それぞれのゴールデンウイーク
【主な登場人物紹介】
・笠木 矢㮈(かさぎ やな)…彩楸学園1年生。
・高瀬 也梛…彩楸学園1年生。キーボードを弾く。
・海中 諷杝…彩楸学園2年生。ギターを弾く。
【その他】
・臣原 千佳…彩楸学園1年生。矢㮈のクラスメイト。
・イツキ…白い鳩。諷杝に懐いている。
一.
今日から五連休のゴールデンウイークが始まる。
友達と遊び倒す予定の者。
部活にがっつり取り組む者――そう、友人の千佳もそうだ。
バイトに精を出す者。
過ごし方は人それぞれである。
そして、矢㮈はと言うと。
「よし、行こう」
自分のバイオリンケースを手に、自室から出て階下へ向かう。
階段を下りると、ダイニングへ通じる方と、店の工房に通じる方へと別れている。矢㮈の家は洋菓子店を経営しているのだ。
ダイニングの方へと足を向けると、丁度台所から出てきた弟と鉢合わせた。
「あ、おはよう、弓響」
「ああ、おはよう。休みなのに珍しく早いじゃん」
弟の弓響は欠伸をして、それから矢㮈の持つバイオリンケースに目を遣った。
「何、今からレッスン?」
「そう。昨日おばあちゃんに頼んできた」
矢㮈のバイオリンの先生は祖母である。祖父が生きていた頃は、どちらかというと祖父に教えてもらうことの方が多かったのだが、祖母も教えられるだけの技量持ちで今はお願いしている。
弓響が首を傾げつつ、しかし嬉しそうに言った。
「あんなに弾きたがらなかったのに、一体どうしたんだか。やっぱりオケ部に入るの?」
「ううん。オケ部は考えてない。だけど……どうしても一緒に演奏したい人たちがいて」
「へえ……どんな人たち?」
「楽しい人と、気難しいヤツ?」
矢㮈が簡潔に言うと、弓響は軽く眉をひそめた。
「何それ。全然想像できない」
「あはは。まあ、想像しにくい人たちだからね、あの人たちは。あ、そだ。弓響も一緒にレッスンする?」
「いい。俺は今日一日店番だから。それに俺は弾くのは無理だ」
弓響はうーんと伸びをして、「じゃあ」と階段を上って行った。
矢㮈は彼の後ろ姿を見送って、やがてダイニングを抜けて中庭に面する廊下に出た。この廊下は隣の祖母宅へと繋がっている。
矢㮈はバイオリンケースをしっかりと抱え込み、祖母の家へと足を踏み出した。
二.
今日からゴールデンウイークだ。
たった五日しかない休みだが、寮内には帰省する者が少なくない。
也梛は鳴らない目覚まし時計を見て、うーんと伸びをした。普段学校がある日よりも二時間は遅い。九時だ。
二段ベッドは諷杝が下段なので、上段の也梛は頭を打たないように気を付けてゆっくり梯子を下りた。
もちろん、下段の同室者はまだ安らかに眠っている。
「あー、そっか。食堂時間は変わらないんだっけ」
学園と兼用の食堂は平常通り運営されている。朝は六時半から八時まで。昼は十一時半からなので、今はものすごく中途半端な時間帯だ。
その時、下段でモソモソと毛布が動いて、眠たげな声がした。
「何―、也梛もう起きたのー? んー……まだ九時過ぎじゃん……こういう時はお昼まで寝てんのが筋でしょおー」
諷杝はそう言うとまた、也梛の方に背を向けて寝入ってしまった。
どうやら彼は昼まで寝ているつもりらしい。かと言って也梛はもう寝る気にもなれず、寝間着のジャージから外着に着替えた。
小銭入れを持って、部屋を出る。
とりあえずコンビニに行こうと思ったのだ。
コンビニから帰ると、部屋の真ん中に置かれた丸テーブルを前に、諷杝がぼんやりと胡坐をかいていた。
まだ九時半過ぎ――意外と起きるのが早かったなと思う。也梛がそう言うと、
