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  作者: 葵月詞菜


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46/98

願いと期待と憧れと

【主な登場人物紹介】

・笠木 矢㮈(かさぎ やな)…彩楸学園高校新2年生。バイオリンを弾く。

高瀬たかせ 也梛やなぎ…同高校新2年生。キーボードを弾く。

海中わたなか 諷杝ふうり…同高校新3年生。ギターを弾く。父親の残した楽譜を探している。

【その他】

並早なみはや…英語教諭。諷杝のクラスの担任。

・イツキ…諷杝に懐いている白い鳩。

一.

 笠木矢㮈(かさぎ やな)が通う彩楸学園高校の近くに、音楽好きの店主が営む喫茶『音響(おとひびき)』がある。と言っても喫茶店になったのはマスターの趣味が高じた結果で、彼の本職は弦楽器などの調律師だった。矢㮈の祖父母とは旧知の仲で、昔から祖父共々バイオリンの調律でお世話になっている。

 矢㮈はその日の放課後、定期メンテナンスのために預けていたバイオリンを受け取りに、『音響』に向かった。

「こんにちは」

「ああ、矢㮈ちゃん。こんにちは」

 カウンターの中で作業をしていたマスターがにこやかな笑みを向ける。もうすぐ初老に入ろうかという少しメタボ気味の男性だ。

 おやつタイムを過ぎた夕方の店内には他に客の姿は見えなかった。

「バイオリンを取りに来ました」

「うん、準備してあるよ。急ぎかな?」

「ううん、急ぎではないです」

「じゃあ珈琲でもどうぞ。お得意様へのサービスです」

「わあ、ありがとうございます!」

 マスターの淹れてくれる珈琲は美味しい。普段は砂糖とミルクが必須でむしろカフェオレを選ぶ矢㮈が、唯一ブラックで飲める貴重な珈琲である。店内を流れる心地よいジャズに耳を澄ませながら珈琲を待つことにした。

 マスターは丁寧に珈琲を淹れて矢㮈の前に出すと、自分は奥の作業室に入って行った。矢㮈のバイオリンを取りに行ってくれたのだろう。

 矢㮈は珈琲を飲みながらほっこりとした気持ちで店内を見回した。

 店内には小さなステージが設けられていて、たまにここで演奏会が開かれたりする。矢㮈も何度かこのステージに立たせてもらった。

 壁には音楽関係のポスターが貼ってあって、とある演奏家のサインが入った古いものや、最近のイベントのものなどが入り混じって並んでいた。

 さらに壁のあちこちに取り付けられた小棚には、色形様々なものが並んでいる。この店にはマスターの世界中の音楽仲間が集い、各々が持って来た世界中の土産が集結するのだ。

 その中で矢㮈が特に気に入っている棚は、オルゴールとフラワリウムが並んだ華やかな一角だった。幼い頃、あれやこれやと手にとってはネジを巻いて、オルゴールの澄んだ音色を楽しんだ。オルゴールによっては繊細な細工を施した鍵付きの小物入れと一体になったものもあり、見ているだけでも楽しい。

(ここに来る度にあの棚の前から動かなかったんだよなあ)

 思い出すと懐かしい気持ちになる。熱い珈琲に息をふうと吹きかけてまた一口啜った。

「はい、お待たせ」

 マスターが矢㮈のバイオリンケースを手に戻って来た。

 受け取って中身を確認する。消耗していた弦が新しく張り替えられていた。

「マスター、少し弾いてみても良い?」

「良いよ」

 矢㮈の頼みにマスターは快諾し、小さな舞台の方を親指で示した。

「折角だからどうだい?」

「ええー」

 ちょっと困ったふうに返しながらも、他に客がいないことを幸いに矢㮈は舞台へと足を向けた。

 自分の中でお約束となっているかのように舞台上で一礼し、現在の練習曲を奏で始める。頭の中の譜を追うというよりは、手が覚えていた。

 交換したばかりの新しい弦が震えて音が弾き出される。

 一年前にここで演奏した時とは違い、ずっと腕がスムーズに動いているのが分かる。

(ああ、楽しい)

