白い鳩と鎮魂歌
【主な登場人物紹介】
・笠木 矢㮈(かさぎ やな)…彩楸学園高校新2年生。バイオリンを弾く。
・高瀬 也梛…同高校新2年生。キーボードを弾く。
・海中 諷杝…同高校新3年生。ギターを弾く。父親の残した楽譜を探している。
一.
笠木矢㮈は、本日最後の授業が終わるなり、いつになくテキパキと机の上を片付けた。一分もかからずに鞄を持って席を立つ。
「うわ、笠木早!」
斜め前に座っている友人の臣原千佳が驚いたようにこちらを振り向いていた。いつもなら彼女の方が断然早く帰る準備をして、颯爽と部活動に消えて行くのだ。矢㮈が見送る側なのが今日は逆だった。
「だって三年生修学旅行から帰って来たでしょ」
言いながら彼女の横を通り抜けると、後ろで苦笑する気配がした。
「三年が帰って来て嬉しそうなのはあんたくらいじゃない? また明日ね」
どうやら千佳の場合は違うらしい。彼女の話では先輩がいない間部活をのびのびとやっていたそうだから、またレギュラー争いをかけたピリピリ感が戻って来るのだろう。
矢㮈は教室の外にある個人ロッカーからバイオリンのケースを取り出し、真っ直ぐに屋上への階段を目指した。
彩楸学園の屋上は広く、半分がガーデニングになっている。芝生の上を避けるように奥に歩いて行くと、やがて丸太のような木のベンチに座る人影が見えた。
「諷杝! お帰りなさい!」
「あ、矢㮈ちゃん。ただいま」
ベンチに座っていた焦げ茶の髪の少年がふわりと笑う。その横には足を組んで座る高瀬也梛の姿もあった。
(くそう。高瀬の方が早かったか)
同じ二年の彼の方が先に屋上に到着していたことが少しだけ悔しい。しかも教室は矢㮈の方が近いというのに。
「楽しかった?」
矢㮈はベンチに近付いて一つ上の先輩である海中諷杝に尋ねた。三年は先週修学旅行に行っていたのだ。
「うん。久しぶりに四六時中団体行動だった。疲れたけど、楽しかったよ」
よく分からない感想が返ってきたが、諷杝の顔が穏やかなのを見てひとまず安心する。
「一番大変だったのは佐々木先輩だと思うけどな」
高瀬がボソリと呟く。佐々木とは諷杝のクラスメイトで、学校生活においては色々と諷杝の世話を焼いてくれているらしい。――ちなみに、寮や放課後は専らルームメイトの高瀬が諷杝の面倒を見ている。
諷杝は高瀬の言葉など聞こえなかったように、矢㮈に向かって紙袋を差し出した。
「はい、矢㮈ちゃんへのお土産。お菓子はご家族のみなさんもぜひ」
「わあ、良いの? ありがとう!」
紙袋を覗くと、お饅頭の絵柄がプリントされた箱と、小さなビニールの小袋が見えた。
「開けてみても良い?」
「どうぞ」
小袋を取り出して封を開けると、亜鉛合金素材のかわいらしいペンギンのキーホルダーが転がり出てきた。
「かわいい」
「水族館に行って来たからね。ちなみに也梛のはチンアナゴだよ」
「え?」
高瀬の方を見ると、彼は溜め息を吐きながら面倒くさそうにこちらに手を伸ばした。その手の先には同じく亜鉛合金素材のチンアナゴのキーホルダーがぶら下がっていた。
「何で俺はチンアナゴなんだ」
「イルカも捨てがたかったんだけど、ちょっと変わり種が良かったというか」
「なぜそれを俺に?」
「何となく。也梛には変わり種が似合う気がして」
恐らく何も悪気などありはしないのだろう諷杝の笑顔に、高瀬の方も諦めたようにため息を重ねた。それでも大人しくお土産をもらっているところが彼らしい。
「そういえば二人も僕がいない間ちゃんと練習してたんだね。也梛が送ってくれた動画、楽しく見てたよ」
「面倒くさいこと押し付けやがって」
高瀬が舌打ちする。
「賭けに負けたのは也梛の方でしょ。でも動画のおかげで僕も寂しくなかったよ。むしろ早く帰りたくなったけど」
諷杝が微笑んで高瀬の文句を一蹴する。
「さて、また今日から僕も仲間に入れてね」
「もちろん!」
「……そもそもお前がいなきゃ意味ないだろう」
矢㮈はもらったキーホルダーを丁寧に小袋にしまい、自分のバイオリンの準備を始めた。
