努力の音色<後編>
※前52話「努力の音色<前編>の続きです。
【主な登場人物紹介】
・笠木 矢㮈(かさぎ やな)…2年生。バイオリンを弾く。
・高瀬 也梛…2年生。キーボードを弾く。
・海中 諷杝…3年生。ギターを弾く。
【その他】
・臣原 千佳…2年生。矢㮈のクラスメイト。
・村住 華南…バイオリン奏者。
三.
「まあひとまず音楽祭はあるってことだそうだから」
放課後、矢㮈たちはいつもの屋上に集まっていた。
まだ梅雨は明ける気配がないが、今日は晴れ間が覗いていた。空気はじめじめとして蒸し暑い。矢㮈は背中に汗がじっとり滲むのを感じて、授業中は着ているベストを脱ごうか迷った。
諷杝はすでにシャツ一枚で長袖を肘まで捲っていた。高瀬は丁度着ていたカーデガンを脱ぎ始めたところで、それを見て矢㮈も便乗することにした。
諷杝は珍しく携帯電話を手にして、ちまちまとメールを打っていた。
「諷杝、誰にメールしてるの?」
思わず聞いてしまった。彼はあっさりと答える。
「相田君に教えてあげようと思って。まあ向こうはもう知ってるかもだけどね」
メールの相手は諷杝の数少ない連絡相手、雲ノ峰高校の相田という少年だった。そもそも諷杝に今年の音楽祭について先に話を振って来たのは相田たちだ。連絡するまでもなく、情報は向こうの方が早いかもしれない。
あまり携帯を使わないという諷杝はメールに苦戦しているのか、難しい表情で格闘している。これは少し時間がかかりそうだと矢㮈は雲の間から見える青空を仰いだ。ここまで青空が見えるのは久しぶりだ。
「笠木」
「んあ?」
突然声をかけられて、変な声を出して顔を戻す。高瀬が矢㮈の奇声に言葉を詰まらせ、横を向いて小さく笑った。
「ちょっと!」
「何だ今の声。どっから出した」
「あんたがいきなり声かけてくるからでしょ!」
「くっ……ははっ」
珍しくツボに入ったらしい。仏頂面の顔に笑みが浮かんでいた。
矢㮈にしては大変不本意だが、珍しい彼を見ることができたのはまあ良しとしよう。――ムカつくけれど。
「それで何よ」
「……ああ、演奏会の件。調子はどうだ」
スイッチが切り替わったように、彼の表情が仏頂面に戻った。
七月にある演奏会のことだった。高瀬のピアノの先生がなぜか矢㮈のバイオリンを所望し、高瀬経由で矢㮈の所に話が回って来たのである。
(あれもきっかけは去年の音楽祭だったんだよなあ)
ふとそんなことを思って、音楽祭から広がった出来事と人との繋がりに不思議な気持ちになる。
「おかげさまで渥美先生にはよくしてもらってるし、純粋に新しい環境でのレッスンは新鮮に感じる」
「そうか」
矢㮈の返事に高瀬はどこかほっとしたように息を漏らした。一応自分から矢㮈に話を振った手前、上手くやれているか気にしてくれていたようだ。こういうところは責任感が強くて真面目である。
「今まで発表会で伴奏してもらうことはあったけど、ピアノとアンサンブルっていう形はあまり体験したことがなかったから楽しい」
渥美と言うピアノ奏者と一緒にするレッスンは色々と刺激をもらえる。これは高瀬たちとの演奏にも共通するが、今まで一人で弾いて来たことを思うと、やはり誰かと一緒に演奏するのは楽しいと感じた。
「そうだ、たまに渥美先生の演奏聴いてると、高瀬と似てるなって思う部分があるよ」
「ああ、昔からお世話になったからな。そりゃあるだろ」
少しだけ高瀬が懐かしむように目を細めた。
「高瀬のピアノとはまた違うけど、楽しいなあって思う」
「なら良かった。あの人の音もまた愉快だからな」
「うん。渥美先生の人柄が出てるよね」
必ずしもそうだとは限らないが、音には奏者の性格のようなものが出ると矢㮈は思っている。
「あとは……」
矢㮈の頭の隅に、ちらりとある人物の影が過ぎる。
