選んだもの〈前編〉
【主な登場人物紹介】
・笠木 矢㮈(かさぎ やな)…彩楸学園高校1年生。
・高瀬 也梛…同高校1年生。キーボードを弾く。
・海中 諷杝…同高校2年生。ギターを弾く。
【その他】
・若宮 拓…前の中高での高瀬の同級生。
・小影…同上。
・芳賀…同上。
***
高瀬也梛の奏でるキーボードの音がするりと耳に入って来る。
ああ、懐かしいな、と思った。
同時に、初めてあいつのあんな顔を見たな、とも思った。
若宮拓は、小さなステージの上にいる彼とその仲間たちから目を離すことができなかった。
(高瀬の音だ。でも……あいつ何て顔してんだよ)
長い付き合いの彼のその表情を見ていて、自然と自分の頬も緩んでくるのがおかしい。
ステージの上で、高瀬は今まで見たことがないくらい楽しそうな顔をしていた。
いつもだいたいが仏頂面で、むしろ眉間に皺を寄せているのがデフォルトだったあの高瀬が。
若宮はふいに目の奥が熱くなってくるのが分かり、それを押し留めるように唇を噛みしめた。
(オレは馬鹿か。何でオレの方が泣きそうになってんだ)
親友がああして楽しそうでいるのが嬉しい。
彼が自然に、思うままに彼の音を出せていることが嬉しい。
そして、彼の音に重なるギターの音とバイオリンの音が羨ましい。
(あの二人だから、あいつはあんな演奏ができるようになったんだ)
一年程前、急に転校すると言いだした彼の姿を思い出す。
若宮が報告を受けた時には、すでに高瀬は退学届けの用意をしていた。
喉元まで出かかった「本気か?」という言葉は結局呑み込んだ。
高瀬はどこか憑き物が落ちたようなさっぱりとした顔をしていて、それを見ただけで分かってしまったのだ。
若宮が何を言おうと、高瀬はこのまま退学してしまうのだと。
ステージ左手にいるギターの少年を見て若宮は口の端に苦笑を浮かべた。
全て、彼が変えてしまったのだ――海中諷杝という少年との出会いが。
「あー、ホントあいつは……」
むかつくな、と心の内で呟いた。
一.
一般の自由演奏会は、楽器店一階に設置された小さなステージで行われることになっていた。ちなみに、ゲストで演奏するプロの音楽家たちは二階に少し立派なステージが用意されている。
也梛たちの出番は午後からだったが、午前中の少し早めに行ってこっそり楽器体験やクイズ大会などに参加していた。
「ああー、一ヵ所ミスったあー」
「ああ、そこ僕も迷ったんだよね。あれは難しい」
高難易度音当てクイズ十連発の結果に矢㮈が悔しそうな顔をし、諷杝がさりげなくフォローしている。
「也梛は難なくクリアでさすがだね」
「別に。耳に入って来たのをそのまま答えただけだ」
也梛は特に参加するつもりはなかったのだが、諷杝と矢㮈に無理矢理解答用紙とペンを渡されてなし崩し的に強制参加だ。
「ひょっとして高瀬、絶対音感持ってる?」
「さあな。でも昔から音はあんま外したことないし、一度聞いたらだいたい覚えられる」
「ううー、何か悔しい……!」
矢㮈が八つ当たりのように睨んでくるのを溜め息でスルーする。
「それよりお前らそろそろ調整いくぞ」
ここ一週間程お世話になっている例の音楽スタジオに入ると、待合室には若宮たちの姿があった。若宮が軽く片手を掲げる。
「おう、早いなお前ら」
「お前らこそ早いな」
「だって緊張するだろうがあ……!」
「じっとしてる方が落ち着かないからな。テストより緊張する」
小影と芳賀が苦虫を噛み潰したような顔でぶつぶつと言う。確かに今まで、テストの時でもこんな複雑な表情の彼らを見たことはなかった。
「でも若宮君はいつも通りだね」
諷杝が小影達から若宮に視線を移して笑うと、若宮が肩を竦めた。
「それどういう意味だよ、海中。オレだってこう見えて緊張してるんだぜ? 一人で歌うとか、友達の前で歌うとかはあっても、人前で歌うなんて普段しないからな」
「そっかあ。じゃあ若宮君の歌を聞けた僕たちはとてもラッキーだったんだ」
「……まあ、そうだな」
諷杝のどこか的を外れた返しに若宮は毒気を抜かれたように脱力した。也梛は心の中で小さく苦笑する。
演奏順としては、若宮たちの方が先だ。
「高瀬」
若宮が也梛の肩にかかる黒いキーボードケースをちらりと見て、それから也梛の目を真っ直ぐに覗き込んだ。
