合唱部の伝統<前編>
【主な登場人物紹介】
・笠木 矢㮈(かさぎ やな)…彩楸学園高校新2年生。バイオリンを弾く。
・高瀬 也梛…同高校新2年生。キーボードを弾く。
・海中 諷杝…同高校新3年生。ギターを弾く。父親の残した楽譜を探している。
【その他】
・臣原 千佳…新2年生。矢㮈のクラスメイトで親友。
・松浦 大河…新2年生。矢㮈のクラスメイト。
一.
先日の始業式の日から数日、新入生がやって来た学園はフレッシュな空気で賑わっていた。
正式な部活動およびサークルに所属していない矢㮈でも、新一年生を見ると謎の先輩感に包まれる。
「笠木は今年もどこの部活にも参加しないの?」
友人の臣原千佳が野菜ジュースを飲みながら訊いて来た。
矢㮈は購買部でゲットした特製クリームパンを手でちぎりながら、「そうだなあ」と呟いた。
一年の時はいずれどこかの部に入ろうと思いつつ、何だかんだとどこにも所属せずに二年になってしまった。正直、もう今さら新体制ができているだろうグループの中に入って行く気は起こらなかった。
(それに)
矢㮈は個人的に、一時中断していたバイオリンを再開していた。再開に至ったきっかけは、ひょんなことから知り合った海中諷杝のギターと高瀬也梛のピアノを聴いたことによる。
今では彼らと共にたまに音楽を奏でたりしている。まさにそれが矢㮈にとっての部活動もしくはサークル活動の代わりとなっていた。――全く以て学園非公式の勝手な集まりであるが。
「ねえねえ、だったらうち来ない? 陸上部!」
「行かないよ。陸上部とか全然想像できない」
「ええー。あ、でも笠木、一年の時は合唱部のポスターとか見てなかった?」
「ああ、見てたかも。母さんが合唱部だったから」
矢㮈の母親も彩楸学園出身で、元合唱部員だったそうだ。彼女は今も地域の合唱サークルに参加して相変わらず歌うことを続けている。
「え、笠木さん合唱部興味あるの!?」
すぐそばでお昼を食べていたグループの一人が振り返った。
今年同じクラスになった川崎真梨香という女子生徒だった。確か彼女は合唱部に所属し、二年生ながら副部長をしていると聞いたような気がする。
「いや、あたしの母親が昔ここの合唱部だったらしくて」
「そうなの? わあ、じゃあ笠木さんも歌うの好き?」
「別に嫌いではないけど……でも人前で歌うのはどっちかというと苦手かな」
「嫌いじゃないなら大丈夫だよ。合唱は一人で歌うわけじゃないし」
「でも音外したら浮くよね?」
「そうならないように練習するんだよお」
くすくすと真梨香が笑う。ご尤もな意見だ。
「大丈夫だよ、笠木は音痴じゃないから」
何度か一緒にカラオケに行ったことのある千佳が笑顔で謎のフォローを入れてくれる。
「もし気になるなら一度見学に来なよ。今からでも大歓迎だよ」
うち部員少ないし、と真梨香はペロリと下を出す。部員確保の下心込みのようだ。
「今年の新入生は入りそうなの?」
「うーん、一番に見学に来てくれた子たちは手応えあったんだけど、まだ仮入部の子も二人くらいかな。……ちなみに陸上部は?」
真梨香が千佳に視線をやると、千佳は躊躇うことなくあっさり答えた。
「今のトコ仮入部は二十人。その内十七人はもう本入部を決めてるらしい」
「ああーさすが陸上部」
「別にうちは強豪校でもないし、学園の特待枠もないんだけどねえ。でもまあ陸上ってすでに中学からの引き続きが一定数いるから」
「あとは千佳ちゃん目当てとかね」
矢㮈が付け足すと、真梨香が「ああ」と納得するように頷き、千佳は「はて?」と小首を傾げた。その姿がもうあざと可愛い。
もちろん千佳は容姿が優れているだけではなく、相応の実力を持つ単距離走者だった。昨年は一年生ながら大きな記録を残し、今年はさらに一段と期待を背負う新星だ。彼女の走りに憧れる新入生も大いに違いない。