「何だ?」
怪訝そうな顔になる高瀬に、矢㮈はどう言ったものか迷い、暫く口をパクパクさせた。
「餌を求める池の鯉みたいになってんぞ」
「っ……うるさい」
意識して口を閉じたものの、その後の言葉が出て来ない。
高瀬は何かを考えるように矢㮈を見つめていたが、そこに飛び込んできた諷杝の声にそちらを振り返った。
「よし! メール送信完了!」
「……お疲れさん」
呆れたように労う高瀬に諷杝が笑顔を返す。
「ありがとう。こんなに考えて時間をかけて打ったメールは久しぶりだよ――って、え!?」
諷杝の携帯が光っている。それを見た諷杝は信じられないような顔をしてこちらに携帯を突き出して来た。
「ねえ見てこれ! 僕があんなに頑張って打ったのに、もう返信来たんだけど! しかも『了解』の二文字って何!」
これには矢㮈も苦笑するしかなかった。
諷杝はまるで返信が短い彼氏に起こる女子のように暫くぶつぶつと言っていたが、やがて携帯をしまって居住まいを正した。いつもの定位置である丸太を模したベンチに座る。
「さて僕たちもいよいよ準備を始めないといけないね」
言わずもがな、音楽祭の準備である。
「今年は俺に関しては厄介な約束もないからな。二、三曲ぐらいすぐに取り掛かれるけど」
昨年彼は、彼の家族との約束でピアノの演奏会に出ることになり、音楽祭と同時並行でスケジュールをこなしていたのである。――ちなみにその時の共演者の一人が渥美であった。
それがない今年は見るからに清々しい表情をしているような気がした。
(高瀬やる気満々だな~)
こと音楽に関しては妥協することを嫌う高瀬だ。きっと彼のこだわりが十二分に発揮された楽譜が出来るに違いない。
「テーマとか雰囲気とか、何か出してくれたらこっちでひとまず考えてみるけど。ないなら勝手に俺が考える」
「わあ頼もしいなあ、也梛」
「お前は歌詞担当だろ。今まで考えたのでも新しく考えるのでも良いから捻り出せよ」
「はいはーい。それはぼちぼち考え始めてるから安心して」
諷杝はふふと微笑み、それから矢㮈を見た。
「矢㮈ちゃんは曲と歌詞、どうしたい? 何か希望があれば言ってほしいな」
「別に二人の考えてくれたものなら何でも楽しみだけど」
基本的に、歌詞は諷杝、曲は高瀬が原形を作って来る。それを叩き台に、矢㮈も感想や意見をぶつけて作り上げていくスタイルだ。曲がまとまると、ようやくそこから矢㮈が担当するバイオリンの譜を作成する。
諷杝と高瀬は顔を見合わせた。
「まあ笠木は今は演奏会もあるしな。そんなら試作は俺たちに任せておけ」
「そうだね。一度考えてみるから、形になったら確認してもらおう」
どうやら演奏会の件で二人には気を遣わせてしまっているようだ。矢㮈は若干申し訳ない気持ちになったが、とはいえ二人の言葉に反論する気もなかったので黙っておくことにした。
(今年はどんな曲ができあがるんだろう)
今からまだ見ぬ楽譜が楽しみだ。どきどきしてくる胸を落ち着かせる。
「そうだ。矢㮈ちゃん、今年も歌ってって言ったら歌ってくれる?」
諷杝が思いついたとばかりに訊いて来た。
「え、また歌うの?」
昨年、一曲だけ矢㮈は諷杝と一緒に歌っていた。
「あれ楽しかったから今年もどうかなーと思って。あ、今度は也梛も三人で歌う?」
「俺は伴奏で良いからな」
高瀬の即答に諷杝が唇を尖らせる。矢㮈は思わず笑ってしまった。
「あとはー、あ、そうだ。また矢㮈ちゃんの独奏見たいね!」
「え」
曲の一部で、矢㮈のバイオリンの独奏が組み込まれていたのだ。曲を作成したのはもちろん高瀬で、そこに矢㮈の独奏を入れたということは彼の信頼を勝ち得たという証だった。思えばあの演奏後、高瀬に褒められたことが一番嬉しかったような気がする。
「也梛、今回はどうするの?」