「お前の音、楽しみにしてる」
「ああ。お前の声もな。――あれだけ練習したんだ、小影と芳賀も大丈夫だよ」
ふっと笑った若宮が返事の代わりに也梛の肩を二回叩いた。
始まる直前まで緊張の塊だった小影と芳賀も、ステージに上がる頃にはどこか開き直ったように肩の力が抜けているように見えた。若宮に何か和むような言葉をかけられたのかもしれない。
「矢㮈ちゃん、若宮君たちの演奏と歌始まるよ」
「うん! 頑張れ、三人とも」
先程の最終調整では緊張していた矢㮈も、今はすっかり若宮たちの演奏に心を持っていかれてしまっている。まるで水族館へ行ってイルカショーを前にした時の子どものようなわくわくとした表情をしていた。
矢㮈越しに諷杝と目が合い、思わず苦笑してしまった。
也梛もステージの上で言葉を交わし合う三人に目を遣る。まさかあの三人をこんなふうに見ることになるとは思わなかった。
若宮はともかく、小影と芳賀までギターとベースを手にステージに上がることになるなんて。
(転校しなかったら俺もあそこにいたんだろうか)
ふと、思う。もしかしたらそんなこともあったのかもしれない。
ぼんやりとしているうちに耳に音が飛び込んできた。小影のギターだ。諷杝の指導の成果あって、なかなか形になっている。そういえばあいつは大雑把な性格のわりに手先が器用だったと思い出す。
一方の芳賀は神経質なところがあるが、ベースの弾き方にはどこか余裕があるように感じられた。
(へえ、面白いな)
つい性格と弾き方の関係性に興味を引かれる。
だがメロディの中に割り込んできた若宮の声に、也梛は意識の全てを持っていかれた。
のびのびとした、透き通るような声。声変わりは終わっているはずなのに、高い音まで澄み切って聞こえる。
懐かしくて、でもあの頃よりもずっと進化して聴こえて来る新しい声――いや、音、だ。彼が発する、彼の声という音。
演奏時間は三分程あったはずなのに、気付けばあっという間だった。いつの間にか、ステージ上では三人が頭を下げて、笑い合っていた。観客が惜しみない拍手を送っている。
也梛の隣でも矢㮈がバチバチと手を叩いていた。そこまで強く叩かなくても、と思ったが口には出さなかった。
「さあ、次は僕たちの番だね」
諷杝が拍手をしながら、朗らかに笑って言う。
「若宮君たちに負けてられないよ」
「そうだね、小影君と芳賀君の演奏もすごかったし。あたしたちも頑張ろう!」
諷杝と矢㮈が揃って也梛の方を向く。その目は相変わらず子どものようにキラキラと眩しい。興奮しすぎではないだろうか、特に矢㮈は。大丈夫か、こいつ。
也梛は小さく息を吐き出して、頷いた。
「ああ、行くぞ」
二.
演奏が終わって音楽スタジオに引き上げると、先に戻っていた若宮たちが飲み物を買って待ってくれていた。
「高瀬、お疲れ」
手渡されたペットボトルを受け取り、冷たい水を口に含む。喉から熱が引いてすっとした。
「……何だよ」
視線を感じて横目に見ると、若宮が神妙な顔でじーっと也梛の顔を見つめていた。
若宮は口を開いて何か言おうとして、しかし躊躇うように口を閉じた。也梛は眉を寄せて軽く小首を傾げた。
「何なんだよ。気持ち悪い」
「なっ……気持ち悪いってお前……いや、だから、その」
「言いたいことがあるならはっきり言え」
「あるけど! あるけど何て言ったらいいか分かんねえから考えてんだよ!」
「はあ? いつも現国でも英語でも数学でもすらすら解答してるやつが何言ってんだか」
若宮の学力からすると、英文や数式に比べたら、思ったことを日本語で伝えるなどそう難しいことではなさそうなものだが。
「そういう問題じゃねえよ! 高瀬、お前はこういうとこホント馬鹿だな! 分かってない!」
若宮がなぜか逆切れ気味に突っかかってきたので、也梛は一度黙ることにした。そこまで言うなら言いたいことがまとまるまで待とう。
もう一口水を飲んだところで、小影と芳賀の声が聞こえて来た。
「ああ~すっげー緊張したあ~っ。でも楽しかったあ~」
「ああ、変な緊張感あったけど、気持ち良かったな」
二人はベンチに並んで腰かけて、演奏の余韻に浸っているようだった。その弾んだ声に也梛の心の中がふわりと温かくなる。あの二人が演奏会を楽しんでくれたならそれだけで嬉しい。
