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  作者: 葵月詞菜


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一番のファン

【主な登場人物紹介】

・笠木 矢㮈(かさぎ やな)…彩楸学園高校新2年生。バイオリンを弾く。

高瀬たかせ 也梛やなぎ…同高校新2年生。キーボードを弾く。

海中わたなか 諷杝ふうり…同高校新3年生。ギターを弾く。父親の残した楽譜を探している。

【その他】

高瀬たかせ あおい…高瀬也梛の姉。大学生。

一.

 目の前に黒のセダンが滑り込んできて停まる。

 運転席から降りて来たのは、黒髪を一つに結った女性だった。見た目は大学生くらいだろうか。しかしどこかのオフィスに勤めていてもおかしくないようなフォーマルな出立をしていた。

笠木(かさぎ)さん、おはよう。今日はよろしくね」

「あ、はい、おはようございます。こちらこそ、よろしくお願いします!」

 にこりと笑った女性は、名を高瀬葵(たかせ あおい)と言う。

 クラスメイトで音楽仲間である、高瀬也梛(たかせ やなぎ)の実の姉であった。

 笠木矢㮈(かさぎ やな)は彼女に促されるままに後部座席に乗り込み、膝の上にバイオリンケースを置いてふうと息を吐いた。

(……何か緊張するなあ)

 正直に言って、彼女と会うのはこれが二度目である。しかも昨年の夏に一度会った時には、弟の也梛とすこぶる関係が悪そうな場面に立ち会ってしまっていた。

 そんな彼女と、なぜこんな状況になっているのか。

 全て、あの無表情でたまにムカつく、黒髪眼鏡男子のせいであった。



 話は昨夜に遡る。

 夕食も終えて風呂から上がり、寝るにはまだ少し早いなと思いながら学校の課題をやる気にはなれない、金曜日の夜のことだった。

 机の上に置いていた現在練習中の楽譜を挟んだファイルを引き寄せた時、充電中の携帯のランプが点滅しているのが目に入った。マナーモードにしていたので、丁度着信に気付いたのは奇跡とも言える。