 家や学校の屋上での練習と違って、舞台に立って弾いているせいもあるだろうか。

 矢㮈は夢中で弓を動かし、自分の奏でるバイオリンに耳を澄ませた。もっと出したい音がある。もっと響かせたい音がある。自分が理想とする音に少しでも近づきたい。

 気付けば続けて三曲ほどぶっ通し、矢㮈はようやく腕を下ろした。

 はあと息を吐いたところで、パチパチと拍手の音が聞こえた。

「?」

 とてもマスター一人分のものとは思えず顔を上げると、

「力入ってたねえ」

「鬼のように弾いてたな」

 いつの間に来たのやら、同じ学校の海中諷杝(わたなか ふうり)高瀬也梛(たかせ やなぎ)がカウンター席のスツールに腰掛けて舞台の方を見ていた。

「諷杝に高瀬!?」

 全く気付かなかった。入り口の扉には鈴がついていて、開けば音がするはずなのに。

 そういえば店内にかかっていたジャズの音楽も聞こえなくなっている。恐らくマスターが矢㮈の邪魔にならないように消してくれたのだろう。

「あはは。懐かしいなあ。昔、おじいさんと一緒に夢中になって弾いてた君を思い出すよ」

 マスターが楽しそうに笑って、矢㮈に二杯目のカフェオレを淹れてくれた。

「おじいちゃんはあまりうるさく言う人じゃなかったから……とにかく真似て弾くしかなかったんです」

 祖父亡き今は祖母がバイオリンの先生役だ。バイオリンを再開し、コンクールにも挑戦するようになってからは、祖母の伝手で他の教室にも通うようになった。

「またコンクールに出るつもりなんだって?」

「はい。色々挑戦してみようかなって」

 矢㮈の答えにマスターはどこか安心したように微笑んだ。

「そうかそうか。おじいさんもきっと喜んでいるね」

「ちゃんとおじいちゃんに報告できるくらいの結果を出すのが目標です」

 中学の頃はそれが叶わなかった。あまつさえ、バイオリンからも遠ざかってしまったのだ。

「おじいさんは君が楽しく弾き続けてくれたらそれだけで嬉しいだろうけどね。しかし私も楽しみだな」

 矢㮈がバイオリンを弾かなくなり、この『音響』にも近付かなくなって、マスターにも大きな心配をかけていたのは知っている。旧友の孫のことをずっと気にかけてくれていた。だから、矢㮈が再びバイオリンに手を伸ばした時、この店の舞台で弾くことを快く承諾してくれたのだ。

 そしてあの時ここで演奏できたから、今、諷杝と高瀬と共に音楽を奏でられている。

「ところでコンクールはいつなの?」

 猫舌の諷杝が珈琲の湯気をふうふうと吹いて冷ましている。

「まだ少し先かな。その前に練習も兼ねて小さな大会や演奏会にも出たいなと思ってて」

 祖母と教室の先生がいくつか候補を出してくれている。スケジュールを調整して決めるつもりだった。

「そっか。矢㮈ちゃんはステップアップするために頑張ってるんだね」

 しみじみと言う諷杝は優し気な表情で目を細めた。見てるこちらがとても安心できるような、見守ってくれるような目だった。

(……頑張ろう)

 自然に、そう思えた。

 矢㮈が静かに心の中で意欲を燃やしている傍ら、

「僕も……」

 諷杝がそっと何かを言いかけたが、すぐに「何でもない」と首を横に振った。

「諷杝?」

 どうしたのかと視線で問い掛けてみるが、彼はそれ以上何も言わなかった。ただ、どこか困ったように眉を下げていたのが気になった。

「なあ」

 ずっと黙っていた高瀬が、珈琲カップを置いて何げなく声を発した。前を向いたままだったので、それがまさか矢㮈に向けられたものだとは思わなかった。

 高瀬がこちらに顔を向けたところで、

「え、あたし?」

 間抜けに返してしまった。高瀬の眉が少し寄る。

「……俺のピアノの先生だった人が今度日本に帰って来て演奏会開くらしいんだけど、お前、興味あるか?」

「え?」

 いきなりの内容すぎて理解が追い付かない。

「先生の姿はお前らも去年見たことあると思うけど」

「ああ、あの也梛のピアノを御所望した先生か」

 諷杝が思い出したように頷いた。矢㮈も記憶を遡り、昨年の夏の出来事を思い出す。そういえば、高瀬が家の都合でピアノ演奏会に出演したのだった。その時に彼と演奏していた女性だ。