「……お前が希望するなら入れてもいいけど」
高瀬は諷杝が言うなら別に却下するつもりはないようだった。諷杝が矢㮈を見て笑う。
「だってさ、矢㮈ちゃん」
「いや、あたしはどっちでも……」
ちらりと高瀬を見るが、彼は矢㮈と視線を合わせようとしなかった。諷杝が頬を緩めて楽しそうにしているのが分かった。
「と、とりあえず、二人に任せる!」
結局矢㮈はそれだけを伝えた。二人は満更でもなさそうに頷き返してくれた。
「今は笠木は自分の演奏会に集中すれば良い」
「そうだね。それが終わってからでも十分間に合う。だって去年は作り始めたのもっと遅かったしね?」
「淡海さんにも『いつ出来上がるの?』って心配されたもんな」
前年の音楽祭のあれこれが蘇って来て懐かしい気分になる。それだけ、矢㮈たちにとって大きなイベントだった。
諷杝がふと空に視線を遣った。遠くの空を横切って行く黒い鳥の影を目で追う。その鳥に、彼は友を思い出しているのだろう。
以前なら、矢㮈たちが集まっていると必ず飛んで来た白い鳩はもう姿を現さない。高瀬のキーボードがお気に入りで、鍵盤に乗ろうとしては高瀬に追い払われていた。
諷杝は小さく息を吐くと、気持ちを切り替えるように「さーて」と声に出して矢㮈と高瀬を振り返った。
「今日は折角晴れ間も覗いていることだし、久しぶりに演奏しない?」
「賛成!」
「異議なし」
矢㮈の元気な声と、高瀬の静かな声が重なった。
四.
「じゃあ笠木さん、私は次のレッスンに行かないといけないから。お疲れ様」
「はい、ありがとうございました。お疲れ様です」
渥美が次の教室へ向かう背を見送って、矢㮈はふうと息を吐いた。
六月に入ってから週に二回、高瀬のピアノの先生で今回の演奏会の主催者である渥美の元に通っている。
普段練習をみてくれている祖母や先生とは違う人の意見を聞けるのは新鮮な体験で、矢㮈自身メリットが多い。最初は高瀬の先生ということで尻込みをしていた部分があったものの、渥美は感じの良い丁寧な先生で、矢㮈の緊張もすぐに解けた。
演奏会に向けての練習は順調と言えた。しかし矢㮈には一点、心の中に気にかかることがあった。
(あの子が弾いてるとこ、まだ見てないんだよね)
渥美の教え子の一人、バイオリン奏者の村住華南という女子のことだった。年は矢㮈より一つ上で、彼女はすでにコンクール上位の常連と言う腕前だ。矢㮈にブランクがあったことを差し引いても、圧倒的に技術面で力の差があった。事実、昨年の秋のコンクールでそれは目の当たりにしている。
彼女は昨年の夏、渥美と高瀬のピアノと共演している。矢㮈はその時初めて彼女の存在を意識し、素直にすごいと思ったのを覚えている。
渥美の話では、彼女は今スランプを抱えているらしい。その気晴らしになればと今回の演奏会に華南も誘っているらしいが、結局どうなったのかは聞いていない。練習の際にちらと姿を見かけることはあったが、話しかける程の仲でもないため近づき難かった。だいたい向こうは矢㮈のことなど知らないだろう。
矢㮈としては、たとえ直接でなくても彼女の弾くバイオリンを聴きたいという思いがあるのだが。
微かに耳に届いたバイオリンの音に惹かれて、今まさに通り過ぎようとしていた部屋の窓を覗いた。
(あ)
部屋の中に見えたのは、長いストレートの黒髪の長身の女子だった。横顔はキリリと整っていてまるでモデルのようだった。長い手が優雅に弓を操り、繊細な音を紡いでいた。――村住華南だ。
音がふつりと途切れ、彼女が俯いたまま固まる。どうしたのだろうと思った視線の先で、彼女はバイオリンと弓を下ろして机の上に置いてしまった。ちらりと見えたその表情は、どこか苦虫を噛み潰したような複雑なそれだった。
部屋の中をぐるりと歩き回った彼女が、矢㮈の存在に気付いた。
(!)