「電話? 誰だろ」

 普段はメールのやり取りが多いため、首を傾げながら表示を見る。

 そこにはクラスメイトの男子の名前が表示されていた。

「げ、高瀬?」

 ここでまず「げ」という言葉が飛び出したのは、矢㮈とその男子の関係からして不思議なことではない。

 しかし彼がわざわざ電話をかけてくること自体が珍しい。

 矢㮈は複雑な気持ちになりながらも通話ボタンを押した。

「はい」

『遅い』

 開口一番それか。矢㮈は見えない相手に口を尖らせた。

「うるさいわね。あたしにもあたしの都合があるのよ。むしろマナーモードで気付いたことをありがたく思いなさいよ」

『それ携帯の意味あるか?』

「普段から携帯を携帯してないようなあんたや諷杝(ふうり)には言われたくないんですけど?」

 そもそも電話の向こうの彼の方こそ、いつも携帯の意味をなさなくなるような扱いをしている。

 電話の向こうで一瞬言葉に詰まる気配がして、すぐにとりなすような咳払いが聞こえた。

『用件を言う』

「どうしたの」

 矢㮈はやれやれと肩を竦めながら、高瀬也梛という男子の次の言葉を待った。

『日曜日の件だ。悪いが、その日俺は同席できなくなった』

「は……?」

 日曜日。その日はとある予定が入っていた。正確に言うと、高瀬が仲介をしてある人に会う約束をしていた。

『バイトのシフトに穴が開いて、どうしても代理が見つからないらしくて俺に話が回って来てな……』

「いやいやいやいや、ちょっと待ってよ。あたしあんたの先生と面識ないのよ?」

 日曜日に初めて挨拶をする予定だったのだから当たり前だ。

『大丈夫。先生そんな気難しい人じゃないし、だいたい先生の方からお前にオファーしたんだし』

「何が大丈夫なのよ! そんないきなり言われても!」

 会う予定だったのは、かつての高瀬のピアノの先生だった人だ。昨年から海外で過ごしていて、この度一時帰国をすることになり、その際に小さな演奏会を開くという。

 よく分からないが、なぜかその演奏会に高瀬経由で矢㮈のバイオリンにオファーが来たのである。

 まさに初顔合わせが日曜日だったというのに、仲介役の彼が同席できないとはどういう了見だろう。

「だいたいあたしどこで会うとかも聞いてないのにどうやって……」

 完全に彼任せだったことはこの際頭の中から消し去る。

『それなんだけど、代わりに姉さんが車を出してくれるって言ってる』

「は?」

 彼の口から飛び出すとは思えない単語が聞こえて矢㮈は驚いた。

「……誰が車を出してくれるって?」

『だから……姉さん、が』

 向こうの歯切れも悪くなる。

(高瀬ってお姉さんとあまり上手く行ってなかったんじゃ……?)

 以前、偶然にもこの姉弟の険悪な――どちらかというと高瀬の方が一方的だった――雰囲気に立ち会ったことがある。その時に、高瀬自身もあまり姉弟仲は良くないと言っていた。

 暫く黙り込んだ高瀬だったが、やがて何かを諦めたように小さく息を吐いた。

『……詳しくは言わないが、まあ前より少しはマシになったんだよ』

 何が、とは言わなかったが、それが彼ら姉弟の関係を示すものだということが分かった。

 矢㮈はそれを聞いて、勝手に少しだけ頬を緩むのを感じた。

 何があったか知らないし、きっと聞いても高瀬は教えてはくれないだろうが、それでも彼らに何か変化があったのなら他人事ながら嬉しい。

 こちらからもそれ以上下手な質問はせずに、「そっか」とだけ答えた。

『――話を戻すが、姉さんが迎えに行って、そのまま同席してくれることになった』

「同席までしてくれるの?」

『先生とは俺より仲良いからな。正直そっちの方が上手くやってくれると思う』

 ここで何とも人任せなことを言ってのける高瀬に、矢㮈は呆れた笑みを浮かべた。

 しかし高瀬と言う仲介役が同席できなくなった今、彼の姉が代わりを務めてくれるのならばありがたい。

(問題は高瀬のお姉さんにも一回しか会ったことないってことだけど)

 前に会った時は彼の姉と知らずに少し話をしただけだ。果たして日曜日も上手く会話をすることができるだろうか。

『じゃあそういうことで。待ち合わせ場所と時間は前に決めた通りで大丈夫だ。姉さんが車で迎えに行く』

 話を切り上げようとする高瀬に、まだ不安が残る矢㮈は「ちょっと待ってよ!」と食い下がる。

『まだ何かあるのか?』

 高瀬の訝しむ声が聞こえる。

「いや、まだ何かあるのかじゃないでしょ。……本当に大丈夫なのよね?」

『先生との面会のことを言ってるなら心配いらない。何度も言うが、先生はざっくばらんな人柄だし、お前なら大丈夫だろ』

「じゃ、じゃあ、お姉さんとは……?」

『……さあ? 別にお前のことをあれこれ言ってはなかったし、わざわざ同席を買って出たくらいだからそこまで心配もいらないと思ってるけど』

 ではその冒頭の「さあ?」は何なのだ。矢㮈は内心でため息を吐いた。

『まあ何かあったら後で連絡しろ。お前が気に入らないようなことがあればこの話自体を断ってもいい。全部俺の責任だ』

「いや……別にそこまでは思わないけどさ。……ああ、もう、分かったわよ、じゃあ日曜日、お姉さんによろしく伝えといて!」

 どちらにしろ高瀬が同席できないことは決定事項なのだし、これ以上何やかやと彼に文句を言ったところで仕方がない。

 矢㮈が半ばやけくそ気味に言うと、電話の向こうで少しの間沈黙が落ち、それからほんの少しだけ申し訳なさそうな声が聞こえてきた。

『……ああ、悪いがよろしく頼む。じゃあな』

 通話が切れたのを確認して、矢㮈は携帯をまた充電器にセットし直した。ついでにマナーモードも解除しておく。

(――ああ、何だか大変なことになってしまった)

