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  作者: 葵月詞菜
2/98

鳩と音楽

一.

 都心からは少し離れた所に、彼女の通う私立・彩楸学園(さいしゅうがくえん)高校はあった。

 敷地も広く、自然や交通環境にも恵まれていて、おまけに寮設備も整っているので、地元からも遠くの地域からも、毎年様々な学生が入学する。ただしこの学園では、途中編入を一切取り入れておらず、一度入学すれば減ることこそあれ、増えることはない。逆に言うと、この学園に通うためには絶対試験に合格し、且つ一年生からという条件になる。――留年は別だが。


 笠木(かさぎ)矢㮈(やな)はどちらかというと地元で、電車で一駅、自転車で最低三十分という通学距離だった。その理由もあって、彼女の学力で何とかなり、母親の母校でもある彩楸を志望した。

 まだ入学して二週間の、ピカピカの一年生。

「笠木―、おはよー」

 下駄箱の前で後ろから声がかかり、矢㮈は振り返った。

 そこに立ってにっかり笑っているのは、入学して一番に仲良くなった臣原(おみはら)千佳(ちか)だ。

 なぜか矢㮈のことを名字で呼んだり、変に男っぽい性格――単に雑なだけか? ――なところがある。しかし彼女自身は、顔も可愛い、ほっそりしていてスタイルも良い、スーパー美少女と言っても過言ではなかった。

「あぁ、おはよう。今日も元気だね」

 矢㮈が返すと、千佳は小首を傾げた。

「そう? まぁ、元気だけが取柄でもあるから」

 彼女はそう言って、また笑う。

 こんな会話も、もう早くも二週間が過ぎる。千佳と何気ない雑談をしながら教室へと向かった。さすがに教室の中も緊張感は薄まり、女子は何となくグループの塊ができあがっている。

 まだ名簿順の並びなので、千佳の後ろが矢㮈の席だった。

「今日の英語予習した?」

 千佳が横向きに椅子に座り、矢㮈の方を振り向く。

「初めの方ちょこっとだけ。全部とかあたしには無理無理」

 矢㮈がお手上げのポーズをとると、千佳もうなずいた。

「やっぱそうだよねー。あたしも少ししかできてない。まだ中学の復習のはずなのに、受験勉強の記憶がどっか行っちゃってる」

 英語や数学はまだ中学の復習やら何やらで、どうにかついて行けてはいる。しかし授業が始まって、進むスピードが中学とは桁違いであることを目の当たりにした。もともと頭の回転が良いとは言えない矢㮈は、ついていくのに必死で、先生の話などあまり耳に入ってこない。それで余計に分からなくなる。

 しかしその点、千佳は結構いろんな意味で頭の回転が速い。というか要領が良いことを、矢㮈はこの数日で学んだ。その彼女ができていないと言うのだから、矢㮈にはもっと無理な話だ。

 矢㮈が教科書を机の中に押し込んでいると、千佳が矢㮈の机の上に頬杖をついた。

「ところでさ、笠木って好きな人とかいないの?」

「へ? ……いないけど」

 いきなりの質問に、その意味を理解するのに間が空いた。

「ふーん。じゃあ、好きなタイプとかは?」

「んー……ほんわかしてる人?」

「あぁ、何かそんな感じだよね、笠木は」

 なぜか千佳がポンと手を打ってうなずく。

「そういう千佳ちゃんは?」

 鞄を机の横に引っ掛けて、ふと尋ね返してみる。

「ん? あたし? そうだなー、中学の時さ、ものすごく好きだったヤツがいたんだけどね、幼馴染みには勝てなくて、あえなく失恋。今はそういう人、いないかな」

 千佳は一人で勝手に自らの失恋話を語った。

「本当に傷ついたのよー」

 とか付け加えるが、あまりそうは見えない。

 まあ彼女なら、男子の方からどしどし来るだろう。性格もあっさりしているから、もし矢㮈が男子なら即惚れていたかもしれない。

「あ、でも」

 千佳がもう一度手を打った。

「〝彼〟には興味あるかな」

 その彼の方に視線を移す。

 矢㮈の席は廊下側から三列目の前から二番目、千佳は一番前。その三列目の一番後ろの席に、彼は座っていた。

「えーっと……高瀬君?」

「そう、高瀬(たかせ)也梛(やなぎ)君。今年、学年トップの成績で入学したらしいよ」

 千佳が腕を組んで楽しそうに言う。

(へぇ、学年トップかあ……)

