選んだもの〈後編〉
※前話第38話「選んだもの〈中編〉」の続きです。
【主な登場人物紹介】
・笠木 矢㮈(かさぎ やな)…彩楸学園高校1年生。
・高瀬 也梛…同高校1年生。キーボードを弾く。
・海中 諷杝…同高校2年生。ギターを弾く。
【その他】
・若宮 拓…前の中高での高瀬の同級生。
・鶴見香凜…同上。
五.
「お前ら、バレンタインデーの時期に春日井先輩の探し物を手伝った件覚えてるか?」
自動販売機で飲み物を購入し、お気に入りのベンチに向かった。
也梛にとってこの公園はもはや自分の家の庭という感覚で、そのベンチは特等席だった。あの頃と景色が変わっていないのが地味に嬉しく感じる。
今日も周りに他の人の気配はなく、木々の向こうの大通りを走り抜ける車の光が時折視界の端でちらつくくらいだ。それすらも意識しなければ気にならない。
「それってあの、春日井先輩の軽音部の先輩が残した置き土産をみんなで探した時のこと?」
諷杝を真ん中にして等間隔でベンチに座ると、矢㮈が身を乗り出すように也梛の方を見た。
「ああ、それ」
「全っ然ヒントがなかったのに、突然也梛が驚くほど鮮やかに見付けちゃったんだよね」
諷杝が夜空を見上げながらぼんやりと言う。
二月半ばのバレンタインデーの時期。この春卒業してしまった春日井という女子の先輩の頼みで、也梛たちは彼女の探し物を手伝った。
春日井が探していたのは、彼女が一年の時に三年だった先輩が残したという置き土産だった。彼女が二年かけても見つけられなかったその「先輩の置き土産」を、最終的には也梛が見つけることになってしまった。
也梛が発見するに至ったきっかけは、単なる自身の経験則からであった。当たる確証も何もなく、ただどうしようもない状態の現状を打破したくて思いつきを言ってみただけだったのだが、それがまさかの当たりだったというわけだ。
何となく、隣の諷杝を真似するように夜空をぼんやりと見上げる。
「あの時諷杝に言われたこと、実は図星だったんだ」
「僕何か言ったっけ?」
諷杝はわざとなのか本気なのか分からない口調で不思議そうにする。
「俺がギターケースに目をつけた理由について、お前訊いて来ただろ」
一件落着した後、彼は也梛に尋ねて来た。
どうして也梛はギターケースに目をつけたのかと。――そもそも、春日井の先輩が残した物がどんな物かも分からなかったのに。
『君がギターケースに目をつけた理由。心当たりがあるって言ったのは、前に也梛にも似たような経験があったから?』
也梛はその時、ふいを突かれたように黙り込んでしまった。
諷杝はいつもぼんやりしているくせに、たまに変に勘が鋭い時がある。そしてそれは何気ない空気を平然とぶち破ってくるのだ。
「ああ、そんなことも言ったような気がする」
「言ったんだよ。で、その時俺は適当にはぐらかした」
「うん、そうそう。高瀬はぐらかしたよね」
ここで横から頷いてきたのは矢㮈だ。
「あたしも、絶対何か隠してるって思ったもん。あの状態のあんたじゃ何も話さないだろうなとも思ったけど」
肩を竦める彼女に少しイラっとするが、約一年間顔を突き合わせてきただけあって彼女もまた也梛の性格を理解してきている。
諷杝がゆっくり息を吐いて、くるりと也梛の方に顔を向けた。その穏やかな表情はいつもと変わらない。くだらない雑談をする時に浮かべている表情と同じだ。
「ということは、やっぱり也梛にも似たようなことがあったってこと?」
「……そうだ」
「そっか。でも僕は別にそれを無理に聞きたかったわけじゃないし、あの時也梛がはぐらかしたんならそれはそれで良いんじゃない?」
そして諷杝は平然とそんなことを言う。
そんな彼を見ていると、自然と眉間に皺が寄って行くのが自分でも分かった。
「お前、さっき俺のことを知りたいだの何だの言ってなかったか?」
言っていたことと実際の態度がまるで違うではないか。也梛のことを知りたいと言うからこうして話そうと思ったのに。本当、この天然マイペースは一体何を考えているのだ。
