落とし物<後編>
第28話「落とし物<前編>」の続きです。
【主な登場人物紹介】
・笠木 矢㮈(かさぎ やな)…1年生。
・高瀬 也梛…1年生。キーボードを弾く。
・海中 諷杝…2年生。ギターを弾く。
【その他】
・臣原 千佳…1年生。矢㮈と也梛のクラスメイト。
・松浦 大河…同上。
・衣川 瑞流…同上。
三.
「なあ、ここの文脈でこの『have』ってどういう意味で使われてるの?」
「『食べる』じゃないの?」
「『持っている』でしょ?」
「阿呆、その『have』は現在完了だ。そのすぐ後に過去分詞がついてるだろ」
松浦と矢㮈と衣川の三人が英語の長文プリントを前に頭を突き合わせているところへ、業を煮やした高瀬が漫才のボケにツッコむように正解を告げた。
「ああ!」
そういえば、と納得した矢㮈たちに、高瀬は続いて大きな溜め息を吐く。――大丈夫、これはもうすでに勉強会のお約束の光景だ。
高校に入学して一番初めの定期試験の時に、無理矢理高瀬に教えを乞い――正確には、半強制的に高瀬を引き込んだ松浦と衣川に誘われた――、気付けば毎回試験の度にこうして勉強会をするようになった。
当の高瀬も、口と態度は悪いが元は面倒見が良いところが災いして、結局毎回先生役で付き合ってくれている。
「高瀬君、この化学式、どこが変か分かる?」
矢㮈の隣で黙々と問題を解いていた千佳が顔を上げて高瀬にきく。彼女は英語は問題ないからと化学のプリントとにらめっこをしていた。
「そのイオン式、マグネシウムイオンの価数は2だから……」
プラス、マイナスがうんたらかんたら――と高瀬が呪文の如く唱えるのを、千佳がふむふむと頷きながら聞いている。
隣にいる矢㮈たちにはまるで宇宙人の会話を聞いているようだった。同じ言語を話しているとは思えない。脳がすでに現在完了形を理解するのにいっぱいいっぱいになっている。
いや、結局は矢㮈たちも同じテストを受けるわけで、化学もまた例外ではないのだが。
「ああ~もう無理~甘いもの摂取したい~」
この日一番に集中力が切れたと宣言したのは衣川だった。サラサラの黒髪をくしゃりとかきあげ、一見女子のようにも見える整った顔には苦悶の表情が浮かんでいる。
それにつられるように、奇声を発して松浦も机の上に突っ伏した。
「うがー、オレももう無理」
言葉にこそしなかったが、矢㮈もまた彼らと同じ心境であったので、シャープペンシルをころんと机の上に転がして伸びをした。
「お前らなあ」
千佳に化学式の説明を終えた高瀬が呆れた顔で三人を見る。
「糖分補給に行こうよ。今日はイチゴオレの気分」
衣川がさっさと席を立って教室のドアに向かった。
「じゃあオレは抹茶ラテにしよーっと」
途端に松浦が机から起き上がり、元気に衣川の後を追いかけた。
「じゃああたしも」
「待って、私も行く」
矢㮈と千佳も同時に席を立つと、高瀬が一つ溜め息を吐いた。
「まだ勉強する気があるなら早く戻って来いよ。俺は今日バイトだから五時半には帰るからな」
試験中でも優秀な高瀬はバイトを休まない。何とも彼らしい。
「高瀬君も一緒に行こうよ。今日は松浦君のおごりだったでしょ」
