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  作者: 葵月詞菜


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19/98

音楽祭 閑話休題<前編>

「音楽祭 閑話休題<前編>」は2話に渡って掲載します。

【主な登場人物紹介】

・笠木 矢㮈(かさぎ やな)…彩楸学園高校1年生。

高瀬たかせ 也梛やなぎ…同上1年生。キーボードを弾く。

海中わたなか 諷杝ふうり…同上2年生。ギターを弾く。

【その他】

相田あいだ しょう…雲ノ峰高校2年。音楽祭実行委員長。

・淡海 あやめ(おうみ あやめ)…同上2年。将の幼馴染みで音楽仲間。

一.

「じゃあ、僕たちは今日夕方までフリーだから」

 諷杝が音楽祭実行委員長の相田に言った。

 相田はもう承知済みだったようで、「はいはい」とあしらうように答えたが、

「本番を間近に控えて副委員長が堂々とサボりするとは良い度胸だ」

 さすがに軽く皮肉が付いて来る。しかし諷杝はどこ吹く風状態だ。

「委員長を信頼してるんだよ、よろしくね、委員長!」

「……ホント、やめてくれ、その笑顔……」

 諷杝の持ち前の笑顔に、相田が目を逸らせてため息を吐く。彼の気持ちが矢㮈にはすごく良く分かる。あの無垢な笑顔に勝てる人がいるものなら見てみたい。

「よし、委員長の許可も確認したことだし、行こうか矢㮈ちゃん」

 諷杝がこちらをふり返る。矢㮈はうなずき、相田に軽く会釈した。

「高瀬のピアノかあ。俺も聴きたかったな。まあ、楽しんで来いよ」

 相田が手を振りながら見送ってくれる。ちなみに彼といつも一緒にいる淡海あやめは、ただ今彼女の音楽グループで歌の打ち合わせ中だ。余計な口を挟ませないよう、相田の采配である。

 合宿中、食料の買い出し以外で学外に出るのはずいぶん久しぶりだった。

 しかも、

(諷杝と二人だし!!)

 矢㮈は急に緊張してきて、わざと遠くに見える山を眺めた。今日はよく晴れている。嘘みたいに、雲が一つもない。

「ところで諷杝。高瀬の演奏会ってどこでやるの?」

「んー? 少し遠くになるかなあ。ここから十コくらい先の駅まで行くよ」

「え、そんなに?」

 今日はいよいよ高瀬のピアノ演奏会当日だ。しかし案の定と言うべきか、彼は矢㮈たちを招待するつもりはこれっぽちもなかったらしく、昨日の午後に別れてそのままだ。一言も、「聴きに来い」とは言わなかった。

 彼は実家に戻ったはずだが、全く音沙汰無なしなので、何をしているのかも分からない。ルームメイトの諷杝の携帯にさえ連絡が来ない。

(あたしだって……少しは協力したのに。演奏聴きたいなあ)

 と、矢㮈が心なし唇を尖らせてふてているところへ、諷杝がいつもの微笑みを浮かべてやって来たのだった。

「ねぇ、也梛の演奏、聴きたいよね?」

 まさか諷杝は招待されたのか――と思ったが、そうでは無かった。諷杝は自分の携帯を片手に、メールの内容を読み上げるように言った。

「明日、僕の父親の知り合いが経営しているホテルで、何か催しものをするみたいなんだよね。それでね、実はスタッフが急遽必要になったのでバイトやりませんか、だってさ」

「は? バイト?」

 全く関係性が窺えず、矢㮈は呆然とした。一体どういうつながりが?

 諷杝がニヤリと笑った。

「そのホテルでやる催しものの一部で、也梛が演奏するって言ったら?」

「!」

 やっと話が見えた。しかし。

「ホテルって……高瀬、身内だけとかどうのこうの言ってたような気がするけど……」

 先生か誰かの家でこじんまりやるとか、そういうのだと思っていた。

「ああ見えて、意外にお坊ちゃんだからねー」

 諷杝はふふと笑う。「は?」とますます目を点にした矢㮈をスルーして、彼は続けた。

「本当は也梛の妹さんに頼もうかと思ってたんだけど、今部活の夏の大会中らしくてこっちにいないんだって。もちろん也梛自身がまともに招待してくれるとも思わないし……。逆にこっちから乗り込んでやろうと思ったんだけど、どうかな?」

