先輩の置き土産〈後編〉
※前話「先輩の置き土産〈前編〉」の続きです。
【主な登場人物紹介】
・笠木 矢㮈(かさぎ やな)…1年生。
・高瀬 也梛…1年生。キーボードを弾く。
・海中 諷杝…2年生。ギターを弾く。
【その他】
・臣原 千佳…1年生。矢㮈と也梛のクラスメイト。
・春日井…3年生女子。元軽音部員。
・世良…2年生男子。軽音部員。
四.
***
彼はいつもノートとシャーペンを片手にグループの間を渡り歩いていた。そう言えば彼自身が楽器を手にしているところは見たことがなかったかもしれない。
彼は部員たちが奏でる音楽にじっと聴き入り、ノートにペンを走らせては頬を緩ませた。時にはグループのメンバーから意見を求められて二言三言話すこともあった。
まるでその姿は、運動部の選手たちの様子を窺うマネージャーのようだった。
春日井が彼のことを知ったのは入部して一か月程経った頃だった。
新年度がスタートして体調を崩していた彼が復帰した日だった。
まだグループも何も決まっていなくて、ただ空き教室でギターの練習をしていた。誰もいないのを良いことに気付いたら歌を口ずさんでいた。
視線を感じて廊下に面した硝子窓を見ると、そこに肌が白い細っこい男子生徒が窓枠に手をついて立っていた。全体的に淡くて、どこか儚い印象を受けたのを覚えている。
「君、軽音部の子?」
開いた窓から弾んだ声が聞こえた。
「そう、ですけど」
「そっか! もしかして一年生? 僕は軽音部三年の的芭葉一」
「……一年の春日井水咲です」
それが出会いだった。
彼のノートには部員やグループの演奏を聴いたその時々の感想が雑多に書き込まれていた。
メンバーの演奏の癖、曲の印象、胸を打たれたリズム。
丁寧に綴られたそのノートを、春日井も何度か見せてもらった。そして、春日井のことも書いてくれていて、上手く行かなくなった時には相談にも乗ってもらった。
そういえば、一度聞いたことがあった。
「先輩は演奏しないんですか?」
「うーん、自分で演奏するよりみんなの音や声を聴いてる方が好きでさ」
「そうなんですか……私は自分も弾きたくなっちゃう方です」
彼はいつも優しい笑みを浮かべて、態度も口調も穏やかそのものだった。だから部員も彼に感想を聞きたがり、彼がそばにいれば「ちょっと聴いてけ」と腕を引っ張る姿があちこちで見かけられた。
彼はしばしば体調不良で部活に顔を覗かせない日があった。
生まれつき体が弱いことは本人も言っていたので、お大事にとしか言えなかったが、後に人伝に彼が持病を抱えていたことを知った。
それはバレンタインデーに初めて本命のチョコレートを渡し、彼が学校に来なくなってからだった。
***
「へえ。春日井先輩の好きな人だったんだ。オレは入れ違い入学だったもんなー」
「否定はしないけど、そう言われると照れるからやめてくれる、世良」
春日井の話を聞きながら、矢㮈たちはもう一度軽音部の部室内を確認していた。さすがに個人ロッカーや私物までは手を出せないが、備品やこれまでの卒業生が置いて行った諸々の『置き土産』を拝見する。
世良が言っていた通り、ピックやドラムスティックが多く箱の中に納まっていた。それぞれには持ち主のだろうサインやメッセージが入っている。中でも小箱に入れられた色とりどりのピックはキラキラと光って綺麗だった。
(バイオリンだと弓か……いやあ、さすがにそれはないか)
ピックをちびちびと確認し始めた矢㮈と諷杝をじっと見ていた高瀬が、ふいに思い出したように言った。
「なあ、部室って前は旧校舎にあったんだよな? ここに移ったのって二年前じゃなかったか?」
「あ」
矢㮈と諷杝は顔を見合わせ、それから勢いよく春日井を振り返った。
備品を整理しながら箱にまとめていた春日井が頷いた。
「ええ、丁度私が一年の夏休みには部室の引っ越し作業が行われて、秋からは新しい部室――ここだったわね」
よくよく考えてみればまだ二年程しか使っていない部室なのだ。矢㮈は部屋の中をぐるりと見渡して、思わず世良を見てしまった。
「……二年でずいぶん散らかりましたね」
「そこはツッコまないでくれ」
世良は視線を逸らして質問をスルーする。
「ということは例の先輩は当時三年だったから、ここよりも旧校舎の部室の方が馴染みがあったということか」
高瀬が顎に手を遣ってぶつぶつ言う。
「でも引っ越し作業は夏休みだったから、まだ先輩たちも一緒にやったのを覚えてる。私たち一年はあれこれ運ぶ力作業ばかりだったけど」
当時を思い出したのか、春日井が懐かしそうに目を細めて苦笑する。
