだと分かるものだった。
それに比べて、今回はどこか様子が違う。そう、あえて言葉にするのなら、
「楽しいより、迷いと焦りが強い気がする」
諷杝が也梛の心中を端的に表す。
「練習で何かあったのかな」
「……さあな」
也梛は特に聞いていない。だが、思い返せば少し前に彼女に演奏会の様子を訊ねた時、何かを気にしているふうに感じたのも事実だ。その後会話は流れてしまい、蒸し返すような真似はしなかったが、あの時聞いておけば良かったのだろうか。
(まあどっちにしても……笠木の問題ではあるんだろうけど)
演奏会において何か気がかりがあれば渥美から連絡がくるはずだ。だが現時点でそれはない。也梛なりに元先生の渥美のことは信頼しているし、彼女が何も言ってこないということはそこまでのことではない、もしくは也梛にはどうしようもないことなのだろう。
それでも、矢㮈が本当に何かに困っているのなら、それを放置していてはいけないとも思う。
(あいつには逃げてほしくないからな)
也梛が心の中でため息を吐いた時、諷杝がぽつりと言った。
「ねえ也梛。明日、矢㮈ちゃんを誘って遊んで来ても良いかな?」
ルームメイトが一瞬、何を言い出したのかすぐに理解できなかった。素で首を傾げた也梛の前で、諷杝が思い出したように鉛筆をくるりと回す。彼に鉛筆を上手く回すコツを教えたのは也梛だった。
「テスト前だけど、矢㮈ちゃんとどっか遊びに行って来ようかなって」
あの鳩しか友人がいなかったような出不精の彼が、そんなことを言い出す日が来ようとは。いくら矢㮈といえど、女子には違いない。
「お前、どうした」
「どうもしてないよ。矢㮈ちゃんのためにできることないかなーと考えてただけ。まあ誘ってみないと分からないけどね」
言いながら、早くも諷杝は携帯に手を伸ばしていた。いつもの彼からは考えられないくらい積極的だ。明日は出掛けると言うが雨か嵐ではないか?
ポカンとし続ける也梛に、諷杝が呆れた顔をした。
「どうしたの、馬鹿みたいな顔して」
「うるさい。いつもぼやぼやのお前に言われたくねえよ」
也梛は現実が少し信じられなくなって、もう一度音楽の世界に潜り込むために愛用のヘッドホンを掴んだ。
「也梛、一応訊いておくけど、矢㮈ちゃん誘っていいよね?」
「……何で俺に訊くんだ」
不可解な気分で聞き返すと、諷杝はふっと困ったように笑った。
「……いや? 也梛は明日バイトだから、やきもち妬くかなあって思って」
「妬くか阿呆」
それはどういう意味でだろうと深く考えるのはやめ、也梛は彼の声をシャットアウトするように耳を塞いだ。
(ひとまず笠木のことは諷杝に任せよう)
恐らく、也梛よりも諷杝の方が彼女のフォローができるだろうと直感で分かっていた。自分の役割はもっと他のところにあるだろうことも。
ヘッドホンからは先程也梛が試し弾きした曲が流れ始め、也梛は音の世界に意識を向けた。
一.
繊細な音の連なりが空気を震わす。澄み切った音が頭にこびりついて離れない。
(……あれはあたしの音じゃない)
それを振り払うように自分の音を思い出そうとする。だが自分の音が分からない。
(あたしは今までどんな演奏をしていたんだろう……?)