「て、何でそんなこと知ってんの?」

「噂よ、噂」

 矢㮈のふとした疑問はさらりと流された。しかし矢㮈はそれ以上突っ込もうとせず、高瀬をじっと見た。

 真っ黒の髪に無表情。矢㮈が絶対手に取りもしないだろう結構な分厚さの本に集中していた。眼鏡がより秀才さを漂わせている。

 その時、ふと一瞬、高瀬の目が本から上がって矢㮈の方を見た。眼鏡の奥の瞳が真っ直ぐに矢㮈の目を射て、それは鋭く痛いほどだった。まるで――

「鳥……」

 ほぼ口の中でつぶやく。

 そう、まるで猛禽類のような。でも、それから目が離せない。

 気付いた時には、高瀬はまた本に集中していて、何事もなかったかのようだった。

(何だったんだろう、今の……)

「あっ、先生来た」

 千佳がガタンと音を鳴らして、ちゃんと前を向く。束の間、教室の中に皆が席に着く慌しさが流れる。

 一限目は現代国語。これはまだ、頑張ったら何とかついていけそうだ。



二.

「じゃ、笠木。あたし部活行って来るね。お先」

「うん、頑張って。バイバイ、また明日」

 千佳を教室から送り出して、矢㮈も帰り支度を整えると廊下に出た。

 まだまだ部活は勧誘の真最中で、早くも参加している千佳のような生徒は少数だ。廊下に貼り出されたポスターに目を遣りながら、ゆっくりと歩く。

 ふと、オーケストラ部のポスターに目が留まる。入学式の朝から、弟にはずっとオーケストラ部に入るよう勧められていたが、矢㮈はまだ一度ものぞいたことがなかった。気が、進まない。

 そのポスターから目をそらすと、次に合唱部のポスターが目に飛び込んできた。確か母親は合唱部に入っていたと言っていた。矢㮈はそう歌が上手いわけではないが、歌うのは嫌いではなかった。

「うーん、思い切って一度行ってみようかな……」

 思わず独りごちて顎に手を遣った時、足の脛の辺りを何かに突っつかれた。

「ひゃっ!?」

 慌てて飛び退く。そして足元を見ると、そこには一羽の真っ白な鳩がいた。白い鳩はまたトコトコと矢㮈の足元に近づいてきて、先程と同じ所を同じように突き始める。

「ちょっ、なっ……! 何でこんなトコに鳩!?」

 不幸か幸いか、しかし悲しいことに周りには誰もおらず、矢㮈は思い切って鳩に手を伸ばした。だが、鳩はその手を器用にすり抜けて、廊下をトコトコと走り出した。

「え!? ちょっと、君! どこ行くの……っ?」

 気になるものは仕方なく、矢㮈はその鳩を追いかけた。

 鳩は階段の所まで来ると上に向かって上り始め、ついには屋上まで行ってしまった。

 矢㮈は屋上の扉が開いているのに気付いて、軽く目を見開いた。中学の時は滅多と屋上に出ることは許されなかったため、どこか新鮮だった。鳩の姿は見えなかったが、矢㮈は屋上へと一歩を踏み出した。

 彩楸学園の屋上は広かった。その半分はガーデニングになっている。きっと昼休みには生徒でいっぱいになるのだろうが、放課後は人影もなくひっそりしている。遠くに運動部の掛け声と、吹奏楽部の各楽器の音色が風に乗って聞こえてくる。その風の中には、春の匂いも混じっていた。