「言ったよ? でも、也梛が話したくないことなら無理強いはしたくない。誰にだって言いたくないことはあるだろうし」
「お前……」
どこか話が噛み合っていないような気がする。そもそもここで話さなければ鶴見のことを二人に説明できなくなる。
也梛は一度諷杝から視線を外し、ゆっくりと息を吐いて気持ちを落ち着けた。
「……俺は今話したいから話してるんだよ。だから黙って聞け」
そう、これは二人に話してほしいと頼まれたから渋々話しているのではない。也梛自身が話したいと思ったから話すのだ。
諷杝は一つ頷くと、聞く体勢でこちらを見つめた。その奥では矢㮈もまた同じだった。
「ていうかそもそも、春日井さんの件で思い出した自分の経験っていうのが鶴見絡みなんだよ」
也梛は膝の上に黒いキーボードケースを引き寄せた。
蓋を開け、本体の下にある内ポケットの一つに指を指し込み、四つ折りの便箋を引き出した。
中には丁寧で少し丸みのある優しい文字が並んでいるはずだ。
也梛は指に挟んだ紙片を二人に見せるように軽く振った。
「彩楸に入学する前、俺のキーボードケースの内ポケットにこれを忍ばせたヤツがいたんだ」
春日井のギターケースの内ポケットに置き土産を忍ばせた彼女の先輩のように。
矢㮈が目を見開いて諷杝の隣に並ぶように身を乗り出した。視線は也梛の指の間にある紙片に注がれている。
「中身は見せられないが、これは手紙だ。そしてこれを書いてここに入れたやつが――」
也梛の頭の中に過ぎったのは、昨日再会して今日別れた彼女ではなく、一年前の、当時の儚い彼女の姿だった。
「同級生の鶴見香凜。お前たちが知りたがってる彼女のことだ」
***
彼女とは別に同じクラスでもなければ、そもそも学校ではほとんど会うことがなかったと言える。
初めて彼女と会ったのはまさに今いるこの公園だった。
ある日の夕暮れ近く、也梛が一人でキーボードを気分のままに弾いていると、どこからかひょっこり現れて、暫く也梛の音楽に聴き入っていた。
すぐにいなくなるだろうと思って無視していたのだが、也梛が弾く手を止めても、彼女は興味深そうにキーボードを見つめたままその場所から離れなかった。
「……何?」
仕方なく訝し気に尋ねると、彼女ははっとしたようにキーボードから也梛の顔に視線を移した。
「あ、ごめんなさい。えっと、音がすごく心地よくて……聴き入ってしまいました」
「はあ、それはどうも」
淡々と返した也梛に、彼女は一層焦ったように視線を彷徨わせ、恥ずかしさからか頬を赤らめた。
もう太陽が半分は沈みかけている時間帯。年頃は也梛と同じくらいか少し下に見えたが、私服姿からして学校帰りというわけでもなさそうだった。しかも荷物らしきものがなく、全くの手ぶらだ。近所に住んでいてコンビニでも行くところだったのだろうか。
「あのっ」
彼女が顔を上げて何かを言おうと口を開いた。
「香凜!」
それより大きな声で呼ぶ声がして、彼女につられて思わず也梛もそちらを見た。
ずんずんとこちらに向かって歩いて来る少年の姿があった。こちらも私服姿で少し大き目のリュックを背負い、両手にはトートバックと紙袋を提げていた。
「はっちゃん」
どうやら彼女の知り合いらしかった。彼女は困ったように眉を下げて背の高い少年を見上げた。
少年は也梛の存在に気付くと思い切り睨みつけて来た。――初対面なのに失礼なヤツだ。也梛はふいと視線を逸らせて、何事もなかったようにキーボードを片付けようとした。
「ほら、早く帰るぞ香凜」
「あ、うん。……でも、えっと……」
彼女はなぜか也梛の方をちらちらと見て何か言いたそうにしていた。
「……何?」
仕方なくもう一度訪ねるが、彼女は口籠ったまま何も言わない。
也梛は溜め息を吐いて、テキパキとキーボードをケースに片付けた。
「行くぞ!」
結局、彼女は痺れを切らした少年に引っ張られるようにその場を去って行った。
也梛にはさっぱり分からない出来事でしかなく、すぐに記憶の隅に追いやってしまった。
――のだが。
次に彼女と会ったのは、それから一か月程した後だった。