矢㮈にとっては先輩の彼女が、今の矢㮈と同じ一年の時のことを語るのを聞くと少し不思議な感じがした。それは、両親や祖父母が若い頃のことを話してくれる時に似た感覚だった。
「その時必要なものは全てこっちに持って来たはずなのよね」
「先輩が卒業した時にはもうこの部室だったってことだもんな」
世良が乱雑に置かれた音楽雑誌を片付けながら棚にモップを走らせて誇りを取り除く。どうやら彼もあらためて部屋を眺めて汚れていたことに思い至ったらしい。その手はさりげなく掃除をしていた。
「だからこの部室にあったらさすがに気付くと思うのよね……」
春日井が溜め息を吐く。
「もしかしたらすでに誰かが持ち帰ったりしちゃってる可能性もあるし」
「その先輩人気だったんだ?」
「皆に人当たり良かったし。それに色んなグループの曲を聴き回ってたからね。……彼女とかの話は聞いたことなかったけど」
うーんと腕を組んだ諷杝が天井を見上げた。
「でもその手紙を見るに、先輩は自分の置き土産を春日井さんにもらってほしいと思ったんだよね。――ねえ、也梛が先輩ならどこに隠す?」
「何で俺に聞くんだ。俺ならそんな不確定な方法を使わず直接相手に渡す」
意見を求められた高瀬が仏頂面で答えると、諷杝は肩を竦めた。
「まあ也梛ならそうなんだろうね。でも先輩は病気で学園には来られなかった。なら誰かに頼むかどこか春日井さんが見つけられる場所に置いておくしかない」
「誰かに頼んでたならもうとっくに解決してるだろうな。――その誰かが余計なことさえしなければ」
「僕もそう思う。だからやっぱり、先輩は春日井さんに見つけてもらえるような場所に隠したと思うんだ」
諷杝が珍しく真面目な顔で話すのを見て、世良がポカンとした表情をしていた。
「海中がまともなこと言ってる……」
「世良君、それどういう意味」
「だってお前音楽祭の時も副委員長だったのにへらへらしてるとこしか記憶にないし」
容赦ない同級生の言葉に諷杝が絶句する。そばにいた矢㮈と高瀬はフォローの言葉が見つからず曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。
世良の言葉は正しい。音楽祭で諷杝は実行委員の副委員長という立場だったが、主にテキパキ働いていたのは他校の委員長だった。委員長の彼がいなければ音楽祭が無事に開けたかどうかも怪しい。
ただでさえ、諷杝は普段からぽやぽやとしている。
「……そういえば世良。あの辺にあった段ボールとか古い機材どうしたの?」
何も見つからなかったロッカーを閉めながら、春日井の視線が教室の奥に向く。世良がちらりとそちらに視線を向け、頷いた。
「ああ、あれならもう使わないし邪魔だからってこの前移動したけど」
「移動? どこに?」
「もう廃棄検討のやつはみんな旧校舎に」
さらりと言った世良に高瀬が何かを考えこむように俯く。
「旧校舎ってまだ何か置いてるんですか?」
前に訪れた雑多な旧校舎を脳裏に浮かべながら矢㮈が尋ねると、
「ものすっげー古いもんとか、もう使えんだろっていうやつ。あそこ取り壊される予定だから、もう廃棄処分のものは置きっ放しなんだ」
多分他の部活でもそうだと思うよ、と世良が言う。
気付くと春日井が困ったように額に手をあてていた。
「うわーマジで。私、あの段ボールに前使ってたギターケース入れてたのに。……回収しに行かなきゃ」
「え、そうなの? 一応中身確認したけど破れてぼろっちかったからてっきりゴミかと……」
「ぼろっちくてごめんなさいねえ。確かにゴミ同然だけど、私の私物だったのよ」
「すんません。オレ今先輩が使ってる茶色いやつしか見たことなくて。あの、ギターのキーホルダーがついたやつ」
「ああ、あんたが入ってきた時はもう替えてたんだっけ。あのキーホルダーも先輩にもらったものだったのよ」
世良が先輩に対しておろおろする様を見ていた矢㮈はふと、高瀬がじっと教室の奥を見つめているのに気付いた。
「どうしたの?」
声をかけても反応はなく、彼の眉間には深い皺が寄っていた。
いつものように矢㮈をスルーしているのか、それとも単に声が聞こえていないだけなのか。
やがて、高瀬は諷杝の方を見て言った。
「……旧校舎に入るにはどうしたら良い?」
諷杝は一瞬きょとんとしたが、すぐに少し困ったように眉を八の字に下げた。
「そうだなあ。とりあえず、並早先生に相談してみようか」
旧校舎は現在生徒立ち入り禁止の場所となっている。前に矢㮈たちが入ることができたのは、わけあって副理事長が一緒にいたからである。
(並早先生の困った顔が想像できる)
これから巻き込まれる英語担当教諭のことを思い、矢㮈は静かに嘆息した。
五.