「君が来るまではそうだったんだよー。一人部屋だったから。だけど君ってば起きるの早いから、どうしても気配で分かっちゃうし……」
欠伸と共にそんな答えが返ってきた。つまり、遠回しに也梛のせいだと言いたいらしい。
「他人のせいにするな」
也梛が呆れた顔をしてコンビニ袋をテーブルの上に置くと、早速諷杝がガサゴソ探り始めた。
「あー、ヨーグルトがある。僕これもらいー」
「……勝手にしろ」
也梛もテーブルに着いて、諷杝が手放した袋から菓子パンを一つ取り出す。
諷杝は学校のある日も朝はあまり食べない。今日もヨーグルト一つで満足そうだ。也梛にはとても信じられない。これでも健全な育ち盛りの男子高校生なのだろうか。絶対お腹がすくに決まっている。
「ねえ、也梛は帰らないの?」
「帰らねーよ」
也梛は面倒臭そうに返事をする。
家に帰った所で、いろいろと関係がこじれている父親と姉に会うのはただ気が滅入るだけだ。さらにその間を必死に取り持とうとする母親も見ていて辛くなる。
そう、たった一つ気にかかることは――
「妹さん――若葉ちゃんだっけ? 楽しみにしてるんじゃないの?」
まさにその気がかりを、諷杝はあっさりと口にした。
也梛は黙り、少ししてため息を吐いた。
「あいつも部活とかで忙しいだろ。中三だから最後の大会近いし」
「そうかなあー」
諷杝は首を傾げつつ、スプーンを口に運ぶ。
「そういうお前はどうなんだ。帰らないのか」
反対に、尋ねてみる。
すると彼は二段ベッド下段の自分の枕元にある携帯をちらっと見て、少し困ったような、でもどこかうれしそうな表情をした。
「五日の日に、日帰りで帰ろうかと思ってる。昨日末っ子からメールをもらってね」
「末っ子? お前、兄弟いたっけ?」
彼の家族のことについて聞くのは初めてだ。でも確か、諷杝は一人っ子であったと以前聞いたような気がする。
「あれ? 前に言わなかったっけ? 僕はもともと一人っ子だよ。だけど、両親を事故で亡くしてから、父親の知り合いにお世話になってる。そこでの兄妹が、兄一人と妹一人」
そういえば両親は亡くなったとか何とか、さらりと言っていたかもしれない。
「兄さんもちょっとした縁で引き取られたんだけど、妹の方は正真正銘夫婦のお子さんの一人娘。まだ小学三年生なんだけどねー、これがかわいくて」
諷杝がわが娘のように言う様を見て、少しおかしくなる。だが彼は彼で、いろいろ複雑な事情持ちなのだろう。
也梛は特に深く問いもせず、さらりと流すことにした。
「そうか。ならちゃんと帰ってやれ」
「うん、そうする。あ、そだ」
空になったヨーグルトの容器をテーブルに置いて、諷杝が手をポンと打つ。
「もし何もないなら、君も家に来る?」
「は」
「五日ってこどもの日でしょ? だからチマキとか柏餅とか出ると思うんだよね」
「……何かそれ聞いて行くと、ものすっごい俺食いしん坊と思われないか……?」
「何言ってんの。もう十分也梛は食いしん坊だよ」
諷杝は遠慮なく笑って、「それに」と付け加えた。
「家に置いてきたモノがいくつかあって、それを取りに行きたいんだ。君と矢㮈ちゃんのためにね」
「置いてきたモノ?」
不思議そうな顔した也梛に、しかし諷杝は何も答えず「ごちそうさまでした」と手を合わせた。
「まあとりあえず考えといてよ。てか今日は、君はバイトだった?」
「ああ、そういえば。午後からだけど」
也梛は週に三回、バイトを入れている。別に遊ぶ金欲しさというわけでもなく、ただ父親への対抗心で始めた。
しかしバイトなら諷杝もたまにやっているようだ。
「お前は?」
「僕? 今日はオフなんだ。その代わり明日は一日バイト」