日暮れ時、公園で、というのは前回とまるきり同じシチュエーションだった。だが、その日の彼女は制服に身を包み、学校指定の通学鞄を肩にかけていた。
そして前回同様、也梛の気分で奏でられるキーボードの音にじっと耳を澄ませていた。
也梛がキーボードから指を離しても、余韻に浸るかのようにぼうっと突っ立っていた。
「おい」
「!」
声をかけるとようやくはっとしたようにこちらを見る。前も同じような反応をみたような気がした。
「あ、えっと、あの……」
「その制服、同じ学校だったんだな」
とりあえず気付いたことを口にした也梛に、彼女は一瞬ポカンとした後におずおずと頷いた。
「はい。私はこの春、高校からの入学です」
也梛が通う学校は中高一貫校で、也梛の場合は中学からの内部進学だった。同じ一年であるようだが、残念ながら高校に進学してから彼女の姿を見た記憶は無かった。
会話のとっかかりが掴めてほっとしたのか、彼女は前よりも自然に口を開いた。
「鶴見香凜です。初めまして……ではないですけど」
先に名乗られてしまってはこちらも応えざるを得ない。
「……高瀬也梛だ。そういえばこの前もここで会ったような気がするが、何か俺に用でもあるのか」
「あっ、えっと、その……」
香凜はどう言ったものかと考えるように逡巡し、やがて意を決したように真っ直ぐにこちらを見た。
「私、高瀬君のそのキーボードにすごく勇気をもらったの。だからありがとうって伝えたくて」
その言葉の意味が全く分からず話を聞いてみれば、香凜は先日この公園で出会うよりもさらに前に也梛のことを知っていたらしい。
彼女は幼い頃からの持病で体が弱く、昔からこの近くの大学付属病院で入退院を繰り返していたそうだ。さすがに中学生になる頃には入院までは滅多にしなくなったが、受験後に体調を崩して高校入学直前の春休みは病院で過ごしたという。
そんな病院生活のある日、偶然にも也梛のキーボードの音を聴いたことがあったらしい。
「病院で俺のキーボードを聴いた?」
「うん。高瀬君、妹さんのために弾いてあげてたんだと思うんだけど……」
妹といえば二つ年下の若葉のことだろうか。病院と妹のキーワードを元に記憶を遡ってみた。
そして思い出した。そういえばこの春に、妹がスポーツでけがをして、短期入院したことがあった。確か病院は香凜の通う大学付属病院だったから、その時のことかもしれない。
「同室の人がいない時にこっそり弾いてあげてたのを偶然見かけて」
「……そんなこともあったか」
生憎、也梛にとっては妹にキーボードを弾いてやった記憶もぼんやりとしか思い出せなかった。加えて香凜の姿を見た記憶は全くない。
「不思議なんだけど、私思わずその音楽に聴き入っちゃって。それからも度々こっそり聴いてたの」
「聞き耳を立てるくらいなら出て来れば良かったのに」
「え、そんなことっ……」
香凜は目の前でバタバタと手を振ってなぜか「無理無理!」と連呼した。一体何が無理なのか。
「入院するのが久しぶりだったこともあって、合格が決まっても高校でやっていけるのかなってすごく不安になってたの。でも、あのキーボードの音にすごく気持ちが楽になったような気がして」
也梛の弾く音に特別セラピー的な効果はなかったように思うが、彼女にとってはそういう効果があったのだろうか。
「結局入学してからも体調は安定しなくて、まだ病院通いは続いてるんだけど、この前ここで高瀬君を見付けて、またあのキーボードの音が聴けて……すごく嬉しかった」
香凜の頬が上気し、目が輝いたのが分かった。也梛は相槌も打てずに黙って彼女を見返した。
体が弱いと聞いてから、そのどこか儚げな彼女の姿に納得したような気がする。信じられないくらい華奢な体に、色白の肌がそれに一層拍車をかけるようだった。強風でも吹けば冗談でなく簡単に吹き飛ばされてしまいそうである。
「……よく俺のキーボードの音覚えてたな」
也梛が溜め息を吐きながら言うと、
「忘れるわけないよ! それだけ、心に残ってるもの」
香凜はどこか自信満々に答えてにっこりと笑ったのだった。