 矢㮈と諷杝は高瀬のピアノ聴きたさにわざわざ会場に潜り込んでいたので知っている。

 確か彼の先生はその後海外に行ったと聞いていたが、どうやら一時帰国するらしい。

「興味があるかないか以前に何であたしにその演奏会の話を振ったの?」

 高瀬がどういう意図でこの話を持って来たのかが分からない。

「俺も寝耳に水だったんだよ。先生がお前のこと覚えてたなんて」

「は? あんたの先生とあたしには何の面識もないはずだけど……?」

 全く以て意味不明だった。彼と鏡写しのように矢㮈の眉間にも皺が寄るのが分かった。

「先生はあの夏の音楽祭も見に来てたんだよ。だからそれでお前のことを知ったんだろう」

「ああ、それで……」

 先方が矢㮈のことを知っていたことは理解できた。だが問題はまだ解決していない。なぜそれで矢㮈に演奏会の話が来るのか。

「俺も詳しくはまだ聞いてない。だけど先生から直接、お前に演奏会のオファーをかけたいって連絡が来たんだ」

「……まさかピアノで?」

「アホか。バイオリンに決まってるだろ」

 冗談のつもりで言ったのに一蹴された。

 高瀬は溜め息を吐いてどこか投げやりに続けた。

「先生の手前さすがに断り切れなくて、とりあえずお前に話をしておくって言っちまったんだ」

 なるほど。経緯は何となく分かった。

「高瀬はまたピアノを弾くの?」

「いや、俺は弾かない」

「え?」

「この話はお前へのオファーだ」

「わあ~」

 諷杝がわくわくした顔をしているのが解せない。やっと口をつけられるくらいの温度になったのか、ちびちびと珈琲を啜っている。

「別に無理に引き受けなくても良い。ただ、お前に興味があったらの話だ。コンクールの練習やその他に影響するならやめておけ。いや、絶対にやめろ」

 高瀬は自分から話を吹っ掛けてきたにも関わらず、釘を刺すのも忘れない。こういうところは全く彼らしい。

 矢㮈は少し考えて、尋ねた。

「それ、少し考える時間もらってもいい?」

「ああ、もちろんだ。演奏会自体は七月の頭くらいだから五月中に返事もらえれば良い」

 と言っても五月はあと一週間程しかないのだが。

「矢㮈ちゃんが出るならまた聴きに行かなきゃだね」

 諷杝が珈琲を美味しそうに飲みながらほっこりと息を吐いた。



二.

「諷杝、ちょっとコレ持ってて。今鍵開けるから」

 友人の手からいくつかのファイルを手渡され、海中諷杝は彼が鍵を開けるのを見ていた。

 この光景には覚えがあった。――いわゆるデジャヴというやつだ。

 鍵を開けて教室の扉を開けた同じクラスの佐々木は、溜め息を吐いて言った。

「まあお互いクジ運がなかったってことで諦めよーや。……今年も」

 今年も――そう、諷杝たちは一昨年と同様の事態に陥っているのだ。

 これ即ち、クラスの水無月祭担当係である。

 水無月祭は年々、やる気のあるクラスと面倒になっていくクラスとに分かれていく。諷杝たちのクラスは後者で、担当係を進んで務める者はなく、当然のようにくじで決めることになった。

 結果、何の因果か昨年に引き続き、諷杝と佐々木が当たり――むしろハズレというべきか――を引き当ててしまったのである。

「ねえ佐々木君。こんなやり取り、前もしなかったっけ?」

「したような気がするな。前も全然テーマが決まらなくて最後の頼みとばかりにここに来たんだった」

 諷杝のクラスメイトたちはすでに一年の時に凝り過ぎた挙げ句燃え尽き、二年で早テーマ決めさえままならないくらいテキトーになっていた。今年は受験生だということも輪をかけてさらにテキトーになっている状態だった。