 そして、それが微かに矢㮈の耳に入ってきた。

 それ――何か鼻歌のような、メロディーが。

 矢㮈はじっと耳を澄まして、そのメロディーが聞こえてくる方に向かって歩き出した。芝生の上を避けて、ゆっくり歩く。できるだけ音をたてないように、そっと、そっと――。

「!」

 屋上の奥の方にある、丸太のような木のベンチに、一人の少年が座っていた。

 俯き加減の顔には、少し長めの焦げ茶の髪がかかっていた。そのせいで表情はよく分からなかったが、矢㮈はじっと彼を見つめた。

 間違いなく、彼がメロディーを紡ぎ出している。

 歌詞はないが、何か切ない、物悲しいメロディー。胸の奥の何かが、儚く消えていきそうな――でも、いつまでもずっと聴いていたいような、そんなメロディーだ。

 矢㮈は彼から目が離せず、ただその場に立ち尽くした。

 ――と。


 バサバサバサッ……


 羽ばたきの音がして、矢㮈の方へ何かが飛んできた。

「わっ……!」

 思わずしゃがみ込むと、目の前にあの白い鳩が降り立った。

「ま、また君は……頼むから驚かさないで……」

 全く心臓に悪い。矢㮈がほっとした息を吐き出した時、誰かの手が白い鳩に伸びて、それを抱え込んだ。

「――あっ」

 それが先程歌っていた少年であると分かって、矢㮈は固まった。

「大丈夫? ごめんね。普段はこんなに興奮することなんて滅多にないんだけど。ほら、イツキさんも謝って」

 少年は困ったように微笑んで、白い鳩の頭を矢㮈の方へ向けた。

 しかし、鳩はもちろんごめんなさいと謝りはしない。ただ嘴をツンツンと前に出している。――これが鳩流の謝罪なのだろうか。

「――イツキさん?」

 矢㮈が白い鳩を見て、続いて少年を見上げた。少年がうなずく。

「うん。この鳩の名前。僕の知り合いの人の名前からもらって付けたんだ」

「じゃあ、この鳩はあなたの……?」

「うーん……勝手に懐かれただけだと思うけど」

 ということは、別にペットとかそういうものではないらしい。

 矢㮈はゆっくりと立ち上がって、改めて彼と向かい合った。少年はそれほど背が高いわけではなかったが、やはり女子の矢㮈より頭一つ分は高い。まだブレザー着用の季節なのに、彼はカッターシャツ姿だった。シャツの白さが余計に彼を爽やかに見せる。

 少年はイツキを開放して、飛び立った後姿を眺めていた。

「ねぇ……」

 矢㮈は敬語を使おうかどうか迷ったものの、彼にはそんな堅苦しいものはいらないような気がして、結局そのまま尋ねた。

「さっきの曲、何て言うの?」

「ん?」

 少年がまたこちらを向いて、軽く眉を寄せて笑った。

「ああ――僕のくだらない鼻歌聞いてたんだ」

 くだらない――?