それから職員室で休息していた不運な並早教諭を捕まえ、矢㮈たちは旧校舎に向かった。
中庭を突っ切った繁みの向こうに三階建ての暗い校舎がひっそりと存在している。以前、日暮れ辺りに来た時よりはまだ明るくて不気味さがマシに思えた。
「校舎内、色々劣化してるから気を付けてね。はしゃがないように」
並早は念を押して、『立ち入り禁止』と貼り紙がしてあるガラス扉を開いた。
一行は少し湿っぽい、独特の空気の廊下を進んだ。一回しか入ったことがない矢㮈たちとは違って、春日井は慣れたように一階の廊下を突き進んでいった。
迷うことなくかつての軽音部の部室に到着した春日井は、部屋の中に首を巡らして顔を顰めた。
「……汚い」
埃と黴の臭いがツーンと鼻にくる。
室内は相変わらず雑多な物置きだった。床の面積の半分以上が物で溢れ返っている。
様々な形で大きさもバラバラな箱。雑巾やバケツ、箒といった掃除用具。どう考えても椅子の方が多く点在する勉強机。その他一見しただけでは判別ができない得体の知れないものもある。
「ここを見ると、今の部室、超綺麗じゃね?」
「比較対象がおかしいですよ、世良先輩」
世良のポジティブなのか何なのか分からない言葉に高瀬が冷静に突っ込む。
「ああ、懐かしいなあ」
並早がふらりと誘われるように部屋の奥へ歩いて行く。
部屋の奥の壁には上下二段のロッカーが並び、空いている壁には手作りのボードらしきものがかかっていて、そこには色あせた写真がペタペタと貼ってあった。
「あれ、先生も軽音部だったんですか?」
春日井が尋ねると、並早は小さく首を振りながら壁の色褪せた写真を目で追った。
「いや、僕は違うけど、昔、兄が入ってたんだ」
「そうなんですか。もしかして写真がまだ残ってるとか?」
「はは、さすがにここにはないねえ」
並早の兄が彩楸学園の生徒だったのはもう二十年以上も前の話だ。
「春日井先輩、これですよね」
世良が黒板の前に置かれていた段ボール箱を開けた。春日井がその横にしゃがんで中から半分に折り畳まれた黒いギターケースを取り出す。背負うリュックタイプだ。
「そう、これこれ」
確かに一部はぼろぼろで、しかも埃で白くなっていたが、春日井は大事そうに抱え込んだ。
「お目当てのものは見つかったようだね」
並早が「良かった良かった」と頷くのに対し、諷杝は苦笑した。
「先生、実は本当に見つけたいものはまだ見つかっていないんですよ」
「え?」
きょとんとする並早に、諷杝がここまでの経緯を掻い摘んで説明した。
「へえ、軽音部の『置き土産』かあ」
並早も知らなかったらしく、興味深そうな表情になる。彼もこの学園の卒業生ではあるが、教諭として赴任したのは今年度からだ。春日井の先輩のことも知らないだろう。
「そういえばこの辺の箱にも古い『置き土産』があった気が……」
「あ、先輩。これじゃない?」
春日井と世良が教室後ろのロッカーの一つを開けて覗き込んだ。
彼女たちが取り出した箱には、先程部室で見たよりもさらに多くの色とりどりのピックが眠っていた。古いものは欠けていたり、変色しているものもあった。
「先輩のっぽいのはないよねえ」
「うわ、Tシャツもあるよ。いつのやつだよ」
軽音部の二人がぶつぶつ言いながら確認していく。
矢㮈は雑多な物々にぼんやり目を遣りながら、さりげなくロッカーを確認している高瀬と諷杝を見付けた。彼らは片っ端から上下二段のロッカーを開けてはすぐに閉めていく。
「……何やってるの?」
とても春日井の探し物を探しているようには見えず訊いてみる。
「うーん、ちょっと面白そうな楽譜の一枚や二枚、また見つかるかなーって」