「もういっそのことうちのクラス不参加でいいんじゃない?」

「言ってやるな、諷杝。並早先生が悲しむぞ」

 並早は今年諷杝たちのクラスの担任を受け持っている英語教諭である。昨年赴任して来て二年目だが、前の学校での経験もあって三年の担当になったらしいと聞いている。

 並早は元々彩楸学園の出身なので、当時から続いている水無月祭といった行事は懐かしくもあるのだろう。たまに昔の思い出話をしてくれることがあった。

(そういえば灯の樹のことを教えてくれたのも並早先生だったな)

 正確には諷杝でなく也梛が並早から聞いたのだが、そのおかげで『ヒノキ』の謎が解けたのだ。

「あー、もうどうするよー、今年のテーマ~」

 佐々木が頭を抱えながら棚に並べられたファイルを遠い目で見ている。

(そうそう、この昔のファイルに父さんの書いた記録が残ってたんだっけ)

 あれは本当に偶然だった。テーマの参考にならないかと手当たり次第に過去のテーマを探していたら見つけたのだ。どうやら二十年以上も前に諷杝の父親もまた水無月祭担当係を務めたようだった。

 父親の記録は水無月祭の感想が主だったが、同じ年の他の担当の記録を見ると、父親が活動していた音楽グループ『ZIST』のライブについても触れられていた。

 当時、『ZIST』はとても人気を博していたらしい。男女四人のグループで、一応軽音楽部に所属していたようだ。だが卒業までに、メンバーの一人が事故で亡くなったことをきっかけに解散している。

 諷杝は何となく昨年と同じ様にファイルをパラパラと捲ってみた。父親の報告書にも目を通してみるが、記憶に違う新たな発見はない。

(もう『ヒノキ』からは情報を得られない、か)

「おい諷杝、お前ボーっとしてないでテーマ探せよ」

 いつの間にかテーマ探しのことは横に置いて父親と楽譜のことに思いを巡らせていた諷杝とは違い、佐々木は黙々とファイルに目を通していた。

「もうテーマなんて毎年どっかが同じようなやつぐるぐる回すだけなんだしさー、いっそのこと固定してくれたらいいのにな」

 とうとう身も蓋もない事を言い出す。だが諷杝もその意見には頷きそうになった。

 友人はついに手元にあったファイルを勢いよく閉じた。

「そうだ。去年は日本昔話だったけど、全部網羅したわけじゃないし、日本昔話パート2とかどうだ。それも超マイナーバージョン」

「何それ?」

「例えば、……『かさじぞう』とか『三枚のお札』とか」

「わあ、またチョイスが絶妙だね」

 諷杝は思わず頬を緩ませた。自分にはなかった友人の発想に少し感心する。

「もうオレ考えるのも探すのも面倒くさい」

 遠慮なくぶっちゃけた佐々木に、諷杝は笑った。

「そうだね、いいんじゃないかなそれで」

「テキトーだな、お前も」

「いやあ、そもそもくじ引きになった時点でみんなのやる気なんて知れてるでしょ。反対する人がいたらその人に代替案を出してもらえばいいよ」

「そりゃそうだ」

 佐々木はそれで腹が決まったらしい。「よし」と頷いてファイルを棚に戻した。

「ちなみに諷杝はどんな仮装やりたい?」

「目立たないやつ。あと重くて暑苦しいのは嫌だな」

 そういえば去年、後輩になるルームメイトは狼の着ぐるみを着て暑そうだったなと思い出す。そしてもう一人、かわいらしいマッチ売りの少女に扮した後輩も思い出した。

(懐かしいなあ)