 矢㮈は先程感じたことを思い出して、首を横に振った。

「そんなことない。くだらなくなんかなかったよ。何か――不思議でずっと聴いていたいような……」

 上手く伝えられない。だが、くだらなくなんか全然ない。

「あたしは好きだなぁって思ったから、あの曲」

 そう言った矢㮈に、少年は軽く目を見開いて、ふっと柔らかく笑う。

「ありがとう。そう言ってくれたのは、君で二人目だよ」

 二人目――ということは、矢㮈と同じように感じた人が他にもいたということだ。

「あの曲は、僕も題名を知らないんだ。ずっと昔、僕の父親が作ったとか何とかいう曲でさ、歌詞も知らない」

「……そうなんだ」

 少年の思わぬ返答に、矢㮈は少し残念に思う。

 春の風が彼の焦げ茶の髪を揺らして、矢㮈の元にも吹き抜けた。

「そういえば、ここで何してるの?」

 矢㮈がふと思い尋ねると、少年はちらと自分の腕時計を見た。

「ちょっと人と待ち合わせしててね。鼻歌を歌いながらのんびりしてた、みたいな?」

「あ、人と待ち合わせだったんだ」

「うん。そういう君は?」

「あたしは――」

 白い鳩を探して空を見上げるが、どこへ行ったのかイツキは見つからない。

「イツキさんを追って来たらたどり着いた、みたいな?」

 彼の言い方をまねて言ってみる。少年がぷっと吹き出して、

「そっかー、イツキさんを追ってきたのかぁ。それは御苦労様。でもわざわざ白い鳩に構う君も君だよね」

 矢㮈の行動をおかしがった。

 そんなことを言われても。

「だって、急に足突っつかれたんだよ?」

「それはそうかもしれないけど……」

 何がおかしいのか、少年はしばらく笑い続けた。

 それにしてもよく笑う少年だ。その笑顔がまだどことなく幼くて、矢㮈は可愛いと思ってしまった。

 その時、制服のスカートのポケットが振動した。携帯を取り出してみると、メールが一件。母親からで、ソースが切れたので帰りにスーパーで買ってこいというものだった。

「あたし、そろそろ帰るね。ごめんね、待ち合わせ中お邪魔しちゃって」

 矢㮈が、了解と返信し終えて少年に言うと、彼は相変わらず笑顔だった。

「あ、そう? てか邪魔なんてことないよ。僕も、きっとイツキさんも楽しかった」

「あたしも来て良かった。あ、そうだ」

 そこで今さらながら思い出した。

「名前、訊いていい?」

「あれ? まだ言ってなかったっけ? 遅ればせながら、僕は海中(わたなか)諷杝(ふうり)。諷杝、でいいよ」

「諷杝、ね。あたしは笠木矢㮈。好きなように呼んでくれたらいいけど」

「じゃあ、矢㮈ちゃんで。とりあず、よろしく?」

「そうだね、よろしく。じゃ、諷杝、またどこかで」

「うん、気をつけて。バイバイ」

 結局イツキは現れなかったが、矢㮈は諷杝に見送られて屋上を後にした。

 一階まで一気に階段を下りた時、見知った顔とすれ違った。

 黒髪に、眼鏡――その奥の瞳は、猛禽類の如く。そして、背が高い。

「高瀬君……?」

 高瀬はちらと矢㮈を一瞥して、彼女の横を通り過ぎて階段を上って行った。彼の背には、黒くて細長い長方形のケースがあった。中身は一体何なのだろう。そして、これからどこへ向かうつもりなのか。

(部活かな……?)

 そんなことを思いつつ、矢㮈はさして気にすることもなくまた歩き出した。

(そういえば、諷杝は誰をまっていたんだろう……?)

 そこは何となく気になったが、考えてみても分かるわけもないので、途中で考えるのをやめた。



三.

 屋上の少し奥まった所に、丸太のような木のベンチがある。そしてそのベンチに腰かけている少年は、ぼんやりといつものように空を見上げていた。彼の焦げ茶の髪が風に揺れている。