「二人とも良かったよ。ちゃんと形になってたね」
諷杝が労いの言葉をかけに行くと、小影と芳賀が「聞いて聞いて」と言わんばかりに諷杝の方に前かがみになって、我先にと競うように口を開いた。
「海中! オレたち弾けたよ!」
「あの難しいリズムのとこどうだった?」
諷杝が勢いに気圧されながら二人の話を聞く姿を眺めていると、横から「おい」と声がした。
「まとまったか?」
「……おう」
也梛はペットボトルの蓋を閉めて若宮に向き直った。
若宮がわざとらしく大きく深呼吸する。
「高瀬。お前が楽しそうで良かった」
「は?」
言いたかったことはそれか。まとまりすぎて逆によく分からない。
也梛は遠慮なく若宮に半眼を向けた。
「お前の言語能力ってそんなだったっけ?」
「……そこまで言うならお前の素晴らしい知能でオレのシンプルな言葉を気持ちごと理解してくれよ」
若宮も鏡の如く半眼を返す。そして、「あー、もう」と金髪の頭をがしがしと掻いた。
「お前のキーボード、懐かしかったよ。でも、あの頃とはちょっと違ってた。いや、根っこはきっと同じなんだろうけど、何て言うか……あの頃よりパワーアップしてたっていうか……進化してたっていうか」
若宮はまとめるのを諦めたのか、たどたどしく思うままに言葉を紡ぐ。
「お前の本来の音が、あのギターとバイオリンの中で輝いてたって言った方が良いか。のびのびしてて、キレがあって、でも優しくて切なくて……昔より、ずっとずっと綺麗だった」
若宮の眉がハノ字になって、ふいに泣きそうな表情になる。也梛は相槌を打つこともできずに口を噤んで聞いていた。
「そんな演奏してるお前がまた楽しそうでさ。オレ、初めてお前があんなに楽しそうにキーボード弾いてるとこ見た」
「若宮……」
「それがすっげー嬉しくて、でも、少し悔しかった」
若宮の右手がぐいと也梛の頭に伸びて、気付けば髪がぐしゃぐしゃと乱されていた。
「高瀬の阿呆。お前、やっぱりすげえな」
乱された前髪の間から見えた若宮の口元には笑みが浮かんでいた。
(ああ、この笑い方……変わってないな)
こうして髪をぐしゃぐしゃとされるのも中学の時はよくやられた。
「――やっぱりオレは、お前の奏でる音が好きだ」
「……そうか」
いい加減頭がぼさぼさだと、也梛は若宮の腕を摑んで止めた。
軽く顔を振って前髪を払い、真っ直ぐに前にいる若宮の顔を見る。
もう彼は八の字眉でなければ、泣きそうな表情でもなかった。
いつもの、楽天的で陽気な顔で口元に笑みを浮かべてそこにいた。
「お前の声も、懐かしかった。あの透き通るようなお前の音が俺も好きだ」
若宮が一瞬、驚いたように目を見開く。
也梛は彼の手を離して横を向いた。恥ずかしい。こんなこと、面と向かっては一度しか言わない。
目を逸らした先で、諷杝とパッタリ視線がぶつかった。
「!」
諷杝が目を細めて微笑んでいた。――何でよりによってこういう時に目が合ってしまうのか。
也梛は八つ当たり気味に諷杝を軽く睨み、再び視線を空に泳がせた。今度は天井の方に、誰とも目が合わないように。
「そういえば高瀬。さっき店内で、鶴見を見たんだけど」
若宮が思い出したように言った。也梛はキーボードケースを下ろしてから「ああ」と返事をした。
「昨日の夜に偶然会ったから、イベントのチラシ渡したんだ。来たんだな」
「へえ。って、いや、来たんだな、って……。お前チラシ渡しといて放置かよ」
若宮が呆れた顔をする。
「まだ店内にいるかもだし、挨拶くらいしてこいよ。きっとお前の演奏を見に来たんだろ」
「若宮も出るって言ったら嬉しそうにしてたぞ」
「それはついでだよ、ついで。ああもう、いいから早く行ってこいって」
なぜそこまで鶴見に会いに行かせようとするのか疑問に思いつつも、確かに一言くらい挨拶しといた方が良いかと也梛は思い直した。
「どうせ梅村も来てるんだろう」
「ああ、そういえばいたな、いつものボディーガード」
若宮がクスクスと笑う。彼も鶴見香凜とその幼馴染の梅村八弥の関係を知っているのだ。
「まあわざわざ高瀬に会いに行こうっていう彼女を一人で行かせはしないだろーな」
「何変な心配してるんだろうな。全く意味が分からん」
也梛は溜め息を吐いて、諷杝に声をかけてから音楽スタジオを出た。諷杝はあっさり「ここで待ってるね」と片手を上げて見送ってくれた。