千佳がすかさず高瀬も誘う。この勉強会開催中は、矢㮈たちが日替わりで高瀬に指導料という名の飲み物――百円の紙パックという安さではあるが――をおごることになっていた。
今日の担当は松浦だ。
「松浦君のことだから、横で一緒に選ばないととんでもない冒険をするか、最悪買って来ないかもしれないわよ」
「……行く」
千佳の言葉には妙な説得力があり、高瀬は渋々席を立った。
カフェテリアの前のスペースに、数台の自販機が並んでいる。学園内には他にあと二か所自販機が設置してある場所があるのだが、ここが一番種類が豊富で生徒たちがよく利用している。
衣川と松浦が自販機の前で腕を組みながらぶつぶつと言っていた。
「やっぱオレ、今日はほうじ茶ラテにしようかな」
「オレはココアに……いや、やっぱり抹茶も」
自販機を前にして、どうやら心変わりをしたらしい。
「何やってんの、あの男子たち」
それを千佳が呆れたように眺めて肩を竦めた。
「でもこの新発売の黒糖たっぷり和風オレも気になるんだよなあ。オレは一口でいいから、高瀬にこれ買って……」
「オレは普通のカフェオレでいい」
松浦の言葉をぶった切って高瀬が後ろから注文すると、松浦が驚いたように振り返って小さく舌打ちした。
「ここは冒険しろよ」
「ここで俺が冒険する意味が分からん。そんなに飲みたきゃお前がすればいいだろ」
「だってこれ黒糖は分かるけど、あとは『和風』としか書かれてないんだぜ? ちょっと冒険度高すぎだろ」
「そんな冒険を俺にさせるな」
「高瀬冷たいー」
唇を尖らせる松浦に高瀬は「今さら」とそっけなく返し、迷うことなくカフェオレを選択した。
「私は何にしようかなー」
千佳が空いている自販機に駆け寄って選び始めるのを見て矢㮈も続こうとした時、
「あ、矢㮈ちゃんだ」
聴き慣れた声がして慌てて振り返った。
「諷杝」
そこには想像通りの彼の柔らかい笑顔があった。相変わらず焦げ茶の髪があちこちにぴょんぴょんと跳ねている。
「勉強会の休憩?」
「そんなとこ。諷杝も残って勉強してたの?」
「うーん……僕は授業中に出しそびれた課題プリントをさっきまでしてた、かな」
課題プリント。先日の高瀬たちの化学レポートの件を思い出した。
「授業中何かあってできなかったの?」
高瀬たちの場合は同じグループのメンバーが遊んでいたせいで終わらなかったわけだが、彼の場合も似たようなものだろうか。
「いや? 単に僕が寝てサボっちゃっただけ」
言葉の内容とは裏腹に爽やかな微笑みを見せる諷杝。そこは笑うところではない。
矢㮈はフォローする言葉が見つからず、笑って誤魔化しておくことにした。
「それより也梛先生はどう?」
「相変わらずスパルタだよ」
諷杝は自販機の前でまだ何事か言い合っている高瀬たちを見て、ふふと楽しそうに笑った。
「何だかんだ言いながら也梛も楽しそうだよねえ」
その顔はまるで弟を見つめる兄のようで、諷杝は心底嬉しそうだった。あの高瀬がクラスメイトたちに馴染んでいる様子を見ると、いつも彼はこんな感じだった。
「うんうん、皆で勉強会って良いよね」
「……諷杝?」
その溢れんばかりの笑顔が妙に引っかかり、矢㮈は小首を傾げた。
諷杝は単に高瀬の様子に喜ばしさを感じているだけではないのではないだろうか。
(諷杝にとって嬉しいことが他にも何かある……?)
