二人のお留守番
【主な登場人物紹介】
・笠木 矢㮈(かさぎ やな)…彩楸学園高校新2年生。バイオリンを弾く。
・高瀬 也梛…同高校新2年生。キーボードを弾く。
・海中 諷杝…同高校新3年生。ギターを弾く。父親の残した楽譜を探している。
一.
桜の木はあっという間に青葉が茂る季節になった。
思えば昨年の今頃から、もう一度バイオリンを弾いてみようと練習を再開したのだった。数年のブランクを経ての練習から一年、ようやく以前の感覚が戻ってきたような気がする。
いつもなら午後の最終授業が終わるなり荷物を抱えて屋上に向かうところなのだが、笠木矢㮈はだらだらと鞄に筆記用具を詰めていた。
スポーツバッグを肩にかけた臣原千佳が「お先」と出て行こうとして矢㮈の様子に小首を傾げる。
「あれ、笠木。今日は帰り支度遅いね。いつもなら私と同じくらいなのに」
「だって今日から三年は修学旅行じゃん……」
彩楸学園高校の修学旅行は三年生の春に行くのが恒例となっている。特進科・特別科が各二クラス、普通科五クラス――それも文系と理系が三クラスと二クラスの割合――なので、文理を選択した後の二年生からはほとんどクラスの顔ぶれが変わらないのと、特有のカリキュラムの都合であった。
「こう言っちゃなんだけど、陸上部は厳しい先輩たちがいなくて束の間の休息って感じだけどね」
「どこの部もだいたい同じこと言うよね。合唱部は人数が減るから困るって言ってたけど」
矢㮈の場合もまた困る方だった。放課後は音楽仲間の二人と一緒に曲を作ったり演奏したりする時間だったが、その内三年の海中諷杝がいなければ二人しかいなくなる。
(しかもあの高瀬と二人きりで顔を突き合わせるとかないない。絶対ない)
残る一人は同じく二年の高瀬也梛という男子生徒だ。しかし彼と二人だけで過ごすなど考えただけで息が詰まりそうだった。向こうもきっと不機嫌になるに違いない。いつもは専ら諷杝が二人の間の柔らかいクッションという立場にいてくれた。
そしてそんなことを、この高瀬お気に入りの千佳に言えるはずもなかった。
「まあ三泊四日なんてすぐよね。じゃあ私、行くから。バイバイ、また明日」
「うん、また明日」
千佳を見送って、矢㮈はふう~っと息を吐いた。
(三泊四日……つまり今週は諷杝に会えないのか)
あらためて溜め息を重ねる。
さて今日はどうしようか。どうせ屋上に行っても誰もいないだろうが、一人で練習して帰るか、それとも早々に家に帰って練習しようか。
携帯を取り出してじっと見つめる。
諷杝から連絡が来ないのは分かっていたが、果たして高瀬にも一応連絡しておいた方が良いだろうか。
「いや、連絡って何の……? 別に部活動じゃないし。あいつもきっとさっさとバイトに行ってそうだし……」
一人でぶつぶつと自問自答していたら、周りがすっかり静かになっていることに気付いた。顔を上げれば教室の中に残っているのは自分一人だけだった。
「うーん、折角だから屋上行って……いや、マスターのとこ行こっかなあ」
一人で屋上にいるのを想像すると少し寂しくなって、学園近くにある音楽喫茶『音響』のことを思い出した。あそこなら音楽好きなマスターがおいしい珈琲を淹れてくれるし、話も聞いてくれる。
「よし!」
「何をそんなに意気込んでるんだ?」
勢いよく椅子から立ち上ったところに、教室の入り口から声がした。
見れば仏頂面の背の高い男子生徒が扉に凭れるように立っていた。肩には長方形の黒いケースのストラップをかけている。彼愛用のキーボードだ。
「高瀬?」
まさか彼がここで顔を出すとは思わなかった。二年からはクラスが分かれたこともあり、そうお目にかかることもなくなった。ただし昼休みに限っては千佳が一緒に昼食を食べたいと言って、矢㮈もそれに巻き込まれることがあった。
「どしたの? え、何か悪い知らせ?」
素で訊いた矢㮈に、高瀬は眉を顰めた。
「それはどういう意味だ」
「だってあんたがあたしに声かけてくるなんてよっぽどのことじゃない」
「……」
高瀬はふいに言葉に詰まり、それから小さく息を吐いた。
「お前、今週どうするつもりなんだ? 知っての通り、諷杝は修学旅行に行ってる」
「知ってるわよ。だから今からマスターの所に行こうと思ってたんじゃない」
矢㮈は鞄を肩にかけて高瀬のいる前の入り口に向かった。
「あんたはどうするの? バイト?」
「バイトはいつものシフトと変わらないから結局一緒」
高瀬はそこで言葉を切り、複雑そうな表情で矢㮈を見た。
「……何よ?」
「……諷杝はいないけど、お前がそれで良いならキーボード弾いてやってもいいぞ」
「え?」
言われたことを理解するのに数十秒を要してしまった。
今高瀬は、諷杝抜きで矢㮈にキーボードを弾いてくれると言ったか?
