旧校舎と欠片<学園祭2>
【主な登場人物紹介】
・笠木 矢㮈(かさぎ やな)…彩楸学園1年生。
・高瀬 也梛…同上1年生。キーボードを弾く。
・海中 諷杝…同上2年生。ギターを弾く。
【その他】
・イツキ…白い鳩。諷杝に懐いている。
・臣原 千佳…彩楸学園1年生。矢㮈のクラスメイト。
・並早…英語教諭。
四.
気付けばあっという間に文化祭一日目の前日となっていた。
すっかりクレープカフェの内装に変わっている教室では、文化祭の担当係が入念に最後のチェックを行っていた。矢㮈も調理室となる隣の教室でホットプレート等の備品と材料を並べ、全て揃っているのを確認した。一応二日とも午前中限定で出店する予定だが、一日目については矢㮈は調理係として裏方に徹することになっていた。
本音を言うと、男装して執事姿で接客するのを免れるならずっと裏でクレープを焼いている方が良い。
エプロンを外して教室に戻ると、文化祭担当係の一人で執事接客講座の講師をしていた佐藤という女子生徒が駆け寄ってきた。
「ねえ笠木さん。高瀬君の連絡先知ってる?」
「え?」
矢㮈は素直に首を横に振った。残念ながら彼の携帯番号は教えてもらっていない。佐藤があからさまにため息を吐いて項垂れた。
「そっかあ~。松浦君と衣川君ももう帰っちゃってるし、あと知ってるなら臣原さんか笠木さんかなあと思ったんだけど」
「いやいやいや、私そこまであいつと仲良くないからね」
高瀬がクラス内でよく話すメンバーの中に矢㮈も入っているとはいえ、それは決して本意ではない。一緒にいる千佳だったり松浦だったり、何だかんだで巻き込まれてしまうだけなのだ。
(とはいえ千佳ちゃんや松浦君たちのおかげか、文化祭準備中に高瀬は結構クラスに馴染んだわよね)
執事接客講座を始め半強制的に文化祭準備に引っ張り込まれた彼は、結果から見ればだいぶクラスの皆と打ち解けたと思う。今まで話しかけ辛そうだったクラスメイトたちが、今では前よりも気楽に高瀬に声をかけるようになっていた。高瀬の方も声をかけてきた相手を邪険にするようなことはなく、普通に世間話くらいはする。
そもそも普段の彼は一匹狼の立場が楽だからそれに甘んじているだけで、実は結構喋るし突っ込むしお節介焼きなところがある。明るくて人懐っこい性格の松浦や衣川に絡まれるようになってからその本性が露わになっていた。
(それを言うなら人懐っこく見える諷杝の方がよっぽど一匹狼のような気が……)
そこでふと思いついた。高瀬の連絡先は知らないが、恐らく彼と一緒にいるだろう確率が高い諷杝の連絡先は登録済みだ。
「佐藤さん、ちょっと待ってね」
矢㮈はスカートのポケットから携帯を取り出し、諷杝の連絡先を呼び出した。コール音が数回響いた後、「はい」と聞きなれた声がする。
「あ、諷杝? 私、矢㮈だけど、いきなりごめんね。今そこに高瀬いる?」
『うん、いるよ。何か用事?』
クラスメイトが連絡を取りたがっている旨を伝えると、すぐに電話を代わってくれた。
『何なんだ一体?』
こちらも聞きなれた不愛想な声。矢㮈は簡単に説明して佐藤に電話を引き継いだ。ほっとした表情で携帯を受け取った佐藤は矢㮈に片手で拝むポーズをし、電話の向こうの高瀬に用件を切り出した。聞こえてくる話の断片から、どうやら文化祭当日のシフト調整についてのようだった。
「うん、じゃあそれでお願いね。ありがとう。――笠木さん、ありがとう! 助かった!」
通話を終えた佐藤が礼を言いながら矢㮈に携帯を返す。
「いえいえ、繋がって良かった」
正直、諷杝もあまり携帯を携帯しない人なので今回繋がったのは運が良かった。
佐藤はシャツの胸ポケットからメモ帳とペンを取り出して何事かをメモすると、「それじゃ」と慌ただしく去っていった。
『……おい、笠木?』
「ほえっ?」