「ふーん。じゃあまた昼からも寝るつもりか?」
「そんなわけなでしょ。イツキさんとぶらぶら散歩でもしてくる」
「……もっと他にないのか。つーかお前、折角の休みなんだから、誰かと遊ぶとか」
鳩とデートかよ、と思わず突っ込んだ也梛に、諷杝は気にするふうもなく慣れたように笑う。
「人とどこかに出掛けるよりも、鳩相手の方がずっと楽だからね」
「……」
たまに彼はこんなことを言いだす。
別に彼の交友関係が悪いというわけではない。ただ、広く浅い――そんな感じがする。
「鳩相手なら、まだ笠木の方がマシだと思うけど」
「ああ、矢㮈ちゃんねえ。最近あまり顔出さないよね。どうしたんだろう?」
也梛と同じクラスの笠木矢㮈は、ひょんなことから諷杝と仲良くなっていた。也梛と諷杝のいる放課後の屋上に、ちらほらと顔を出す。だが四月末頃から、以前より頻繁には現れなくなっていた。也梛はクラスで彼女の姿を見るものの、諷杝は大分ご無沙汰らしい。
「どこかの部活でも入ったのかな? それともバイトとか」
「さあな。そんな話は聞いてないけど」
しかし最近の矢㮈は、最後の授業が終わるやいなや、掃除当番でもない限りさっさと帰ってしまう。
「まさか彼氏ができたとか?」
「それだと臣原辺りがうるさいはずだけどな」
也梛が見る限り、男関係ではないような気がする。
何というか、そう、
「好きなものが待ってます――みたいな。俺らが音楽やるような感じ」
「へえ……。何に向かってるんだろうね」
「知らない」
也梛とて、同じクラスだからと彼女とよく話すわけではない。そもそもお互い仲が良くないのは分かっているので、進んで話はしない。
「休みが明けたら聞いてみようかな」
「まあお前になら、教えてくれるんじゃないか」
也梛は再び袋の中を探って、もう一つ菓子パンを取り出した。それを見て諷杝が呆れた顔をする。
「よくまあ朝からそんな甘いモン二つも食べられるね、也梛」
「少食のお前よりはマシだろ」
ゴールデンウイーク初日の朝だった。
三.
三日の日は千佳の部活が無いと言うことで、矢㮈もレッスンを午前中だけにしてもらい、電車で二駅程のショッピングモールに出掛けた。
千佳は少し初夏が薫るワンピースをすらりと着こなして、同性であるにも関わらず矢㮈をドキリとさせた。さすが、スタイルが良い。
しかし彼女は見かけによらないサバサバとした口調で、肩をすくめた。
「何か悲しいわよねー。ほら、見て見なさいよ、笠木。大半がカップルじゃない」
「え、そう? 親子連れも……」
「あー、高瀬君が私服でこういう所来る姿とか、見てみたいよね」
出た、高瀬。矢㮈は軽く眉をしかめた。
「いやあ……高瀬はこんなトコ来るようなキャラじゃないと……」
「だから、そのギャップがいいんじゃない。特にあの眼鏡外したら、結構良いと――あ、そうそう、あんな感じ」
千佳が数メーター先の小物屋から出て来た男を指さす。
背が高くて、ジーンズにTシャツ、その上に軽く長袖のものを羽織っている。その男の少し前には、彼をふり返る笑顔の女の子がいた。カップルに見えなくもないが、あれはどちらかというと兄妹のように見えた。
確かに背の高さなど、高瀬と似ていなくもない。だが顔はというと距離があってよく分からず、眼鏡を外したら云々に関しては何とも言えなかった。
(ってか……高瀬はどーでもいいんだってば)
矢㮈は千佳の手を引っ張って、さあ行こうと促す。
まだお昼を済ませていなかったので、まずはお腹を満たしに行こう。
(高瀬よりもむしろ諷杝の方が来そうだけど……)
諷杝と一緒にイツキの存在も思い出して、矢㮈は一人で苦笑した。
四.