 どうかな、なんて――考えるまでもない。

「行きます!」

 バイトの内容を聞かないうちから、矢㮈は挙手して答えたのだった。

 そのため、当日になった今、場所もいま一つ把握していなかった。

「まあ、也梛の実家よりは近い所だよ。それに交通費は出るからね」

 最寄り駅に向かいながら、諷杝は眩しそうに空を見上げる。八月の空は朝から太陽が元気だ。彼は肌が白いので、今日はよく焼けるかもしれない。

 日焼け止めを塗ってきたか問うと、「一応軽くはね」と返事があった。

「高瀬ってあんまり実家に帰りたくない、って感じだよね」

 矢㮈は小さくつぶやいた。

(実家っていうか……お父さん?)

 そういえば、学費も全て返すつもりだとか言っていたような気がする。

 諷杝は聞いているのかいないのか、黙って空を見続けている。足元が疎かになって、時々転びそうになるのが心配だ。

 やがて最寄り駅の駅名看板が見えてきたところで、彼は矢㮈の方をふり返った。

「今日矢㮈ちゃんが目にする也梛は、きっといつもと違うと思う。だけど、也梛は也梛だから。それだけは忘れないで」

 それは一体、どういう意味だろう。

 矢㮈が首を傾げている間に、諷杝は券売機の方へ行ってしまった。



二.

華南(かなん)さん、もう少しここは音を聴いて」

「はい」

 先生に指導されているのは、今回飛び入りで参加が決まったバイオリンの村住(むらずみ)華南という女子だ。年は也梛と同じ、本来なら同級だ。

 村住と顔を合わせたのは、四日前だった。也梛を一目見るなり、

「うそっ! 高瀬君!? 久しぶり! わー、カッコ良くなったねー。私のこと覚えてる?」

 どこか馴れ馴れしい態度で接してきた。

 背中に流れるストレートの髪は黒く艶やかで、スラリと女子にしては背が高い。そして、手も足も長かった。

 さて、この女子を見た覚えがあるかないか――あるような、ないような。

「悪いけど、思い出せない。名前は?」

 也梛は正直に言った。女子は「えー、覚えてないのー?」と言いつつ、改めて名乗った。

「村住華南。小さい頃、結構顔合わせたはずなんだけど。私もピアノかじってたし」

「村住……ね。バイオリンだっけ?」

「そ。これでもコンクールの常連なんだけどなあ。知らない?」

 村住は上目遣いで也梛を見遣った。だが生憎、記憶にひらめくものはない。

「昔は一緒にピアノ弾いたりしてたわよ、也梛君」

 先生が話に入ってくる。それでも也梛には全く思い出す記憶がない。

「華南さんのバイオリンも一度は耳にしているはずよ。まあ、その時よりも今はずっと上達してるかな?」

「先生、プレッシャーかけないで下さい!」

 村住が頬を赤らめる。

 也梛は村住の持つバイオリンケースに目を留めて、ふと思った。

 確かに今までいくらかバイオリンを聞いてきたが、その中で耳に残った音はいくらもない。その「いくら」に入る音と共に思い浮かべたのは、もちろん『彼女』であった――不本意だが。

「也梛君のピアノと共演できるなんてうれしいなあ」

 村住がケースから愛用のバイオリンを取り出す。

「そういえば話滅多に聞かないんだけど、也梛君コンクールとか出ないの?」

 也梛はピアノのイスに座り、楽譜をパラパラやりながら答えた。

「出てないな」

「え、どうして? むっちゃ上手かったのに」

「……出たくないから」

「何で!?」

「――気分だよ」

 也梛はぶっきらぼうに、突き放した風に言った。この話を彼女にするつもりはない。

 村住も何かを察したらしく、それ以上は訊いてこなかった。

「じゃあ、二人共、始めるわよ」

 先生の声に、也梛はモードを切り替えた。

 その日初めてバイオリンと合わせたのだが、村住のバイオリンはさすがコンクールの常連というものであった。高校生にしても、技術力はもうだいぶ上位に食い込むだろう。

 先生が満足そうな顔でうなずき、也梛の方を見る。

「也梛君はいけそう?」

「……まあ、大丈夫です」

 大きくズレる部分も無く、上手く調和はとれている。

「先生のピアノはもちろんですけど、也梛君のピアノもやっぱすごいなー」

 村住は笑顔で感想を述べる。

(すごい、か……)