「あれ? いつもの鳩はどうした?」

 也梛(やなぎ)が少年に近づくと、彼はこちらを向いてポカンとした。

「え?」

 どうやら、也梛の言葉をちゃんと聞いていなかったらしい。別にこれは珍しい事ではないが。

「いつもの鳩はどうした、って訊いただけだ」

 也梛はもう一度言って、肩にかけて背負っていた長方形の黒いケースを下ろす。

 彼――諷杝は、やっとうなずいて、しかし首をひねった。

「さぁ? どっか飛んでっちゃったみたい」

「あ、そう」

 別にそれがどうだとかいうことはなく、也梛は相槌を打っただけだった。

 隣のベンチに同じく腰を下ろすと、諷杝が軽い口調で尋ねてきた。

「ねぇ」

「あ?」

「ずっと訊きたかったんだけど、何で君は眼鏡をかけてるの? しかもそれ、伊達だよね?」

「……別に理由なんてねーよ。そうだな、あえて言うなら、頭良さそうに見えるから、かな」

「ふーん。じゃぁ僕もかけてみようかな」

「やめとけば? 本当に頭良くなるわけじゃねーし」

「――君が頭良いのが、ものすごくうらやましいよ」

「それはそれは、ありがとさん」

 それからしばらく、二人の間に沈黙が流れる。

 やがて也梛が黒いケースに手をかけた時、諷杝がポツリとつぶやいた。

「そういえばさ、今日面白い子に会ったよ」

「へぇ」

 也梛は耳を傾けながら、ケースを開いて中から〝それ〟を取り出した。

 〝それ〟――お気に入りの、キーボードを。

「僕がまたあの鼻歌を歌ってたら、君と同じようなことを言ったんだ」

「同じようなこと?」

 也梛はキーボードを膝の上に乗せ、諷杝の方を見た。

「あの曲が好きだと思ったから、題名を教えて、って」

「……」

 そういえば、彼と初めて会った時、あの鼻歌を聞いて、也梛もそんなことを言ったような気がする。――もう半年も前の話になるが。

「まさか君が、本当にこの学校に入学してくるとは思わなかったよ、也梛」

 諷杝が苦笑混じりに言った。

 也梛はしばらく黙り、やがて静かに口を開く。

「俺はただ――俺の音楽を探しに来ただけだ」

 その返答に、諷杝が立ち上がって手を伸ばしてきた。也梛の黒髪をぐしゃぐしゃにする。

「何す……っ!」

「也梛らしい答えだけど、ちょっとカッコ付けすぎじゃない?」

「はあ?」

 乱暴な手が止まり、諷杝が也梛に背を向けて上を向く。也梛もつられて顔を上げると、白い鳩が目に入ってきた。

「そこまでして、ここに来る価値はあるのかな? ――なんてね、そんなこと思ってさ」

 目の前にある、少年の背中がどこか儚げになる。それを振り払うかのように、也梛はふんと鼻で笑った。

「もう来ちまったんだ。後は勝手にやるさ。価値あるものになるかなんて知らねぇ」

 諷杝が『イツキさん』と呼ぶ白い鳩は、諷杝の頭の上を越して也梛のキーボードの上に降り立った。

「お、お前! 俺のキーボードに乗んのはやめろ! フンなんかしたら許さねーぞ」

 也梛が抗議する一方で、鳩はどこか楽しげにピョンピョンとキーボードの上を跳ねる。

「ちょっ、壊れたらどうしてくれんだ! ――おい、諷杝! どうにかしろ」

「はいはい」

 ふり返った諷杝が呆れたように言って、イツキへと手を伸ばす。

 也梛は鳩がどいたキーボードの鍵に、手を滑らした。簡単なメロディーが紡ぎだされる。

「ま、よろしく頼みますよ、海中〝先輩〟?」

 也梛が冗談混じりに言うと、諷杝がふっと息を吐いた。

「何言ってんのさ。君の方が僕より二カ月は年上なのに」



四.