 予定そのものは変わらないのだが、高瀬がいないとなると急に緊張と不安の度合いが増す。

(高瀬のお姉さんかあ……)

 前に話した時の記憶を思い出そうとしてもどこかあやふやで、ただ高瀬との関係があまりよくなかったなという印象しかなかった。



二.

 ――そんな経緯で今、高瀬の姉、葵の運転する車に乗っている。

 矢㮈は落ち着かない気分で窓の外から運転席へとチラリと視線を向けた。

 ルームミラー越しに葵と目が合う。彼女はくすりと小さく笑った。

「今日は突然ごめんなさいね。初めての人と会うんだもの、あの仏頂面な弟でも、いないよりはいた方がマシだったわよね」

「あ、いえ、そんなっ……こちらこそ、今日は同席していただけて助かりました……」

 緊張でたどたどしい言葉しか返せない。きちんと敬語を喋れているかも怪しかった。

「也梛も先にこっちの予定があったんだから断っても良かったのに……まあ、断れずに引き受けちゃうのがあの子らしいというか……」

 葵の口振りはどうしようもない弟に「全く仕方ないわよねえ」と言うようなそれだった。高瀬のことを本当によく知っているような。

(やっぱりお姉さんの方はそこまで高瀬のこと悪く思ってたわけじゃないよね)

 以前も感じたことを再び認識する。恐らく、彼女たち姉弟の間にあった蟠りは、弟の高瀬の方が一方的に積もらせていたのだろうと思う。

「あの……こんなこと、あたしが訊くのもどうかと思うんですが……。高瀬と何かありましたか? 仲直り、のような」

 葵はもう一度ちらりとミラー越しに視線を合わせた。

「――ああ、あなたはあの時あそこに居合わせたものね。私と也梛の仲があまり良くないのは知ってたっけ」

 それは昨年の夏の音楽祭の時。矢㮈は演奏後に偶然出会った葵と、まさかその人が高瀬の姉とは知らず話していた。そのすぐ後に突然険しい表情をした高瀬が間に入って来たのだ。

「まあちょっと色々あってね。私の方はそうでもなかったんだけど、也梛の方は結構溜め込んでいたみたい」

 葵はまるで他人のことを話すように淡々と話した。その横顔は、少し高瀬と似ているような気がした。

「でもおかげさまでこの前ようやく回復の兆しが見えたのよ。何と言うか、お互いの思いを認識した、みたいな? だから、今日こうして私があなたの付き添いをすることも許されたんだと思ってる」

 淡々とした表情の中に、少しだけ安堵が浮かんだように見えた。

「あたしは……お姉さんが、高瀬のこと、悪く思っているようには見えませんでした」

 正直な感想を零すと、葵はまた小さく笑った。その笑みはたまに、本当にたまに見せる高瀬のそれと本当によく似ていた。思わず矢㮈の方がドキリとする。

「――ありがとう。私はこれでも小さい時から、あの子の演奏の一番のファンのつもりなのよ。也梛は知らないだろうけどね」

「!」

 ふと、矢㮈の頭の中に思い出したことがあった。

 このセリフを、自分も誰かに言われたことがある。


『姉貴の一番のファンは俺だからな!』


(そうだ)

 思い出したのは、弟の弓響(ゆき)のことだった。

 姉の一番のファンだと言った記憶の中の弓響と、弟の一番のファンだと言った目の前の葵が重なる。

 矢㮈は少しこそばゆい気持ちになりながら、微笑まずにはいられなかった。

(高瀬にはすでに最強のファンがいたんだ)

 そんなことを思っている間にも、車はスムーズに道路を流れるように走って行った。



三.