諷杝が曖昧に微笑みながら言うと、高瀬が正直に言い直した。
「こいつの父さんが残したあの楽譜だ。もしかしたらまだ何かヒントが残ってるかもしれない」
矢㮈たちは前に、この旧校舎のこの軽音部の元部室のロッカーから、諷杝の父親が残した大量の譜面――と呼べるものだけでなく雑多なメモも紛れ込んでいたが――を見付けた。残念ながらそれらの中に例の曲の続きはなかったのだが。
「もしかして二人とも、またここに入って探すために春日井さんを手伝おうと思ったんじゃ……」
まさかの疑念が過ぎって声を低めて問うと、諷杝が少し困ったように眉を下げた。
「もちろん春日井さんの役に立てたらと思ってのことだけど、それだけかと言われると正直違うね」
「こいつにしては頭が回ったと俺は少し感心したけどな」
「高瀬!」
矢㮈が睨み上げるも高瀬には全く効果はない。
「……気持ちは分からないでもないけど」
嘆息する。諷杝が父親の残した楽譜を探すのに必死になっているのは分かっている。彼にはもうあと一年しか時間が残されていないのだ。
「でもとりあえず、最優先は春日井先輩の探し物だと思うよ」
これだけは言っておきたいと釘を刺した矢㮈に、
「分かってる。あくまで僕の事情はついでだから」
諷杝がしっかりと頷き返した。
対して高瀬は眉を顰めたまま、小さく溜め息を吐いた。
「高瀬も、分かった?」
再度念を押した矢㮈をちらりと一瞥し、彼は春日井の方に視線を向けた。その口から洩れたのは、信じられないような言葉だった。
「春日井さんの探し物、一つ心当たりがある」
「え?」
矢㮈と諷杝の目が点になる。
「二人してアホ面やめろ。……まあ確かめてみるか」
高瀬は矢㮈たちを置いて、古い品々を見合わせている春日井と世良の所へ歩を進めた。
「春日井さん、そのギターケースちょっと見せてもらっても良いですか?」
「良いけど」
傍に置いていた黒いギターケースを高瀬に渡しながら、春日井は不思議そうに首を傾げた。
高瀬は丁寧な手付きでギターケースを広げ、外側を確認してからジッパーを開いて中も確認した。
「このギターケース、いつ替えたんですか」
「一年の終わり辺りだったと思うけど。それがどうかしたの?」
「春日井さんの先輩は、新しいギターケースのことを知ってましたか?」
「うーん……新調したのは三月だったから……先輩その時にはもう見かけなかったかなあ」
思い出しながら言う春日井の前で、高瀬はギターケースの中から薄くて小さい冊子のようなものを取り出した。
「?」
「多分、これが春日井さんの先輩が渡したかったものだと思います」
「え!?」
春日井だけでなく、高瀬を除くその場にいた者全員が目を見開いて彼とその手にある冊子を見ていた。
高瀬が呆然としている春日井に冊子を差し出すと、彼女は震える両手で受け取り、表紙を見つめた。桜色の無地で何も書かれてはいない。
一つ深呼吸して、ゆっくりと表紙を捲った。
「!」
彼女の後ろから矢㮈もそっと覗き込むと、そこにはぎっしりと文字が書き込まれていた。一番上にはカギ括弧付きでとある曲名らしきものがあった。
「これ……私が入学して初めに弾いてた練習曲……」
春日井がパラパラとページを捲っていく。他のページにも、分量に差はあれ丁寧な文字が綴られていた。文字の勢いは当時の筆者の感情をそのまま現しているかのようだった。
「先輩の字だ。……あ、このページ見覚えがある」
あるページを開いて手が止まる。
「この時ちょっとスランプで、先輩に話聞いてもらってたの。その時このページ見せてもらって元気もらったんだ」
気付けば春日井の目が赤くなっていた。何かをこらえるように唇を真一文字に結んでいる。