「あ、そうだ矢㮈ちゃん。これ、借りっぱなしだった譜面。ありがとう」
諷杝が思い出したように透明のファイルをこちらに差し出した。
ファイルの中にはA4の紙が一枚入っている。
「ああ、母さんの楽譜か」
この彩楸学園の元合唱部だった矢㮈の母親が卒業時に残した楽譜だった。譜面は学園の校歌で、一緒に替え歌の歌詞が書き込まれている。我が母ながら、なかなかに恥ずかしいものだ。
「確認したいって言ってたことはもう良いの?」
「うん。也梛のおかげで確認が取れた」
「そっか。それは良かったね」
矢㮈には彼らが何を確認したのかさっぱり分からなかったが、少しでも役に立ったなら良かった。
「その件はまた矢㮈ちゃんにも説明しなくちゃと思うんだけど――とりあえず今日は演奏しようか?」
諷杝がギター袋から自分のギターを取り出す。その奥ではすでに高瀬がキーボードを出して適当なメロディを弾いていた。
「うん!」
この一週間待ち遠しくてたまらなかった時間が始まった。
二.
翌日の放課後は生憎の雨模様だった。
屋根のない屋上にはとても集まれないので、場所は食堂横のカフェテリアに変更だ。特に連絡はないが、それが暗黙の了解となっていた。
矢㮈がカフェテリアに到着すると、彼らは外の屋根付きテラスのテーブルにいた。値段と味のコスパ最強カフェオレを手に合流すると、彼らはテーブルの上にいくつかの紙片を並べてぼそぼそと話していた。
矢㮈がそっと空いているイスに座ると、諷杝が会話を中断して矢㮈の方に微笑んだ。
「お疲れ様、矢㮈ちゃん」
「お疲れ。……ところで何やってんの?」
「ああ、これ。例の楽譜探しだよ」
諷杝が内緒話をするように唇の前に人差し指を立てて見せる。
テーブルの上の紙片を改めて見ると、そのいくつかは矢㮈も見たことのあるものだった。
「……あー、分からん」
高瀬が小さく溜め息を吐いて珈琲の入った紙コップに手を伸ばした。それから今気付いたように矢㮈の存在を認める。
「今日も遅い到着だな」
「普通でしょ! あんたが異常に早いんじゃないの!」
高瀬は自分から吹っ掛けておきながら、矢㮈の言い返しをスルーして涼しい顔で珈琲を飲んでいる。本当に憎たらしい。
矢㮈は気を取り直してテーブルの上に広げられた紙片を順に見遣った。その内の一つに、記憶に新しい譜が書き込まれていた。
「あ、これ母さんの楽譜の裏にあったやつ……?」
「うん、裏面の楽譜を書き写させてもらったものだよ。――さて、矢㮈ちゃんへの報告も兼ねてここまでのヒントをおさらいしてみようか」
諷杝はテーブルの右端にある三枚の紙を順に指差した。
それは四つ折りした跡がついた作文の原稿用紙で、所々錆が浮いたように黒くなっていた。書いてある文字も判読が難しいものがある。
「この三枚は去年の今頃、『水無月祭』で見付けたメモ」
「あの『灯の樹』のランプのとこにあったやつだっけ?」
確か雨の中危なっかしく木登りをし始めた諷杝を無理矢理押し留め、代わりに高瀬が登るという一幕があった。その高瀬が手にしてきたメモがこの三枚だ。
「この二枚には何か詩のようなものが書いてあって、残る一枚は日記の一部のような文章が書いてある。これらを書いたのは、筆跡と三枚目の署名から僕の父親であることは明らかだ」
「でも特に引っかかることはない、か?」
高瀬が紙コップを置いて頬杖を突く。諷杝は頷いた。
「うん。詩も日記みたいな感想文も、単に当時の『水無月祭』に寄せた思い出作りの一つだろうと思う。多分だけど、まだその時の父さんはあの曲を作ってはいなかったんじゃないかと思うんだ」
「何で分かるの?」
黙って聞いてきた矢㮈は素直に疑問を口にした。
「この後の話にも関わってくるけど、あの曲が作られたのって、多分樹さんが関係してると思うから」
「イツキさん……?」
その単語から連想されたのは白い鳩で、矢㮈は徐に周りを見まわしてしまった。雨だからか、残念ながらイツキという名の白い鳩の姿は見当たらなかった。