「何々、部活の話? だったら誰かうちのバスケ部のマネージャーとかやらね?」
今度は頭の上から陽気な声が降って来た。購買部の袋を提げた男子生徒が、近くの空いている椅子に勝手に腰掛ける。矢㮈と千佳とは今年も同じクラスの松浦大河である。
「あたしは陸上部よ」
「私は合唱部だから」
千佳と真梨香がすげなく一蹴するのに対し、矢㮈は笑って誤魔化した。
「それに笠木さんは今私が合唱部に勧誘してるところなんだから」
「え、笠木さん合唱部入るの?」
松浦がおにぎりの包装を破りながら矢㮈を見る。
「いや、別に入るつもりは……」
「入るつもりがなくても良いから、一度見学においでって。絶対楽しいから!」
真梨香がしぶとく攻めて来る。こういう押しには弱いのだ。
矢㮈は一つ息を吐き、
「じゃあ、一度だけ。見学だけね」
「よし! じゃあ早速だけど今日の放課後は?」
「大丈夫だよ」
今日も放課後は諷杝たちがいれば学園に残り、いないならば帰ってバイオリンの練習をするつもりだった。
真梨香が嬉しそうに自分のご飯に戻って行ったのを見て、千佳が小さく尋ねた。
「押し切られたけど良かったの?」
「まあ、そこまで嫌なわけじゃないし、川崎さんのこともそうだし」
「まあ笠木がそれで良いならいいけど。でもちゃんと断るところは断りなよ。川崎さんもあんなだけどきちんと断ればさっぱりしてるから」
「うん。千佳ちゃん、ありがと」
心配してくれたことに礼を言って笑うと、千佳は少しほっとしたように頬を緩ませた。
「じゃあさ、笠木さん。合唱部の見学の後、バスケ部も来ない?」
松浦がついでのように言い、
「笠木、行かなくて良いわよ。バスケ部に行くならうちの陸上部に来なさい」
千佳がさっきとは一変してバッサリと切り捨てた。
二.
授業終了後に早速真梨香が一緒に部室に行こうと声をかけて来たが、矢㮈は先に一件連絡を入れておかなければならないことを思い出した。
川崎には後で必ず向かうと伝え、携帯電話を出して相手の電話番号を呼び出した。果たして今日は携帯を携帯しているだろうか。
数回のコール音の後、繋がった。
「……という訳で、今日は合唱部にちょこっと見学に行ってくることになって。そっちには行けそうにないんだ、ごめんね」
『うん、分かった』
電話の相手、諷杝は柔らかい声で相槌を打った。
そして少し間を開けてから、窺うような声で訊ねて来た。
『……矢㮈ちゃん、合唱部に入るの?』
「え、いや、ただの見学だって! そりゃ一年の時はそれも少し考えたけど、今はもうバイオリンだってあるし、諷杝たちと音楽やってるのが楽しいし! だからただの見学!」
直接顔が見れないせいか無駄に焦り、矢㮈は矢継ぎ早に必死に言葉を並べ立てた。まさに何か後ろめたい事をした時の言い訳をしているようだ。
その必死の思いが伝わったのかどうか、電話の向こうでふっと微笑む気配がした。
『うん、分かった。見学、楽しんできてね』
「……うん。高瀬にも会ったらよろしく伝えて」
『あはは。也梛も寂しがるだろうなあ』
「それは冗談でしょ。じゃあね」
矢㮈は通話を終えると。鞄を持って合唱部が練習をする部室へと足を向けた。
音楽室や理科科目の実験室等の特別教室がある特別棟の奥に、四階建ての長方形の建物がある。彩楸学園ではそこに各部活動に割り当てられた部室があった。
一階と二階は主に運動部、三階と四階に文化部の部室が割り当てられている。
開放的な玄関ホールを抜けると、矢㮈は迷わずに三階まで上り、踊り場に貼られた部屋の案内図を見た。どうやら三階フロアには合唱部の部室はないらしいとみて、そのまま四階への階段に足をかけた。
四階の奥から二つ目の部屋が合唱部の部室だった。部屋の扉は開いており、矢㮈が顔を覗かせると真梨香がびゅんっと勢いよく近付いて来た。
「笠木さん! 待ってたよ!」