「なるほど。先輩は春日井さんの曲に関して書いていたページだけをわざわざまとめて、それを『置き土産』にしたわけだ」
諷杝の言葉に高瀬が小さく頷き返した。
「ああ。手紙の中にあった『君の役に立てるかもしれない』は、春日井さんに何かあった時、このノートを見返してほしいという気持ちがあったんだろう」
一年の春日井が弾いていた曲は練習の分を含めてもそう多くはない。だから冊子も数ページですぐに終わってしまう。
だがたった数ページに、ぎっしりと先輩の想いが詰まっている。
そしてこれは、一年の春日井の練習の記録でもある。
これから春日井が何か迷ったりスランプに陥った時、きっと助けてくれる、心の拠り所となるだろう。――もう側にはいない彼の代わりに。
「……もう……何でこんな大事なもの……今頃になって……」
春日井が悔しそうに歯を食い縛る。もっと早くに見付けたかったという思いが痛い程伝わって来た。
「でもどうしてギターケースの中にあるって分かったの?」
矢㮈はずっと聞きたかったことを口にした。すると春日井も弾かれたように顔を上げる。
「ホント、何で分かったの? ていうかギターケースのどこに入ってたの。私、ギターケース替えた時にポケットは全部チェックしたはずだけど」
「普通に内ポケットの一つに入ってましたよ。恐らく、春日井さんがケースを替えた後に先輩はこの冊子を入れたんだと思います」
高瀬はギターケースを開いてその内ポケットを示した。冊子が余裕で入るくらいの大きさなので春日井が見落とすとは考えられない。
「俺の推測ですけど、その先輩は三月にも一度この学園を訪れていたんじゃないでしょうか。無事に卒業できたのなら証書とかもらいに来ていたのかもしれませんね。その時、もし春日井さんと会えたら直接渡すことも考えていたかもしれません。でも、会えなかったから」
「春日井さんに届くようにするにはどこに置いておけば良いか。部室って結構雑多に物を置いているし、紛れてしまったり万が一他人の手に渡っても困る。それに一年生だと、私物とかはまだあまり置けなかっただろうし、春日井さんの荷物に紛れ込ませるのも難しいよね」
諷杝が独り言のように呟く。
「その時、偶然にも見覚えのあるギターケースが目に留まったんでしょう」
「この……ギターケース?」
「はい。春日井さんの物だと先輩はすぐに分かったでしょうし、これなら絶対あなたの手に届くと思った」
「……春日井先輩、普通にそのまま部室に放置してたけどな」
ボソリと呟いた世良を一瞬だけ睨んだ春日井は、はあと脱力したような息を吐いた。
「ああ~私は阿呆だあ~」
俯いた肩が震える。その姿に少し矢㮈の胸にも切なさが込み上げた。
(でも見つかって良かった)
しばし春日井をそっとしておこうと考えた銘々は、また部室をうろうろとし始めた。
「ねえ諷杝君」
矢㮈の側にいた並早が、ふと諷杝に声をかけた。
諷杝が振り返り、その向こうで高瀬も反応するのが見えた。
並早が顎に手をかけて、珍しく眉間に皺を寄せていた。
「どうしたんですか、先生」
「……もしかしたら、うちにもあるかもしれないと思って」
「何がですか?」
「『置き土産』」
並早の言葉に諷杝が驚いたように目を開いた。
「それって……」
「よし! 復活。ああ、もういい加減埃臭いわね、ここ。そろそろ出ましょう」
諷杝の言葉を遮って春日井が声を上げた。彼女を見遣ると、背筋がピンと伸びた清々しい姿が目に映った。
「みんなも、先生も、ありがとう。これで無事卒業できそうです」
埃をかぶった黒いギターケースと桜色の冊子を大事そうに抱えた春日井の目はまだ微かに赤かったが、すっきりとした表情で笑っていた。
六.