 也梛は鍵盤に目を落とした。

 今の演奏も別に悪いものでは無かった。むしろ、レベル的には高いと自負できる。しかし、也梛はそこに彼女たち程の満足感を得られなかった。

 わくわくしない。躍動感が無い。自分の手が勝手にメロディーを紡いでいる。

(いや、決して不満足ってわけじゃない。だけど……)

 これは単に、自分が意地で認めないだけなのだろうか。

 ――それから本番の今日まで、ずっとそんな感じだった。特に、矢㮈との練習後は余計にその違いを意識させられた。

(やっぱアレは失敗だったな)

 心の中でため息を吐く。矢㮈に練習の付き合いをさせた自分を反省する。

 あの時の彼女のバイオリンの音が、自分のピアノの音と感覚が忘れられない。

「也梛君、もう一度最後に通しときましょう」

 先生の声が考えを中断させた。也梛は返事して、ピアノに向き直った。

(もしあいつらがこの演奏を聴いたら、どんな感想言うんだろうな)

 わざと招待はしなかったが。


 演奏本番まで、後数時間である――。



三.

 スーツのような制服を支給されて、矢㮈と諷杝は早くもスタッフの一員となっていた。

 例のホテルは思っていたよりも立派で、催しものも結構大々的なものであった。そして、そこに集う人々はどう見ても「お偉いさん」風の人が多いような気がした。

「え。こんなところに高校生のバイトってどうなの!?」

「ああ、大丈夫だよ。心配しなくても僕たち中に入れてもらえないし。料理とかをこの部屋の前まで運搬したりする裏方だから」

「裏方……って、それじゃ高瀬の演奏も聴けないんじゃ……?」

 部屋の外から立ち聴きコースであろうか。上手く音を拾えればいいが……。

「それも安心して。その時に限っては中に入れてくれるみたいなんだ」

「ホント!?」

「うん。でもその分しっかり働いてね」

「了解!」

 矢㮈が敬礼すると、諷杝はクスリと笑った。

「その姿だと、いつもより大人っぽく見えるね」

「え!?」

 不意打ちに目を見開く。

「諷杝だってっ……いつもより……その、真面目に見える……」

「あれー、いつもは真面目じゃないのかー」

 諷杝はおかしそうに笑うが、お世辞でなく、彼も今の格好では大人びた感じがする。制服もそうなのだが、スーツはきちんと着たらピシッと締まって見える。いつも無邪気な子どもという印象なのに。

「矢㮈ちゃんは実家が店やってるから、接客とかは心配いらないね」

「え、接客!? いやいや、でもここにいる人たちは例外でしょ……」

 いつもはこのような催しに出る、スーツやらを着た方々の接客なんてしない。たまには気合の入ったお洒落な人もいるが、大方の客は近所に住んでいる主婦や仕事帰りのサラリーマンである。

 矢㮈がおろおろする様を見て、諷杝はぽんと矢㮈の肩に手を置いた。

「ごめんごめん。大げさに言っちゃったかもだけど、大丈夫だよ。さっきも言ったけど、僕たちは裏方だから。もしお客様に何か尋ねられたりしたら、丁寧な対応を、ってこと。係の人にパスしたらいいから」

 願わくは、矢㮈に声をかける客がいないことである。今以上に、実家の店の接客が恋しいと思ったことは無い。いっそのこと、矢㮈に声をかけて来る人はいつもの「おばちゃん」たちだと思い込もうか。

「……諷杝は不安とかないの?」

 普段と変わらず穏やかな彼は、軽く首を傾げた。

「うーん……あんまり?」

「こういうバイト、よくしてるの?」

「全然。ていうか、僕接客って得意じゃないし。それに今は本屋のバイトだしね」

 もちろん裏方の、と付け加えて、彼は微笑んだ。

「でもさ、今日は矢㮈ちゃんも一緒だし、也梛のピアノも聴けるからね」

 まるで、理由はそれだけで十分だ、とでも言うような答えだった。その理由の一つに、矢㮈が含まれていたことがうれしい。

「それにしても、一体どんな催しものなのよ……」

 矢㮈は改めて、柱の陰から来場する客人たちを眺めた。高瀬の父親の催しものだと聞いているから、この「お偉いさん」のような方々は高瀬家と全く無関係なわけでもないのだろう。諷杝の言っていた「意外とお坊ちゃん」という言葉に、今さらながら真実味を感じてくる。