二日の夜遅くに、妹の若葉から緊急メールが届いた。
也梛が家に帰らないからと、若葉の方がこちらに会いに来ると言う。
次の日の朝、これを聞いた諷杝が笑った。
「あはは。さすが君の妹。行動力は瓜二つ」
「笑い事じゃねえ。いきなり夜中に『明日行く』ってメールが来たんだぞ」
「それだけお兄ちゃんに会いたかったんでしょ。それに結構うれしそうだったけど?」
「……」
わざわざ寮まで来てもらっても何もないので、ここから一駅先のわりと大きな駅で待ち合わせることになっている。
今日はちゃんと起きて食堂で朝食を取った諷杝がバイトへ行く準備をしている横で、也梛も身支度をしていた。諷杝のバイト先も一駅先で、一緒に行くことになったのだ。
さすが連休。最寄りの駅は決して大きいわけではないが、家族連れが多い。いつもより少々混んだ電車に乗って、待ち合わせ場所へと向かう。
十五分も前に着いたのに、そこにはもう若葉の姿があった。肩より少し長めのストレートな黒髪が目に飛び込んできた。
「あ! お兄――ちゃん?」
若葉が也梛に気付いて、すぐに訝しげな表情になった。
「どうした」
首を傾げる也梛の隣で、諷杝がにこやかに笑う。
「こんにちは、若葉ちゃん。前に一度会ったはずなんだけど……覚えてる?」
若葉がひとまず兄からその友人へと目を移して、やっと笑顔になる。
「海中さんですよね。お久しぶりです。お兄ちゃんがいつもお世話になってます」
「いやいや、いつもお世話しているよ」
軽く返す諷杝に、也梛が低い声で言う。
「俺が、お前をな」
当然、彼にはスルーされる。
若葉の視線がもう一度兄に戻って、再び眉をひそめる。
「だから、何なんだ」
也梛も思わず眉をひそめ返すと、若葉はうんと背伸びをして手を伸ばし、也梛の顔から眼鏡を奪い取った。
「なっ……」
「眼鏡かけて良い子のふりしたお兄ちゃんと並んで歩きたくないの。それに、はっきり言って、似合わない」
若葉は眼鏡をさっさと也梛の斜め掛け鞄のポケットに押し込み、諷杝の方に向き直った。
「海中さんも何とか言ってやって下さい。だって目悪いわけでもないのに、伊達をかけてるんですよ?」
「んー、まあ、そうだけど……」
諷杝は困ったように笑い、ちらりと也梛を見る。
これ以上この妹のグチに付き合わせるのは可哀そうだ――しかも兄の也梛の悪口に。
也梛は携帯の時刻表示を確認した。
「諷杝。そろそろ行った方が良いんじゃないか」
「うん、そうする。じゃ、またね」
どこかほっとしたように諷杝が手を振って離れて行く。
「海中さん、どっかに用事?」
「ああ、今日は一日バイトらしい」
也梛は欠伸をかみ殺すと、久しぶりにレンズを通さずに見る景色に目を細めた。
「折角来たんだ。今日はとことんお前の相手をしてやる」
兄の言葉に、若葉の顔が笑顔になった。
「じゃあ、まずはあそこの小物屋!!」
五.