彼のルームメイトである高瀬が矢㮈たちの勉強会に付き合うことで、諷杝にとって都合の良いこと。
「……諷杝はテスト勉強、ちゃんとしてる?」
矢㮈は一つ思いついたことがあり、さりげなく諷杝に話を振った。
途端に、諷杝の笑顔が固まる。
「……や、やってるよ、もちろん!」
必死に訴える諷杝の頬は若干引き攣っている。――どうやら矢㮈の思いつきは当たりだったらしい。
「諷杝」
カフェオレの紙パックを手に高瀬がいつの間にか側に立っていた。
諷杝が相変わらず頬を引き攣らせた笑みを浮かべて、高瀬に「やあ」と片手を上げた。さっきまでの満面の笑顔が嘘のようだ。
「何が『やあ』だ。お前テスト期間中にふらふらしてるんじゃないだろうな」
「やだなあ。ちゃんとお昼寝した授業のプリントも終わらせたよ!」
「……お昼寝? 授業のプリント?」
自ら墓穴を掘った諷杝に、高瀬の眉間に皺が寄る。
「前に言ったよな、一夜漬けでも何でも、授業中のノートとプリントが重要だって。だから真面目に受けろって」
「……聞いたような」
「言ったぞ。テストの度に言ってきた」
矢㮈の目の前で、高瀬に言い込められる諷杝がだんだん小さくなっていく。
「ま、まあ、也梛は皆の先生なんだから! ほら、皆待ってるよ!」
言い返せなくなった諷杝が、自販機の前でジュースを飲みながらこちらを見守っている千佳たちに高瀬の注意を逸らそうとした。
(もしかしなくても諷杝、やっぱり……)
矢㮈は確信した。諷杝が妙に嬉しそうだった理由の一つは、高瀬が矢㮈や松浦たちの勉強を見る時間が増えたことで、諷杝へのスパルタ指導の時間が逆に減ったことにあったのだ。
どうりでいつも以上にのびのび気楽でいると思った。
だが元諷杝の専属家庭教師は、現在も仕事を放棄しているわけではなかった。
「諷杝。俺がバイトから帰るまでに昨日の問題集終わらせておけよ。就寝時間までに詰め込むからな」
踵を返して逃避を図った諷杝に釘を刺すのを忘れない。そうか、高瀬はバイトの後もまだ諷杝の勉強を見てあげるのか……と矢㮈は彼のオカン気質にある意味尊敬の念を覚えた。
諷杝が引き攣った笑みを浮かべて手を振りながら逃げていく姿を見遣りながら、高瀬が溜め息を吐く。つい先程、高瀬を見る諷杝に、彼の方が兄のようだと感じたが、やはり逆なのかもしれない。
「……なあ、あの人お前の先輩なんだろ? お前先輩に向かってすげえな」
ずっと会話を聞いていたらしい松浦がズズーとストローを鳴らしながら近づいて来る。そのパッケージは結局抹茶ラテだった。
その後ろにいる衣川は初めの宣言通りイチゴオレだ。
「高瀬らしいけど、何か不思議だよね。そういえばあの先輩とはよく一緒にいるっけ?」
「そういや入学して間もない頃、オレらクラスのやつらとは全然交流しなかったのにあの先輩とは一緒にいるの見たな」
「まさかあの人の好さそうな先輩をパシッてたり……」
勝手なことを言い出す男子二人に、高瀬は軽く眉を顰めた。
「しねーよ。てかあの自由人を簡単に動かせるやつがいるなら見てみたい」
確かに。同じく諷杝のことを知る矢㮈は同感だった。
(それでも高瀬の言うことはだいたい聞いてるよね。高瀬も諷杝の言うことにはわりと素直だし)
「ただのルームメイトにしてはすごく仲良いなあとは思うよね」
衣川が小首を傾げるように言う。おそらくあの高瀬がそこまで仲良くする人間がいるということが興味深いのだろう。
「もしかして本当はずっと前から知り合いだったとか?」
ずっと黙っていた千佳が口を挟む。
(千佳ちゃん鋭い)
矢㮈は思わず息を呑んだ。前に諷杝から、高瀬とはルームメイトになる以前に知り合いだったと聞いたことがあった。
「まあ、それもあるっちゃあるけど……いや、こんなどうでもいい話をしてる場合じゃないだろお前ら」
高瀬が近くの柱に掛けられた時計を仰ぎ見ながら言った。
現在、午後四時三十五分。
「あと一時間半弱で俺は帰るからな」
高瀬が未開封のカフェオレのパックを手に教室へと歩き出す。
矢㮈たちも慌ててその後を追った。
四.