「だから何なんだその顔は。嫌ならそれでいい。さっさとマスターのとこに行け」
呆然として答えない矢㮈に痺れを切らせた高瀬が背を向ける。矢㮈は慌ててそのブレザーの裾を引っ張って彼を引き留めた。
「キーボード弾いてくれるって本当!?」
「……ああ。昨日諷杝に賭けで負けたからな」
「はい?」
高瀬は途端に悔しそうな顔になって、
「諷杝のやつ、何を言い出すかと思ったら、『僕がいない間矢㮈ちゃんと一緒に練習しててね!』だと」
賭けの詳細は聞きそびれてしまったが、とりあえず彼らの間で何らかの駆引きがあったらしい。そしてそれに高瀬が負けたのだろう。
「それで律義に守ってくれようとしたの?」
「まあな。その日の音楽を録音して送って来いとも言われた」
それはまた諷杝にしては珍しい。
「でもそれだったらあたしからも諷杝に言ってあげるよ」
高瀬が妙に義理堅い性格なのは知っていたが、そのせいで今週いっぱい無理矢理矢㮈の練習に付き合わせることを思うとこちらも心苦しい。何よりお互いの間に流れる空気を思うと気まずいことこの上ない。
「……いや、いい。俺もそこまで嫌というわけじゃない」
「へ?」
高瀬は背中を向けたままこちらを見ない。
「お前のバイオリンを聴くのは嫌いじゃないって言ってるんだ」
思わず、ブレザーを掴んだままの手に力をこめてしまった。
この男子からこんな言葉を直に聞けるとは思わなかった。
矢㮈の唇の端に知らずと笑みが零れる。
「なら、屋上行こう。バイオリン取って来る!」
二人で練習した音を、しっかり諷杝に送ってやらなければ。
二.
しかし屋上での練習はものの三十分足らずで終了を告げた。
雨が降って来たのだ。雲行きが怪しいと思ってはいたがまさかこんなに雨脚が早いとは思わなかった。
「……やっぱり滅多なことはするもんじゃないな」
「同感」
お互い楽器を抱えたまま階段の内側に退避して呟く。
「どうする。この際開いている教室でも使うか?」
「うーん……」
矢㮈はバイオリンをケースにしまいながら、「そうだ」と思いついた。
「やっぱり今から『音響』行かない? 運が良ければステージ空いてるかも」
「この状況でもう運には期待しないが、『音響』に行くのには賛成だ」
眼鏡についた水滴を拭きながら高瀬が頷き、二人は一目散に階段を下って昇降口を目指した。
ひょっとして今日に限って臨時休店とかあり得るのでは? と心配になったものの、『音響』は通常通り営業していた。
カランと心地よい音と共に扉をくぐると、カウンターの内にいた初老の男性が優しく微笑んだ。
「いらっしゃい」
「こんにちは、マスター」
「こんにちは」
矢㮈と高瀬は荷物を下ろすと、カウンター前のスツールに並んで腰かけた。
「おや二人だけとは珍しい。諷杝君はどうしたんだい?」
マスターがマグカップを拭きながら訊ねて来る。
「諷杝は今週修学旅行で」
「ああ、そんな時期かあ。それで二人はお留守番なわけだね」
「そうなんです」
矢㮈は頷きながら、珈琲を一杯注文した。高瀬も同じものを頼む。
普段は珈琲など苦くて好んで飲まないのだが、マスターが淹れてくれる珈琲だけは不思議なことにミルクなしでも飲めるのだ。
『音響』の店内には小さなステージのようなものが設けられていて、たまにここで演奏会が催される。矢㮈も何度かステージに上がらせてもらったことがあった。
今日は幸いにも他に客はおらず、ステージにも人はいない。
「マスター、良ければあのステージ後で貸してくれない?」
「良いよ。演奏してくれるのかい?」
「はい。練習したくて」