 次の日、矢㮈はまた放課後に屋上へと足を延ばした。

 今日は白い鳩を追って行くのではない。

 もう一度、彼のあの歌を聴きたかった――鼻歌であったが。

 本日も屋上の扉は開いていて、階段側の扉前にいると勢い良く風が吹き込んでくる。昨日と同じ、放課後の静かな屋上に出て、少し奥に向かって歩き出す。

 そして、昨日と同じように、丸太の木のベンチに彼は腰かけていた。

 ただ今日は、彼のすぐ前に思いもかけない姿があった。

「あ、ヤッホー、矢㮈ちゃん」

 諷杝が気付いて笑顔で手を振ってくる。同時に〝その人〟が矢㮈の方を見た。

 あの鋭い視線が来るのを予期したが、彼は少し驚いたように目を見開いた。

 矢㮈の不思議そうな顔に、諷杝が首を傾げて尋ねた。

「……どうしたの?」

「あ、いや……。何でここに高瀬君がいるのかな、って」

 矢㮈の答えに、諷杝が驚く。

「あら? 矢㮈ちゃん、也梛のこと知ってるんだ?」

「同じクラスだから、一応」

 特に話したこともない関係であり、本当にただのクラスメイトだ。

「あ、そうなの? もう、也梛、そうならそうと早く言って……」

 高瀬の方を向いて諷杝が文句を言うと、高瀬は眉をひそめた。

「は? お前何言ってんだ。俺こそ諷杝とそいつが知り合いだなんて知らなかったんだぞ」

「ちょっと」

 すかさず矢㮈は口を挟んだ。今の彼のセリフは聞き捨てならない。

「あたしは〝そいつ〟じゃなくて、〝笠木矢㮈〟なんですけど」

 それを聞いた高瀬はさらに眉をひそめたが、ちゃんと言い直した。

「――笠木とお前はどういう知り合いなんだ? まさか彼女だなんて言わないだろ」

「昨日言ったでしょ? 面白い子に会った、って。その子だよ」

 諷杝の返答に高瀬は黙った。

(昨日? てか何でこの二人、こんな仲良いの?)