五日。世間では『こどもの日』である、端午の節句だ。
余裕で日帰りできる範囲にあるという諷杝の養父母の実家を訪ねるため、也梛は昨日妹と出掛けた先で買っておいた土産を横に準備した。それを見た諷杝が笑う。
「そんなに気を遣わなくていいよ。皆気さくな人たちだから」
「そんなこと言ったって、一応お邪魔するんだから礼儀だ」
その辺りは、これでも厳しく躾けられている。
諷杝は「あっそー」と言って、特に持ち物もなく身軽な格好で支度を終えた。
「さて、行きますか」
夕方には帰る予定だが、昨日に引き続き外出届けを出して寮を出る。
思い返してみれば、諷杝とこれ程遠出をするのは初めてかもしれない。
電車を二度乗り継ぎ、バスに二十分程乗って、バス停からは歩いて十分。田畑が広がる風景は田舎に近いからだろうと思ったが、それ程田舎でもないと諷杝は言う。すぐ近くに大きなデパートやらがあるらしい。
「へえ、結構すぐじゃねーか。何でお前寮に入ってんだ?」
也梛が隣を歩く諷杝に訊くと、彼は軽く眉を寄せた。
「僕の寝起きが悪いのは知ってるよね? 早起きは得意じゃないから、毎朝あれだけの乗り継ぎは辛いでしょ。それに……」
「何だ」
「……いろいろと、面倒臭いから?」
「はあ? 意味が分からん」
也梛が肩をすくめると、諷杝はそれ以上何も言わずに微笑んだ。
閑静な住宅街の一角に、その家はあった。まあまあの大きさの庭を持っていて、中からは時折犬が吠える声が聞こえた。
諷杝が低い門を開けて、也梛を中へと招いた時、
「ワンッ!」
中型犬が諷杝の足元へと跳びかかった。
すぐに門を閉めて、諷杝がその犬をよしよしと宥める。
「アキ、落ち着いて。分かった分かった」
どうやら犬の名前は『アキ』というらしい。
全くこいつは鳩と言い犬と言い人間以外のものによく懐かれるなあと也梛が呆れていると、一方から声がした。
「今帰って来たのか」
口調はどこかぶっきらぼうだったが、その人自身はとても優しそうだった。
「あ、正兄。ただいまー」
諷杝がアキから顔を上げてその人を見る。
短く刈った髪、背は也梛よりも高い。肩幅もあるので、がっしりとしている。
諷杝が也梛に紹介した。
「この人は兄の正春さん。今大学生」
「あ、初めまして。高瀬也梛です」
也梛が頭を下げると、正春も丁寧に頭を下げた。
「無口だけど、優しさは天下一品だよ」
正春がアキを連れて散歩に行ったのを見送ってから、諷杝が言った。也梛は「ふーん」とうなずきつつ、ふいに首を傾げた。
「正春さんなのに、何でショウニイなの? マサニイだろ?」
すると諷杝は苦笑する。
「細かいなあ、君は。僕が小さい時『正』をショウって読んじゃって、それからずっと正兄なんだよ」
「あー、なるほど。お前漢字苦手だもんなあ」
その間違った呼び方を許す正春は、やはり優しい――いや、単なる面倒臭がりか。
玄関の前に着いて、諷杝がノブに手をかけた時、勢いよく内側から扉が開いた。
「!?」
思わずびっくりする二人の前に、二つくくりにした女の子が現れた。女の子が先程のアキのように諷杝に跳びつく。
「諷兄ちゃんお帰りなさい!!」
「ただいま、茜。元気そうだね」
諷杝も笑顔で女の子の背を撫でている。多分この子が義理の妹なのだろう。
「あらあら。こんな所で。茜、お兄ちゃんたちにお茶出してあげないと」
娘の声を聞いた母親――諷杝の養母になるのか――が、玄関先へとやってくる。柔らかそうな雰囲気の人だ。
「遥音さん、お久しぶりです」
「お帰りなさい、諷杝。元気そうね。春休みは帰って来なかったから、心配してたのよ」
遥音は息子に安堵する笑みを向け、それから也梛の方を見た。
「あら、そちらがお友達の?」
「うん、そう。ルームメイトの高瀬也梛クンだよ」