ふいに聞こえた微かな声に驚いて携帯を取り落としそうになった。見ればまだ通話中になっていた。慌てて耳にあてると、呆れたような高瀬の声が聞こえた。
『用が済んだなら切って良いか? 諷杝と話すなら代わるけど』
「あ、えっと、用は終わったんだけど……」
ふにゃふにゃと答えた矢㮈に、高瀬は「ああもういい」と一方的に言って、電話の向こうで遠のいた気配がした。代わりにすぐ応答したのは柔らかい声だ。
『あ、ごめんね、矢㮈ちゃん。也梛ったら急に電話押し付けるんだから。用は無事に済んだ?』
「うん。助かった、ありがとう」
『なら良かった。こんなことがあるから矢㮈ちゃんとも連絡先交換しとけって言ったのに』
諷杝が困ったようにため息を吐くのに、矢㮈は小さく笑った。
高瀬が誰かと連絡先を交換している所など見たことがなかったが、もしかしたら松浦や衣川くらいとは交換しているのかもしれない。
(ていうか、本当何かあった時のためにも、クラスメイトの誰か一人くらいは連絡つくようにしとこうよ)
その相手が自分でないことは大いに結構だったが、他人事ながらそんなお節介な心配をしてしまった。
『矢㮈ちゃんはまだ学校にいるんだね。準備は無事に終わった?』
「うん、おかげさまで何とか。おいしいクレープ用意してるから是非食べに来てね」
『それは楽しみだなあ。矢㮈ちゃんと也梛の接客も同じくらい楽しみにしてるね』
弾む声に、電話の向こうにいる彼の笑顔が目に浮かぶようだ。だが反して矢㮈の方は複雑な気持ちにならざるを得なかった。
「うん、頑張って接客するよ……」
クレープを焼くことには自信があるが、執事姿での接客はどう考えても恥ずかしさが勝るに決まっている。自慢ではないが、矢㮈は佐藤の執事接客講座の補習まで受ける羽目になったのだ。あの高瀬は補習無しだったそうなのに。
諷杝との通話を終えてからも、矢㮈はしばらくその場に佇んで憂鬱な気分と一人戦っていた。
「……とりあえず明日は裏方だから」
最終的にはそんなことを呟いて自分に言い聞かせ、まだ最終チェックをしているクラスメイトたちの脇を擦り抜けて昇降口に向かった。
文化祭期間の今、準備は各教室だけではなく廊下や屋外の中庭を含め校舎中で行われている。作業をする生徒たちからは、学年関係なく、明日から始まるお祭りにわくわくそわそわした高揚が伝わってくる。矢㮈も自然と弾む足取りで二階の渡り廊下を歩きながらふと窓の外を見た。日も傾いた時間、中庭の向こうの繁みは薄暗い。
(あれ?)
繁みを少し奥に行った所に、古びた旧校舎が一棟建っていた。安全上の問題から数年前から使用されておらず、矢㮈が入学する二年前には代わりとなる新しい校舎ができて生徒は完全に立ち入り禁止となっていた。
その校舎の前にぼんやりと人影が見えた。暗いので人が立っている、とかろうじてしか認識できない。
ただでさえ古びて暗いせいで生徒は不気味だと近付かないというのに、一体誰がこんな日暮れにあそこにいるのだろう。ついに取り壊しの話が持ち上がっているのだとしたら、教職員関係者かもしれない。
(母さんはあそこで勉強してたのかなあ)
母親がいた頃はあの校舎もまだ現役だったはずだ。暗い旧校舎には矢㮈もあまり好んで近づこうとは思わなかったが、母親が通っていた場所だと思えば少し違う気持ちが沸く。
(英語の並早先生も……あ、あと諷杝のお父さんもだっけ)
徒然とそんなことを考えながら靴を履き替え、外に出る。早くも太陽は先程よりもさらに傾いて今にも沈みそうだ。
部活がないせいで静かなグラウンドの横の並木道を歩く。正門の端には明日の朝に取り付けるのだろう入り口用のアーチが置いてある。
いよいよ明日から文化祭だ。
矢㮈が振り返ると、遠くなった校舎にはまだほとんどの教室の明かりが煌々と灯っていた。
五.