結局、高瀬は宣言していた五時半を十五分ほどオーバーして、電車に間に合うようにと急ぎ足で教室を出て行った。
「いやあ、何だかんだ言いながらもやっぱり高瀬君は面倒見が良いわよね~。私だったらあっさり見捨てて帰るわよ」
帰り支度を終えてのんびり昇降口に向かいながら、千佳が感心した口調で言う。矢㮈は苦笑いを返した。
そう、高瀬が時間をオーバーしたのは、最後に難問にぶつかった松浦と衣川に根気強く付き合っていたからだった。彼らが答えを導き出せるところまで見てから去っていった。
その難題を解いてすっかり疲れ切った男子二人とは、彼らが職員室に寄ってから帰るということで先程別れたところだ。
「あー、でも私も分からないとこすっきり解決したし、有意義な時間だったわ。何より高瀬君と一緒に勉強できることが最高よね」
「……それは良かったね」
千佳は大変ご満悦の様子だ。その理由の大半が高瀬であるということには複雑な感情を抱かざるを得ないが。
(あたしも千佳ちゃんと一緒に勉強できて嬉しいのになあ~)
心の中で小さくむくれていたら、千佳が「ねえねえ」と急に声をかけてきた。声のトーンが少し変わる。
「ジュース買いに行った時、二年の先輩いたじゃない、えっと……海中先輩だっけ?」
矢㮈は頷いた。諷杝のことは前に少し話したことがあったので彼女も名前は知っている。
「あの人、前に言ってた笠木の好みドンピシャじゃない?」
「……っ!?」
いきなり何を言い出すのか。矢㮈はぎょっとしたまま固まった。
「ほら、まだ入学して間もない頃、そんな話したの覚えてない? 笠木は好きな人はいないって言ったけど、好みは『ほんわかした人』って」
ああ、そんなこともあったような気がする。矢㮈はすでに遥か彼方の記憶として追いやられていた半年以上前の春を思い出した。
「海中先輩、見るからにほんわりしてて、ついついあの時の笠木のセリフを思い出しちゃった。で、実際どうなの?」
「どうって」
千佳のさらなる追求にまたもや口籠る。どうと言われても。
この場合、どう答えるのが正解なのか。彼女が言っている内容としてはやはり異性として好きかどうかということだろうか。
(まあ、好きか嫌いかで言えば考えるまでもなく好きだけど……)
春に彼と出会い、一緒に音楽を奏でたいと思って、再びバイオリンに手を伸ばした。彼がいなかったら、こんなに早くバイオリンに触ろうとはしなかっただろう。
そしてあの高瀬とも何とか付き合ってこれたのは、間に諷杝が入って緩衝材になってくれたからに他ならない。そういう面ではああ見えて頼りになる先輩だった。
(そりゃ諷杝といたら少し緊張することもあるし、ちょっとした仕種とかあの笑顔にかわいいとか思うこともあるけど……)
何と言うか、矢㮈の中にある諷杝への感情は色々と複雑だった。確かに彼への特別な想いというのもあるのだろうとは思うが、それが一番とは言い切れない。
「確かにあたしの好みではあるのかもしれないけど……今は一緒に音楽を奏でる仲間、かなあ」
心に浮かんだ言葉をそのまま口にする。千佳は少し拍子抜けしたような顔をしていたが、やがてふふっと小さく笑った。
「何とも笠木らしい答えね」
ここでさらに突っ込んでこようとせずに、矢㮈の答えをそのまま受け止めてくれるのが彼女の良いところだった。きっと本当は色々聞きたいこともあるだろうに、彼女はいつも相手のタイミングを読んでくれる。そして、
「また変わったら教えてね」
茶目っ気たっぷりにウインクする姿もまた様になっていてかわいいと思ってしまう。
「そういう千佳ちゃんは相変わらず高瀬なの?」