「本当は楽屋の也梛にあいさつとか行ったら面白そうなんだけどねー。ムリだし」

 諷杝は残念そうに肩をすくめた。確かにそんなことをしようものなら問答無用で追い出されそうだ。

「さあ、也梛の出番まで、僕たちは料理の運搬だよ」

 スタッフ専用の通路を抜け、二人はスタッフ集合場所に向かった。



 也梛たちの演奏は、丁度前半が一段落した頃に予定されている。

 前半はあいさつと、この催しの本目的、父親の会社が開発した新製品の発表だ。父親がどんな会社を持って、どんな製品を開発しているのかなど、也梛には全く興味がなかった。この日も、ただピアノを弾くことだけを考えて出番を待っていた。

 楽屋にも、どこか遠くの方でパチパチと拍手する音が聞こえてきた。

「始まったようね。也梛君、見てこなくていいの? お父様の発表なんでしょう?」

 先生が気遣うように声をかけてくれる。しかし也梛は首を横に振った。

「別に興味ないですから」

 父親の姿さえ、できれば見るのを遠慮したい気分だ。

 頑なな也梛の空気が伝わったのだろう。先生は少し寂しそうな顔をし、黙った。

 空気が重い。

 也梛はこの空気を作った自分から逃げるように、楽屋を出ようとイスから立ち上がった。


 コンコン。


 楽屋の扉がノックされる。反射的に近くにいた也梛がノブを内側に引いて開いた。

「こんにちは、先生」

 そこに立つ女性を見て、也梛は思いきり顔をしかめた。

 全く、何でわざわざ楽屋で見たくもない顔を見ることになるのか。これでは主催会場から逃げてきた意味がない。もっと早くにトイレにでも行っておけば良かった。

「あら、葵ちゃん。来てくれたの?」

 先生がうれしそうに彼女を出迎える。そう、花束を抱えてやってきたのは姉の葵だった。幼い頃は彼女も共にピアノ教室に通っていて、先生にとっては教え子である。

 也梛は部屋に入ってきた彼女と入れ違いで部屋を出ようとした。

「也梛、どこ行くの? もう準備はしときなさいよ。多分あっという間だから」

 姉がすかさず口を挟んでくる。

「トイレ。すぐ戻るよ」

 也梛はぶっきらぼうに返事して、扉をバタンと閉めた。きっと扉の向こうで、姉も先生も困ったような顔で肩をすくめているのだろう。

(ああ、早く学校に戻りたい……。今頃あいつらどうしてるかな)

 深いため息が漏れる。今ので、今持てる幸せは全て吐き出してしまったかもしれない。

(キーボード弾きたいな)

 ふと思って、しかしキーボードは楽屋の中に貴重品と共に置いていることを思い出す。ちっと舌打ちしてしまった。

 パチパチパチパチパチ……。

 再び、拍手の音が聞こえてくる。楽屋にいた時よりも、よく聞こえた。

 もうすぐ係の者が呼びに来るだろう。

也梛はもう一度ため息を吐き、トイレへと向かった。



「矢㮈ちゃん、そろそろだよ。行こう」

 諷杝に声をかけられ、ワゴンから空になった皿を引き上げていた矢㮈は作業を中断した。

 もう話は通っているのか、一緒に作業をしていたスタッフが笑って「行っておいで」と見送ってくれた。矢㮈は軽く頭を下げて、諷杝の後について静かにホールの後方左手側の扉へと向かった。

 口の前に人差し指を立てて、諷杝がゆっくり扉を開く。扉は防音のためか二重で、ずっしりと重たそうだった。内側の扉を開けると、中は薄暗かった。

「矢㮈ちゃん、こっち」

 ボケッと突っ立っている矢㮈は諷杝に左手を引っ張られ、目立たない壁側へと連れて行かれた。

 会場前方のステージだけが明るく照らされていて、端に立つ司会には眩しいピンライトが当てられていた。

 ステージの上には、二台のピアノが向き合うように置かれている。あのどちらかを、高瀬が弾くのだ。

 薄暗かった会場がさらに暗くなる。まるで今から映画でも上映されそうな雰囲気だ。非常口の緑色が、鮮やかに目に入った。

「それでは皆さん。ここで少しのお楽しみを。ピアノとバイオリンの演奏です」

 司会が言うのと同時に舞台上に人影が出てきて、一斉に拍手が沸き起こる。

 まず出てきたのはバイオリンと弓をそれぞれの手に持ったスラリとした少女だった。ストレートな黒髪が艶やかで、紫の衣装が上品に決まっている。彼女は二台のピアノの前、ステージの中央に立った。