彩楸学園の学園祭は、一日目の文化祭が土日明けの祝日から始まる。この日だけ一般公開を兼ねていて、学外からの訪問者も多い。
矢㮈の文化祭一日目は、主にクレープを焼いててんやわんやしていた記憶と、演劇に出ていた諷杝の衝撃的な歩行演技の記憶しかなかった。
初めから裏方に徹することが決定していた矢㮈は、朝一で届いた揃いのクラスTシャツを着て、カフェになった教室の隣の準備室でひたすらクレープを作っていた。
「え、何これ。怖いくらい人来てるんだけど!」
佐藤がずっと驚きの声を上げて忙しく走り回っていたような気がする。
矢㮈のクラスのクレープカフェを盛り上げたのはもちろん執事姿での接客だった。男子の中でも見目華やかな松浦や衣川を始め、男装女子では千佳が圧倒的な人気を誇っていた。ちらりと見た矢㮈でさえ、千佳があまりにも素敵すぎて格好良くてくらっときてしまったくらいだ。すかさず写真も撮ってもらった。
「恐ろしい女子だな」
そんな千佳を見て、高瀬までもがぼそりと呟いていた。
高瀬本人はというと、確かに衣装を身に着けた姿は執事だった。接客も松浦たちから聞いていた通り、無表情でありながら完璧だった。だが接客をしていないと途端に寡黙で謎の威圧オーラを身に纏う。忙しい千佳の代わりに仕方なくカメラを構えたら、容赦なく不機嫌な顔で睨まれた。
予定通りの時間でもらえた休憩の間に、諷杝のクラスの演劇を鑑賞した。小ホールの後ろの方の席を探していると高瀬の姿を見つけ、そのまま隣の空いている席に腰を下ろした。
「一応ちゃんとクラスTシャツ着てるのね」
「制服のシャツに着替えたら即周りからブーイングが起きた」
高瀬は面倒くさいという気持ちを表すかのようにため息を吐いた。だがそれでも周りを無視することなくクラスTシャツを着たんだな、と矢㮈は微笑ましく思い心の中で苦笑する。
諷杝の出番は劇の中盤ほんの数秒だった。だがそのたった数秒が印象に残りすぎて、矢㮈は結局演劇自体がどういう話だったのかあまり覚えていない。
「……少しはマシになったけどな」
高瀬が無表情で残念そうに呟いた。
「え、あれ練習いる? 舞台を横切るだけだよ?」
見ている限り、特に重要な意味は持っていない端役で、緊張のあまり少しくらい足早になろうと無表情であろうと、見ているこちらは気にならないくらいの存在だ。
しかし諷杝は終始どこか落ち着きなさそうに視線をふらふらと彷徨わせて歩いていた。特別彼に注視していた矢㮈の目にはそれがとても怪しく、むしろ劇中の鍵を握るのかという程の謎の人物に映った。いつもへにゃりとしている柔らかい表情も舞台の上では硬い。
高瀬が乾いた笑いを漏らしながら、諷杝が寮の部屋でも練習していたことを教えてくれた。信じられないが、諷杝はわざわざ歩く練習をしていたらしい。練習をして、その成果があの舞台だったようだ。
「……舞台上では、特に演技をするでもなく普通に歩く方が難しかったりするのかな」
「正直に言っていいぞ、笠木。諷杝は舞台に向いてない」
諷杝をフォローする言葉を無理やり捻りだした矢㮈を、高瀬は容赦なくバッサリ切り捨てた。
その後少しだけ諷杝と会って話すことができた。演劇を終えた彼は肩の荷が下りたとでも言うように一転して晴れ晴れとした表情をしていた。矢㮈と高瀬は思わず顔を見合わせて苦笑した。
「まあ練習よりはマシになってたと思う。相変わらず挙動不審な人だったけどな」
「うわ、也梛ひどい。今日はいい出来だって自分ですごく思ったのに! 佐々木君やクラスの皆にも『今日は見違えた!』って言ってもらえたし」
諷杝が反論するのを聞きながら、練習段階ではあれよりもひどかったのかと少し怖くなる。よく降板させられなかったものだ。