春日井たちと別れた矢㮈たちは、旧校舎を後にしてぶらぶらと歩いていた。もうすぐ日も暮れようとしていた。高瀬はこの後バイトがあるとかで、今日はもうお開きにしようということになった。
中庭を通り抜けるとどこからか白い鳩が飛んで来て、諷杝の頭の上に器用に着地する。諷杝は慣れたように平然としたまま歩き続けていた。
この鳩を頭の上に乗せて歩く少年の絵に慣れて来た自分が怖い。
矢㮈が軽く頬を引き攣らせると同時に、諷杝を挟んで向こう側の高瀬も眉間に皺を寄せて鳩をじろりと見下ろしていた。
「ところでさ、也梛。どうしてギターケースの中にあるって分かったの?」
脈絡なく諷杝が問いを投げると、高瀬は怪訝そうな目で諷杝を見た。
「さっきの説明聞いてただろ。てかお前がその部分説明してくれたんじゃねーか」
「違うよ。もっと根本的な疑問」
諷杝は首を振って、じっと高瀬の目を覗き込んだ。微かに高瀬が身を引く。
「君がギターケースに目をつけた理由。心当たりがあるって言ったのは、前に也梛にも似たような経験があったから?」
「……」
也梛がふいを突かれたように黙り込む。諷杝は興味深そうに也梛を見続けていた。
「だって、そもそも先輩が残した物がどんな物かも分からないのに」
確かにそうだ、と矢㮈も思った。
高瀬は恐ろしく頭の回るやつではあるが、それでも春日井の話だけであんなに簡単にギターケースの中にあると当てられるだろうか。心当たりがあったということは、彼の中にそれと結びつく経験が何かあったからだと思えた。
彼自身かもしくは身近な人に、同じような出来事が――。
「……別に。たまたまだ。当たって良かったなっていう程度」
高瀬はつっけんどんに言って、ふいと前を向いてしまった。こうなったらもうこれ以上は喋ってくれない。
諷杝が苦笑して、矢㮈と視線を合わせた。
校門に続く桜並木の近くまで来た時、高瀬が「そういえば」と矢㮈に視線を向けた。
「笠木、お前渡さなくて良いのか?」
「え? 何を――」
はっとする。思い出した。今日はバレンタインデーだった。
まだ渡すべき人に渡していないではないか。折角用意して来たのに。
矢㮈は肩にかけていた鞄のファスナーに手を掛けながら立ち止まった。
「あの」
少し前で諷杝が足を止める。白い鳩はいつの間にか地面に降りて、彼の横をひょこひょこと歩いていた。
「俺は先行ってるぞ」
高瀬が諷杝の横をそのまま通り過ぎようとしたので、矢㮈は慌てて引き留めた。
「え、ちょっと待って!」
それが意外だったのか、高瀬がぎょっとしたように振り返り、矢㮈を見て眉間に皺を寄せる。
「……俺は空気を読んだんだから、お前も察しろよ」
「何が?」
彼が言っている意味が心底分からなくて矢㮈も首を傾げ返す。
「……」
高瀬がこれみよがしに大きなため息を吐き、「もういい」と横を向いた。気が変わったとでもいうようにその場に留まったのを見て、矢㮈はごそごそと例のものを取り出した。
友人たちに配ったのとは別に用意したチョコレート菓子だ。
(なんか改めて渡すのってちょっと恥ずかしいな)
矢㮈は小さく息を吐いて、二人の前に立った。
一つは諷杝に。もう一つは高瀬に。
「わあ、良いの? ありがとう!」
諷杝は予想を裏切らない嬉しそうな笑顔で受け取ってくれた。
対して高瀬は心底不思議そうな顔で手元にある包みを見ていた。自分の分があるとは全く予想していなかったというような。
「何よ、いらないなら返して」
矢㮈がいつもの調子で言うと、漸く彼は口を開いた。
「……いや、もらっとく。ありがとう」
素直にお礼を言われて今度は矢㮈の方が少しびっくりしてしまう。
見た目と性格のキツさに反して、高瀬は甘い菓子類に弱い。
「良かったねえ也梛」
「……うるさい。じゃあ俺はバイトに行くからな」
高瀬は鞄の中に矢㮈からもらった菓子の包みをしまうと、今度こそ歩き去ってしまった。
その背を見送りながら諷杝がくすくす笑っている。
「あれ絶対喜んでるんだからね、矢㮈ちゃん」
「そうかなあ?」
矢㮈には高瀬の心の機微が分からなかったが、まあ受け取ってくれたということは嫌ではなかったのだろうと思うことにした。