「それなら存分に使ってくれて構わないよ。矢㮈ちゃんの演奏はクリスマスコンサート以来だねえ。もしかして也梛君も?」
「一応そのつもりですけど」
高瀬が傍らに立て掛けたキーボードケースに手をやると、マスターはポンと手を打った。
「そうだ、也梛君。ちょっとピアノを弾いてほしいんだけど」
「え?」
「今週末ここでまた演奏会をするんだけど、その時のピアノが届いてね、ちょっと試しに弾いてみてほしいんだ」
マスターが指差したステージの脇にはアップライトピアノが一台置いてあった。
「別にいいですけど……」
也梛は少し眉を下げつつも頷いた。彼はピアノがすごく上手いのだが、自分からは弾きたがらない。
マスターはお湯の準備をしながら流れるように珈琲の豆を挽く。香ばしい豆の匂いが鼻先をくすぐる。このゆったりとした時間が癒される。
「ははは、それにしても嬉しいなあ。おじいさんと来てたあの矢㮈ちゃんが高校生になってもここに来て弾いてくれるとは」
しみじみと言うマスターに矢㮈は呆れたように笑い返した。
「また言ってる。毎回ここに来たらそれ言ってない?」
「そうだっけかなあ。いやあ、でも嬉しいんだよ。中学生の時急に来なくなった時は本当に寂しかったから」
マスターは元々祖父の友人だった。矢㮈はよく祖父に連れられてこの店に顔を出していたのだ。バイオリン奏者だった祖父もよくこのステージに上がっていたっけ。
「ああー、あの時はもうホント一生弾けないんじゃないかと思ったなあ。まず弦に触るのが怖くて」
祖父が亡くなる直前まで、矢㮈はコンクールに参加していた。その演奏の終わりに弦が一本切れたのだ。その後すぐ、血相を変えた弟が呼びに来て、結果発表も待たずに病院に連れていかれた。
幸い祖父の最期に立ち会うことはできたのだが、それ以来暫くバイオリンに触れることができなかった。
ようやく再開できたのは、諷杝と高瀬に出会ったことがきっかけだった。
「昨年の今頃の復帰の演奏会、来てた人みんな嬉しそうな顔してたからね」
復帰すぐのステージはここだった。ただの女子高生一人の拙い演奏会だったのに、祖父の友人だった人たちが大勢聴きに来てくれた。
「あの時はすごかったな。本当に店いっぱいに人がいて驚いた」
その時の観客の一人だった高瀬がボソリと呟く。あの時、マスターの知り合いだった諷杝と高瀬も偶然あの店に居合わせたのだ。
「まさかあんなところで二人に聴かれてるとは思わなかったわ」
「俺らだってまさかステージに上がった女子がお前だとは思わなかった」
複雑な表情で顔を見合わせた矢㮈たちにマスターが笑う。
「不思議な縁だったねえ」
いつの間にか目の前には湯気と香り立つ珈琲のカップがあった。
それを一口含み、ほっと一息つく。瞬時に疲労や悩みが吹き飛んでいくようだった。温かな幸福感が胸いっぱいに広がる。
隣の高瀬を見ると、彼もやはり穏やかな表情で珈琲を味わっていた。
「そういえば高瀬ってピアノかキーボード弾けなくなったことってある?」
ふと尋ねてみる。高瀬はしばらくカップの中の濃い液体の表面を見つめ、
「……お前みたいに何かがきっかけで弾けなくなったことはないな。ただ、ピアノを弾きたくなくなったことはある。今は少し和らいだがそれでも弾くのはキーボードの方だ」
「ピアノだけなの?」
「ああ。でも元々はキーボードに興味を持ったのがピアノを始めたきっかけだったんだから、始まりに戻ったとも言えるな」
マスターがクッキーの小皿を出しながら微笑む。
「昔、君と似たような男の子に出会ったことがあるよ」
「え?」
矢㮈と高瀬は同時にマスターを見た。