「樹さんって、あの並早先生のお兄さんだろ」
高瀬の助け舟に諷杝が「そう」と頷いた。
「あ、そういえば前に並早先生が言ってたような……」
そんな覚えがないこともない。
「樹さんは僕の父親が組んでたバンド『ZIST』のメンバーの一人だったんだ」
「そうなの?」
では当時彩楸学園に通っていた矢㮈の母親も知っている人かもしれない。
「『ZIST』が解散したのは、樹さんが事故で亡くなったかららしい」
「え?」
呆然とした矢㮈に反して、高瀬はいつものように無表情で黙っていた。すでに聞いて知っていたのだろう。
「グループが何を思って解散をしたのかは僕にも分からない。だけど、樹さんの死後ほどなくして解散したのは事実だ。これは並早先生からも聞いた話」
矢㮈は何と言って良いか分からず、ただ黙っていた。
諷杝が緊張を解くようにふっと微笑む。
「ちなみに、あの白い鳩の名前は、僕が樹さんからもらって付けた名前だよ」
「……そうなんだ」
どうして諷杝がわざわざ父親のバンド仲間であり並早の兄であった人の名をもらおうと思ったのかは分からないが。諷杝が生まれた時にはすでに樹はこの世にいなかっただろう。
「話を戻すけど、僕も初めは樹さんのこと、特に気にしてなかったんだ。あの曲は、いつ作られたのであれ、父さんの作曲には違いない。ただ、父さんの個人的な趣味の創作で、息子の僕に遊びとして『宝さがし』を持ちかけたのだと思ってた」
「でも、今は違う?」
問いかけに、諷杝は曖昧に頷いた。まだどこか迷いがあるような素振りだった。
「この春、並早先生にもらったこれ」
彼は膝の上に乗せていた和柄の布袋と、テーブルの上の真ん中に置いた便箋を示した。
「並早先生の実家にあった、樹さん宛の『置き土産』」
諷杝が和柄の布袋から取り出したのは、メモの切れ端と古びた小さな金属だった。
「鍵……?」
「袋に一緒に入っていたメモには『みんなで完成させるから、待っててくれ』って書いてある」
諷杝は続いてテーブルの上の便箋を手に取った。
「こっちはつい最近の――恐らく、僕の父親が亡くなる前に送った『置き土産』」
こちらは矢㮈もこの前屋上で見た記憶があった。
『樹へ
ようやく曲が完成しそうだ。そろそろ潮時だろう?
長らく待たせてしまって申し訳なかった。
必ず、お前に曲を届けるから。
だから、楽しみにもう少しだけ待っていてくれ
旋』
「つまりお前はこの手紙にある『曲』が、お前の探している楽譜の曲だと考えてるんだな」
高瀬が諷杝の思考の先を読む。諷杝は無言で肯定を示した。
「……なるほど。だとすればあの曲は樹さんのために作られた鎮魂歌ってところか」
鎮魂歌。死者の霊をなぐさめる詩歌。
矢㮈は諷杝が口ずさむ例の曲を思い出していた。
(……ああ、そうか。だからか)
あの少し物悲しい、胸が切なくなるようなメロディは、あの曲が鎮魂歌という性質をもつためなのかもしれない。
「――とは言ってもね、問題自体は何も解決していないわけなんだよね」
諷杝の言葉に意識が引き戻される。矢㮈は無意識にカフェオレで唇を湿した。
「結局、あの曲の楽譜はどこにあるんだろう?ってことだよ」
「そうだな、問題自体は何も解決していない」
高瀬も容赦なく断言する。
「でも僕の父親が樹さんのために作ったことと、僕に『彩楸学園』っていうヒントを残したことから考えるに、やっぱりこの学園に大きく関わっているような気がするんだ。『ZIST』が活動していたこの学園が」
「そうだろうな」
「当然、樹さんと父さんを繋いでいた『ZIST』だって関わってくると思う。そこで気になるのは、あの校歌をオリジナルにした譜面だよ」
諷杝が左端に置いていた紙を示す。紙には、矢㮈の母親が合唱部の引退時に残した楽譜の裏面にあった譜が書き写されていた。
「文化祭の時、旧校舎の元軽音部部室から父さんが書いた大量の楽譜や詩を発見したのを覚えてる? あの中には、例の楽譜は見当たらなかった。だけど、この前矢㮈ちゃんのお母さんが残した楽譜の裏にあったこの譜と、一部を除いて同じものが見つかった」