(いや、歩行者の端役で降板ってほとんどないだろうけど)
「これで僕の文化祭はほとんど終わったも同然だし、あとは君たちのクラスの鑑賞だね。也梛、僕の演技について笑ったこと覚えときなよ」
拗ねるように言った諷杝に高瀬が眉を寄せて固まる。今度は高瀬の方が諷杝に執事姿の接客を見られる番だ。
「来なくていい。というか来るな」
「行くよ。絶対行くからね。矢㮈ちゃんも見たいし」
「ああ、うん……」
本音を言うと高瀬と一緒で彼には来てほしくないのだが。矢㮈は曖昧に笑い返すことしかできなかった。
「おや、諷杝君。すごく衝撃的な出演だったね」
三人で話していたところに、たまたま通りがかったというふうに英語教諭の並早が声をかけてきた。この優しい先生でさえ諷杝の演劇への感想がこれだった。
「先生も観てたんですか」
「うん、諷杝君が出ると聞いていたからね。でも何というか……あそこまで……」
並早は上手い言葉を見つけられなかったらしく、語尾を曖昧に濁した。気持ちは分かる。
「そういえば今朝は君たちのクラスのクレープカフェにもお邪魔したね。高瀬君に直接接客はしてもらえなかったけど立派な姿を拝見したよ」
クレープもおいしかった、と微笑む先生に矢㮈はほっと安心し、高瀬は仏頂面になって横を向いた。きっと接客姿を見られてバツが悪いのだろう。諷杝が隣でにやにやしている。
「そういえば並早先生もずっとお忙しそうでしたけど、ネイティブの先生たちと英会話クラブの出し物の準備は無事に終わったんですか?」
並早は英会話クラブの顧問をしている。この数日、忙しそうな彼とすれ違うことが度々あった。
「おかげさまで、何とか形になって先生も生徒も楽しそうにやってるよ」
割り当てられた教室では英米のトピックスを扱った展示や、ネイティブと生徒たちによる英語でのトークショーに人形劇と様々な出し物を行うらしい。明日の休み時間にでも少し覗きに行ってみようかと思う。
「先生、明日は矢㮈ちゃんも接客してくれるらしいですよ」
諷杝がいらぬ情報を提供する。
「ちなみに午前中です」
高瀬が自分のことを棚に置いて付け加える。
「明日は最後の片付けくらいしか僕はやることがないから時間はたっぷりあるね。是非お邪魔しに行こう」
「先生」
並早は「楽しみだ」とにっこり笑う。矢㮈は諷杝と高瀬を恨みがましい目で見遣った。
「ああそういえば諷杝君、副理事長には会えたかい?」
並早が思い出したように諷杝に尋ねる。副理事長?
矢㮈は意味が分からず首を傾げながら黙って二人を見た。
「いえ、まだお会いできていなくて。相変わらずお忙しいようですね」
諷杝が少し困ったように眉を下げると、並早も困ったように苦笑した。
「そっか。少し前にお会いする機会があって諷杝君のこともさりげなく言っておいたんだけど。……まあ、実際忙しい人だからね。最近はいよいよ旧校舎取り壊しの話とか色々議題が進行しているみたいだから」
旧校舎取り壊しと聞いて矢㮈の頭に思い起こされるのは、昨日の下校時に渡り廊下から目にした光景だった。暗い中、古びた校舎の前に人影を見た。やはりあれは教職員関係者だったのだろう。
「学園祭とその前後はこの学園にいるはずだから、会えると良いね」
「はい」
並早はふと腕時計を確認すると、「じゃあ」と片手を上げてその場を後にした。矢㮈も時間を確認すると、もう後十分で休憩時間が終わる頃だった。午前中の盛況を見てクレープの材料が追加されており、またしばらく忙しく作業に徹しなければならない。
「高瀬も休憩終わるよね?」
「ああ。今度は裏方と――最後に少し接客だ」
高瀬が重い息を吐いた。
「二人とも頑張って」
後は自由に他のクラスの催しを楽しむだけの諷杝が明るい笑顔で言って笑った。
六.