「そ、そう……」
部屋の中には真梨香以外に女子生徒が五人、男子生徒が四人いた。パッと見た限り、新入生の姿は見えない。
合唱部の部室は壁際にスチールロッカー、木製の棚、長方形の机と椅子しかなく、少ない物品も綺麗に整理整頓されてすっきりしていた。
(軽音部とはえらい違いだな……)
以前、三階の軽音部の部室を訪ねたことがあるが、様々な物が乱雑に置かれていて、ここと同じ広さのはずなのにとても同じには思えない。まあ、軽音部の方が備品が多いということもあるだろうが、それでも整理されているかどうかの差は大きかった。
「丁度今みんな集まった所だったの。紹介するわね」
真梨香がざっと部員たちを紹介してくれる。残念ながら矢㮈は真梨香以外の部員で顔見知りはいなかったので、とりあえず部長の女子生徒だけは覚えておこうとした。
「川崎さんと同じクラスの二年の笠木矢㮈です。見学だけですが、今日はどうぞよろしくお願いします」
「ようこそ、笠木さん。川崎さんから話は聞いています」
部長の三年、築地果歩はにこやかに笑った。長い艶やかな黒髪を背に垂らした、お淑やかそうな女子生徒だった。卒業した元軽音部の先輩・春日井とはまたタイプが違う。
「見学だけということだけど、折角だから歌っていってくださいね」
「え、いえいえいえ……あたしは……」
「はいはいはい、じゃあ早速部活を始めましょー」
副部長の元気な声で合唱部の活動が始まった。
ほとんどの部活は学園の校舎内やグランドで活動しているのだが――だから今もこの建物は静かだ――合唱部はこのまま部室で練習を始めるらしい。
矢㮈は部屋の端にあった椅子に座り、進行を見守った。
まずは各々が楽譜を持っていくつかのグループに散らばり、パート練習が始まった。その後にみんなが中央に集まり、全員での合わせ。
どこかで聞いたことのある曲だと思っていたら、彩楸学園の校歌だった。矢㮈も昨年の音楽の授業で馴染みがあった。
そのせいかいつの間にかつられて口ずさんでいたらしい。
「笠木さん、歌えそう?」
「え?」
真梨香が手招きし、その隣では部長が微笑んでいる。
結局、矢㮈も混ざって歌うことになっていた。パートはメインメロディを歌うソプラノだ。
初めはおずおずと戸惑うように出していた小さな声も、やがて解放されたようにボリュームが上がっていく。
上手い下手はおいておくとして、声を出すのは純粋に気持ちいい。そして、矢㮈の歌についてあれこれ言わない部員たちの空気が心地よかった。
これなら合唱部に入ってみてもいいかもしれない、なんて日和ってしまったのも事実だ。
「笠木さん、お疲れ様! どうだった? 楽しかった?」
部活はあっという間に終了の時間を迎え、帰る準備をしながら真梨香が尋ねてきた。
「うん、予想以上に楽しめた。今日はありがとう」
「そっか、それなら良かった。……やっぱり入部はしない?」
「うーん……悩んじゃうけど……でも、うん、今は別に力を入れたいことがあって」
矢㮈は正直に真梨香に伝えた。
恐らく何もやりたいことがなく日々帰宅部で過ごしていたなら、迷うことなく合唱部に入部していただろう。
真梨香は昼間のようにしつこく勧誘することはなかった。一つ頷いて、少し残念そうに眉を下げる。
「笠木さん楽しそうだったからひょっとしたらと思ったんだけどなあ。でもまた歌いたくなったらいつでも遊びにおいでね」
「いいの?」
「うちの部人数少ないし、笠木さんだったら大歓迎」
真梨香がちらりと周りの部員たちを見回すと、気付いた部員たちもふわりと笑い返してくれた。和やかな部活だ。
「ありがとう。じゃあまた見学させてもらうね」
矢㮈は部員全員に向かって頭を下げた。
用事があるからと片手を拝みながら先に部室を出る真梨香を見送り、他の部員たちも一人、また一人と帰っていくのを見ながら、矢㮈も鞄を手に立ち上がった。