 諷杝自身は『桃太郎』のキジに扮していたのだが、それよりもまず彼らのことが印象に残っている。二人は今年はどんな仮装をするのだろう。

 少し考えこむようにして、佐々木が顔を上げた。

「『かさじぞう』のお地蔵様とかどうよ?」

「動かなくていいならいいけど。でも僕がお地蔵様かあ」

 何かバチが当たりそうだよね、と諷杝は小さく笑った。



 昼休み、諷杝は一本の大きな樹の下に立っていた。

 どこからか羽音が聞こえて、すぐ側に一羽の白い鳩が着地する。

 白い鳩は首を傾げるようにこちらを見上げるので、諷杝は思わず微笑んだ。

「イツキさんもやっぱり気になる?」

 先日、この朴の樹の下で二限分丸々眠りこけてしまった。それで担任の並早には心配をかけ、さらに也梛からは大目玉をくらってしまった。

 広がった枝葉が夏の日差しを遮り、樹の下に大きな陰を作っている。時折爽やかな風が吹き抜けて、一度でも横になったらすぐに微睡に誘われるだろう。

 だから今、こうして腰を下ろすこともなく立って樹を見上げていた。


『まだまだ君の人生はこれからだから。出逢いはきっとあるはずだけどね』


 ふと、透けた彼が言った言葉が耳の奥に蘇ってきた。

 この学園に来て一人だった諷杝に、初めてできた友人とも言える人。――正確に言うと、父親の友人だった人、なのだが。

 彼は最後まで、諷杝にもきっと心を許せる大切な友人ができるから諦めるなと言っていた。

「そしたら次の春、也梛と矢㮈ちゃんが入学してきたんだよねえ」

 今から思い出しても不思議な心持ちがする。

 そして結果論だが、彼ら二人がこの学園に来て、諷杝といることになったのもまた不思議な縁を感じる。

「さすがにあの二人が来るなんて、父さんも(いつき)さんも考えてなかっただろうなあ」

 きっと、元『ZIST』のメンバーの誰もが予想もしなかったことだろう。特に也梛など、元は別の特進高校に通っていたのをわざわざ彩楸学園に再入学している。普通なら考えられないことだ。

 涼やかな風が焦げ茶の髪を吹き上げる。

 諷杝は樹の幹の付近をぴょこぴょこと駆け回る白い鳩を見つめた。

「ねえイツキさん、君はまだ何かヒントをくれるのかな?」

 諷杝の言葉が聞こえているのかいないのか、白い鳩はすまし顔で跳ね回っている。諷杝は溜め息を吐いた。

「――やっぱり君はただの鳩だよなあ」

 その溜め息を聞き咎めたように、イツキがくるりとこちらを向く。しかしすぐにまた興味を失くしたように草の間に嘴を突っ込んだ。

 諷杝は再び朴の樹に目を向ける。その樹は諷杝が入学した頃から変わらない。一年の時に比べるとここに来る頻度は減ってしまったけれど、相変わらず諷杝にとっては特別な場所だった。

(いつき)さん、僕はあなたの話をどうあの二人に伝えたらいいんだろう?」

 きっとあの二人は、諷杝の荒唐無稽な話も真摯に聞いてくれるに違いない。でも、伝え方を間違えたくはない。

 諷杝にとって、大切な存在だった人のことだから。

 いつの間にかイツキがこちらに飛んで来て、当たり前のように諷杝の頭の上に止まった。



三.

 その週末、也梛(やなぎ)は春休み以来の帰省をしていた。結局五月の大型連休は、バイト三昧を理由に帰らなかったのだ。

 主な理由といえば、矢㮈の返事を先生に伝えるためだった。もっと吟味するのかと思いきや、案外早くに彼女は演奏会参加の答えを返して来た。逆に也梛の方が、大丈夫かと訝しんだくらいだ。

 一時的に日本に戻って来ているらしい先生は、友人である母親と偶然にも夕食の約束をしていたようで、それなら也梛も同席してはと持ちかけられたのだ。父親が不在なことと、場所が実家だということで了承したのである。

 也梛が丁度おやつの時間あたりに家に到着すると、母親は台所で慌ただしく動き回っていた。匂いだけで、相当手の込んだ用意をしているのが窺えた。

「ただいま」

「お帰りなさい、也梛」

 母親は手を止めて振り返り、嬉しそうに微笑んだ。そして冷蔵庫から小さなカップを取り出した。

「丁度良かった。ゼリー作ったんだけど味見してくれる?」

「ああ」

 家の中には也梛と母親しかいない。調理器具が音を立てる以外は静かだった。

 さっそく母親手作りのフルーツコーヒーゼリーにスプーンを入れると、中に閉じ込められていたフルーツが顔を覗かせた。コーヒーの苦みの中に、酸味と甘さを感じてたまらない。