そう紹介する諷杝は茜に手を引かれ、玄関から上がって廊下の奥へと連れて行かれてしまった。それをあ然と見送った也梛に、遥音がクスクスと笑った。
「茜ったらよっぽどうれしいのね。さて、也梛君も上がってちょうだい」
「あ、はい。お邪魔します」
也梛は言いつつ手にしていた土産を渡した。
「まあ、別に気なんか遣わなくて良かったのに」
「いえ、一応礼儀です」
今朝諷杝とも同じような応答をしたのを思い出しておかしくなる。
遥音は也梛に礼を言い、それから笑顔を向けた。
「あの子が友達を連れて来るなんて初めてのことなんだから。あなたが来てくれたことだけでも、私はとてもうれしいわ」
也梛は曖昧に微笑み返した。
居間でお茶を出されて一息ついている間に、もう一人新しい顔が現れた。
「おー、諷杝。帰ったか」
「パパだー」
諷杝の傍から離れなかった茜が、居間の入り口に立つ男性の元へと駆け寄る。三十代後半くらいに見えるその人は、長めの茶髪で顎鬚も少し伸びていた。
「真生さん。全然変わりませんね」
諷杝が苦笑しながら言う。真生は茜を抱き上げて笑った。
「そう簡単に変わらないさ」
この人が茜の父親にして、諷杝の養父なのだ。彼は茜を下ろすと、テーブルを挟んで也梛の前に座った。
「君が諷杝の言っていた友達か。いつも世話かけてるだろう、諷杝は」
「ええ、まあ」
也梛が「お世話してます」と言おうとすると、
「違いますよ、真生さん。僕が也梛の世話をしてるんです」
諷杝が真顔でそんなことを言い出す。
「なっ……」
「也梛ってば手を焼かせるんですよー、ものすごく」
也梛はコップを置いて隣の諷杝に向き直った。
「どうしたの?」
いけしゃあしゃあとそう訊ねてくる諷杝が、さらに呆れさせる。
「ホント……お前はよく言うよ」
結局怒る気も失せて也梛が佇まいを直すと、向かいで真生が吹き出した。
「こりゃあ本当に也梛君が気の毒だ。諷杝に振り回されちゃって」
「どういう意味?」
「ホント笑い事じゃないですよ」
諷杝と也梛が同時に言う。
そこへ台所から遥音が顔を覗かせた。
「あなた、ちゃんと柏餅とか買って来てくれた?」
「え? ――あ!」
真生がしまったという風に口に手をやる。
「あー、パパ忘れたんだあ」
茜が言って、真生が立ち上がった。
「今から行って来るよ」
それなら茜も行くと言って、親子はさっさと出かけてしまった。
居間が一気に静かになる。遥音は台所で昼の準備だ。
也梛はふうと息を吐いて、諷杝に言った。
「いい家族だな」
「まーね……」
諷杝は曖昧に笑って、ゆっくり立ち上がった。そして首を傾げる也梛の手を引っ張って立たせると、廊下に出る。
「おい、どこ行く……」
「僕の部屋だよ。言ったでしょ、やることがあるって」
諷杝は二階への階段を上がり、奥から二つ目の障子戸を開けた。彼の部屋は和室らしい。中の六畳間はがらんとしていて、端に本棚と机があるだけだった。
「うわー、むちゃ殺風景……」
自分の部屋もここまで物がないということは無い。
「ホント、そうだよね」
諷杝はうなずきつつ部屋の奥にある襖を開けた。押し入れの上段にはたたまれた布団が綺麗に入っている。一方下段にはカラーボックスなど整理系の箱が詰められていた。
その箱の一つの引き出しを開けて、ガサゴソ奥の方を探る。
何かファイルのようなものがたくさん入っていた。
「何探してんだ?」
「んー? ――っと、これこれ。あったあった」
ようやく諷杝が目当てのものを見つけて、それを也梛の方へ差し出した。一冊の、袋付きファイルだった。プラスチックなのに、表は色褪せて薄い黄色に変色している。
中を見ると、透明な袋に入っていたのは手書きの楽譜だった。
「これって……」
楽譜の音符を追うだけで、だいたいのメロディーを掴むことはできる。
諷杝は涼しげな表情で、軽く微笑んだ。
「そう。あの曲の楽譜。まあ、途中までなんだけどね」
六.