「笠木さん」
まだ残っていた部長の果歩に静かに声をかけられた。
「あ、今日はありがとうございました。みなさんと一緒に歌えて楽しかったです」
矢㮈が改めて礼を言うと、果歩も微笑みながら「こちらこそ」と返してくれた。
「さっき川崎さんとの会話を聞いていたけれど、入部できないのは本当に残念」
「すみません。初めから見学だけなんて迷惑でしたよね」
「いいえ、全然。笠木さんみたいに楽しく歌って行ってくれるなら、私はそれでも全然構わないですよ」
「……ありがとうございます」
部長にそう言ってもらえると心が軽くなる。
果歩は少し小首を傾げるように、矢㮈の荷物を見た。
「……今日はバイオリンは持っていないのですか?」
「え? 何でそれを……?」
思わずきょとんとしてしまった。なぜ彼女が矢㮈がバイオリンを持っていることを知っているのだろう。
果歩は唇の前に人差し指を立て、少しいたずらめいた表情で笑った。
「実は私、あなたのことは前から知っているんです。去年の夏、海中君たちと演奏会に出ていたでしょう?」
「え!」
夏の音楽祭の話だとすぐに分かった。
「……先輩、見てたんですか?」
「はい。こう見えて私、一年生の頃は少しだけ軽音部にもいたんです。だから音楽祭のこともよく知っていますよ。――二年生からはもう合唱部一筋で部長をやっていますけど」
何と! 矢㮈は話の展開に驚き、馬鹿みたいにただ口をパクパクとさせた。
「じゃ、じゃあ、この春卒業した春日井先輩も御存じで……?」
「ああ、春日井先輩。もちろん知ってます。毎年、音楽祭や学園祭ライブの宣伝をしてくれていましたから」
世間は思ったよりも狭かった。この部長とあの春日井にそんな接点があったとは。ずっと連絡が続いていたとは、よほど仲が良い先輩後輩関係だったのだろう。
「今年の軽音部の部長は確か世良君でしたね」
「あ、世良先輩も御存じなんですか」
同じ音楽関係の部の部長なのだから顔見知りでもおかしくはないか、と思っていたら、
「御存じも何も世良君とは今年もまた同じクラスです。今回は海中君も同じですね」
「諷杝も同じクラスなんですか!」
世良のことよりそちらに意識がいってしまった。諷杝とは学年が違うため、彼のクラスについてのことはほとんど知らないし話も聞かない。まず諷杝の話に上らない。
「今まで海中君の存在はあまり記憶になかったので、あの夏の音楽祭では驚きました。あんなふうにステージで楽しそうに演奏して歌うんですね。そしてそのそばにいた一人があなたでした、笠木さん」
果歩が真っ直ぐに矢㮈の目を見つめる。
「あなたが今力を注ぎたいのはあのバイオリンなのでしょう?」
思わず頷き返すと、彼女も一人で納得するように頷いて微笑む。
「あのステージでのあなたの演奏は素晴らしかったです。また是非聴きたいです」
「先輩……」
「今年の夏も楽しみにしています。だから海中君たちといい曲を作り上げて下さいね」
矢㮈は果歩の笑みを見てふいに泣きそうになった。
わざわざこうして、矢㮈に伝えてくれたことが嬉しかった。この学園内にも、こうして矢㮈たちの演奏を聴いてくれた人がいたのだ。
そのまま暫く動けなくなってしまった矢㮈に、果歩は「あららら」と少し困ったように慌てた。
「ごめんなさい、笠木さん。勝手な話で呼び止めてしまって。またいつでも顔を出しに来てくださいね。今日はお疲れ様でした」
「……お疲れ様でした。本当に、ありがとうございました」
矢㮈は出て来そうになる涙を誤魔化すように笑い、もう一度頭を下げた。
矢㮈が部室を後にする頃には、合唱部と同じく練習を終えた他の部活動の面々が部室棟に戻って来て騒がしくなっていた。こんなに人がいたのか、としみじみ思ってしまった。
時刻は午後七時を過ぎた頃。
(さすがにもういないよねえ。高瀬はバイトに行ったかな?)