 辿り着いたのは白い外壁の、どこにでもあるようなコンクリートの二階建ての建物だった。

「ここ、昔私と也梛が通ってたピアノ教室」

 葵の後に続いて磨りガラスの入った扉を通り抜ける。

 小さなホールのような場所に、受付らしきカウンターがあり、そこにいた一人の女性が気付いたように片手を挙げた。

「あら、葵ちゃん」

「こんにちは。渥美(あつみ)先生と約束があって来たんですけど、先生は」

「ああ、渥美先生はまだ生徒さんと……少し待っていてくれる?」

「はい」

 葵に促されて、矢㮈はホールの隅に置いてあるソファーに腰掛けた。受付カウンターの右手に二階へと続く階段が、左手に奥に続く廊下があり、扉が並んでいるのがちらと見ええた。恐らくレッスンの教室だろう。どこからか、微かに楽器の音が聞こえて来た。

 矢㮈が物珍し気に周りを見回しているのに気付いた葵が小首を傾げた。

「どうしたの?」

「いえ、あたしが通っているバイオリンの教室は先生の個人宅なので、こういう音楽教室って初めてで」

「そうなの? ここはピアノ、エレクトーン、ギター、バイオリンを中心に先生が集まってるわね。一時、トランペットやフルートの先生もいたのを見たけど」

 矢㮈の場合は普段のレッスンがずっと一人だったので、演奏会やコンクールに参加して初めて同年代の奏者たちの存在を意識したのを覚えている。

 ギイと奥の扉が開く音が聞こえて、すぐ後に高い子どもの声と軽やかな足音が響いた。

「今日のレッスン終わりー!」

「何して遊ぶー?」

 小学校低学年くらいの女の子二人が弾む足取りで受付の女性に手を振って出て行く。

 矢㮈が思わず頬を緩めて見ていると、隣で葵も目を細めていた。

「懐かしいなあ。私もレッスンが終わるなりすぐ遊びに行く派だったわー」

「あたしも覚えがあります。片づけを適当にしたらおばあちゃんに怒られました」

 今でも気を抜くと注意が飛んでくる。矢㮈は心の中で苦笑した。

「也梛は家に帰るなりさらにキーボード弾いてたけどね。小さい頃はホントにずっと鍵盤触ってた感じ。いや、今もそうか」

 何とも高瀬らしい。

 暫くして、階段の上から話し声が聞こえてきた。だんだんとその声は下りて来て、受付の前に二人の女性が現れた。

「先生、それ本気で言ってます?」

 一人は、矢㮈と年頃の変わらない女の子だった。背中に流れるストレートの髪は黒く艶やかで、女子にしてはスラリと長身だ。さらに手も足も長い。

(あれ……? どこかで)