「それって高瀬みたいに捻くれた子って意味ですか?」
「おい笠木」
半分本気で訊いた矢㮈に高瀬が低い声音で不満を示す。
マスターははははと楽しそうに笑った。
「もうだいぶ前の話、君たちが生まれるずっと前の話だ。君たちと同じ年頃の男の子がいてね、その子もピアノが上手だった。将来はピアニストになってもおかしくなかった」
昔を思い出すように顎に手を遣って遠くを見る目になる。
「彼もまた君たちと同じように学校で同年代の音楽仲間に出会って、みんなで曲を奏でる楽しさを知ってしまったんだろう。いつの間にかピアノよりキーボードの方が馴染んでしまったみたいだった。也梛君とは順番は逆だね」
高瀬がいつになく真剣な目でマスターを見ていた。
「それでも高校卒業後は音大か芸大にでも行くのかと思っていたが……結局音楽に関する学科のない四年生の大学に進学してしまった。一番寂しかったのは、それきり彼はピアノもキーボードも弾かなくなってしまったことだなあ」
マスターが寂しさを紛らわせるように手を組んだ。
「え、その人弾かなくなっちゃったんですか?」
「うん。まあ、色々あって音楽仲間たちがバラバラになっちゃったんだ。そんなことでは揺らぐような子には見えなかったんだけどね、人の気持ちは分からないものだ」
それは例えば、矢㮈たち三人が共に演奏することをやめる何かが起こり、バラバラになってしまい、矢㮈は個人でもバイオリンを弾かなくなってしまうということだろうか。
だが矢㮈だったら、たとえ一人になろうともバイオリンを弾き続けると思う。諷杝たちと共に奏でる音楽も好きだが、それと同じくらいコンクールに挑戦して自分の腕を上げたいという目標がある。
(その人は何で弾くこと自体をやめちゃったんだろう)
ピアノもキーボードも一人で弾くことができる。音楽は続けていけたはずだ。しかし、その男の子は弾くこと自体をやめてしまった。
「……よっぽどその仲間たちと一緒に演奏することが楽しかったんだろうな」
高瀬が小さく呟くように言った。
「自分で弾き続けることより、誰かと、その時の仲間たちと奏でることこそがキーボードを弾く意味と理由になってたんじゃないか」
その人にとってキーボードを弾くことは、音楽仲間たちと一緒に演奏することと等しいことになってしまっていたのではないか。
「そうだね、也梛君の言う通りかもしれない。そんな仲間たちと出会えたことは幸運だっただろう。だが、その後のことを思うと少し寂しくなってしまうんだ、いつも」
マスターは束の間しんみりとした後、気を取り直したようににっこりと微笑んだ。
「おおっと悪い悪い。何だかしんみりしてしまったな。ええっと何の話だったか」
「その人が俺に似てるって話でした」
高瀬の助け舟にマスターが「そうだった」と頷く。
「いや、別に将来也梛君もそうなるとかそういう話ではないよ。ただ、君たちを見てるとどうも昔を思い出してなあ。その子と也梛君は雰囲気もどこか似通っておったから」
「そうですか……。でも俺は多分、一人でも弾き続けると思います。ピアノの方はともかくキーボードは絶対に」
高瀬が珈琲を一口含む。
「もちろん今は諷杝たちと演奏するのが一番楽しいですけど」
「わあ、今日は本当に珍しく素直ね」
「お前はさっきからうるさい」
矢㮈の茶々に高瀬が迷惑そうな表情をする。それを見てマスターがまた笑った。
「音楽好きな私からのお願いとしては、どうか音楽は続けていてほしいなあ。そしていつでもここで演奏してくれて構わないよ」
ちゃっかり将来の演奏会のオファーをするところに、矢㮈と高瀬は呆れて笑ってしまった。
三.