チャイムの音に思考を中断されて現実に引き戻された。
周りでは次々に生徒が席を立ち、がやがやと賑やかに教室を出て行く。今日からテスト一週間前に入るため、部活動は停止で早めに帰宅する者たちが多い。
笠木矢㮈も急いで自分の鞄に教科書とノートを突っ込んだ。
「かーさぎ」
軽やかな声に顔を上げると、そこには美少女の友人が微笑んで立っていた。同じクラスの臣原千佳だ。
「今回もテスト勉強会する?」
「千佳ちゃん部活は?」
「今週はさすがにないってさ。各自で軽いトレーニングはしとけって言われてるけど」
千佳は肩を竦め、それから矢㮈の鞄を見た。
「笠木はもう帰るの?」
「ああ、うん……ごめん、ちょっと演奏会の練習があって」
「演奏会か。そりゃ大変だね。でもテスト勉強は大丈夫なの?」
彼女の心配そうな声に矢㮈はうっと詰まった。自慢ではないが、いつも補講が危ういくらいの成績だ。
そのおかげでテストの前には高瀬や千佳に勉強を教えてもらうのが恒例となっていた。
「大丈夫じゃないけど、そっちも頑張る……。ちょっと今はバイオリンに力入れたくて。できる限りはやりたいから」
矢㮈がそう言うと、千佳はまだどこか心配そうな表情のまま頷いた。
「……ん、分かった。でも一日くらいどこかで勉強しようね。放課後が無理だったらお昼休みでもいいし」
「ありがとう、千佳ちゃん!」
千佳は優しい。その優しさに甘えて、矢㮈は鞄を持って席を立った。いつもなら部活に飛び出して行く千佳を見送る立場の方が多いのに、今日は矢㮈の方が千佳に見送られる立場だった。
隣のクラスの前を足早に通り過ぎようとしたところで、教室の後ろのドアから出てきた長身の男子とぶつかりそうになった。
「あ、すみま――高瀬か」
「か、って何だ。危ないぞ」
ため息交じりの声が上から降って来る。黒髪に眼鏡をかけた仏頂面の男子生徒が矢㮈を見下ろしていた。
「ごめんごめん。ちょっと急いでて」
「もう帰るのか」
「うん。今日は先生のとこ行く日だから」
「昨日も早く帰らなかったか?」
「昨日は家で練習を……」
矢㮈の答えに高瀬は束の間黙り、やがて溜め息を吐いた。
「練習に励むのは結構だが、お前テストは大丈夫なんだろうな?」
千佳と同じ心配をされてしまった。
「だ、大丈夫! 多分!」
「本当か? 演奏会も大事だがテストを疎かにしたらそれこそ先生も怒るぞ」
「大丈夫! 先生には心配かけないようにするから。今はただあたしが不安だから練習してるだけで……」
矢㮈は後半をもごもごと口籠りながら誤魔化し、話を切り上げるように片手を上げた。
「じゃ」
「じゃ、ってお前――」
珍しく高瀬がまだ何か言いたそうなのを遮って踵を返した。
誰かに追われてでもいるかのように階段をダッシュで降りる。
(そう、不安なんだ)
スピードをだしているせいで心拍数が上がってくるのを感じる。
(だって、今頑張らなきゃ今年のコンクールもきっと成果を残せない)
矢㮈と同世代のあの子はすでにずっと先を行く。そんな子が出場するコンクールの同じ舞台に立とうとしているのだから。
矢㮈の不安は心拍数が上昇するように胸いっぱいに広がっていく。
気を抜くとまたあの音が頭の中を占拠していく。
あの音色を聴いてからというもの、バイオリンを弾いていないと自分の音が完全に分からなくなりそうで怖かった。
演奏会はまさにテスト週間の週末だった。テスト勉強と同じくらい――いや、今はそれ以上に演奏会への焦りの方が強かった。