 ゆっくりスプーンを口に運び、幸せな気持ちに浸った。

 ふと、視界の端にカレンダーを捉えた。もうすぐ五月も終わり、あと数日もすれば六月に入る。何だかんだで学園行事の水無月祭ももうすぐだ。

「今日、若葉(わかは)は?」

「金曜日から遠征で、帰りは月曜になるみたい」

「へえ。忙しいな」

 妹は幼い頃からフィギュアスケートの選手で、高校もそのスポーツ推薦枠で入学している。正直に言って、恐らく也梛以上に忙しい生活を送っている。

「お父さんも出張中なのよね」

「へえ」

 父親のことはどうでもいいのでスルーする。興味を示さない息子に母親は少しだけ困った顔をした。

「あ、でも(あおい)はもしかしたら今日帰ってくるかも。タイミングが合えば先生のお迎えに行ってもらおうかと思ってるのよ」

「……へえ」

 也梛はあからさまに眉を寄せた。父親に会わずに済むと思った矢先、姉とは顔を合わせる確率が上がったからだ。

 現在大学生の姉は、バイト代わりとでもいうように少しずつ父親の会社の手伝いをするようになった。そのまま就職するのかは知らないが、将来跡を継ぐことは十分に考えられた。

 也梛はそこで手が止まっていたことに気付き、珈琲ゼリーの残りを吟味するように味わった。

 先生が来るまでまだ暫く時間がある。也梛はすることもないので――台所で手伝いを申し出たが母親ににこやかに断られた――部屋でキーボードでも弾いていようかと考えた。

 二階に上がって、自室へ行く手前で足が止まる。何の気まぐれか、也梛はその部屋のドアノブを回した。

 六畳の洋室で、壁際にアップライトピアノ、オーディオ機器、楽譜などが詰め込まれた棚、そして観葉植物が置かれている。

 昔、ピアノを習っていた頃の練習部屋だ。

 也梛はホコリ除けのカバーを捲り、黒く光る蓋を上げた。規則正しく白と黒の鍵盤が並んでいた。

 今でも姉がたまに弾いているようで、手入れもしっかり行き届いている。

「姉さんだってまだ弾くのをやめられないくせに……」

 心の中の声が自然と漏れる。口に出してから也梛は後悔した。

 何となく自分を誤魔化すように、椅子に座って鍵盤の上に指を置いた。

 何を弾こうと考えるまでもなく、自然に指が動く。昔よく練習に弾いていた曲を立て続けに奏でる。

 無心で弾いていたせいか、ドアが開いたのも気付かなかったようだ。

「相変わらず見事ねえ」

「!」

 音が途切れた瞬間に滑り込んできた声にはっとする。振り返ると、帰って来た所だろう姉の葵が鞄を肩にかけたまま立っていた。

(何で……)

 也梛は驚きの中で少し不思議に思った。いつもなら、也梛が姉を避けているのを向こうも感じているのかなるべく干渉してこないのに、今日に限ってわざわざ声をかけてくるとはどういう了見なのか。

 也梛は不覚にも言葉を失って呆然としていた。姉は小さく笑い、

「ねえ、次あれ弾いてよ、昔一緒に作ったやつ」

と冗談めかして言った。

「……あれ? どれだよ」

 ようやく言葉を吐き出せた自分にほっとしながら聞き返す。昔姉と一緒に遊びで作った曲はいっぱいある。

 まさか返してくれるとは思っていなかったのだろう葵は一瞬目を見開き、しかしチャンスは逃さないと棚に並んだファイルを漁った。その内の一冊を取り出して開く。

「これ! このリズムが難しくて、私には上手く弾けないのよ」

 迷いがないその動きに、也梛はまた少し驚いてしまった。もしかして姉はどのファイルにどの曲があるのか、まだ覚えているのだろうか。

 古びた五線譜の用紙に、頼りない線のオタマジャクシが並んでいる。そういえばこれ、幼稚園から小学生低学年の頃に作ったやつだ。あいている場所にはカラフルな絵も描かれていた。