珈琲を飲んでから、矢㮈は高瀬と共にステージを使わせてもらった。さすが音響設備も整っていて、屋外でないから音も散っていかないのでよく聴こえる。
初めはいつものようにバイオリンとキーボードで、色々弾いてはあれこれ言い合い、また弾いてはああだこうだと言い合った。諷杝が送ってくれと言った音も録音する。
ウオーミングアップも十分か、と言う頃に高瀬はキーボードを置いてマスターから頼まれたピアノの前に座った。
矢㮈もバイオリンを置いてそっと高瀬の傍に寄った。
「……何だよ。お前はバイオリンの練習でもしてろ」
「何でよ。折角高瀬がピアノ弾くのに。それに音出しの邪魔しちゃ悪いでしょ」
「そんな気遣いいらねーよ」
ぶつぶつ言いながらも高瀬はピアノの蓋を開け、鍵盤の上に手を置いた。ピンと伸びた背にしなやかな腕、大きな手に細く長い指――不覚にも思わず見とれてしまう。綺麗なフォームだ。
そして高瀬は譜面を見ずに弾き始めた。ブルグミュラーの『アラベスク』だ。矢㮈もピアノを習っていた頃に弾いたことがある練習曲だった。
アップテンポにも関わらず、鍵盤の上を優雅に滑る十指。
(……やっぱ違うんだよなあ)
矢㮈はその指の動きから目を離せないまま、耳に入って来るメロディに心を動かされていた。
高瀬の奏でる音色が紡ぐ旋律は、本当に自分もよく知る同じ曲なのだろうかといつも思う。
いつの間にかカウンターから聞こえていた雑音が無音になっている。きっとマスターも動きを止めて聴き入っているに違いない。他に客がいなくて良かった。
豊かな音に反して、高瀬の顔は無表情で全く情緒の起伏が見られない。まるで彼の感情は全て指からメロディへと吸い取られてしまっているかのようだった。
「このくらいで良いですか、マスター」
はっと我に返った時には高瀬がカウンターの方を振り返っていた。
マスターも夢から覚めたようにはっとして、一テンポ遅れて「ああ」と頷いた。
「いやあ、君のピアノは本当にすごいね。聴いているとどこか別世界にでも飛んでいきそうになる」
「そんな大げさな」
高瀬は困ったように眉を八の字に下げた。
マスターは興奮したように頬を上気させて、満足そうな笑みを浮かべていた。
矢㮈は無意識に高瀬の横から人差し指を出して鍵盤を押していた。
高域の鍵の単音が束の間伸びて、消える。
「どうした」
高瀬がこちらを振り返って怪訝そうな顔になる。
「同じ音のはずなのに何で違うんだろう?」
「はあ?」
「あんたってすごいわよね」
矢㮈が本心から言うと、高瀬は口籠った。そしてふいと視線を逸らす。
「お前もマスターと同じで大げさすぎるんだよ」
店仕舞いだとでも言うように、彼は淡々とピアノの蓋を閉じてしまった。
(あたしのエゴだって分かってるけど、やっぱり惜しいよなあ)
彼がピアノを弾かないのにはきっと彼にしか分からない理由がある。それは分かっているのだが、それでも、この音色がたまにしか聴けないことが惜しいと思ってしまう。
彼が弾くキーボードと同じくらい、魅力的な演奏なのに。
近くの椅子の上に出しっ放しだった携帯を高瀬が手に取る。先程諷杝に練習の録音を送ってそのままだったのだ。
「早! 諷杝から返信が来てる」
「え、ウソ、マジで」
矢㮈が手元を覗き込むと、丁度開封され新着メールの文面が画面に表示されていた。
『二人ともお疲れ様―。ちゃんと練習してたみたいで何より。でもまさかマスターのとこにいるとは思わなかったなあ。明日も期待してるのでよろしくー』
文章の最後にはにこにこした笑顔のマークが入っていた。
「丁度夕食前の休憩時間ってとこか」
時計を見るとそろそろ六時半を過ぎるかという頃だった。
「全く諷杝のことは書かれていないんだけど」
矢㮈が文面の感想を漏らすと、高瀬も頷いた。
「ああ。こいつはいっつもそうだ。人のことはあれこれ聞いて来るくせに、自分のことは言って来ない」
彼は返信の画面を立ち上げると、『お前は何をしているんだ』的な文章を打って送信した。
返信はすぐに返って来た。案外暇をしているらしい。
『佐々木君たちが大富豪してるのを横目にぼーっとお茶飲んでるよ』
頭の中に、旧式のマッサージチェアに座ってまったりする諷杝の姿が過る。
「じいさんか! お前も混ざれよ大富豪に!」