 矢㮈はわけが分からずきょとんと二人の会話を聞いていた。

 諷杝が矢㮈に微笑んで、彼と高瀬の関係を教えてくれた。

「也梛は今年から僕のルームメイトになったんだ。それから――音楽仲間?」

「音楽仲間?」

 聞き返すと、諷杝は曖昧にうなずいた。

「まぁ、ただの趣味だけどね。二人で奏でてる」

「へぇ……。何を奏でてるの?」

「也梛はキーボード、僕はたまにギターとか」

「わあ、聴きたい!!」

 思わずそう言った矢㮈に、

「何でそうなるんだ? 俺はごめんだね。諷杝だけでやれ」

 そっけなく言い放ったのは高瀬だった。

「ちょっと、也梛。そんな頭ごなしに拒否しなくても……。てか僕今日はギター持って来てないんだよね」

 諷杝がため息混じりになだめる。そして高瀬の足元にある細長いケースに目を遣った。

「その点、君はいつもそれを持ち合わせてるし……」

「関係ない。だいたい俺は自分のために弾くんであって、他人のためになんか――」

「全く、也梛は頑固だなぁ」

 頑として譲らない高瀬と困ったふうな諷杝を交互に見ながら、矢㮈は小さくつぶやいた。

「あの……無理だったら別にいいよ……?」

 そもそも、今日こうしてまたここへ来たのは、

「ただ……昨日のあの曲がもう一回聴きたいな、って思って」

 そう、あの鼻歌の曲のためだ。もちろん、諷杝と鳩のことも気になっていたが。

 それを聞いた諷杝が、目を見開いた。

「それで、来たの?」

「ん? ……うん、そうだけど」

 矢㮈が素直にうなずくと、彼はふうと息を吐いた。

「――そこまで言ってくれるなら、演奏しなきゃ申し訳ないかな」

「え?」

「寮からすぐ取ってくるよ。ちょっと待っててくれる?」

「はい……?」

 目を丸くする矢㮈に加えて、高瀬も驚いた顔をする。

「お前、マジで言ってんの?」

「当たり前でしょ。君は弾いてくれないし。取りに行くしかないじゃん」

 それ以上誰かが何かを言う前に、諷杝は屋上を去っていた。

「……」

 ポカンとする矢㮈と、呆れたふうな高瀬が取り残された。

 どちらも何も喋らない。

 ただ気まずい空気が流れる。

 と、そこへ。


 バサバサバサッ


 一羽の白い鳩が舞い降りてきた。

「あ、イツキさん」

 思わず矢㮈が声を上げると、高瀬が苦々しい顔をした。

「お前もそう呼ぶのか」

「え? だってイツキさんって諷杝が言ってた――」

「いや、別にどうでもいいことだけどな」

 矢㮈はイツキに手を伸ばしてそれをかわされると、気付いたように高瀬をじっと見た。

「……何だ」

 高瀬が仏頂面で問う。

「何かイメージと違うな、って思ったから」

「は?」

 もっと、高瀬也梛という人物は、近寄り難い存在だと思っていた。だが、今の彼はあの鋭い目もしていなく、口数も多い。

「学年トップの成績だって聞いてたし、いつも何か周りを圧するようなオーラ醸し出してるから、もっと話しにくいかな、とか思ってて」

 素直に言うと、彼は特に怒るでもなく、ただ微かに眉を寄せた。

「ふーん。俺の噂は結構な尾ひれがついてるこって。てかそんなオーラ醸し出してねーけどな」

「いや、気付いてないだけだと思うけど……」

 小さく反論してみると、黙殺された。――やっぱり、性格的には近寄り難いのかもしれない。

 それきり矢㮈も高瀬もお互い黙ったままだった。

 それから二十分くらいが過ぎて――矢㮈はイツキで遊び(遊ばれ?)、高瀬は背もたれのあるベンチに座って項垂れるようにして眠っていた(ように矢㮈には見えた)――ようやく、息を切らして諷杝が戻って来た。

 肩にギターが入っているのだろう袋を背負っている。

「お待たせ。ごめんね、だいぶ待たせちゃって」

「う、ううん。全然。てか、本当にわざわざありがとう……」

 矢㮈がギターの準備をする諷杝を見ながら礼を述べると、

「気にしないで。あの曲をもう一度聴きたいって言ってくれて、僕もうれしかったから」

 諷杝はいつもの定位置だとでもいう、あの丸太の木のベンチに腰掛けて、ギターを構えた。そして簡単に いくつか弦をつま弾いて調音し始めた。矢㮈はそれを不思議な心地で見ていた。

 弦が弾かれて音が出る。ピックを使って弾くか、弓を使って弾くかの違いだけで、バイオリンととても良く似ている。

「也梛、こんなもんかな?」

 一通り終えて、諷杝が隣のベンチの高瀬を見る。高瀬はゆっくりと顔を上げて、軽くうなずいた。

「まぁ、そんなもんなんじゃない?」

 諷杝が微かに笑って、ふうと息を吐く。

 そして矢㮈の方に一度礼をすると、弦の上で指を躍らせ始めた。

(――あ)

 昨日聞いたあのメロディーが紡ぎだされた。彼の鼻歌よりももっと確かで、でもやはりどこか切なくて、胸の奥の何かが儚く消えていきそうになる。また、そのメロディーを奏でる諷杝の表情も、どこか切ない。

 まるでこの屋上が切り取られたように、そのメロディーの空間が広がっていた。

 いつの間にかイツキが諷杝の傍らに戻って来ていた。高瀬の目も、じっと一筋に諷杝のギターに注がれている。

(この曲をバイオリンで弾いたらどうなるんだろう?)