 思わず懐かしい気持ちで眺め、何となくの記憶を頼りに音符を追う。意外と指はさらさらと動いた。

 葵も珍しく子どものようにわくわくして、也梛の肩越しに身を乗り出して鍵盤を滑る指を見つめていた。

 こんな時間を過ごすのは、何年振りだろう。いや、もう十年振りくらいになるかもしれない。

「そこのリズム、こっちにしたらどう?」

「ああ、そっちの方が自然だな。でもこうしたらさらに意外なリズムになるよ」

 いつの間にか、昔の譜面にああだこうだと互いに修正を入れ始めていた。

「いや、そこはこれよ」

「じゃあこっちはこうでどうだ」

「あんたそれ好きよね」

「姉さんこそそのリズム好きだよな」

 ひとしきりあれこれ言って修正が終わり、とりあえず納得できるものに仕上がった時には軽く運動した後のように息が上がっていた。――姉弟故か、お互いの言い分に全く遠慮がなく、時々バトルになったからである。

 葵は満足したようにできた楽譜を何回も見直していた。也梛はそれを横目に見て、冷静になりつつある頭で少し複雑な気持ちになっていた。

「――ねえ、也梛」

 葵が楽譜を見つめたまま静かに言う。

「何」

「キーボードでも何でもいいから、也梛は音楽を続けてね」

「は……?」

 今さら何を、と言おうとして也梛は固まった。葵が困ったように眉を下げてこちらを見た。

「私に遠慮なんていらない。父さんの会社は私が手伝うから、だから也梛は弾き続けて」

「……姉さんは昔からそれだよな」

 也梛の心の奥で眠っていた何かが首をもたげた。今まで彼女に面と向かって言えなかった、呑み込んでいた言葉が喉元までせり上がってきていた。

「前から聞きたかったんだ。姉さんがピアノをやめたのは何でだったんだ? あの時は他にやりたいことができたからとか練習がどうだとか色々言ってたけど、本当はそうじゃないだろ?」

 也梛がピアノを始めたきっかけは、姉が先に習い始め、家の中にピアノの音が溢れるようになったことだった。その音色に惹かれて、自分も弾きたいと思ったのだ。

(何より、俺が惹かれた音は……)

「俺は、姉さんのピアノの音が好きだった。あの音をずっと聴いていたいと思ったんだ」

 どう頑張って練習しても、也梛の好きなあの音は出せなかった。あの音は、姉にしか出せない。

 葵は頬を緩ませて、「そっかあ」と呟いた。

「あんたからそんな言葉を聞くとは思わなかったなあ。それあの頃聞いてたらまだ続けてたかもなあ。――ううん、それでも中学までだっただろうな」

「――それは、父さんや先生が俺に過度な期待をし始めたからか?」

 ずっと燻っていた問いを投げかける。

 ピアノを習い始めた当初は当然姉の方が上手かったが、やがて也梛は才能を現し始めた。いつの間にか姉を追い抜き、周りの期待と注目は全て也梛の方に集中した。

 だから、姉はそれが面白くなかったのだと思っていた。

 しかも、父親が也梛の才能を知ってピアニストにしようと力を注ぎ始めた。也梛は中学まではピアノを続けたが、結局キーボードの方を選んでピアノはやめてしまった。その時父親に言われたのは、「ピアノをやらないなら勉強しろ」だった。そのせいで中高一貫校でも進学校で有名だった高等部にそのまま進学することになったのである。

 身を引くように先にピアノをやめた姉は、その後大学で経営学部に進学し、当たり前のように父親の会社の手伝いを始めた。それはまるで、也梛が会社を継がなくても良いようにと姉が代わってくれたように感じられた。――也梛がキーボードを弾いていられるように。