「そういえば諷杝は他に誰かからもらったの?」
「クラスの女子がみんなに配ってたのをちょっとだけかな」
ということは本命はもらってないのだろうか。少しだけほっとする。
「そういう矢㮈ちゃんは特別なやつ誰かにあげたの?」
「え、そんなっ、あげてないあげてない。ていうか強いて言うなら諷杝たちにあげたのが特別に作ったやつだし」
矢㮈がしどろもどろになって言うのを聞き、諷杝が頬を緩ませた。
「そっか。ありがとう」
「……うん。あ、でも高瀬は千佳ちゃんから特別な友チョコもらってたよ」
「ああ、あの元気な臣原さんか。へえ、也梛、受け取ったんだ」
「そう、千佳ちゃんの手際素晴らしかったよ。あっという間で、気付いたら高瀬の手の中にあるの!」
さすがの高瀬も唖然としていた。見事に千佳に一本取られた形だった。
それを聞いた諷杝は「僕も見たかった!」と悔しがる。
「でも高瀬、何人かの女の子に声かけられてたから、もしかすると他にももらってるかもしれないよねえ」
矢㮈が冗談交じりに呟くと、諷杝は「そうかな?」と首を傾げた。
「臣原さんのを受け取ったってだけでも僕はびっくりだけど。下手したらあいつ、無理にでも押し返そうとしそうだから」
「ええ、そこまで?」
「うん。だから僕は、学園ではきっと矢㮈ちゃんからのしか受け取らないだろうなって思ってた」
「何で私のは受け取ると思ったの?」
いつの間にか馴染んでしまったとはいえ、特別仲が良いわけでも特別な恋心があるわけでもなかろうに。
「どうしてだろうね? 何となくそう思っただけ」
諷杝は微笑んで、曖昧な答えを風に乗せて流してしまった。
まだまだ冷たい風が二人の体に吹き付ける。
二週間後の卒業式には少しマシになっているだろうか。
(卒業式が終わったら、すぐに私たちも学年が上がるんだな)
矢㮈と高瀬は二年に。諷杝は三年に。
「諷杝。あの楽譜、見つけようね」
矢㮈が何げなく口に出すと、諷杝が目を細めた。
「……そうだね。春日井さんのように、最後はすっきりした気持ちでいたいな」
二人の足元では、吹き付ける風に煽られながらもひょこひょことイツキが歩き回っていた。
***
冷たい風が正面から吹き付けて来る。目の前で踊り狂う前髪が鬱陶しい。
也梛は乱れた髪を横に流しながら、バイト先へと向かっていた。
商店が立ち並ぶ通りに来ると、あちこちでバレンタインの文字が躍る。今日が終われば残り物はセールのワゴンに並ぶのだろう。
(バレンタインデーねえ……)
也梛は鞄の中に入っているチョコを思い出して小さく息を吐いた。
本当は、一つも受け取るつもりはなかったのに。
『心当たりがあるって言ったのは、前に也梛にも似たような経験があったから?』
諷杝の言葉が頭を過ぎる。
也梛は肩にかけた黒いキーボードケースをちらりと見た。中学生の頃から使っている愛用のケースだ。
時計を確認し、少し早いかと近くの公園に足を向ける。日が暮れて電灯がついた公園に人気はなく、ひっそりとしていた。
空いていたベンチに腰掛けると、勝手に手が動いてキーボードケースを開けていた。
本体の下にある内ポケットの一つに指を指し込み、四つ折りの便箋を引き出した。
(そうだ、諷杝。俺にも同じことをしたやつがいたんだよ)
便箋を開くと、丁寧で少し丸みのある優しい文字が目に飛び込んできた。
これを書いて也梛のキーボードに忍ばせた彼女は、今頃どうしているのだろう。元気にしているだろうか。
『高瀬君、これ、受け取ってくれる?』
そういえば彼女にもチョコレートをもらったなと思い出す。
多分、生まれて初めてもらった、いわゆる本命チョコだった。
「元気でいてくれるなら、それでいい」
也梛は便箋を元通りに戻し、ケースを閉じて立ち上がった。
読んで下さってありがとうございました。
少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。
本編はまだ続きます。もしよろしければまたお付き合いくださいませ。(2019.05.23)