 矢㮈の記憶が微かに刺激されるがすぐには思い出せない。

「本気よ。毎年コンクール常連のあなたにしては珍しく壁にぶち当たってるわねえ」

 もう一人は中年だろうが見かけがキリリと若々しいショートカットの女性だった。こちらもスラリと背が高い。

 まるでモデルのような二人に受付の女性が声をかけ、そして同時にこちらを向いた。

 黒髪の女の子はちらりと矢㮈たちの方に視線を向けたが、やがて一緒にいた女性に会釈をして一人外に出て行ってしまった。

 中年の女性が嬉しそうな笑みを浮かべて矢㮈たちの前に歩いて来た。

「お待たせしてごめんなさい」

 葵とほとんど同時に立ち上がった矢㮈は、改めて目の前の女性を見上げた。――顔が小さい。

「先生。今日は也梛の代わりに私が来ました。こちら、笠木矢㮈さんです」

 早速葵に紹介された矢㮈ははっと我に返り、勢いよく頭を下げた。

「笠木矢㮈です。この度はとても貴重なお話をいただき――」

「ふふ。そんなにかしこまらないで。むしろこちらこそ、わざわざ来てくれたことに感謝してるわ」

 頭を上げてと言われてゆっくり上げると、顔いっぱいに笑みを浮かべた女性がいた。

「初めまして。葵ちゃんと也梛君の先生をしていた渥美和香(あつみ わか)です。今日は本当にありがとう。お待たせしてしまってごめんなさいね」

 渥美は確かに也梛が言っていたようにざっくばらんな雰囲気があった。

「ねえ先生、さっきの子って去年也梛と先生のピアノと共演してたバイオリンの子?」

 葵の言葉に矢㮈は弾かれたように彼女を見た。

(そういえば……)

「そう。村住華南(むらずみ かなん)さん。今年も声はかけているんだけど、ちょっと調子が芳しくないみたいで……コンクールも控えてるから微妙かも」

 矢㮈の記憶に二つの光景が閃く。

 昨年の夏、也梛と渥美のピアノと共演していたバイオリンの少女の姿。

 同じく昨年の秋、音楽コンクールの予選会場で見た、優雅にバイオリンを弾く少女の姿。

 名前はきちんと認識していなかったのだが、間違いない。

(あの人だ)

 矢㮈の胸の奥が少し震える。嬉しいようなどこか不安になるような複雑な気持ちとともに、妙にそわそわとした感覚が全身を巡る。

「ん? どうかした?」

 矢㮈の顔を覗き込んで葵が尋ねる。変な顔でもしていただろうか。自分はすぐに表情に出ると高瀬によく馬鹿にされるのだ。

「あの人、去年コンクールで見て……」

「ああそっか。笠木さんも出たんだね。あの子はもうコンクールの常連みたいよ」

「ええ。華南さんの技術はあの年代では目を見張るものがあってすごいのよ。ただ、今はちょっと壁にぶち当たってるみたいだけど」

 コンクールの時に、すでに彼女の巧みな腕前は見知っていた。ブランクを経た矢㮈にはとても敵わない音と演奏だった。

(あの人でも壁にぶち当たるんだ……どんな壁なんだろう?)

 矢㮈のずっと前を歩いているだろう彼女がどんな壁と向き合っているのか。それは今の矢㮈には分かり得ないことかもしれない。

 でも、少し気になる。

 そのまま村住華南のことに思いを巡らせていた矢㮈だったが、

「さて、こんな所で立ち話もなんだから、部屋に移動しましょう。こちらへどうぞ」

 渥美の声に再度我に返り、葵と共に彼女の後に続いた。



四.

 バイトが終わると、也梛(やなぎ)はいつも以上に早く帰り支度を整えて職場を後にした。すっかり夕方になり、陽も傾いてしまっている。

 携帯を取り出し、画面を操作する。特に着信もメールも入っていない。

(あいつ結局どうだったんだ)