走って逃げることもできず、矢㮈はその場に立ち尽くしていた。華南がスタスタとこちらに歩いてきて、ドアを開けた。
「――何か用?」
「あ、いえ、別に……」
彼女のバイオリンを聴いてみたいと思っていたのは本当だが、まさか本人に直撃して聴かせてくれと頼み込む程の勇気は持ち合わせていなかった。ここで顔を合わせたのはただの偶然だ。
口籠る矢㮈に華南は怪訝そうな視線を向け、「あら?」と何かに気付いたように声を漏らした。
「あなたもしかして今度の渥美先生の演奏会に出る子?」
「あ、はい、そうです。笠木矢㮈です」
「そう。私は村住華南よ。――ふうん、あなたもバイオリンなの」
華南は矢㮈が手にしていたバイオリンケースに目を向けた。
「曲は?」
「……ホルストの『木星』です」
大管弦楽のための組曲『惑星』の中の一つだ。渥美がいくつか候補曲を出してくれた中から実際に軽く弾いてみてこれに決まった。
華南は暫く黙ったまま矢㮈のバイオリンケースを見つめていたが、やがて興味をなくしたようにふいと部屋の中へ踵を返した。
「まあ頑張って」
「あ、あの!」
矢㮈はその時の精一杯の声で彼女を呼び止めた。華南が迷惑半分、困惑半分の顔で振り返る。そんな顔でも美人だった。
「村住さんもバイオリン弾かれるんですよね? 少し、聴かせてもらえませんか」
初対面の相手にいきなり演奏を聴かせてくれとせがまれたら、余程親切な人でない限り突っぱねられても仕方ない。自分でお願いしておきながら、矢㮈は言った後でえらいことをしてしまったと後悔した。
華南は相変わらず不審そうな視線を矢㮈に向けていたが、やがて何を思ったのか小さく息を吐いて頷いた。
「……丁度今練習をしていたところだから、そんなので良ければどうぞ」
「是非!」
矢㮈は安堵すると同時に、開いた扉の中へ足をそっと踏み入れた。
その部屋は、先程まで矢㮈が渥美とレッスンをしていた部屋とそう変わらなかった。端の方に一台、アップライトピアノが置いてある。
華南は机の上からもう一度バイオリン本体と弓を手に取った。
「あなたはどれくらいバイオリンをしてるの?」
何気なく華南が問いかけて来る。向こうから話しかけてくれたことに、少しだけほっとする。
「あたしは三歳頃からですかね……祖父がバイオリンを弾いていて」
「そうなの。私も同じくらいから続けてる。私の場合は身近にバイオリンを弾く人はいなかったんだけど、コンサートに連れて行ってもらったのがきっかけだった」
華南は自分のバイオリンを見つめながら、ゆっくりと構えた。たったそれだけの動作なのに、優雅に見えてしまうのはなぜだろう。
息を詰める矢㮈の前で、華南は彼女のタイミングで弾き始めた。
曲はマスネの『タイスの瞑想曲』。
始まりから繊細な音の連なりが空気を震わす。澄み切った音が胸に響いて来た。
細くて長い指が丁寧に、細やかに、しかし確実に弦を押さえているのが見て取れた。
(……どこがスランプ?)