自分から高瀬の話を振るのも複雑な心境だったが――なぜ折角千佳と一緒に帰れる時に、あの不愛想なヤツの話をしなければならないのか――先程千佳の気遣いに甘えた手前、逆に訊いてみた。
「まあ、ね」
千佳の答えはあっさりしたもので、しかしそれは微妙な響きをともなっていた。矢㮈の気持ちは素直に顔に表れていたのだろう、千佳が苦笑した。
「いや、高瀬君は私のお気に入りよ。それは変わらないんだけど、私も彼に対する気持ちはどうも複雑でね」
自分でもよく分からないのよ、と彼女にしては珍しい返事が返ってきた。
「憧れも含めて、今まで好きになった人は結構いるけど、高瀬君の場合は今までとはちょっと違うような気がするのよね。私もよく分からないから、余計に彼に近付いて知りたいと思うのかもしれない」
「へえ……」
これは初めて聞く彼女の気持ちだった。今まで高瀬のことになると一気に熱が入る千佳だったが、実際はこんなことを考えていたのか、としみじみ思う。そういえば彼女とは、ゆっくりこういう話自体したことがなかった。
「そういえば笠木、高瀬君って……」
千佳がふと何かを言いかけて、小走りで下駄箱の前に行く。どうしたのかと矢㮈もその後を追うと、丁度矢㮈たちのクラスの棚の前に、小さな長方形の物体が落ちていた。
藍色の、手の平に収まるサイズの生徒手帳だ。
千佳が拾って一番後ろを開く。そこには学籍番号と、生徒の写真、名前、連絡先等が記載されていた。
「高瀬だ」
写真に写る仏頂面も、そこに記された名前も見なれたクラスメイトのものだった。
しかし彼が落とし物とは珍しい。電車の時間を気にして、余程急いでいたのだろうか。
千佳は暫くそのままじっと手帳に視線を注いでいた。そんなに写真が気に入ったのだろうか。それともまさか連絡先を暗記しようとしてる? と失礼なことを考えてしまう。
「千佳ちゃん」
「……なるほどなー」
千佳がぽつりと呟き、一つ息を吐く。
そしてパタンと生徒手帳を閉じると、何事もなかったかのように手帳をひらりとこちらに向けた。
「これ、笠木から返しといてくれる?」
「え、あたし?」
意外な頼みごとに思わずきょとんとしてしまった。
本当は職員室に届けるべきなのだろうが、今日は担任ももう帰ってしまっていた。しかし明日も普通に登校日だ。
「明日になるなら千佳ちゃんが渡しても一緒じゃない?」
「ううん。これはできたら私からは返したくない」
千佳にしては珍しくきっぱりとした口調だった。一体どうしたのだろう。
不思議に思いながらも、結局矢㮈は高瀬の生徒手帳を預かって帰路につくことになった。
翌日、たまたま早起きができた矢㮈は少し早めに家を出た。
ひんやりとした空気の中、遠くにくっきり浮かぶ山の連なりを眺めながら自転車を走らすこと三十分。
まだ登校する生徒が少ないこの時間帯は自転車置き場もすいている。今はテスト期間中で原則部活動が停止になっているので朝練の声も聞こえてこず静かだ。
「あ、矢㮈ちゃんだー。おはよう」
昇降口までの桜並木の一本道を歩いていると、途中、学園寮がある方向から歩いて来る人影が二つあった。
もうすっかり慣れたその陽気な声に矢㮈は自然と笑みを浮かべた。
「おはよう、諷杝。今日は早いね」
彼は朝は弱いと聞いていたが、今朝はずいぶんと早い――少し眠そうな顔をしているのは否めないが。
「昨夜、問題集がなかなか終わらなくてねー。早朝から也梛に叩き起こされて朝勉強」
「ああ……そういうこと」
諷杝の隣にいる高瀬はいつもの如く無表情だったが、こちらも少し眠たいのか珍しく欠伸を漏らしていた。
「お前も今日はずいぶん早いな。学校で朝勉でもするのか」
高瀬が意外そうに訊いて来る。
「あたしは単に早起きしたから来ただけよ。この時間は道もすいてるし、自転車で走りやすいから」