それから度々、彼女を公園で見かけるようになった。病院通いの帰りだけでなく、事前に也梛がいることを確認した上でひょっこり現れてはキーボードの音色に耳を澄ませていた。
そして彼女が帰る頃には、決まって幼馴染だという梅村八弥が迎えに来た。也梛に対しては敵対心剥き出しだったが、喧嘩を吹っ掛けてくることはなかった。香凜に何か言い含められていたのかもしれない。
そうして彼女と馴染むのに時間はかからなかった。
初めは也梛が好きなように弾き、それを香凜がただ聴いているだけだった。だがいつの間にか、何か聴きたい曲はないかとリクエストをきき、彼女の嬉しそうな顔を見るのが楽しみにもなっていた。
当時、也梛が弾くキーボードをちゃんと聴いてくれたのは、恐らく若宮拓とこの鶴見香凜の二人だけだった。しかし若宮は彼自身が歌う者であり、也梛とは音楽仲間でもあった。
その点香凜の場合は、完全な聴き手だった。彼女自身は歌うでもなく、楽器を演奏するでもない、ただ也梛のキーボードに耳を澄ませる存在だった。
そんな存在が、かえって特別に感じられたのかもしれない。
彼女とは学校ではクラスが違うこともありあまり接点はなかったが、公園での交流は途切れることなく続いていた。
彼女は相変わらず持病と闘っていて、本人の意思に関わらずどうしても不調になってしまう時があった。そんな時、也梛には直接何かすることはできなかったが――むしろ彼女の幼馴染の梅村の方がサポートを心得ていた――彼女のためにキーボードだけは弾き続けた。
結局、彼女との関係は付かず離れずのまま、あの冬を迎えることになった。
***
水分を口に含んで喉を潤す。こんなに一方的に喋り続けたのは随分と久しぶりかもしれない。
諷杝はいつものやんわりとした顔で、矢㮈はどこか緊張した顔で也梛の話の続きを待っていた。
「ちなみに言っとくと、冬を迎える前の秋にバイトで諷杝と出会って、俺は彩楸学園に入学することを決めた」
ペットボトルの蓋をしめて、何となくラベルを見つめる。しかし目は印字の上を無駄に素通りするだけだ。
「まあここまで来たら予想はつくんじゃないか」
自嘲気味に笑って、また彼女との記憶に意識を戻した。
***
也梛が現在の高校を退学することを彼女に伝えた時、彼女は少し眉を下げて「そう」とだけ言った。
彩楸学園に入ることを決めてから、也梛は学費は親に返すと予め決めていたので、今まで以上にバイトに励むようになった。
自然と公園に行く回数が減り、彼女に会うことも減って行った。
退学日までの学校生活でも彼女と顔を合わせることはなかった。
香凜が普通に学校生活を送っているのか、それともまた体調を崩しているのかすら分からなかった。
退学する日、初めて自分から彼女の携帯にメールを送った。
たった一年にも満たないが、若宮の他に特別多く関わった友人だ。最後に挨拶くらいしておくべきだろうと思った。
この時直接伝えることができなかったのは、自分にしては珍しく臆病風に吹かれたからかもしれなかった。
それから彩楸学園への入学手続きを進めつつバイトに励んでいた也梛に、香凜から連絡が入ったのは二月の半ばだった。
久しぶりに公園で会う約束をした。
也梛は午前中のバイトが終わると適当に昼食をとり、少し早めに公園に向かった。ベンチに座るなり愛用のキーボードを取り出し、鍵盤に指を躍らせた。二月の空気はまだ冷たく、指の動きは心なし鈍く感じたが、それでもメロディは途切れずに紡ぎ出された。
気付くと、也梛の前にそっと彼女が立っていた。
制服の上にコートを着てマフラーと手袋をした彼女だが、スカートから伸びる足はタイツを履いていても寒々しく見えた。
也梛が演奏を止めようとするとそれを手で制された。まだ聴いていたいという意思表示だ。
彼女の希望通りもうしばらく演奏を続け、適当なところで切り上げた。
香凜が微笑んで、手袋をしたままの手でぽふぽふと拍手した。
「久しぶり、高瀬君」
「ああ、久しぶり。元気そうだな」