「矢㮈ちゃん」
昇降口の前で声をかけられた。振り返ると、諷杝の姿があった。
「諷杝」
「今日も練習?」
「そう……だけど」
矢㮈は答えつつ、数日前に彼からもらったメールを思い出していた。彼がメールを送って来ることも珍しすぎることだったが、さらに信じられないのはその内容だった。
「さて、明日の予定を聞かせてくれるかな?」
「……っ」
まさに明日、遊びに行こうという内容だったのだ。矢㮈は急いでいたのも忘れて、まじまじと諷杝を見た。
「な、何で今……? テスト期間でしょ?」
諷杝の成績も矢㮈とどっこいどっこいなのを矢㮈はよく知っている。あの高瀬が専属の家庭教師をしているくらいだ。
「うん、テスト期間なのはごめんって感じ。でも今じゃないと意味がないから」
諷杝はいつもの微笑みを浮かべてやんわりと、だがそう言い切った。
「意味がないって……」
「今だからこそ、矢㮈ちゃんと一緒に遊びに行きたいんだ」
諷杝の真意が見えない。だがその誘いは、矢㮈にとって魅惑的だった。いつもの矢㮈だったらすぐにのっていただろう。
とはいえ、今はそんなことをしている場合ではない。テストもそうだが、それ以上にバイオリンの練習で切羽詰まっている最中だ。諷杝には悪いが、遊びに行っている暇があるなら少しでも長く演奏したい。
矢㮈はごくりと唾を飲み込んで、断るために口を開いた。
「ごめん、諷杝。悪いけど――」
「うん、ごめん。悪いけど、今回譲るつもりは全くないんだ。もう明日は何があっても矢㮈ちゃんと遊ぶ。決定事項だから」
「……は?」
諷杝は有無を言わせぬ笑顔できっぱり言うと、「じゃあ」と矢㮈に背を向けた。
「ちょっ、諷杝っ」
矢㮈がその背に声をかけても、彼は振り返らない。さっさとその背中は遠ざかって行くだけだった。
翌日、授業を終えた矢㮈が教室を出ると、そこに諷杝の姿があった。二年の教室が並ぶ廊下の窓の前で、行き交う下級生たちの向こうに浮きも沈みもせずに立っていた。
(本当にいる……)
このまま見つからずに去るにはどうしたらいいのだろう、とそんなことを考えていたら、諷杝の方が気付いてこちらに手を振った。いつものにこやかな笑みを浮かべているが、今の矢㮈にその笑みは安心感を与えない。そんなふうに思う自分がまた嫌だった。
近付いて来る諷杝とは反対に一歩下がろうとした矢㮈は、どんと誰かにぶつかった。
はっとして顔を上げると、長身の黒髪眼鏡男子が矢㮈を見下ろしていた。
「危ねえな、って何回言えば分かるんだ? 昨日のことはもう忘れたのか?」
心底呆れた顔は日常茶飯事だ。矢㮈はそれでもどこか安心しながら、「ごめん」と彼から離れた。
「で、お前は何から逃げようとしてるんだ?」
言いながら高瀬は矢㮈の退路を塞いだ。そこで矢㮈は気付く。
(高瀬、諷杝のこと知って――)
キッと彼を睨み上げても、高瀬は気にしたふうもなく平然と諷杝に声をかけた。
「諷杝。早くこいつを連れていけ」
「ありがとう、也梛」
「ちょっと待って! 諷杝、あたしやっぱり――」
やっぱり行けない、と言おうとした矢㮈の手を諷杝が引っ張った。
「だから決定事項だって言ったでしょ。諦めて僕に付き合って」
「あれはっ……」
こんな強引な諷杝を見たのは初めてだった。矢㮈は驚きに束の間意識を持って行かれ、気付いた時には諷杝に手を引かれて歩き出していた。
「まあ楽しんでこい」
後ろから、ぶっきらぼうな声が聞こえた。
二.