合唱部の活動が早く終われば彼らに会ってから帰ろうと思っていたのだが、さすがに寮に帰ってしまっているだろう。
部室に戻っていくユニフォームや体操着姿の生徒たちとすれ違いながら建物の外に出る。
(帰ったらバイオリンの練習しよ)
果歩の言葉に元気と勇気をもらったせいか、矢㮈はやる気が上がっているのが分かった。
三.
昨日はただの見学と思っていたにも関わらず、実際にはほとんど体験入部のような合唱部での楽しい一時を過ごした。
真梨香を始め部員はみんな和やかで居心地よく、帰る際には部長の築地果歩から嬉しい感想と激励をもらってしまった。帰ってからバイオリンの練習に熱が入ったのは言うまでもない。
(さて、今日は諷杝たちはいるかな)
今日は屋上に向かうつもりだったので、矢㮈は愛用のバイオリンケースを手に持っていた。
「あ、笠木さん!」
鞄を持って身支度を整えた真梨香が矢㮈のところにやって来た。どこか焦ったような様子に首を傾げる。
「どうしたの?」
「ごめん、ちょっとお願いがあって」
「お願い?」
「今日も合唱部に来て歌ってくれない?」
「え?」
真梨香は切羽詰まった表情で矢㮈の前で手を合わせた。
「今日に限って新入生が来てくれたんだけど、今日に限って部員が揃わなくて! でもちょっと合唱してみせたくて! ――つまるところ人がいないんです!」
「……わ、わあ……それは……大変……」
「昨日と同じソプラノをお願いしたいの」
「ええ、それあたしじゃダメじゃない?」
「ダメじゃない! 昨日笠木さんの歌聞いた私たちの中で大丈夫だと思ってるから!」
どうやら部員たちの間では矢㮈が応援に来ることに反対する者はいないらしい。
「部長は最後まで迷惑かけるからって心配してたけど、私はダメ元で頼んでみようと思って来たの」
「築地先輩……」
彼女には昨日嬉しい言葉で見送ってもらったばかりだ。ここで放っておくには心が痛い。
矢㮈はバイオリンケースを持つ手に力を込めた。
「……分かった。ものすっごく不安だけど、あたしでよければ」
どうやら今日も諷杝たちには会えそうになかった。
高瀬也梛が黒いキーボードケースを背に屋上へ向かうと、扉の向こう側は春の暖かな日差しが溢れぽかぽかとしていた。
いつもの定位置になっている丸太のベンチがある場所まで行くと、そこにはすでに海中諷杝の姿があった。珍しく携帯の画面とにらめっこをしている。
「諷杝」
「ああ、也梛。お疲れ」
諷杝が顔を上げて応えたが、その眉は少し下がって苦笑染みた表情をしていた。
「どうした」
「うーん……矢㮈ちゃん、今日も来れないかもって」
也梛は微かに眉間に皺を寄せながらベンチに荷物を下ろし、自分も諷杝の隣に腰掛けた。
「あいつ何してるんだ? バイオリンの練習か?」
今年のコンクールに向かって練習に精を出しているのだろうか。だとしたら少しは評価してやってもいい。
「いや、学校にはいるみたいなんだけど……」
「は?」
「昨日は合唱部の見学に行くって言ってたって、也梛にも伝えたよね?」
「ああ。何で今頃って思ったから覚えてる」
別に矢㮈が今さらどこの部活に入部しようと也梛にはどうでも良いことだった。とりあえず、自分たちと音楽を続けるつもりなら中途半端なことはするなとだけ言いたい。
そんな也梛の心中など見透かしたように、諷杝が呆れた顔でこちらを見ていた。
「……今日も合唱部に行くんだって。メールが入ってた」
「へえ。じゃああいつ、合唱部に入るつもりなのか?」