文化祭二日目。
幸いというべきか、矢㮈の家族は店の事情や弟の部活動の都合で一日目に訪れたため、執事姿の接客を見られるということはなかった。弟の弓響が悔しがっていたが、矢㮈としてはほっと一安心だった。
さて、当の矢㮈がシフトに入っている午前中、開店すぐに入って来た客が一段落するだろうという頃に諷杝はやってきた。彼の隣には珍しく友人の姿がある。あれは確か同じクラスの佐々木という男子生徒だ。
諷杝は入り口から教室の中を覗くなり矢㮈と高瀬を見つけ、にこやかに手を振った。
「マジで来やがった」
高瀬が低い声で呟く。矢㮈はそわそわと落ち着かず、執事の衣装の裾を無駄に引っ張ったりしてしまった。
「あ、どちらか接客お願いね」
本日もテキパキと仕切っている佐藤が、丁度手の空いている矢㮈と高瀬に声をかける。そう、タイミングの悪いことに丁度手が空いてしまっていたのが矢㮈たちだった。
「……」
矢㮈と高瀬は束の間仏頂面で顔を見合わせ、互いにどちらが行くか静かに火花を散らす。これが執事でも何でもなければ喜んで接客しに行くところだが、今回はそうもいかない。
いくら諷杝とはいえ、あまり客を待たせるわけにもいかない。ここはじゃんけんか、と矢㮈が手を出そうとした所へ、
「あ。並早先生」
入口に新たな姿を見つけてしまった。並早もやはり来たのか。
(諷杝の接客か、並早先生の接客か……)
どちらも知人であるから余計に恥ずかしく感じるのだろう。
並早も一人ではなく、後ろに続く誰かと会話しながら入ってくるのが見えた。
その瞬間、隣の高瀬が素早く動いた。
「諷杝の接客は俺がする」
「え?」
先ほどまでの抗戦が嘘のように、あっさり態度を変えた彼に少し困惑する。高瀬は無表情のまま諷杝と佐々木の元に向かい、空いているテーブル席へと案内した。一度接客を始めてしまえばまるで役に徹する役者のように、彼は滑らかに執事の対応で注文を取る。
(さすが高瀬……)
矢㮈は半ば呆れながら、こちらもぼーっとしている場合ではないと並早の元へ向かった。
「先生、いらっしゃいませ」
「笠木さん、こんにちは。かわいらしい衣装だねえ」
並早にはこの執事衣装が「かわいく」見えるらしい。千佳の執事姿はビシッと決まって「カッコよかった」のだが、矢㮈では同じようにいかないのだと改めて実感する。
並早と共に入って来たのは母親と同じくらいの中年の女性と、その娘と見られる中学生くらいの女の子だった。彼らを席に案内しながら、
「先生結婚してたんですか?」
しかも中学生の娘までいたなんて、と矢㮈が思わず声を漏らすと、並早は目の前で手を振って「違う違う」と苦笑した。
「この方たちは――」
「あ、海中さん! こんにちは」
突然、中学生くらいの女の子が、隣のテーブルに着いていた諷杝に声をかけた。注文を終えた諷杝が女の子を見て軽く目を見開く。
「こんにちは、若葉ちゃん。来てたんだね」
そして女の子の母親、一緒にいる並早に向かって小さく会釈した。
どうやら女の子の名前は若葉というらしい。しかし諷杝とはどういった関係なんだろう。あまり女子と一緒にいるところを見ない彼にしては、わりと打ち解けた空気が感じられた。少し胸がざわつくのを感じた時、
「あ、お兄ちゃん!」
若葉が顔を輝かせて矢㮈の後ろを見遣った。矢㮈が振り返った先にいたのは、飲み物とクレープの皿を載せたトレイを手にした、これ以上無いほど苦り切った顔の高瀬だった。先ほどまで無表情で完璧な執事の接客をしていたのに、それが見事に崩れ去っているのに驚いた。
「げ……何でよりによって隣のテーブルなんだよ」
案内したのはお前か!と言わんばかりの視線が矢㮈に飛んでくるが、そんなことを言われてもここが空いていたのだから仕方がない。ただの八つ当たりはやめてほしい。
(って……ちょっと待って。さっきこの子、何て言ったっけ?)
矢㮈が若葉に目を遣ると、彼女は高瀬をじっくり眺めて満足そうにうなずいた。
「うんうん、お兄ちゃんホントに執事さんやってるね。予想以上に似合ってる」
お兄ちゃん。――聞き間違いではない。
(高瀬の妹さん……)
矢㮈が高瀬をちらりと見ると、彼はまだ苦い表情を浮かべていた。諷杝と佐々木の前に注文のトレイを置きながら、意識的に妹の方を見ないようにしているのが伝わってきた。