矢㮈は茫然としながら、ただただ音に吸い込まれていくように彼女の演奏に聴き入っていた。コンクールよりもずっと近くで彼女の生音が聴けることに感動すら覚えていた。
(すごい)
彼女の音を聴くと、先程まで練習していた自分の音などまだまだだと思い知らされるようだった。華南は涼しい顔で当たり前のように弾いているが、そこには無視できない技術がいくつも積み重ねられているのが分かる。
「……ちょっと、大丈夫?」
華南の声にはっと我に返る。矢㮈は慌てて拍手をした。
「すいません、つい聴き入ってボーっとしてました」
「大げさねえ」
華南は少しだけ苦笑し、丁寧な動作で机にバイオリンを戻した。
「これでもここ最近はずっと不調なのよ。もうすぐ今年のコンクールも始まるっていうのに。結果を出さないと先にも響くし……」
華南の声はだんだん沈んで小さくなっていく。矢㮈は何か声をかけたいと思ったが、果たして自分よりずっと上の彼女に何を伝えれば良いか分からない。下手なことを言って機嫌を損ねるのは避けたい。
そんな矢㮈の気配を察した華南が困ったように笑った。
「ああ、ごめんね。あなたに言っても仕方のないことだったよね」
「……い、いえ。あたしもコンクールに出ようと思っているので、お気持ちは少しだけ分かります」
あの特殊な舞台。あの上では、誰も頼れる人はいない。昨年はリハビリも兼ねて腕試しで参加した矢㮈だったが、やはり上位に食い込むのはそれなりの強い思いと実力を持った奏者だった。
「あなたもコンクールに出るんだ」
華南はそこで初めて矢㮈に興味を持ったかのように目に光を浮かべた。
「……ねえ、今の練習曲でいいから、少し弾いてみてよ。私の演奏を聴いたんだからいいでしょ?」
「え」
まさかのリクエストに素で驚いた。華南からそんなことを言われるとは思いもよらなかった。
先に華南の演奏を聴いている手前、断ることはできそうにない。矢㮈は緊張しながら、バイオリンケースを開いた。こちらを興味深げに見ている華南の視線から逃げるようにバイオリンだけを見る。
「……じゃあ、『木星』で」
矢㮈は一つ深呼吸をすると、弓を構えて弾き始めた。
だがすぐに違和感が過ぎった。
(何か……変だ)
先程の華南の音が頭にこびりついていて、それがじわじわと内側から浸食してくるような錯覚を覚えた。それを振り払うように自分の音を必死に紡ぐ。
(……あれ? こんな音だったっけ?)
弾いているうちに、自分でも自分の音が分からなくなってきた。
(何だこれ)
こんなことは初めてだった。
だが、手は無意識のうちに動いて、矢㮈の認識の外で勝手に『木星』の旋律を紡ぎ続けていた。
最後の一音が余韻を残して消えた時、矢㮈はバイオリンと弓をそれぞれの手に持って呆然としていた。たった今自分が弾いた音の記憶が曖昧で、本当に弾き終えたのかどうかも判別がつかなかった。
パチパチパチとまばらな拍手に我に返って、華南を見る。
「ありがとう。素敵な演奏だったわ」
華南は口でそう言いながら、目にはもう先程までの光がなかった。彼女の言葉がただのお世辞だと矢㮈にもすぐに分かった。
「じゃあ笠木さん、だったっけ? 私もまだこれからレッスンが控えているから、そろそろいいかしら」
「あ、はい……」
矢㮈は慌ててバイオリンをケースにしまい、まだ半ば呆然とする中、華南に頭を下げた。
「……素敵な演奏をありがとうございました」
「いいえ。こちらこそありがとう。じゃあ頑張ってね」
華南はあっさりと言うと、矢㮈を部屋から追い出して扉を閉めた。
矢㮈は暫くその扉の前から動くことができなかった。
***
バイオリンの弦から弓を離し、矢㮈はふうと息を吐いた。何かしっくりこない。
練習していたのは七月にある演奏会の曲だった。
「笠木」
涼やかなサッパリとした声に我に返る。振り返って少し驚いた。
「千佳ちゃん」
放課後のこの時間、バイオリンを弾く矢㮈に声をかけてくる人がいるとすれば、諷杝か高瀬、または教諭の並早か矢㮈のことを知る音楽関係の部に所属する部員たちだった。