 もうとっくに今日の顔合わせは終了しているはずだが、無事に終了したという連絡も何もない。矢㮈本人からどころか、同行したはずの姉の葵からもだ。

 仕方なく、番号を呼び出して電話をかけてみた。

 コール音が聞こえて暫く待ってみるが、応答はない。一度切ってかけ直してみたが同じだった。どうやらマナーモードにしているらしい。――昨夜のように。

 舌打ちして、再度仕方がないとばかりに今度は姉の携帯にかける。

『……はい』

 こちらはコール二回程で出た。

「俺だけど。……姉さん?」

『ああ、也梛。どうしたの?』

 電話の向こうからは呑気な声が聞こえた。

「どうしたのって……顔合わせは無事にすんだのか?」

 呆れながら訊くと、

『ああ、楽勝よ。先生も喜んでらしたわ。矢㮈ちゃんも初めは緊張してたみたいだけど、徐々に馴染んで最終的に快諾してたわよ』

 予想通りの展開に内心小さく息を吐く。

「そうか。上手くいったんなら良かった。今日はありが――」

 急に都合が悪くなった自分の代わりを務めてくれた姉に礼を言いかけた時だった。

『也梛、もうバイト終わったのよね? 今からうちに来れる?』

「は?」

『先生の所で思いの外盛り上がっちゃって、少し時間が遅くなったのよ。もううちで晩ご飯食べてったら? って矢㮈ちゃんを招待して今母さんが腕によりをかけて料理してる』

「……」

 一体どういう状況だ。この展開は予想していなかった。もうとっくに矢㮈は姉の車で家に送り届けられたと思っていた。

『ついでに言うと、若葉(わかは)も帰って来てて、矢㮈ちゃんに相手をしてもらってる』

 也梛は携帯を握り締めたまま固まっていた。まさか妹まで絡んでいるとは。

(ていうか)

 葵が自然に矢㮈のことをちゃん付けで呼んでいることに驚く。今日一日で馴染み過ぎだろう。一体何があったんだ。

「……ご飯食べたら姉さんが送って行ってくれるんだろ?」

 正直、母と妹と姉、そしてそこに矢㮈がいる家に帰るのは遠慮したいところだ。

『それはもちろんだけど。……まあ、あんたが気にならないなら良いわよ』

 葵はどこか含むように言う。

「は?」

『母さんも若葉も矢㮈ちゃんに質問攻めだもの。特にあんたの学校生活のこととかね』

「……」

 それはさらに帰りたくない。だが、このまま聞かなかったことにして寮に戻って耐えられるかといえばそれも難しい。

「――帰る」

 息を吐くように、漏らす。

 電話の向こう側で小さく笑う声が聞こえた。

『寮への連絡は大丈夫なの?』

「俺は普段の素行が良いからな」

 姉に適当なことを返しながら、寮への言い訳を考え始める。

『そ。まあ遅くならないうちにあんたも矢㮈ちゃんも送り届けるから安心なさいな』

 葵との通話を終え、也梛は寮の管理人に電話をかけながら駅の方に足を方向転換する。気分は決して軽やかとは言えない。

(諷杝にも連絡を入れとかないと)

 ルームメイトのことを思い出して、ついでにあいつも誘おうかと考える。彼が一緒なら少しは心強い、かもしれない。

 そこで、ある事実に思い至った。

(――いや、ちょっと待て。あいつは今日……)

 そういえば今日は珍しくバイトでもないのに彼も出掛けていなかったか。どこに行くのか聞いたら曖昧に知り合いの所だと答え、帰りは也梛より少し遅くなるかもしれないと言っていた。

 今さらながら、彼は一体どこに出掛けたのだろうと考える。

 だが考えたところで、諷杝の交友関係そのものをよく把握していない也梛には分かるはずもない。

(そういえばあいつ最近どっか元気ないような気もするけど……)

 別に特別落ち込んでいるふうでもないのだが、たまにふと寂しそうな表情を覗かせることがあった。――すぐに微笑みで誤魔化すせいで分かり辛いのだが。

 一応彼に電話をかけてみたが、やはり繋がらなかった。

 也梛は溜め息を吐いて携帯を鞄にしまい、券売機で実家の最寄り駅の切符を買った。



五.

 気付いた時には葵の運転する黒のセダンで実家の洋菓子店の前まで送ってもらっていた。

「矢㮈ちゃん、今日は本当にありがとう。遅くまで付き合わせてごめんね」

 助手席の窓を開け、運転席の方から身を乗り出して葵が言う。

 そんな姉を迷惑そうにしながら、助手席に座った高瀬が仏頂面で矢㮈を見た。

「……本当迷惑かけたな」

 こんなにしおらしい彼を始めて見たような気がするが、それより何より、高瀬の様子から彼の疲労感が一番大きいように思う。

 渥美と別れた後、中途半端な時間になってしまったと葵に夕飯に誘われ、高瀬家にお邪魔する流れになってしまった。高瀬家では彼女たちの母親に、末の妹の若葉が待っていて、矢㮈は質問攻めという大層なもてなしを受けた。――そのほとんどが高瀬の学校生活についてだったのだけど。