残念ながらそんなに勉強意識が高いわけではない。矢㮈が肩を竦めると、高瀬は「だろうな」と失礼なことを言ってこれみよがしにため息を吐いた。
そのまま三人で校舎の方へと歩き出そうとして、矢㮈はふいに思い出した。
「ああそうだ高瀬、これ」
昨日拾って矢㮈が預かっていた生徒手帳を高瀬に差し出すと、彼は一瞬驚いたような表情になった。
「……何でお前がこれを?」
「昨日帰る時に、下駄箱の前で千佳ちゃんと拾ったの」
「そうか……サンキュ」
高瀬は礼を言って受け取ると念のため中身を確認した。そして何げなく手帳を手の平で弄びながら、おもむろに尋ねてきた。
「……何か言いたいことはあるか?」
「へ? 何が?」
どういう意味だろう。矢㮈が眉を顰めると、高瀬はふいと視線を逸らした。
「……何もないならいい」
一体何なのだ。昨日の千佳と言い、その手帳に何があるというのだろう。
ちなみに昨日家に帰ってから、改めて高瀬の手帳を拝見してみたが特に矢㮈が持っているそれと変わらなかった。誰かの写真が挟んであるとか、書き込みがしてあるとかそういったこともなかった。
強いて言うなら、
「ああ、そういえばあんたの誕生日は九月だったんだね」
我ながらどうでもいいことを口にした。手帳の中で唯一「へえ」と思ったのが彼の誕生日だったからだ。
九月九日。九九の日だ、算数だ、何か彼らしいな、とあほみたいな連想をしていた。
しかし高瀬はこちらを見て、一瞬目を見開いた。
「……それ以外には?」
「以外? 別に?」
彼は何をそんなに気にしているのか。矢㮈にはさっぱり分からない。
「……いや、何でもない。とりあえずありがとう」
高瀬は手帳を制服の内ポケットにしまい、ついでに話の方も自ら切り上げようとした。
その時、矢㮈の中でまた千佳の反応が思い出された。
「あ、でも千佳ちゃんは『なるほどなー』って呟いてたけど……」
「……そうか」
高瀬は少し考えるように俯き加減になったが、ふうと一息を吐いた後に上げた顔はいつもの無表情だった。
(本当に、一体何なの?)
全くもってわけが分からなかった。高瀬は一体何を気にしていて、千佳は何を納得したのだろう。矢㮈だけが何も分かっていない。
(まあ二人の考えることってたまによく分からないけど)
分からないことがもやもやと気持ち悪いが、よく考えてみると頭の回転が早い彼らは普段からこういうことがある。そして矢㮈は特にそれを気にしたことはなかった。もう諦めの境地である。
それに、矢㮈も関わるような大切なことなら、彼女たちは何らかの形で分かるように教えてくれるだろう。
ふと、じっと黙って矢㮈たちを見ていた諷杝と目が合った。
彼は一瞬だけ少し困ったような微笑みを浮かべたように見えたが、すぐにいつもの朗らかな表情に戻って、小さな欠伸を手の平の下に隠した。
「諷杝、今日はちゃんと授業を受けろよ」
「はいはい、分かってるよー」
「どうだか」
昇降口でぶつぶつと言い合う二人は普段通りで、小言を言いつける高瀬もすっかり平常運転だった。
だから矢㮈はすぐに生徒手帳の件も、それにまつわる高瀬と千佳の反応も忘れ、ただただ定期試験のことで頭がいっぱいになってしまった。
***
「臣原」
放課後、也梛はタイミングを見計らって彼女に声をかけた。
「何かしら」
彼女の方は声をかけてくるのを予想していたとでもいうように、特に驚くこともなく也梛に向き直った。
周りに他に人はおらず、ともすればこの二人きりの状況に誤解を招きそうなシチュエーションだった。
だが彼女に声をかけた目的は、そんな甘酸っぱい青春の一ページを再現するためではない。
「生徒手帳、笠木から受け取った。ありがとう」