 これはずっと也梛の中にあった姉に対する負い目だった。これがあったから、ずっと彼女を避けていた。避けながら、何も言って来ない姉に勝手に苛ついていた。

「あのね、也梛。あんたが私のピアノを好きだって言ってくれたように、私もあんたのピアノが好きなのよ。ピアノだけじゃない、キーボードだって」

 葵が静かに口を開く。

「私だけじゃなく、それはきっと父さんも、先生も。もちろん小さい頃、也梛に嫉妬しなかったとは言わない。だけど、あれだけ差があればもう諦めもつくわよ。むしろ私の弟ってすごいんだなって思ったわ」

 嘘をついているふうでも強がっているふうでもない、ただただ静かな彼女の思いの丈だった。

「だから、私がピアノをやめたのとあんたは関係ない。私が勝手にやめただけ」

「じゃあ父さんの仕事の手伝いは――」

「それも私が興味があって、手伝いたいって思ったからよ。父さんの会社、音楽業界とも少し関わってるから、もしかしたらあんたの将来にも繋がるかもしれないでしょ」

「父さんの会社が何やってるかなんて俺は知らない」

「あんたねえ。少しくらい興味持ってあげなさいよ」

 溜め息を吐いた姉は少し呆れた顔をした。その見慣れた表情に、也梛はようやくほっとする。

「まあとにかく、私はあんたのピアノとキーボードのファンなのよ。自分で弾くのは趣味で結構。でも、あんたにはもっと上――プロの演奏家も目指して欲しいなって思ったの。……勝手な願いだけど」

「……マジで勝手だな」

 そんな期待、勝手にされても困る。

 也梛は呟きながら、胸に何かが詰まったような気持ちになった。

 姉は、ずっと自分を応援してくれていたのだと、見守ってくれていたのだとようやく気付いた。思えば、昨年の夏の音楽祭も先生の送迎という名目で見に来ていた。

「――と、やだ。もうすぐ先生お迎えに行かなきゃ」

 腕時計を見た葵が声を上げる。やはり母親に頼まれたらしい。

 也梛は先程修正し終えた楽譜を改めてファイルに収納した。きっとまたいつか開いて見たら、色々変えたいところが出て来るに違いない。

(……?)

 パラパラと他の楽譜にも目を通していると、覚えのある文字が目に飛び込んできた。

「じゃあ私は先生のお迎えに行ってくるから。――って、どうしたの?」

 部屋を出ようとしていた姉が弟の様子に気付いて戻って来る。

 ひょいと也梛の手元の楽譜を覗き込んだ。

「うわあ、さらに懐かしいやつだー。これ幼稚園の時くらいのでしょ?」

 でかでかと引かれた五線に、大きな大きなおたまじゃくし。

 たどたどしいリズムを刻む不安定なメロディ。いや、これはもうメロディとは言えない。ただ見よう見まねで書いた音符の羅列だ。

 その横の空白に、大人が書いただろう角ばった几帳面な文字が連なっていた。


『動物園から帰って来た日に作った曲。もう少し色んな音が混じると楽しそうだなと話していた』


「……何だこれ?」

 急に喉が渇く。自分は、見つけてはいけないものを見つけてしまったような気がした。

「ああ、その頃はまだ父さんも付き合ってくれてたわよね」

 葵が懐かしそうに目を細めた。

 也梛の胸の奥の方で、また何かが疼く。

「だいたい、私たちが音楽に触れたのって、父さんとのリズム遊びが始まりだったでしょ」

「……」

「あんたのあの後生大事にしてるキーボードだって、昔、父さんからもらったものじゃない」

 いつも持ち歩いている、也梛のお気に入りのキーボード。

 それは昔、父親から譲り受けたものだった。

 昔の譜面を目にして、姉から話を聞いた今、忘れていた記憶が微かに思い起こされる。

(……そうだ、俺がまだ幼い頃、父さんもキーボードを弾いていた)

 也梛はゆっくりとファイルを閉じた。

(それから、俺は……)

 姉のピアノと同じくらい、父親のキーボードもまた好きだったのだ。



ここまで読んでいただきありがとうございます。また暫く間があいてしまいすいません。

一歩進んで二歩下がる状態ですが、じわじわ前進していけるよう頑張ります。

(2020.07.19)

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