ベンチに並んで座り、少しだけお互いの近況報告をした。香凜は年明けにも一度入院したそうだが、それ以降は元気に学校生活を送っているようだ。それを聞いて少なからずほっとした。
「えっとね、この時期だから予想はつくと思うんだけど……」
香凜が言いながら鞄の中から小袋を取り出した。
そして一息つくと、すっくとベンチから立ち上がって也梛の前に立った。彼女の顔は、寒さと緊張と恥ずかしさで赤らんでいた。
「高瀬君、これ、受け取ってくれる?」
差し出された手と袋が微かに震えているのが分かる。
「――ありがとう」
也梛は鍵盤に触れる時のように、優しく指を伸ばしてそっと受け取った。香凜がひっこめた手をぎゅうと握り締めて也梛を見つめる。
「それと、あのね、もう一つ」
訊きたいことがあるの、と香凜は小さな声で言った。
香凜の唇が薄く開き、一度閉じる。そして、息を整えてから再度口を開いた。
「私、高瀬君のことが好きです。高瀬君が他の学校に行っても、それでもいいから、これからも一緒にいてほしいです。高瀬君は私のこと、どう思ってる?」
いつかこんな日が来るのではないかと思ったこともあった。
恐らく、もっと早くにその日が来ていたら――少なくとも秋に諷杝と出会う前だったら――也梛は彼女に応えていたかもしれない。
正直、香凜に惹かれている自分は自覚していた。あのまま距離を置くことなく一緒にいたら、也梛は彼女と同じ想いであっただろう。
いや、確かに彼女のことを特別に想う気持ちは今もあり続けていた。
だが、彼女が望むものに対して、今の也梛は応えられないと分かっていた。
「――悪い、鶴見。それが男女の付き合うという話なら、俺は応えられない」
「それは……私の病気のことがあるから? いつ体調不調を起こすか分からない彼女は面倒くさい?」
香凜が静かな声で訊ねてくる。もしかしたら彼女の中ではそれが一番気になっていたことだったのかもしれない。
「いや、そうじゃない」
也梛はすっぱりと返して、しかし眉間に皺を寄せて唸った。
「いや……少しはそれも関係あるのかもしれないな」
香凜の顔が陰ったのを見て、しまったと思うがもう遅い。上手く伝え損ねた自分に心の中で舌打ちしながら、ゆっくりと言葉を整理した。
救いなのは、香凜が唇を噛みしめながらもまだ去らずに也梛の言葉の続きを待っていてくれていることだ。
「鶴見、俺は別に付き合う相手に持病があって体が弱かろうが、不調になることがあろうがそんなことは気にしない――気にしない人間でありたいと思う」
「じゃあ、高瀬君は純粋に私をそういう対象としては見ていないってこと?」
違う、と即答しかけて、ひと呼吸置く。ああ、伝えるのが難しい。
でも、彼女にはきちんと伝えたい。きちんと理解してほしい。
「鶴見のことは俺も特別に想ってたと思う。正直に言うと、今もその気持ちはある」
香凜の目が見開いて、「じゃあどうして?」とその表情が問う。
也梛は必死に頭を回転させながら、探るように言葉を紡いだ。
「俺が彩楸学園に行く理由は、一緒に音楽を奏でたいと思うヤツができたからだ。俺はそいつがいるから転校を決めた」
秋のバイト先で出会った海中諷杝という少年。
たまたま同じバイト先で出会っただけの、ただのバイト仲間だ。
だが、彼の鼻歌交じりのメロディを耳にして、彼の弾くギターを聴いて、也梛は完全に魅了されてしまった。
この諷杝という少年と、一緒に音楽を奏で続けたいと思ってしまった。
そして、そんな也梛の衝動を引き留める程の障害物は存在しなかったのだ。正直に告白すると、若宮も、そして香凜も、也梛の転校の意思を覆す程の理由にはならなかった。
諷杝に出会ったことで、也梛の中の優先順位が決まってしまった。
「仮に俺が鶴見と付き合ったとして、今の俺はお前を優先できる自信がない」
例えば香凜が也梛を必要としている時であったとしても、也梛は諷杝と音楽を優先してしまうかもしれない。
「それはお前が体調不良で苦しんでいる時にも同じことが言える。俺は梅村のように、いざという時に鶴見に付き添って対処することができないかもしれない」