さっさと本題に入った也梛に、やはり千佳は驚かない。ただ少しだけ困ったように眉を下げた。
「別に大したことではないし、お礼なら笠木に言ったので十分だと思うけど?」
「でも見つけて拾ってくれたのはお前なんだろ。笠木から聞いた」
「そう、なら遠慮なくお礼を受け取っておくわ」
千佳は小さくうなずいて軽く笑った。しかしそれ以上、何も口を開こうとはしない。
(やっぱり自分からは言いたくない、ってか)
千佳が矢㮈に生徒手帳を也梛に返してくれと頼んだ時点で、彼女が也梛に何も言うつもりはないのは分かっていた。だが、也梛としては一つ確認しておきたいことがあった。
「お前、中身見たんだろ?」
「そりゃあ誰のか確認しないと分からなかったからね」
千佳はあっさりと返す。
「じゃあ俺の生年月日も見たんじゃないのか? 笠木は天然なのかアホなのか誕生日の日付けしか見てなかったらしいが……お前ならすぐに気付いただろ」
誕生日の日付けではなく、『生まれた年』を。
也梛がじっと見つめると、千佳はようやく観念したように軽く肩を竦めた。
「……やっぱり笠木は気付かなかったか。ええ、私はすぐに気付いたわ。念のために訊いておくけど、高瀬君はそれを隠しておきたいと思ってるの?」
「いや、別に隠したいとかは思ってない。もちろん言いふらす必要もないと思ってるけどな」
「なら私が知っても特に問題はないわけね。心配しなくても言いふらしたりしないわよ」
千佳が形の良い唇の前に人差し指を立てて微笑む。
「臣原のことだから、すでに俺に関する噂くらい掴んでるのかと思ってたけどな」
実を言うと、顔が広く、情報通の彼女のことだからとっくの昔に知っているのだと思っていた。今回生徒手帳を見て、決定的な証拠になっただろうなと考えていたのだ。
「あら、他に何か面白い噂でもあるの?」
すっとぼけているのか本心なのか、千佳が目を輝かせて也梛の方に迫って来たので思わず後ずさった。
「いや、何もない。面白いことなんかない」
「残念~」
おどけたように言った千佳は、もうすっかりいつも通りの賑やかなクラスメイトだった。
「ああそうだ、高瀬君」
「あ?」
千佳がふいに真面目な顔になって、身長差のある也梛を見上げてきた。
「高瀬君が優秀なのは、一年の差なんて関係なくて、高瀬君がちゃんと努力する人だからって私は知ってるからね」
「……」
予想もしていなかった言葉に、咄嗟に返す言葉が見つからない。
「私だけじゃなくて、笠木も松浦君も衣川君も……ううん、クラスの皆が知ってるからね」
いつも也梛の周りできゃいきゃい騒ぐ彼女は一体どこへ行ったのか。がらりと雰囲気が違って也梛も思わず真顔になってしまった。
「……お前がいつも巻き込んでくれるからな」
考えてみればいつもそうだ。也梛がクラスに溶け込むきっかけは、彼女が「高瀬君もね!」と無理矢理、強制的に参加させてきたことにあった。
矢㮈とだって、諷杝がいない所ではほとんど話そうとも近付こうともしなかったのに、彼女と一番仲が良い千佳が也梛に構うものだから気付けば前より話すようになってしまった。
(大したやつだよなあ、こいつも)
也梛は自然と口の端に笑みを浮かべ、用は済んだと千佳に背を向けた。
「今日はもう帰るの?」
「ああ。今日もバイトだ」
「そう、お疲れ様です」
「ああ、じゃあな」
制服の内ポケットにちゃんと生徒手帳がしまってあることを確認して、也梛は校舎を出た。
前回よりも少し長めになってしまいました。
次は冬休みのそれぞれということで一度リセットできたらと思います。
ここまで読んで下さってありがとうございました。
遅筆ながら続き頑張って書きます。(2019.02.08.樹氷)