そういえば先程から矢㮈の姿が見えないが、彼女はどうしたのだろう。楽器店を出るまでは一緒だったような気がするのだが。
そう思いながら楽器店まで戻った所で、入り口の側に二つの見知った顔を見付けた。
同年代の少女が二人。そのうちの一人が也梛に気付いて片手を上げた。
「高瀬!」
矢㮈だ。バイオリンケースを手に、なぜこんな所に立っているのだろう。
そして矢㮈の隣には、彼女の姿があった。午前中は塾の補講があると言っていたが、その帰りなのか制服姿だった。
そもそもなぜこの二人が一緒にいるのか。
也梛が二人の前に立つと、矢㮈が香凜の方をちらりと見て、
「店出ようとしたら、この方――鶴見さんに声をかけられて。高瀬と話したいってことだったから音楽スタジオまで案内しようと思ってて」
その説明でだいたいの状況は把握した。
「分かった。お前は音楽スタジオに戻れ。諷杝がいるから」
「う、うん」
矢㮈は少し躊躇いながらも、香凜に小さく頭を下げた。香凜も「ありがとう」と会釈を返す。
小走りで去って行く矢㮈の背中を見送っていたら、香凜が小さく笑う気配がした。
「彼女、ステージの上でバイオリンを弾いている時とは少し印象が違うね」
「そうか?」
「ステージにいる時はとても凛としていて、綺麗だった。でも、さっきまで一緒にいた時は、かわいらしい普通の女子高生だった」
「普通よりだいぶ天然でドジで間抜けだけどな」
ついいつもの悪態が口をついて出てしまった。香凜が少し驚いたように口に手をあてる。
「高瀬君が女の子のことで口出しするって珍しいね。しかも結構辛口」
「向こうも普段から俺のことをボロクソに言ってるからな。お互い様だ」
矢㮈も也梛のことに関してはいつも辛口だ。諷杝には甘すぎるくせに。――いや、どうでもいい。
「あはは。高瀬君からそんな言葉が聞ける日が来るなんて。ちょっと悔しいなあ」
香凜がくすくすと笑う。何が悔しいのか也梛には分からなかった。
「そういえば梅村は? 来てるんだろ」
「ああ、はっちゃんはもうすぐバイトだから行っちゃった」
バイトなら仕方がない。本人にとってはバイトよりも香凜を一人にする方が気になって仕方ないだろうが。
「それにね、体調がだいぶ良くなったから前よりは一人で行動できるようになったの。塾にも通えるようになったし」
「――そうか」
也梛が同じ学校に通っていた頃は、香凜の傍にはだいたい梅村が心配そうに付き添っていた記憶がある。
「高瀬君。演奏聴いたよ」
「ああ。わざわざ来てくれてありがとうな」
昨夜彼女は「絶対行く」と言っていたが、まさか本当に来るとは思わなかった。だからあえて彼女の姿を探そうとしなかったのだが、先に若宮が見つけてしまった。
「相変わらず上手かったねえ。でも、前に聴いた時よりももっともっと音が弾んでたような気がする。高瀬君も楽しそうだった」
香凜は若宮と同じ様なことを言った。也梛は曖昧に笑って「ありがとう」とだけ答える。
香凜がふふと笑いながら、也梛の顔をじっと見上げた。身長差があるせいで也梛は顔を下に向けないと目線が合わない。
「高瀬君、少し雰囲気が変わった気がする」
「え?」
「キーボードの音は確かに高瀬君の音に違いなかったけど、でも、どこか高瀬君自身が変わったような気がする」
ふわりと笑う彼女の笑顔は以前と少しも変わっていなかった。
(鶴見は変わってないな)
その笑みに少し安心感を覚える。当時、彼女のこの笑顔に何度安らぎを覚えただろう。また懐かしい気持ちが込み上げて来た。
暫くお互い何も言わずに黙っていたが、やがて香凜が「あの」と意を決したように声を押し出した。
「私、高瀬君に改めて聞きたいことがあって……」
彼女の顔は先程とは打って変わって真剣だった。つられて也梛の眉間に皺が寄りそうになる。
香凜の唇が薄く開き、一度閉じる。そして、息を整えてから再度口を開いた。
「あのね……」
それはまるで、一年前に時を遡った続きのようだった。
彼女からその言葉を聞くのはこれで二度目だ。
也梛はぼんやりと、一年前のことを思い出していた。
読んでくださりありがとうございました。
まだ『選んだもの』は次話に続きます。
(2019.08.24)