もしも普通に彼女を一番に考えられたなら、也梛は出来る限り彼女に付き添っただろうし、梅村のようにサポートできるようその努力も惜しまない。
だが、もうその考え自体が也梛の頭の中にない。己でも酷いと思うが嘘はつけなかった。
世の中にはこれでも付き合いたいと考える者もいるのかもしれないが、大抵はそんな放置状態の彼氏など御免だと考えるのが一般的だろう。
「……それでも良いよって私が言ったら、高瀬君はどうする?」
香凜が眉を八の字にして、困ったようにこちらを窺う。彼女もきっと意地悪な質問をしていると分かっているのだろう。
也梛は視線を逸らさずにきっぱりと答えた。
「俺は良くないから、結果的にはやっぱり付き合えない」
それを聞いた香凜はふっと頬を緩ませた。続いて俯き、ふうう~と長い息を吐き出す。
「……だよね。高瀬君ならそう答えるんだろうなって思ってた」
彼女は一つ頷くと、再び顔を上げて高瀬に微笑んで見せた。
それはきっと彼女なりの精一杯の笑みだったのだろうと思う。逆にそれを見ている也梛の胸が痛んだが、也梛に文句を言う資格はない。
「高瀬君、ありがとう。新しい学校でも元気でね。またいつか、キーボードを聴かせて」
彼女は最後にそう言って、公園を後にした。
それからだいぶ経って、キーボードケースの内ポケットに隠された手紙に気付いた。
その丁寧で少し丸みのある文字が彼女のものであることはすぐに分かったが、果たして彼女がいつのタイミングでこれを忍ばせたのかは分からない。
『私に勇気をくれた、高瀬君の奏でる音は忘れません。
これからはもっと多くの人に聴いてもらいたいです。
そして、高瀬君の求める音楽が見つかりますように。』
その手紙はお守りのように、今もまだキーボードケースの内ポケットに眠っている。
***
「――以上だ」
最後の告白云々のくだりは少し気恥ずかしくて、だいぶ端折って説明してしまった。とはいえこれで、香凜との関係は十分把握できただろう。
「って……笠木、お前」
諷杝の向こう側に見えた矢㮈の顔を見て思わずぎょっとした。彼女の目は赤くなっていて、唇はぎゅっと一文字に結ばれ、なぜか今にも泣きそうな顔に見えた。
(何でお前がそんな顔をするんだ)
矢㮈は暫く也梛を睨んでいたが、やがて堪え切れなくなったのか腕で目元を覆うように横を向いてしまった。少しして、ぐすぐすと鼻を啜る音が微かに聞こえて来た。
そんな彼女の背を諷杝が片手でさすりながら、小さく苦笑する。
「矢㮈ちゃんはきっと鶴見さんと也梛の代わりに泣いてるんだよね」
「はあ? 鶴見はともかく何で俺まで……」
鶴見が泣きたい気持ちだったのは言わずもがなだとは思うが、也梛の方は泣く理由が思い付かない。
「でも也梛も当時、彼女のこと特別に想ってたんでしょ? 優先順位とその気持ちは全く別物だと僕は思うけど」
「それは……」
反論できずに也梛は押し黙った。
「也梛は真面目で不器用だなあ」
諷杝はもう一方の手を也梛の頭に伸ばして黒髪を撫でた。
「まあ、最終的に也梛を彩楸学園に入学させるきっかけを作った僕が言えたことじゃないけどね」
「……」
也梛は矢㮈の背をさする諷杝を見ながら、昼間のことを思い出していた。
演奏後、楽器店の前で鶴見と少し話した時のことだ。
あの時、彼女は也梛に改めて聞きたいことがあると言った。
それはまさに、約一年前に尋ねられたことと同じだった。
也梛の気持ちがあの頃と変わらないままなのかどうか確認したかったらしい。
答えるのに迷いはなく、也梛はあの時と同じ答えを返した。
香凜はあの時と違って困った顔をするでもなく、泣きそうな表情になるでもなく、小さくぷっと噴き出した。
『高瀬君はやっぱり変わらないね』
その笑顔に救われたのは也梛の方だったのかもしれない。
也梛は諷杝の頭を小突きながら口を開いた。
「諷杝。再会した時にも言ったが、俺は自分の音楽を見付けるために彩楸学園に来たんだ」
「……ああ、そんなカッコつけたようなこと言ってたよね」
抵抗せずに小突かれたままの諷杝が懐かしそうに頷く。