諷杝が鞄からファイルを取り出し、それを矢㮈の方に渡した。
おずおずと受け取って、促されるままに中の譜面を確認する。テーブルの上にある書き写しの譜面と、確かに一部を除いて同じだった。
(しかもこれって……)
頭の中で自然とメロディが再生される。どこかで聞いた旋律だ。
「……? どこかで……」
「オリジナルは校歌だ」
高瀬の言葉にはっと気付く。そうか、校歌をアレンジした曲だったのか。どこか馴染んだ感じがしたわけだ。
「ていうか、私の頭の中読まないでくれる?」
「分かりやすい顔してるからだ。疑問も解けてすっきりしただろ」
矢㮈の文句に高瀬はしれっと答える。悔しい。
「あれ? でも何で諷杝のお父さんが残した楽譜と一致する譜が、うちの母さんが合唱部に置いてった楽譜の裏に……?」
まさか合唱部の引退記念となる楽譜が、裏紙の再利用だったとは考えられない。――いや、あの母親のことだから可能性は否定できないが。
「お前の母さんは何か言ってなかったのか?」
高瀬が訊いて来る。
「うーん、母さんも覚えがなかったのかきょとんとしてた」
そういえばあの時、母親はじっとカップの中の薄茶の表面を見つめてそっと息を吐いた。普段とはどこか違った空気を感じたのを覚えている。
「でもあの裏面の譜は母さんの筆跡ではなかったよ。多分別の人のものだと思う」
「その筆跡については、俺も思うところがある。諷杝、お前の父さんが残した大量の楽譜に所々書き込まれたメモやら何やらがあっただろう、その一つによく似ている」
高瀬が矢㮈の手から譜面を一枚抜き取り、テーブルの上に乗せた。
端の方に書き込まれたリズムについての記載を長い指でさす。
「この筆跡だ」
「なるほど……」
諷杝は何かを考えこむように顎に手をやり、それから慎重に口を開いた。
「だとすれば、やっぱり矢㮈ちゃんのお母さんの楽譜の裏面にあった譜は『ZIST』のメンバーが書いたものだろうね」
彼はその筆跡を誰のものとは言わなかったが、『ZIST』のメンバーだということは確信しているようだった。
「何で母さんの楽譜の裏に……?」
母親が残した楽譜は校歌で、その替え歌の歌詞が書き込まれていた。そしてその裏に、今問題に上がっている諷杝の父親が編曲したのだろう校歌のアレンジバージョンの譜が見つかった。
果たしてこれはただの偶然なのだろうか。
(母さんは『ZIST』のファンだったって言ってたけど、本当にそれだけだったの……?)
今まで考えもしなかったことが胸中を巡る。
「――まあとりあえずそれは一旦置いておくとして、僕達が気になったのはここなんだ」
諷杝が二つの楽譜を並べて、違う箇所をぐるりと指でなぞった。書き写した方には付箋が貼ってあった。
「この部分に該当する校歌の歌詞は『みなの叡智かきあつめ 学び舎にこそ集まろう』。で、矢㮈ちゃんのお母さんが作った替え歌の歌詞は――『灯に願いをこめて 樹の下に集まろう』だ」
「それって……」
矢㮈の頭の中を去年の『水無月祭』が過った。
雨の中、諷杝の後を追って走った先。大樹の下で、狼の着ぐるみを着た高瀬が待っていた。
「うん、『灯の樹』……ヒノキだよ」
諷杝が微笑んだのを見て、矢㮈は自分の予感が正しいことを知った。
三.
「え、じゃあやっぱりあの『灯の樹』にあの曲の楽譜があるってこと?」
矢㮈が思わず声をあげると、途端に諷杝が空気が抜けた風船のように力を抜いて椅子の背に凭れ掛かった。
「僕達もそう予測してもう一度調べてみたんだ。だけどねえ……」
その先を聞かなくても、彼のがっくりとした様子を見れば一目瞭然だった。
「見つからなかったんだね……」
「うん……」
そしてまた問題は初めに戻るわけだ。諷杝の父親や『ZIST』に関わることは少しずつ明らかになって来てはいるものの、一番解決したい問題は揺るぎなく存在し続けていた。
あの曲の楽譜はどこにあるのか?