 それにしても、今日はほぼ初対面の人ばかり相手に大いに喋った日だった。

 なぜか高瀬が現れた時には、やっと普段から馴染みのある顔に出会って不覚にもほっとしてしまった。そんな矢㮈を見て彼は思い切り眉間に皺を寄せていたが。

「こちらこそ、お世話になりました。ご馳走様でした」

 ぺこりとお辞儀をすると、葵が軽く手を振ってハンドルを握った。

「また遊びに来てね。演奏会も楽しみにしているわ」

 並んだ姉弟の顔を見て、やはり似ているなと頭の隅で思う。

 高瀬が「また明日な」と疲れた顔で言った。

 彼からそんな挨拶の言葉が出て来たことに多少驚きながら――それだけ疲れていたのだろうか――矢㮈も片手を挙げた。

「うん、また明日」

 小さくなって闇に紛れていくセダンを見送り、矢㮈は自分の家の玄関に足を向けた。

「姉貴、お帰り!」

 靴を脱いでいると弟の弓響がトタトタとやってきた。野球部で引き締まった体のくせに動きが身軽で体重を感じさせない歩き方をするのがいつも不思議だ。

「演奏会どうなったの?」

「やるよ。今日は一緒に演奏する人と顔合わせしてきたの」

「高瀬さんと海中さんは一緒じゃないの?」

「うん、今回はね。高瀬のピアノの先生が声をかけてくれたんだ」

「へーえ?」

 弓響は軽く小首を傾げつつも、姉がバイオリンを弾くならそれで良いと言うように笑った。

 矢㮈はちらと持っていたバイオリンケースに目を遣った。

中に入っているバイオリンは矢㮈のものだが、彼女がずっとバイオリンに触れられないでいた時、これを手入れしてくれていたのは弓響だったのを思い出した。

彼はただ、姉がもう一度バイオリンを弾くのを待っていた。

 矢㮈がもう無理かもしれないと半ば諦めかけていたにも関わらず、彼だけはずっと待ってくれていた。

 バイオリンの手入れをしながら、ずっと。

(ああ、今日葵さんの話を聞いたからかな)

 葵が弟の高瀬に抱えた思いを聞いて、矢㮈も思い出してしまったからかもしれない。

 矢㮈は少し照れ臭い気持ちになりながら、すでに自分より少し背の高くなった弟を見上げた。

「弓響」

「何?」

「……バイオリン、ずっと手入れしてくれていてありがとう」

「は? 何なの、急に」

 弓響は突然訳の分からないことを言い始めた姉に面食らった表情をする。

「あたしが今バイオリンを弾けるのは、弓響のおかげもあるんだなって思ったから」

 再び弾きたいと思ったきっかけは諷杝と高瀬だったかもしれない。でも、その準備をして待っていてくれたのは弓響だ。

 そして今も、彼は矢㮈の演奏をいつでも楽しみにしてくれている。

 弓響はまだ不思議そうに首を傾けながら姉を見つめていたが、やがて考えるのを諦めたのかふっと頬を緩ませた。

「よく分からないけど、オレは姉貴の一番のファンだからな。演奏を聴けなくなったら困る」

 その言葉に、矢㮈の頬も自然と綻んだ。


 きっともう二度と、そう簡単に自分からバイオリンを諦めて手放すようなことはしないと思った。




お久しぶりです。今回は高瀬家の面々と矢㮈のお話になってしまいました。とりあえず高瀬姉弟の仲は修復が進んでいるのかなという感じです。

ゆっくりと各々のイベントがスタートしていってますが、そろそろ本題もなんとかしないとですね。

少しでも楽しんでいただける部分がありましたら幸いです。

(2020.10.08)

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