思わず高瀬が叫んで携帯を放り投げそうになる。矢㮈も呆れた笑いを浮かべるしかなかった。何とも諷杝らしいといえばらしい。
その一部始終を見ていたマスターがまた愉快そうに笑った。
「諷杝君はどこに行ってもマイペースだねえ」
「マイペース過ぎるんですよ。ああ、絶対佐々木先輩めっちゃ苦労してそう」
高瀬が頭を抱える。諷杝と三年間同じクラスで割といつも一緒にいる佐々木という男子生徒が不憫で仕方ないという感じだ。矢㮈にはピンとこないが、高瀬の場合は諷杝のルームメイトとして思うことが相当あるようだ。
矢㮈は小さく笑いながら、「いいなあ」と呟いた。
「ねえ、高瀬も諷杝と一緒に修学旅行行きたかった?」
もし彩楸学園でなければ、彼は諷杝と一緒に行くことができたはずなのだ。
「……別に。それに俺らは来年行くだろ」
高瀬は小さく息を吐いて、予想に反してあっさり答えた。
「あのうるさい三人も一緒に」
「それ千佳ちゃんと松浦君と衣川君のこと?」
「他に誰がいるんだ」
笑いながら、少しホッとする。ここで高瀬が同級生たちのことを口にしたことが矢㮈には純粋に嬉しかった。
諷杝を追いかけて来た高瀬にとって、彩楸学園での優先順位ナンバーワンは言わずもがな諷杝なのだ。その彼が、同級生たちと一緒に行く来年の修学旅行の話をしている。
(去年の四月だったら、きっとあんたはそんなこと絶対言わなかったわよね。興味ないってスルーしてた)
そう思うと、今、諷杝がいなくても矢㮈と共にいることも不思議に感じられる。当初は諷杝がいてもいなくても、矢㮈の前でキーボードすら弾きたくなさそうだったのに。
(ああだめだ。何か変な感動しちゃう)
そんな矢㮈に気付いた高瀬は容赦なく言い放った。
「お前何百面相してんだ。気色悪い」
「……」
口の悪さは一年前から相変わらずだ。もう慣れてしまったけれど。
「ていうかそろそろ出なきゃ。バイトだ」
高瀬は携帯をしまうと、帰り支度を始めた。矢㮈もそろそろお暇しようと右に倣った。
四.
マスターにおいしい珈琲と場所提供の礼を言い、『音響』を後にした。
幸い雨はやんでいたが、高校に自転車を置いてきてしまったので今日はもう電車で帰ることにする。
駅の方に足を向けると、自然と高瀬と並んで歩くことになってしまった。
「電車で帰るのか?」
「うん。何かもう自転車取りに行くの面倒だし」
「面倒って……明日の朝電車になるのも面倒だと思うけど」
「……それはそうだけど」
嫌なことを思い出させないで欲しい。もう駅に向かって歩き始めていたが、今からでも自転車を取りに行こうかと気持ちがぐらりとするではないか。
「朝の電車通学はあれホントきついよな。今は寮生活で徒歩数分だしすごい楽」
「はいはい、もう明日の朝の話はいいわよ」
それ以上聞いたら学校まで引き返しそうだ。高瀬が鼻で笑う。
「せいぜい遅刻しないように気をつけるんだな」
「分かってますよーだ!」
初夏に入った夕暮れの時間帯は暖かいのか寒いのか微妙だ。でもブレザーを着ていて丁度いいくらいだから、まだ肌寒さはあるのだろう。
高瀬は何だかんだ言いながらも、駅まで矢㮈の歩くペースに合わせてくれていたようだ。それに気づいたのは、丁度駅について彼が乗るはずだった電車が発車するのを見送った時だった。
「ちょっとあんた、あれ乗らなくて良かったの!?」
「あれは一本早いやつだから次ので間に合う」
高瀬は煩わしそうに言ってのけ、「じゃあ」と手を挙げる。
改札を通り抜けようとして、ふいに顔だけこちらに振り返った。
「ああそうだ、明日はどうする? 屋上?」
「え」
そんなことを聞かれるとは思わずにポカンとしてしまった。
高瀬が溜め息を吐いて、
「じゃあいつも通り屋上で。じゃあな」
「え、あ、うん」
どうやら明日もまた律義に練習に付き合ってくれるらしい――そう理解した時、乗りたかった電車が無情にも発車した。
高瀬の背はすでに改札の向こう、今にもホームへの階段に差し掛かっていた。
矢㮈は溜め息を吐いてゆっくり切符を買い、改札を通り抜けた。
諷杝が帰ってくるまであと三日、そんなお留守番初日だった。
こんにちは。今回は諷杝が修学旅行に行っている、少し閑話休題のお話でした。
いつもありがとうございます。
(2020.03.15)