知りたいのはただそれだけのことなのに、隠し場所までは遥か遠い。
「また也梛が木登りをしてくれたんだけどね。今回は脚立も借りて、樹に取り付けられたランプは全て調べたし、変な印とかついてないかなって注意して見てみたんだ」
そこまでしても何も見つからなかったとなると、残念ながら『灯の樹』はヒントではなかったのかもしれない。
諷杝が一気に項垂れてしまったのを横目に、矢㮈は珈琲を片手に楽譜に見入っている高瀬に聞いた。
「高瀬は『灯の樹』を調べて何か思うことはなかったの?」
この三人の中では一番頭の回転が早い秀才に意見を期待する。
高瀬はちらと矢㮈を見て、それから残っていた珈琲を呷った。
「……まあ、あの樹にはもうメモも何も残ってないのは事実だな。もしかしたら元々は何かあったのかもしれないが、少なくとも俺が木登りした時には見つけられなかった」
もう当時から二十年以上は経つ。諷杝の父親が残したメモさえも、見つかったのが幸運といえるレベルだ。
「次はどうすれば良いと思う?」
「そんなもん俺に知るかよ。もういっそのこと、本当に俺たちで続きを作曲しちまっても良いかもしれないな」
高瀬が鼻で笑うのを聞きながら、矢㮈は「この薄情者」と心の中で呟いた。
しかし矢㮈にもこの状況を打開する手は思いつかない。
「うーん……」
無意味に唸りながら、腕を組んで椅子の背に凭れ掛かる。当然ながら、何も思いつかない。
「うーん……」
「うーん……」
いつの間にか、矢㮈の唸り声に諷杝のそれも重なっている。
「……お前らうるさい。どうせ無意味な唸りなら、黙って静かに考えろ」
安定の高瀬のツッコみにも、今ばかりは反撃する元気がなくスルーする。
高瀬はいい加減我慢がならなくなったのか、キーボードケースからキーボードを取り出して適当に弾き始めた。矢㮈の頭の中に色のついた音が流れ込んでくる。
まるで疲れた脳みそを癒すような優雅な音だ。尖った高瀬からよくもまあこんな音が出て来るものだといつもながら感心する。
疲れた顔をしていた諷杝の表情もだいぶ和らいで見えた。
そこへ、バサバサと羽音が聞こえた。
「お前っ……」
キーボードを鳴らす高瀬の頭上を旋回して降りて来たのは、白い鳩だった。
「イツキさん!」
今日は雨だからやって来ないのだと思っていたが杞憂だったらしい。
白い鳩は高瀬のキーボードの音と戯れるようにぴょこぴょこと跳ね回る。高瀬が鬱陶しそうにイツキに半眼を向ける――それでも手元からは優雅な音の連なりを奏で続けているのだから信じられない。
音が止まると、ようやくイツキも落ち着きを取り戻したように諷杝の膝に飛び乗って大人しくなった。相変わらず諷杝によく懐いている鳩だ。雨に濡れた羽根はしっとりと湿っている。
矢㮈はイツキをじーっと見つめ、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、いつもイツキさんがいたね」
「は?」
高瀬が眉間に皺を寄せて矢㮈を見る。
「文化祭の旧校舎の時はイツキさんの後ついてったら辿り着いたし、この前の母さんの楽譜の時もイツキさんが急に私に向かって飛んで来たから偶然気付いたわけで……」
二人からの反応が何もないことに驚いて、矢㮈は白い鳩から視線を上げて二人の男子を順に見た。彼らは虚を突かれたように呆然と矢㮈を見ていた。
「え……何、何なの二人とも……」
「……イツキさんか……」
先に諷杝の方がすっと彼の膝の上にいる白い鳩を見下ろした。
一拍遅れて高瀬がはっと我に返る。イツキを見て思案し始めた諷杝に慌てたように声をかけた。
「おい諷杝、笠木の言ったことは正しいけど、ただの偶然に変わりはないからな。まさか本当にその鳩が俺たちを誘導してるとか……そんな馬鹿なこと信じないだろ?」
諷杝は黙って白い鳩を見つめている。
「おい諷杝?」
「……大丈夫だよ、イツキさんはただの鳩だから」