「ええ!? チマキも柏餅も買ってないの!? いくらうちが洋菓子店だからって、それはないでしょ!?」
夕方。五日の今日は『こどもの日』だ。
閉店間近の店内で、矢㮈はショーケースの向こう側にいる母親に叫んでいた。
「あたしたちは日本人なのよ!?」
「そうなんだけどねぇ。買いに行くヒマがなくて」
母親は困った顔をしつつ、エプロンのポケットから財布を出した。
「そんなに食べたいなら、買って来てよ、矢㮈」
「えー、あたしがあ?」
「弓響は工房の方の片付け手伝ってくれてるのよ」
――それならば、仕方がないか。
矢㮈は「行って来ます」と背を向けて、店を飛び出した。
だが、目的のものを手に入れる道は険しかった。
近くのスーパーに行ったのだが、虚しくも売り切れ。
続いてスーパーから少し離れた所にある和菓子屋へ行ったが、こちらもチマキと柏餅は完売だった。
「何でぇー?」
矢㮈は自転車を飛ばして、一駅先の学校近くの小さな和菓子屋にまで向かった。店番をしていたおばあさんが、勢いよく入って来た矢㮈を見てびっくりしていたが、そんなことなど気にせず目的のものを探す。
ショーケースの中には、わずかにだがそれぞれいくつか残っていた。
「あったあー! おばあさん、これを四つずつ下さい!」
満足感と共に和菓子の入った紙袋を抱えて店の外に出た時、
「あれ? 矢㮈ちゃん?」
思いがけない声に呼び止められた。
ふり返ってみると、片手を上げた諷杝と、その少し後ろに高瀬がいた。
二人共、もちろん矢㮈も私服で、なぜか変に緊張する。
「何してるの? こんな所で」
「え、ああ、ちょっと和菓子を買いに」
「そうなんだ。でもわざわざこんな所まで……」
当然のように諷杝が首を傾げる。そこでやっと高瀬が口を開いた。
「笠木の家の周りには和菓子屋はないのか」
「いや、ないっていうか……」
矢㮈はため息を吐いて、仕方なくここまでの経緯を二人に白状した。
諷杝がきょとんとして、高瀬は思いきり眉をひそめて和菓子の入った袋を見る。
「矢㮈ちゃん、そんなに食べたかったんだね。頑張ったね」
「そこまで食い意地張ってたのか、お前。呆れるな」
「だってっ! 食べたかったんだもん!!」
家が洋菓子店故なのか、たまに無性に和菓子が食べたくなることがある。
それに今日は『こどもの日』だ。矢㮈だってまだまだ子どもで、我が儘を言ってもいいだろう。だいたい自力でここまで来たのだ。文句を言われる筋合いはない。
矢㮈はそこでふと思い、二人に尋ねた。
「二人は柏餅食べないの?」
「ああ、それならもう食べて来たよ」
諷杝が笑って答える。
「十分食って来た帰りだけど」
高瀬も付け加える。
つまりこの場でまだ食べていないのは矢㮈だけ、と。
(あー、何か腹立ってきた……)
早く帰って食べよう。祖父にも供えなければならない。
矢㮈は自転車の鍵を外し、サドルに跨った。
「帰るね。じゃあ」
「気を付けて。もう暗くなってきてるし」
諷杝がそう言って手を振る。そのさり気ない心配りが彼らしくてうれしい。
「うん、ありがと」
「大丈夫だろ。和菓子を死守するくらいの根性ありそうだし」
いつものように、諷杝の言葉と矢㮈の気持ちを台無しにする一言が放たれた。もちろん言ったのは高瀬だ。
「あんたねぇ……。今度連休明けの席替えで、千佳ちゃんの隣になることを祈ってやる!」
「あーそうかい。せいぜい祈っとけば、ヒマ人」
「何よ!?」
エスカレートする二人の言い合いに、諷杝がやれやれとため息を吐く。
「ほら、二人共その辺にしときなよ。もう本当に日、暮れちゃうよ?」
矢㮈はふいと高瀬から顔を背けた。高瀬もふんと横を向く。
「じゃあね、矢㮈ちゃん」
「――うん。バイバイ」
諷杝の笑顔に気を取り直して、矢㮈は自転車を漕ぎ出した。
早く、帰ろう。
七.
六日。ゴールデンウイークの最終日は、珍しくも皆似たような一日だった。
連休に出た大量の宿題を、一晩で一気に仕上げるのである。