なるほど、諷杝の接客を渋っていた高瀬が、並早を見るなり急に態度を転換して諷杝の方に向かったわけが理解できた。並早と一緒にいる妹たちの姿を見たからだろう。
(と、いうことは)
矢㮈が中年の女性に目を遣って並早をもう一度見ると、彼は「うん」とうなずいた。
「こちら、高瀬君のお母さん」
「こんにちは。バイオリンのお嬢さんね。音楽祭では素敵な演奏を聴かせてもらったわ」
やはり高瀬の母親だった。どこか上品さの漂う、若々しく優しそうな人だった。矢㮈は慌てて頭を下げた。
「はじめまして。笠木矢㮈です。音楽祭にも来てくださったんですね。ありがとうございます」
「うちの也梛もお世話になって……この子が学校の文化祭でまさかこんなことをやる日が来るなんて思わなかったわ」
高瀬の母親はどこか嬉しそうにくすくす笑い、顔を合わそうとしない息子を見上げた。
楽しそうな母親と妹を前に、当の高瀬は仏頂面マックスで苦虫を噛みつぶしたような苦々しい表情を隠さない。「もういっそ死にたい」とその顔に書いてあるのが見えた。
矢㮈は思わず諷杝と顔を見合わせ、小さく笑ってしまった。
「お兄ちゃん、私フルーツスペシャルクレープが食べたい」
若葉がメニューを手に言うと、
「お客様の担当はこちらです」
高瀬はにべもなく言って矢㮈を前に立たせた。
「ケチ―」と頬を膨らませる若葉にちょっと申し訳なく思いながらも矢㮈が注文を伺うと、彼女は途端に機嫌を直してハキハキした声で飲み物と合わせてオーダーした。兄が担当でないと分かっても、矢㮈に対する態度は礼儀正しい気持ちの良いもので、高瀬の妹だということを差し引いても好感が持てた。
高瀬の母親と並早の注文も確認し、矢㮈は一度裏に下がった。
「ねえあれ、高瀬のお袋さんと妹ちゃんなの?」
矢㮈と同じくオーダーで下がっていた松浦が横から尋ねてきた。うなずき返すと、彼は「へえ」と興味深そうにテーブル席の方を見遣った。
「身にまとうオーラが全然違うな。高瀬は威圧的で黒いけど、あの二人は明るい」
「だよね」
音楽祭の時に会った高瀬の姉の葵はどこか弟の高瀬と似た雰囲気を持っていたが、母親と妹はぱっと見では家族と分からないかもしれない。
(多分、お母さんと妹さんとの関係はこじれてないんだよね……)
高瀬が仏頂面とはいえ、腹を立てる程の不機嫌というわけでないのは分かる。若葉の様子からも、兄の高瀬を慕っているのが伝わってきた。
三人分のオーダーを二回に分けて持っていくと、高瀬はまだテーブルから解放されずにそこにいた。何だかんだ言いながらも結局は若葉の相手をしていて、「お兄ちゃん」だなあと少し新鮮に感じる。
「僕たちにとっては時々オカンだけど、若葉ちゃんにとっては『お兄ちゃん』だね」
諷杝が早くもクレープの最後の一欠片を口に運ぶ。その向かいでは佐々木も「美味い」と頬張っていて、矢㮈はうれしくなった。
「也梛も矢㮈ちゃんもあれこれ言ってたわりにはちゃんと様になってるじゃん。その恰好似合ってる」
諷杝が手放しで執事姿を褒めるのを聞くと、さすがに頬が熱くなるのを止められない。矢㮈は俯いて視線をそらした。
「そういえば午後からは体育館で春日井さんたちのバンドがライブするらしいよ」
照れる矢㮈に、諷杝が笑みを含んだ声で話題を変えた。
「え、ホント? 休憩時間があえば行きたいな」
春日井は、夏の音楽祭で共に同じ彩楸学園から参加した三年生の先輩だ。今年が最後の文化祭発表になる。
「なあ、クレープ追加でオーダーできる?」
ずっと黙って食していた佐々木が空の皿を前に矢㮈に問うた。
「あ、はい。大丈夫ですよ」
「じゃあうちの担当執事さん、追加オーダーお願いします」
諷杝が高瀬に声をかけると、無表情のクールな執事が振り返った。
「ふふ。ホント也梛も似合ってるよねえ」
諷杝がわざとではないかと思える程にっこり笑う。まるで、昨日の演技を散々に言われたお返しのようにも感じられた。
「……お客様、執事の顔も三度までですよ?」
相変わらず無表情を崩さない高瀬だったが、さすがに我慢ができなかったのか、よく分からない造語を用いて反撃した。
七.