「よーし、今回も高瀬に世話になりますよ~」
「もうホント高瀬様々だよな。卒業するまで世話かけるよ」
補習組の二人ののんびりとした人任せな声を聞きながら、也梛は容赦なく半眼を向けた。
「そろそろ勉強が身について来てもいい頃だと思うんだがな?」
一年からの付き合いになる松浦と衣川は、あははははと笑うだけで全然懲りた様子はない。言うだけ無駄だ。
也梛は溜め息を吐いて、勉強会のために四つの机を合わせるように移動させた。
「そういえば笠木さんは?」
松浦が英語の教科書とノートを出しながら臣原千佳に訊く。彼女は席の一つに着き、ファイルの中から数学のプリントを取り出して広げた。
「笠木は用事だって」
「そっかあ。じゃあ明日の勉強会はどうかなあ?」
「お前明日もやるつもりなのか」
「もちろんだろ。家でやるより全然捗るし、分からないとこがあれば高瀬に聞けるし」
胸を張って言うセリフか。也梛はまた溜め息を吐いて、それぞれの机に広げられたものを眺めた。
松浦と衣川は英語、千佳は数学だ。もう恒例となったこの勉強会は、各自に勉強する教科は委ね、分からないところがあれば也梛が答えるといったスタイルを取っている。
「毎回のことだが、俺はこの後バイトがある。制限時間は六時半までだ」
いつものように先に宣言をしておく。時間を決めていた方がだらだらしなくて良いというのもあった。丁度今から二時間弱といったところか。
「お前相変わらずテスト期間もバイトなんだな」
衣川がほう、と息を吐く。
「悪いか」
「いや、むしろ感心してるんだよさすがだな」
「それあたしも思う。高瀬君のキャパどうなってんのか興味あるわ」
千佳も心底不思議そうに頷く。
「……俺のことはどうでも良いから、さっさと始めろ」
也梛は教室の時計をちらりと見遣り、三人を促した。
「ああ~これさっきやったやつだろ! 見たことある! 見たことあるんだけど、覚えてるんだけど、分からん!」
松浦が茶色い頭を掻きむしって悶えている。衣川が横からひょいと覗き込んで、
「あー、それは……」
「言うな! もう少しで分かりそうな気も……!」
「はいはい。なら頑張って。はい、俺は今日の分終了~」
言いながら自分のプリントをしまう。衣川は中性的な整った顔でにこりと微笑んだ。
「高瀬、ありがとな。何かできる気がしてきた」
「お前はそう言ってすぐ忘れるからな。テスト当日まで覚えていてくれ」
「うーん、問題はそこだよね」
全然問題じゃなさそうな顔でしれっと答える彼が憎らしい。也梛は眉を顰めた。この衣川はどちらかというと要領が良い方だとは思うのだが、松浦よりもサボり癖がひどい。
対する松浦は、一見チャラそうに見えて補講もきちんと出る真面目さがあるものの、どうにも要領が悪いところがある。矢㮈も同じタイプだった。
「うーん、スッキリした。応用問題も解けたし、数学は何とかいけそう。ありがとう、高瀬君」
そして千佳に関しては特に何も言うことはない。そもそも彼女は也梛に教えてもらうことなどそうそうないだろうに、自ら望んで勉強会に参加している。現に、彼女が躓いて也梛に聞いて来る問題は応用問題ばかりである。
「松浦、そろそろタイムアウトだ」
也梛は時計をちらりと見て、まだ英文を前に唸る松浦に言った。
「ううー悔しいー。これなんだっけ?」
「それは……」
さらっと答えを教えてやると、彼は「ああー! それだよそれ!」と大げさに頭を抱えて悔しがった。まるで小学生だ。
「じゃあ今日はここまでな」
也梛は三人の問いに答えながら自分でもまとめていたノートを閉じた。これからバイトだ。
「ああ~疲れたあ~。あ、高瀬、片づけはやっとくから良いよ」
頭を使いすぎたのか若干ふらふらとしているように見える松浦が力なく手を振る。その横で衣川が苦笑しながら頷いていた。
「明日はお礼の甘いもん用意して来るから」
「頼んだ。じゃあな」
さっさと荷物を持って高瀬は席を立った。
教室を出た所で、後ろからパタパタと千佳が後を追って来た。
「高瀬君。駅まで行くなら一緒して良い?」
「……どうせ勝手について来るんだろ」
高瀬の返事に千佳は満足そうに頷いて隣に並んだ。
千佳の他愛のない話を聞きながら歩いてどれくらい経った時だっただろう。もう次の角を曲がれば駅が見えてくるという所まで来ていた。