確か彼女の母親もそうだったと聞いたことがある。
「それは分からないけど……何か寂しいよね」
「寂しい?」
「寂しいよ。也梛はそう思わない?」
諷杝がじっと也梛を見て来る。也梛は「思わない」と即答しようとしていたのに、結局口籠って答えられなかった。
そんな自分にいらついて、舌打ちしながらぶっきらぼうに言う。
「……そんなに気になるなら合唱部を覗きに行ってみれば」
諷杝が分かりやすく目を丸くする。何だか小動物を見ているような気分になった。
「也梛も行くよね?」
「……何で俺が」
「そう言いながら実は気になってるよね?」
「……だから何で俺が」
「うん、一緒に行こう」
「……」
諷杝が携帯をポケットに突っ込んで立ち上がる。そして座ったばかりの也梛の手を引っ張った。
「じゃあ今日は僕らも合唱部の見学ってことで!」
先程のしみったれた表情など露にも見せず、いつもの諷杝らしい飄々とした笑みがそこにあった。全く、調子の良いやつだ。
也梛は溜め息を吐いて、しぶしぶ腰を上げた。
再びキーボードケースを肩にかけて諷杝の後をついて特別棟の奥の新しい建物、部室棟へと向かう。
春休み前に軽音部の部室を訪ねてここへ来た時も思ったが、ほとんどの部活動は建物の外で活動を行うため静かだ。
「えっと、文化部は三階と四階だっけ」
三階の踊り場に貼られた部屋割りの案内図を見て四階だと判断する。だが四階へ続く階段に足をかけた時、微かに上からメロディを紡ぐ声が聞こえて来た。
楽器ではない、人の声だ。伴奏もない。
諷杝と顔を見合わせ、黙って四階へと足を進める。
奥から二番目の部屋が合唱部の部室だった。声もそこから漏れ聞こえている。
扉についたガラス窓を覗くと、部屋の中央で数人の男女が歌っているのが見えた。それを同じくらいの人数の生徒が見守るように聴いている。恐らく見学しているのは新入生だろう。
「あ、矢㮈ちゃんも歌ってる」
諷杝が小声で呟き、ガラス窓を指差した。
矢㮈は合唱部員たちの中に混じり、見たところ結構楽しそうに生き生きと歌っていた。たまに諷杝と歌っていることはあったが、あんなに堂々と歌っている姿は初めてみるかもしれない。
彼女自身、人前で歌うのは苦手だと言っていたし、何より也梛にとってはバイオリンを弾く姿の方が鮮明に記憶に刻まれている。
「これ、校歌か?」
選択授業の音楽で也梛も何度か歌わされた曲だ。諷杝も頷いた。
曲が終わり、パチパチと拍手の音が聞こえる。也梛と諷杝は入るタイミングを窺うようにそこに突っ立っていた。
「諷杝、入らないのか」
「入っていいのかな」
「いいだろ。早く開けろよ」
「也梛が開けなよ」
暫くぶつぶつ小声で言い合っていたところで、中の拍手が落ち着いて扉が内側から開いた。
そこには艶やかな長い黒髪の少女が、にこやかに微笑んで立っていた。
「見学でしたらどうぞ中へ」
「ああ、君合唱部だったんだっけ、築地さん」
諷杝が少女を見てどこか納得したように頷いた。どうやら顔見知りらしい。
「はい。一応部長です。まさか海中君が合唱部に来るなんて思いませんでした。笠木さんならお借りしていますよ」
築地という女子生徒は微笑んだまま部屋の中を振り返った。
部屋の真ん中で、さっきまで歌っていた矢㮈が馬鹿みたいに呆然と目を見開いて也梛と諷杝を見ていた。
(何でここに、って顔にまんま書いてあるな)
その分かりやすさがおかしくて吹き出しそうになるのを堪える。
「じゃあお邪魔します」
諷杝が先に入っていくのを見て、也梛も後に続いた。
四.