陸上部に所属していて、今もまだ部活中だろう彼女がここに姿を現すとは思わなかった。
臣原千佳は陸上部の練習着姿で、伸びをしながらゆっくりと矢㮈の隣にやって来た。
「千佳ちゃん、部活は?」
柵越しに運動場の方を見ると、トラックの付近で陸上部の部員たちが集まっているのが見える。
「ああ、あたしはさっきまで顧問と面談してたの。少し早く終わって、廊下に出たら笠木のバイオリンが聞こえたから寄ってみた」
ニッと笑う千佳は美少女なのにどこか男前だった。耳の下で二つにくくった黒髪が風に靡いた。
「何であたしだって分かったの?」
「去年から聴いてるのよ? 分かるに決まってるじゃない」
千佳は何でもないことのように言ってのけるので、矢㮈はそれ以上何も言うことが出来なくなった。心の中がじんわりと温かくなる。
千佳は手すりに手を置いてトラックの方を見つめた。
「千佳ちゃんはまた大会だね」
「そうよ。夏の大会。去年は一年だからって甘く見られてたとこもあったから気楽だったけど、今年は二年だからそうもいかないし、今年もまたうちでも他の学校でも一年の有力選手は多いから」
そう言う千佳は不敵な笑みを浮かべていて、特に心配する必要はなさそうだと少し安心した。
「怪我と体調に気を付けてね」
「はいはい、ありがと。で、笠木の方はどうなの?」
千佳が矢㮈とバイオリンに目を向けて小首を傾げた。
「さっきの音はどこか迷っているようなそんな音に聞こえたんだけど。……気のせいだった?」
「!」
まさかそこまで見抜かれるとは。矢㮈は眉を下げて苦笑した。諷杝や高瀬にそう指摘されても驚かないが、まさか千佳から言われるとは思わなかった。伊達に矢㮈の音色を聴き分けられると豪語しているわけではないらしい。
「今度、演奏会があるんだけど」
「うん。さっきの曲はそこで弾くの?」
「そう」
矢㮈はバイオリンの絃に目を落とした。弓を握る手に少し力が入る。
「……千佳ちゃんは、自分よりすっごい選手を目にした時、どう思う?」
ふと思いつくがままに口にして、言葉にしてからはっとする。脈絡のない問いをしてしまった。矢㮈が慌てて誤魔化そうと考えている前で、千佳は「うーん」と唸った。
「そうねえ……あたしより速く走る選手は素直にすごいと思うけど、同時に悔しいとも思うかなあ。どう考えてもタイム的に厳しくても、試合では何があるか分からないし、勝ちたいなって思う。もちろん相手もベストなのが一番だけどね」
だから負けないようにあたしも走り込んで整えるのよ、と千佳は当たり前のように答えた。矢㮈が急にした質問にも関わらず、彼女は理由を訊かない。
(千佳ちゃんらしいなあ……)
短距離を走る彼女の姿そのままに、千佳の気持ちは真っ直ぐだった。その素直さが矢㮈には眩しくて憧れる。
「まあそう思えるのは、去年スランプに嵌ったことも大きかったのかもね。笠木も知っての通り、本当にあれは参ったからなあ」
そう、千佳は昨年の夏休み終わりから暫く軽いスランプに陥っていた。あんなにほぼ毎日走っていた彼女が休部をする事態になるほどで矢㮈も心配になったのだ。
丁度その頃だったか、矢㮈がバイオリンを弾いていると千佳が知ったのは。
その時も、確かこうやって屋上に二人でいた。
「笠木が何に迷ってんだか悩んでんだか知らないけど、でも、一つだけ」
千佳が人差し指をこちらに向ける。
「笠木が努力してここまで来たこと、あたしはずっと聴いて来たから知ってるわよ」
「!」
音楽仲間の諷杝と高瀬以外にも、こうして聴いてくれていた人がいた。それが誰より、千佳だったことが嬉しい。
千佳はそれ以上何も言わず、ただ黙ってまた運動場の方に目を遣った。トラックで走り始めた部員を眺めて頬を緩ませている。
そんな彼女の横顔を見ながら、矢㮈は小さく呟いた。
「……千佳ちゃん、ありがとう」
「どういたしまして」
暫くそのまま、二人で運動場を見下ろしていた。
後編でした。再び矢㮈のターンが帰って来た感じです。彼女の演奏会はどうなることやら…。
ここまで読んで下さりありがとうございました。(2021.4.29)