学園祭二日目、つまりは文化祭二日間が終わった。学園祭としてはまだ明日の体育祭が残っていたが、文化祭における各クラスの表彰等は本日中に行われた。
矢㮈たちの執事クレープ喫茶は、一年の特別賞に輝いた。クレープ作りはもちろん、気が進まなかった執事の接客も頑張った甲斐があったとほっとした。
クラスの皆は早速打ち上げモードだったが、明日の体育祭を控えているため、簡単な片付けをして今日はお開きとなった。
そして、矢㮈は下校する生徒たちの流れに逆らって、校舎に向かって走っていた。
昼に、春日井のライブを見てからずっとそわそわしていた。彼女たちの音を浴びて、いてもたってもいられなくなった。
表彰式も後片付けもどこか上の空で、自由になった途端に一目散に教室を飛び出していた。
向かった先は彩楸学園近くにある喫茶店『音響』だ。マスターにバイオリンの調律を頼んでいて、丁度預けているところだった。
(早く弾きたい)
体中を巡るリズムがある。それをバイオリンで奏でたくて仕方がなかった。
マスターからバイオリンを受け取った矢㮈は、息つく間もなく彩楸学園に取って返した。
(二人ともまだいるかな……)
学園に戻ったのは、あの二人がいるかもしれないと期待したからだ。できることならあの二人と一緒に音楽を奏でたい。
いるとしたらいつもの屋上だろうか、と考えながら雑に下駄箱から上靴を手に取る。靴を履き替えるのすらもどかしい。
バササッ。
その時、すぐ近くで羽ばたきの音がした。我に返って下を見ると、丸々とした白い鳩が嘴を上に向け、小首を傾げるように矢㮈を見上げていた。
「イツキさん」
文化祭中はほとんど姿を見ることがなかったのでずいぶんと久しぶりな感じがした。思わず手を伸ばすと、白い鳩はそれをひょいと躱して昇降口の出口に向かって歩き出す。少し先で振り返り、まるでついてこいというふうに嘴を振る。
矢㮈が上靴を下駄箱に戻し、脱ぎ掛けていた靴に足を突っ込み直して後を追うと、ガラス扉を出た先に見知った姿を二つ見つけた。
「諷杝。高瀬」
諷杝はギターを入れている袋を手にし、高瀬もお馴染みの黒いキーボードケースを肩に掛けていた。
「あはは。矢㮈ちゃんも?」
諷杝がふふと嬉しそうに笑う。――どうやら二人も矢㮈と同じだったらしい。
「だって、あんな演奏聴いたらいてもたってもいられない」
春日の三年最後の文化祭ライブは見事なものだった。夏の音楽祭よりもさらにパワフルで、楽しそうで、気持ち良さそうだった。
実を言うと矢㮈はこれまで、ピアノやバイオリンの演奏会には触れて来ても、春日井達のような軽音楽系のライブはあまり体験したことがなかった。だがこの夏の、何でもありの音楽祭に参加し、同じ年頃の者たちの多様な演奏とパフォーマンスを目の当たりにした。とても楽しくて、大きなパワーをもらうと共に、矢㮈もまた自分たちの演奏を観客に聴いてもらう楽しさを知った。
「僕たちもすぐにこれを取りに帰っちゃったよね」
ギター袋をポンと叩きながら高瀬に言う諷杝。高瀬は無言で小さく頷いた。
(そっか。一緒だったんだ)
二人が、自分と同じ気持ちだったことが嬉しい。こうして昇降口前にいるのも、矢㮈を待っていてくれたのだろう。
「いつもの屋上に行く?」
「うーん……さっき覗いたらどこかの部活が片付けに使ってたんだよね。いつまでかかるか分からないし……」
諷杝が顎に手を当てて考える素振りをした時、足元をちょこちょこと白い鳩が歩き回るのが視界に入った。そうだ、イツキもいたのだった。
「ん? イツキさん、どうしたの?」
諷杝が白い鳩に目を向けると、イツキは「待ってました」とばかりに突然とある方向に体を向けて小走りになった。
「え?」
ポカンとする人間三人を置いて、白い鳩はひょこひょこと行ってしまう。
「とりあえず、追ってみようか」
諷杝が首を傾げながらも少し楽し気に一歩を踏み出したので、矢㮈も高瀬と共に彼の後をついて行くことにした。
イツキはまるで我が庭だと言わんばかりに堂々と歩き――なぜその白い羽で飛ばないのだろう――中庭を突っ切ってさらに奥の繁みへと入っていく。
「おい、あいつどこまで行くつもりだ。鳩の巣でもあんのか?」
雑草の生えた細い道を行きながら高瀬が眉を潜めてぼやいた。
矢㮈も行き先が読めずに不安になってきていたが、諷杝が不思議そうな顔をしながらもイツキの後を追うのでそれに続くしかなかった。