「俺は自分が望んで勝手にここに来ただけだからな。お前がどうこう気にすることじゃない」
也梛が勝手に諷杝に期待をしただけなのだから。
「まあそうなんだろうけど、でも結局のところは僕が……」
「だから、お前が卒業するまではとことん俺に付き合ってもらうぞ。こっちに来た甲斐があったと思わせてくれないと困る」
也梛の言葉に諷杝がやっと笑みを覗かせる。
「あはは。也梛もたまに結構無茶言うよねえ」
ぐずぐずしていた矢㮈がようやく顔を上げる。まだ目は赤く、頬には涙の跡が見えた。こいつマジで泣いてたのか。
高瀬は溜め息を吐くと、鞄の中からティッシュを出して矢㮈の前に移動した。
ポカンと見上げてくる矢㮈の顔にティッシュを押し付ける。
「もういいだろ。お前が泣く意味なんてねえよ。さっさとその酷い顔をどうにかしろ」
「……」
矢㮈はそのまま無言でティッシュを受け取り、顔を拭った。反論がないところが不気味で、少し心配にもなる。
しかし差し出したお茶を飲むころには落ち着いたようで、じとりとした目でまた睨まれた。
「……高瀬って変なところで頑固だよね。融通が利かないっていうか」
「どういう意味だ」
「そのままの意味よ。……うん、まあ、それが高瀬なんだろうけど」
「その分かったような口は何なんだよ。何かムカつく」
調子を取り戻した矢㮈は全く憎らしい。どこかほっとしつつも、今回はイラっとくる方が大きかった。まあこれでこそ彼女なのだろうが。
「って、随分長話しちまった。そろそろ帰るぞ」
打ち上げで酒は一滴も飲んでいないが、酔い覚ましの散歩にしてもすっかり長くなってしまった。
諷杝と矢㮈がベンチから立ち上がり、固まった筋肉を解そうと軽くストレッチをした。
「じゃあ、帰りますか」
「はーい」
「ああ」
三人で並んで歩き出す。もうすっかり慣れた光景だ。
いつもならここに白い鳩が飛んできてもおかしくないが、今日はさすがに飛んで来ない。
也梛はちらと後ろのベンチを振り返った。
(またな)
かつて世話になった場所に心の中で挨拶を呟く。
今、也梛が諷杝たちと音楽を奏でる場所は彩楸学園の屋上だ。
また近々、集まって音楽を奏でよう。
六.
彼は諷杝を選んでわざわざ彩楸学園に入学してきた。
それは、彼にとっては諷杝にそれだけの価値があると思ったからに他ならない。
(本当に? 僕にそんな価値はあるのかな?)
進学校を退学してまで。
一年遅れをとって、わざわざ入学し直して。
そこまでして、諷杝を追いかけてきた彼は一体何を手に入れることができるだろう。
でも、実際は彼が期待している以上に、諷杝の方が彼に期待しているのかもしれない。
なぜなら、あのバイトで彼と出会って救われたと思ったのは、むしろ諷杝の方だったのだから。
あの頃は色々と行き詰まっていて、もう父親の楽譜探しも半分諦めかけていた節があった。
しかし彼が諷杝の鼻歌に興味を持って声をかけてきた。ただの鼻歌だったのに、父親が作った曲を知りたいと言ってくれた。
(本当は、僕の方が救われたんだ)
まさかその後本当に彩楸学園に入学してくるなんて思わなかったけれど。
そしてその春、同じく一年生で入学して来た彼女にも会えた。
彼らが一緒にいてくれれば、たとえ状況は行き詰まっていても何とかなるような気がした。
それ以上に、彼らと共にいることが何より楽しいと思える自分がいた。
(大丈夫)
ふと思い出した。
高校一年の終わり頃、諷杝の前に現れたお馴染みの透けた彼は、言ったのだ。
『まだまだ君の人生はこれからだから。出逢いはきっとあるはずだけどね』
今ようやく、その言葉を深く実感している。
也梛の昔話後編にお付き合いいただきありがとうございました。
更新までお時間をいただいた挙げ句、色々とぎゅうぎゅう詰めにしてしまい申し訳ありません。後編は大ボリュームでお送りすることになってしまいました。
次回からはいよいよ新学年をスタートさせたいと思います。諷杝にとっては最後の1年の始まりですね。
まずはクラス替えがどうなるのか…もしよろしければお付き合いくださいませ。
(2019.10.12)