「高瀬君」
今まできゃいきゃい騒がしく話していた彼女の声がいつになく真剣で真面目なことに気付いて、也梛はちらりと彼女を見遣った。千佳の顔は声音と同じ真剣なそれで、ピタリと足を止めた。
「どうした」
「笠木のことなんだけど」
「……ああ」
相槌を打って先を促すと、彼女は慎重に口を開いた。
「あの子、何か焦ってるみたいなんだけど、大丈夫だと思う?」
何が、とは言わなかったが、それが矢㮈とバイオリンのことだということはすぐに気付いた。
也梛がどう答えようか逡巡する間、千佳は一時も目を離さなかった。その圧に負けて言葉を押し出す。
「……大丈夫ではないだろうな。傍から見ても必死なのが伝わるほどだ」
そのことは也梛も少なからず気になっていた。それは諷杝もまた同じで、だからこそ今日無理矢理彼女を遊びに連れ出した。
千佳が自分と同じ気持ちの者がいることに安心したのか、目に見えて表情を和らげたのが分かった。
「良かった。高瀬君も同じこと思ってくれてて」
「完全に同じとは限らないけどな」
認めるのは癪だったのでついそんなことを言ってしまう。千佳が小さく苦笑した。
「笠木のあれ、高瀬君は何か心当たりある?」
「確信はないが、思い当たる節はないでもない」
矢㮈は今、がむしゃらにバイオリンの技術を上げようと練習に向き合っている。それは恐らく、同じ年代の自分よりずっと上の奏者を目の前にして焦りが生まれたからに他ならない。
昨年まではバイオリンを再び弾けるようになれたことが嬉しいと語っていた彼女が、さらに上を目指して動き始めた証拠だった。
「笠木が頑張ってるのは良いことだと思うのよ。だけど、ちょっと心配っていうか」
千佳は言葉を選ぶように唸る。彼女自身、矢㮈から詳しく話を聞いているわけではないだろうから、想像して推測するしかないのだろう。
「えーと、あたしの経験で言うとね、あのスランプの頃と似てるのよ。あの頃本当に記録も出なくて、下手するとフォームまで変わりかけてて、でも焦ってる自分はそういうことに気付かないの」
「ああ」
彼女の言わんとしていることは也梛にも分かる。
「あたしの場合は無理矢理休部して、走ること禁止令を出されるくらいになってようやく冷静になれたんだけど……笠木も今そうなのかなって」
千佳が強い目で也梛を見据える。キリリとした顔は美少女というより美少年味があった。
「上を目指そうと頑張ることは必要だし、その練習はもちろん必要。でも、その結果笠木のあの音が消えてしまうのは嫌だなって個人的には思う――これは極論かもしれないけど」
也梛はゆっくり頷いた。
「そうだな。俺もあの音はあいつの強みだと思う」
彼女のバイオリンに惹かれるのはそういうことだ。
努力を重ねることは必要だが、ただがむしゃらにやってどうにかなるというものでもないこともある。むしろそれを強行して今ある強みを失くしたり、壊してしまうことの方が怖い。
(それこそまたバイオリンを弾かなくなることだって……)
それは一番最悪なケースだった。
千佳は楽器の奏者ではないが、陸上のスポーツ選手としての走者である。勝負の世界にいる点ではある意味通ずるものがあるのかもしれない。
「……臣原は走ることをやめなかったんだな」
也梛がポツリと漏らすと、千佳が思わずというふうに苦笑した。
「一瞬でもやめたいと思わなかったと言ったら嘘になるわね。でも、結局やめることはできなかった。それは単純に、走るのが好きだと気付いたからよ」
それを聞いて、矢㮈も千佳のように吹っ切れる何かが見つかれば良いと思った。
「でもやっぱり続けてたら記録は出したいと思うし、勝ちたいとも思う。そういうものでしょう?」
「……そうだな」
「笠木は一度弾けなくなって、でもまた弾こうと思ってここまで来たわけでしょ。あたしはそれでも十分すごいと思う。それで上を目指すなら応援だってする」
千佳の言葉は彼女の走るフォームと同じ様に、真っ直ぐだった。
「――そう思ってくれるお前がいるなら大丈夫だろうな」
也梛は千佳にふっと笑うと、止めていた歩みを再開して駅へと向かった。
「臣原も、多分笠木も、強いな」
「……高瀬君?」
千佳が一歩遅れて、後を追って来た。
中編、後編と2話分続きます。