(あ、あの子が……)

 矢㮈が彼女を見つめている間に、次の人影がステージに上がる。拍手が続いた。

 いわゆる演奏用の正装をした高瀬――しかも眼鏡をかけていない――が、向かって右側のピアノの前に観客の方を向いて立った。表情は無表情。仏頂面ですらないのが妙に怖い。彼の場合、緊張の類でもないだろう。

「うわー……也梛の顔……」

 諷杝が思わずつぶやいたのが聞こえた。

 そして、最後に登場した、これまたスラリとしたショートカットの女性。一際拍手が大きくなった。この人が高瀬のピアノの先生なのだろう。遠目だが美人だと思った。彼女は残ったもう一つのピアノの前に観客の方を向いて立つ。

 三人が観客一同に礼をする。さらに拍手が大きくなった。

 高瀬と先生がピアノの前のイスに腰掛け、少女がバイオリンを構えて準備する。

 会場が静まり返り、第一音が流れる瞬間を待つ緊張感が空気をピリピリさせた。

 矢㮈は自分が演奏するわけではないのに、ドキドキした。そして同時にわくわくする。

(高瀬のピアノ……)

 このようなきちんとした場で初めて聴く。

 一昨日、一緒に演奏した音が耳に蘇り――すぐにそれは新しい音に乗っ取られた。

 呼吸の合った二台のピアノが音を紡ぎ出す。やがてそこに、繊細なバイオリンの響きが加わった。

 矢㮈はただステージを見つめていた。目が離せない。

 そして、耳に流れてくる『G線上のアリア』。

 高瀬のピアノはCDのお手本のようだと前から思っていたが、今日はそれに加えてもう二人。滑らかで表現豊かなピアノとバイオリン。

 ピアノの先生の方は置いておいても、バイオリンの少女の姿が目に焼き付く。何て細やかな表現なんだろう。それを可能にするテクニックを、彼女は確かに持っていた。

(上手い……)

 矢㮈は素直に聞き惚れていた。同時に、心の隅で思う。

(高瀬のレベルはこれなんだ……)

 高瀬が共演を認めた理由が分かった気がした。矢㮈と少女では、レベルの差がありすぎる。

「……スゴイね」

 矢㮈はそう言葉にして、無意識のうちに隣の諷杝の服の袖を握っていた。そうしていないと、何かに圧倒されてしまいそうだった。

 すると諷杝がクスリと小さく笑った。袖を握る矢㮈の左手の上に、彼の左手がかぶせられた。

「矢㮈ちゃん、ちゃんと也梛を見てあげて。僕たちが見に来たのは、也梛だよ。あいつの音に耳を澄ませてやって」

「え……?」

 一体どういうことだろう。

 矢㮈は思わず一度諷杝の横顔を見上げた。彼の顔には苦笑するような、困った弟に手を焼く兄のような表情が浮かんでいた。

(諷杝……何でそんな顔してるの?)

 再び、ステージへと視線を転じる。今度は、ただ彼にだけ注目する。

 高瀬は相変わらず無表情だった。

 目を閉じ、流れる音から高瀬のピアノに耳を傾ける。

(……え!?)

 矢㮈はふいに眉をひそめた。

 諷杝の袖を握る手に少し力を込める。諷杝は動じず、黙って高瀬を見つめていた。

「何か……高瀬の音楽じゃないみたい……」

 ポツリと矢㮈がつぶやく。

 よく分からないが、矢㮈の知る彼の音ではないと思った。といっても彼のピアノを聴いたのは数回だから、本当にそうだと言い切れる自信はない。

 何と言うか――

「高瀬らしく、ない……」

 先生と少女と一緒だからなのかはよく分からないが。

 やがて演奏が終了し、会場が拍手に包まれる。

 矢㮈も手をたたきながら、しかし頭の中では違和感がぐるぐるとしていた。

 諷杝がそんな矢㮈の頭をポンポンとたたいた。

「今のステージ上の也梛も也梛だよ。矢㮈ちゃんはそれを覚えておいてあげて」

 混乱した頭のせいもあり、最後まで諷杝の言葉の真意は掴めなかった。



音楽祭 閑話休題<後編>に続きます。

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