やがて目の前に、古びた校舎が現れた。数日前、矢㮈が渡り廊下の窓から見た旧校舎だった。日が傾いたこの時間、暗く陰になってどこか不気味だった。
イツキはひょこひょこと旧校舎の入り口前にあるベンチに乗っかって一休みの体勢に入った。……マイペースな鳩だ。
「ここが並早先生の言ってた旧校舎か」
諷杝はベンチにギター袋を立て掛け、『立ち入り禁止』と貼り紙がしてあるガラス扉の奥を覗いた。しかしよく見えなかったのかすぐに顔を離し、ぐるりと周りを見渡した。
「ちょっと不気味だけど、静かで良いね」
「ちょっとどころじゃないと思うけど……」
矢㮈は三階建ての暗い校舎を仰ぎ見た。教室のほとんどはカーテンが引かれていた。
「まあここなら好き放題弾けそうだ」
高瀬はあっさりベンチに腰掛けると、肩に掛けていた黒いケースを膝に乗せて開いた。彼も諷杝と同じく、不気味さなど特に気にしていないようだ。
矢㮈は暫く校舎と、楽器の用意を始める二人を交互に見遣っていたが、バイオリンを弾きたいという気持ちは我慢できず腹を括った。
高瀬のキーボードに合わせてチューニングをする頃にはすっかり音の方に意識が行っていて、その場所のことなど気にならなくなっていた。
ベンチの上に丸まったまま、イツキが心地よさそうに音に身を委ねているのが分かる。鳩にもそんな感性があるのだろうかと、毎回の如く不思議に思った。
夏に三人で作って演奏した曲をさらう。
(ああ、これだ)
初めの方は暫く合わせていなかったせいでどこかぎこちなかったが、だんだんと馴染んでくるのが分かる。
諷杝の小気味良いギターの音と、高瀬の流れるようなキーボードの音の連なり。そして、アクセントとなる矢㮈のバイオリンの音色。どれか一つでも欠けた瞬間、すぐにその曲は成り立たなくなるような、絶妙なバランスで組み立てられている。
これが、矢㮈たち三人が奏でる曲だった。
最後の一音が流れた後、三人は少しの間余韻に浸るように動かなかった。
「笠木、お前いくつか音ミスったろ」
やがて高瀬が横目でじろりと矢㮈を見た。
「……」
矢㮈は視線を反らして意味もなくバイオリンの本体を撫でた。
彼の言ったことは図星だった。流れを止めないように上手く誤魔化したつもりだったのだが、さすが高瀬、気付いていたか。
「まあまあ、僕もやっちゃったし」
「ああ、お前はもう音がズレても開き直ったかのように堂々と弾いてたな」
笑って白状した諷杝に高瀬は溜め息を吐く。諷杝と目が合うと、彼はお茶目にぺろっと舌を出した。――思わずかわいいと思ってしまったのが悔しい。
「あんたは相変わらず完璧だったわね!」
高瀬に反射で言い返した言葉は、言い方とは裏腹に褒め言葉になってしまった。複雑な表情で首を傾げる高瀬。
「それは褒め言葉か?」
「……そうなるわね」
だって彼の演奏は相も変わらず一切ミスのない、完璧な心地良い音色だったのだ。むしろキーボードがしっかり音を紡いでいたから、矢㮈と諷杝のミスやズレがあっても揺らぐことがなかったのだろう。
(文化祭中も、別に練習サボってたわけじゃなかったんだけどなあ)
家でバイオリンの練習は継続していた。三人で合わせるのが久しぶりだっただけだ。
「よし、もう一回!」
一つ息をついて、矢㮈が高瀬と諷杝に言った時だった。
イツキがすっと体を起こして、来た道の方に首を向けた。
「ああ、懐かしい音が聞こえると思ったら」
こちらに向かってゆっくりと歩いてくる影があった。矢㮈たちは動きを止めて、その人影が近付いてくるのを凝視していた。一体誰だろう。声の落ち着き具合とその小太りのシルエットから、学校の生徒ではないだろうと思う。
顔が判別できる距離まで来ても、矢㮈にはそれが誰だか分からなかった。どこかで見たことがあるような気もするし、ないような気もした。
グレーのスーツに身を包み、眼鏡をかけて微笑むその初老の男性は、首から名札のカードをぶらさげていた。
(先生?)
矢㮈が首を傾げた時、後ろから諷杝の声が聞こえた。
「もしかして、副理事長ですか?」
高瀬が軽く息を呑む気配がする。副理事長……確か諷杝が会いたいと言っていた先生だ。
「はい、私が副理事長の松殿です。初めまして、海中君」
副理事長は諷杝ににっこり笑いかけると、続いて矢㮈と高瀬を見てどこか懐かしそうに眼を細めた。