ようやく顔を上げた諷杝はいつもの微笑みを浮かべていた。
その顔に高瀬がほっとしたのが分かった。
諷杝の膝の上で、イツキはかわいらしく小首を傾げて頭上の人間達を見回している。
諷杝はその小さな白い頭を指先で優しく撫でた。
その姿にほんわりと癒されていた矢㮈は、視界の端で鈍く光る金属を捉えた。そういえば。
「諷杝。結局この鍵は何なの?」
諷杝が並早から渡されたという小袋にメモと一緒に入っていた物だ。諷杝の父親の手紙の話はしたが、この鍵は脇に置かれたままだった。
「ああ、それね。分からないんだ」
諷杝が当然のようにあっけらかんと答える。拍子抜けするまでもない。
「小さい鍵だけど、どこのものなんだろうね。学園のロッカーの鍵はもっと大きいし……見当がつかなくて」
(この鍵ってどっちかって言うと……)
矢㮈は全長三センチにm満たない鍵を摘まみ上げた。
「鍵付きの箱にありそうな鍵だよね」
自分の部屋の引き出しに入れている鍵付きの箱を思い出していた。大きさと言い、簡素な凹凸と言い、実用性よりもデザイン性を優先した結果のちょっとした鍵というイメージ。
「それが宝箱の鍵なのかもねえ。その中に楽譜が入っているのかも」
諷杝がどこか投げやりに言う。そもそもその宝箱が見つからないのだ。
テーブルの上に広げられた紙片。小さな鍵。楽譜。
二十年以上前に組まれたバンド『ZIST』。
諷杝の父親の旋と、並早の兄の樹。
鎮魂歌とも言える曲。
矢㮈の母親が残した楽譜の裏に書かれていたもう一つの譜面。
校歌の替え歌と、編曲された校歌。
イツキという名の白い鳩。
どれかが少しずつ関わり合っているはずなのに、例の曲の楽譜には辿り着けない。
「結構難しい宝探しだよね……」
矢㮈が溜め息を吐きながら言うと、諷杝が困ったように眉を下げて笑った。
「ホント、僕もそう思う」
四.
二段ベッドの上段からは、微かに寝息が聞こえてくる。
カフェテリアで解散した後、也梛は今日もバイトに出掛けていた。帰って来るとシャワーに直行し、きちんと日課の予習復習をして消灯時間ピッタリに布団に潜り込んでいた。
いつもなら也梛よりも先に寝落ちてもおかしくない諷杝だったが、今日は不思議と眠気がやってこなかった。
ベッドの上段の底を見つめながら、頭の中では白い鳩のことを考えていた。
(イツキさん……)
諷杝が「イツキ」と名付けた白い鳩だ。
あの鳩を初めて目にしたのは、矢㮈と也梛が入学してくる少し前だった。
(そう、丁度、僕が学園で樹さんを見なくなってから――)
今日、也梛に向かって諷杝はイツキをただの鳩だと言ったが、本心では実は違うかもしれないという思いがあった。
(こんな話、也梛は信じないかもなあ)
自分の中にもしかしてという思いはある。だがそれを也梛たちの前で口にする勇気はまだ持てなかった。
(これを言うなら、そもそも樹さんの話だってしなきゃならなくなる)
傍からみれば頭がどうかしてるのかと勘違いされそうな話。
しかし現実に、諷杝の身に起こった話だ。
今から思えば確かに自分はどこか普通ではなかったのかもと思わなくもない。
だが父親の樹に宛てた手紙を読んで、イツキという白鳩のこれまでの様子を思い出して、それらは全て繋がっているのではという思いが強くなっている。
(時期が来たら……)
もう後一歩。その確証が持てる何かが欲しい。
それさえ手に入れられれば、頭がおかしいと思われようが何だろうが、也梛と矢㮈に伝えられる。
(――父さんは樹さんに、どんな曲を聴かせようとしていたんだろう)
そんなことを考えている内に、やがてうとうととし始めた。
瞼を閉じてもまだ白い鳩の残像が消えない。
その残像はやがて鳩から人へと形を変えた。
『まだまだ君の人生はこれからだから。出逢いはきっとあるはずだけどね』
彼から贈られた言葉を思い出していた。
進まないようで、少しずつどこかに近付いていたら良いなと思います。
(2020.04.20)