 ふいに矢㮈はそんなことを思った。

 最後の一音が風に乗って余韻を残す。

 長かったように感じたが、これでもまだ半分くらいだと諷杝は言った。

「続きはどんななの?」

「それが残ってなくてね。完成してたのかどうかも分からないんだ」

 諷杝はギターを膝の上に乗せると、もう一度息を吐いた。それがため息だったのかどうか、矢㮈には分からない。

「ん……? 矢㮈ちゃん、ギター弾いてみる?」

「え?」

 矢㮈はきょとんとした。自分が無意識のうちにじっとギターを見つめていたのに、全然気付かなかった。

 諷杝がバンドを肩から外して、矢㮈の方へそっと持ち上げて見せる。

「適当に爪弾くだけでも良いよ」

 矢㮈はごくりとつばを呑み込んで、右手をゆっくりと弦に伸ばした。

 ――。

 頭の中で例の音がして、やはり数センチ手前で押し止まった。そして手を後ろに引っ込めた。

 その様子を見て、諷杝が軽く首を傾げる。

「……矢㮈ちゃん?」

 すぐにはっとして、慌てて彼に謝った。

「あ、ごめん。あたしやっぱりギターとか弾けないと思って。何かあんな綺麗な曲聴いた後だから、余計に……」

「?」

 諷杝はまだしばらく不思議そうな顔をしていたが、続けて尋ねた。

「矢㮈ちゃんは何か音楽やってた?」

「え……? 何で?」

 心の中でドキッとしながら尋ね返す。

「さっき僕が弾いてる時、自然に体でリズムとってたから。何か馴染みがあるのかと思って」

「……」

 きっとそれも無意識だ。矢㮈は心の中でため息を吐きながら、彼に向かって笑った。

「あたし、意外と音楽は昔から得意なんだよね」

「へぇ。お前、カスタネットとかタンバリンとか得意なんじゃない?」

 思わぬ所から口を挟まれる。高瀬だ。

 ムッとしつつも、あながちそれも嘘ではないので、

「よく分かったわね。打楽器好きだよ、あたし」

 正直に答えておいた。

 演奏中大人しくしていたイツキが諷杝の腕に乗って、ギターを突くまねをした。どうやら何か弾けと催促しているようだ。諷杝が困ったように、適当に音をいくつか爪弾くと、イツキは嬉しそうにじっと耳を澄ましている。

「この鳩、妙に音楽好きなんだよな。というか、諷杝のギターが好きなのか」

 高瀬が呆れたようにつぶやく。矢㮈はそっと彼の足元の黒いケースを見て、尋ねた。

「その中身、キーボード?」

「あ? そうだよ。ひょっとしなくてもキーボード」

「弾いてくれない……よね?」

 ダメ元でお願いしてみたが、彼はふいと横を向いた。

「弾かない。打楽器と仲良く演奏会なんて別に興味ないし」

「あっそーですか」

 高瀬には、もう矢㮈は打楽器くらいしかできないと思われているらしい。

「まぁ、小学生レベルじゃない打楽器なら、やってやってもいいけどな」

「……じゃぁあたしがここに打楽器持って来たら弾いてくれる?」

「お前のレベル次第だな。カスタネットでも持ってくるのか?」

「……」

 改めて、一つ分かったことがある。

 高瀬也梛は、ものすごく口が悪い……。

 彼に興味があると言う千佳は、今朝もキャーキャー彼のことを話題にしたが、明日は彼の本性を教えてあげようと思う。

「もー、イツキさーん。いい加減許してよー」

 嘆願する諷杝の声が聞こえる。彼はずっとイツキの相手としてギターを弾いていた。そんな彼と、もう一度高瀬を順にみる。

「そうかー、諷杝と高瀬君はルームメイトなのか……」

 そうつぶやいて、「あれ?」と自分で首を傾げた。ちょっと待て。諷杝は何と言ったか。


『也梛は今年から僕のルームメイトに……』


 ――今年から?

「……もしかして、諷杝ってあたしたちより年上?」

 導き出された答えをポツリと漏らした矢㮈に、高瀬が「はあ?」と顔をしかめた。信じられない、という無言の訴えが耳に聞こえた。

「お前……今サラ何言ってんの? 散々あいつのこと呼び捨てにしといて……」

「え、だって」

 呼び捨てにしていた分、余計に分からなかった。そういえば、聞いていたのは名前だけだ。

「あいつは二年。俺らより一つ先輩」

「そうなんだ」

 矢㮈が納得しつつ、ギターを無理やりしまおうとしている諷杝を見た。諷杝は昨日の矢㮈のようにイツキに突っつかれていた。そんな彼を見ているうちに、また先程の音楽が耳に蘇ってきた。頭の中で、ギターの音色が鳴っている。

(――いつか)

 ふいに、思った。

(いつかあの曲を、バイオリンで弾いてみたい。それで……)

「あのギターと一緒に演奏したいな……」

 彼のギターの横で、一緒に音色を奏でたいと思う。

 この矢㮈のつぶやきを聞いていたらしい高瀬が、軽く肩をすくめた。

「諷杝なら、お前のカスタネットと演奏会やってくれると思うぞ」

「……そうね。お願いしてみるわ」

 矢㮈はわざと皮肉に乗って、案外冗談でもなくそう答えた。



 これが、初めて三人が顔を合わせた出逢いの日だった。


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