「それで何でわざわざ諷杝たちが来るの? しかも高瀬まで!」
何とか部活動は無事に終わり――結局、歌うことが好きな諷杝は合唱に飛び入り参加し、高瀬はしぶしぶ電子ピアノで伴奏を務めた――新入生も他の部員も帰って行った後だった。
合唱部では部長の果歩だけが残った部室で、矢㮈はずっと訊きたかったことをようやく口にすることができた。
「だって矢㮈ちゃん今日は屋上に来るかなーって楽しみにしてたのに、また合唱部に行くって連絡来たからちょっと気になって」
「何が気になったの?」
「ただの見学だって言ってたのに、気に入ってそのまま合唱部に入っちゃうんじゃないかなって。ねえ也梛?」
「俺を巻き込むな。そう思ってたのはお前だけだ、諷杝」
振られた高瀬の答えはつれない。諷杝は「ええー嘘だあ」とぼやく。
その様子に小さく笑う気配がして見ると、果歩がくすくすとおかしそうに笑っていた。
「そんな心配はいらないですよ、海中君。今日は本当に人が足りなくて助っ人をお願いしたんです。残念ながら笠木さんにはすでに入部はできないと答えをもらっているので」
「え、そうなの?」
諷杝が矢㮈を見る。矢㮈は頷いて隣に置いた自分のバイオリンケースをちらりと見遣った。
「あたしが今頑張りたいのはバイオリンと諷杝たちとの演奏だから」
「矢㮈ちゃん……なんだ、良かった」
諷杝が心から安堵したように言うので矢㮈の方が落ち着かなくなってしまった。
「そこまで心配しなくても良かったのに」
「するよー。貴重な音楽仲間だもの」
真面目な顔で言ってのける諷杝に思わず口を噤む。彼はたまに平然とこんなことを言ってのけることがあるのだから困る。
也梛も半ば呆れたような顔で諷杝を見ていた。
「海中君がそこまで言うなんてよっぽど貴重な音楽仲間なんですね、この二人の後輩さんたちは」
果歩が意外そうな顔をする。
「そうだね。少なくとも築地さんの合唱部に引き抜かれたくないと思うほどには」
のほほんと返す諷杝に果歩がまた意外そうに目を見張る。
「本当、クラスにいる時とはまるで違いますね、空気が」
「こいつ、普段はどんななんですか」
ずっと黙っていた高瀬が口を挟む。果歩は少し考えるように間を開け、
「私もクラスが同じになったのは今年が初めてだけど、誰とでも会話できる一方で、誰かとずっと一緒にいるということがないような気がします。気付いたらどこかに消えている、という感じでしょうか。私にとっての海中君はそんな印象です」
「まあ、当たらずとも外れず、かな」
諷杝が独り言ちる。
「最近は佐々木君や世良君と一緒にいる所を見かけますけどね」
佐々木は諷杝とは一年からの付き合いになるらしく、一緒にいるところは矢㮈もよく見かける。世良は昨年の音楽祭の時に実行委員で顔見知りになっていた。
「そういえばよく考えてみると、今年は合唱部部長の築地さんに、軽音部部長の世良君と、音楽関係つながりが多いなあ。担任は昨年音楽祭の担当を押し付けられた並早先生だし」
諷杝が他人事のように飄々と言ってのける。
「そうだ、諷杝。築地先輩、夏の音楽祭の演奏見てたんだって」
「え、そうなの?」
矢㮈の言葉に諷杝がきょとんとする。
「あんなに楽しそうで生き生きとした海中君は初めてみました」
「うーん、それはどうもありがとう?」
褒められているのかどうか分からないといった感じで、諷杝が曖昧に礼を言う。それから何となく室内をぐるりと見回して、独り言のように呟いた。
「軽音部の部室と違って片付いてるねえ」
昨日初めてここを訪れた時、矢㮈ももった感想だった。
「軽音部より人と物が少ないということもあるでしょうけど、この部室棟の建物全体がまだ二年と少ししか経っていないですから。それくらいであまり汚れたり散らかったりというのはないでしょう」
いや、軽音部はそれが有り得たのですが、という言葉は呑み込む。果歩は現在の軽音部の部室の惨状を見ていないのかもしれない。
「合唱部もそれ以前は旧校舎の部室を使ってたの?」
「ええ、恐らく。私が入部した時にはすでにここに場所を移していたので」
そういえば以前、春日井から彼女たちが一年の時に旧校舎からこの新しい部室棟へと引っ越し作業をしたと聞いた。ならばもう果歩が入学した時にはここが部室だったはずだ。
「そっかあ、じゃあうちの母さんがいた頃は合唱部も旧校舎だったんだなあ」
矢㮈が思わず呟くと、果歩は「そういえば」と矢㮈の方に体ごと向き直った。
「笠木さんのお母さんは元合唱部でしたか」
「はい。今でも歌うのが好きで、地域の合唱サークルに参加してます」
「そうなんですか。お会いしたことがない大先輩になりますが、その先輩がまだ合唱を続けて下さっていると聞くと嬉しくなりますね」
「昨日母に合唱部の見学と体験の話をすると懐かしそうに当時のことを話してくれました」
「あら、どんなお話を?」
「校歌の話と、あとは……」
矢㮈は昨日学校から帰ってからのことを思い返した。
夕食を準備する母親を手伝いがてら、合唱部のことを話していたのだ。
校歌が懐かしいとか、自分はどのパートを歌っていただとか、パート逆転練習で盛り上がったとか、くだらない笑い話も多かった。
その中で、少し興味を引かれた話といえば。
「合唱部にも軽音部の『置き土産』みたいに、伝統があるんですよね」
果歩が軽く目を見張って矢㮈の言葉の続きを待つ。
横で諷杝が「へえ」と身を乗り出し、高瀬も黙って聞き耳を立てている。
「合唱部は卒業生が一人一人、一番心に残った譜面を残していくとか」
母親は言っていた。
『合唱部ではね、卒業生が一人一人、一番心に残った譜面を残していくっていう伝統があるのよ。それが不思議とだいたい重なるのよねえ。やっぱりみんなで歌うからかしら。後輩はそれを見て、引き継ぎたい曲を決めるのよ』
今日まで歌い続けられている曲には、この伝統からずっと選ばれ続けた曲もあるという。譜面は丸々一曲分残す人、特に気に入ったパートを残す人、と様々らしい。
卒業した後の同窓会でその時の譜面を公開して、当時を懐かしむのも楽しみになっていると聞いた。
『母さんは何の譜面にしたの?』
『……さあ、何だったかしら?』
娘の問いに母親は軽くとぼけて見せた。それが照れ隠しだったのかどうかは分からない。しかし答えは教えてくれなかった。
もしかしたら校歌だったのかもしれないと矢㮈は勝手に思っている。
果歩は矢㮈の話を聞いてゆっくりと頷いた。
「はい、笠木さんのお母さんの言う通り、まだその伝統は健在ですよ」
「やっぱりそうなんですか! うわあ、母さんの気になるなあ」
あると分かればだんだんと気になって来る。
だがいくら母親が残したものだとはいえ、合唱部でもない矢㮈が勝手にその伝統を覗き見ることはできないだろう。
すると果歩はその心中を読んだように微かに笑った。
「ご覧になりますか? 別に部外者に見せてはいけないという決まりはありません」
「え、でも」
思いがけない申し出に逆に矢㮈の方が戸惑ってしまった。
「失礼ですが、もう二十年以上は前のものになるでしょう? 実を言うと、その頃は合唱部も人数が多くて保存も雑だったようです」
「と、言うと?」
諷杝が興味深そうに尋ねる。
「大先輩たちには大変申し訳ないのですが、倉庫のロッカーの中に積まれた状態でしまわれているのです。保存状態も決して良いとは言えません。もしかしたら旧校舎から引っ越した時に紛失したものもあるかもしれません」
「ああ、あるだろうねえ。ちなみにその倉庫はどこにあるの?」
「この部室棟の裏手にある部活の用具保管用倉庫です。そこのロッカーを一つ借りて、見つけたものを全て押し込んでいる状態です」
「うわあ。想像しただけですごそう」
諷杝の隣で高瀬も眉間に皺を寄せてしかめっ面を隠しもしない。
だが、矢㮈は母親の残した譜面が気になった。
「築地先輩、そのロッカー、見せてもらっても良いですか?」
果歩はあっさりと頷いた。
「ええ、大丈夫ですよ。では明日の放課後、合唱部はお休みですので倉庫に案内しますね」
次話〈後編〉に続きます。ここまで読んでくださりありがとうございました。
2019年最後の更新、滑り込んだ結果前編だけになってしまいすいません。
もしよろしければお付き合いください。(2019.12.30)




