ー第1話プロローグ
ー第1話プロローグ
東京都内某所 バー“バタフライ エフェクト”
竹山 透45才は、オールド グランパという口当たりの良いウイスキーで時間を潰していた。
7人ほど座れるカウンター席の真後ろに入り口があり、従業員用の裏口がカウンターの中の左端にある。
Nelson RangeのCityLightsが流れ始めた。
バーテンダーは竹山以外に客が居ないためグラスを磨き始めている。
竹山の唇は、およそこの店の雰囲気に似合わない歌を口ずさんでいた。
「…大好きな君に すぐ…」
小田和正の 大好きな君に…。バーテンダーの一色 登は、竹山が緊張した際にこの歌を口ずさむ事を知っていた。これから何かが起こるらしい。
腕時計をチラッと見る…23時30分。この火曜日の夜は、まったく商売にならない。この週刊誌の記者…あだ名は妄想のチクザン。電車で相席に座った新人女性アイドルは、隣りに座ったイケメン大学生とめくるめく恋愛関係にされ、さらに三角関係で話は膨らみに膨らみ、この根拠のない記事はついに、この女性アイドル主演でテレビドラマ化された。イケメン大学生と三角関係にされた会社員は、出版社を訴えて勝訴したがドラマの差し止めは認められず、30万の賠償金を手にして引き下がった。
女性アイドルにとっては結果的に幸運をつかむ事になったが、妄想のチクザンによって芸能界を去らざるおえない芸能人や、記事によって被害を受けた人々は被害者同盟を結成しようという段階にまで来ていた。それに対抗すべく出版社は弁護士団を密かにつくるなど合法非合法両面で謀略を進めていた。それだけ竹山の妄想記事は週刊誌業界に巨額の利益をもたらしていた。彼が書かないと売り上げは半分になるだろうという予測が、竹山の存在を保証していた。そうした背景もあって、あらゆる芸能人は死に神より竹山を恐れて、彼が居たと噂される場所には近づきたがらなかった。このバーもそのひとつだったが、若いタレントの中にはそれを知らない者もいた。
ドアがゆっくりと開いて、サングラスにスーツの背の高い男と黒のワンピースに大きな帽子をかぶった小柄の女性が入ってきた。
男はサングラスを外して店内と竹山の背中を見た。
サングラスの下から現れた顔は少年だった。タレント名鑑を見れば、今年彼が15才だという事がわかる。彼は同い年の彼女の背中に右手を添えて、テーブル席に促した。
竹山の後ろを通り過ぎながら、横顔をチラリと見て彼は動けなくなった。ワンピースの彼女がナニ?という顔で、彼の顔越しに見て同じように動けなくなった。
「お前らさ…その派手なかっこうなんとかしろよ。目立ってしょうがないだろ。」
二人とも血の気が引いているのは、見なくても竹山にはわかっていた。
「…なんか言えよ。男なら彼女の為に命乞いぐらいしろ。俺を殺してでも、大好きな彼女を守ってやれよ。そうしないと…俺みたいに一生後悔するぞ…。」
男は、いや少年はその言葉に自分を取り戻した。武道館を女の子で一杯にするビックスターは、竹山が自分達を救おうとしている意図をすばやく読み取った。
彼はバーの床に沈んだ。そして頭を床にこすりつけた。
「僕はどうなってもかまわない。エリだけは…エリだけは助けてください。」
エリと呼ばれた少女も全国ツアーをする歌姫だった。彼女も床に崩れた。
「…そんなこと…いわないで…わたしだってどうなってもかまわない。私は私は。好きな人と一緒に居られればいい。仕事やめてもいい。…もうやめよ。こんな事。太陽の下で、二人で居られる場所に行こ。」
竹山は、両方の目から溢れる涙をバーテンに隠す為に下を向いていた。声が涙声にならないように、竹山はしばらく沈黙した。それが二人の意志を固くしていった。
「竹山さん。僕は…。」
辞める。という言葉を…竹山はグラスをなぎはらってかき消した。
グラスはカウンターを滑って、壁に激突するはずだった。しかし壁の手前で、一色がグラスをキャッチしていた。
「竹山さん。今夜は飲み過ぎです。もう一杯でラストオーダーにしましょう。」
竹山は冷たい声を取り戻した。
「…そうだな。もう終わりにするか。」
床の二人は息をのんだ。
「カウンターの向こうに裏口がある。彼女は歩けないだろうから背負っていってやれ。出たら、すぐ前のビルとビルの隙間を無理やり抜けろ。抜けたとこにタクシー乗り場がある。ラブホテルに逃げ込め。渋谷じゃねえぞ…都内の外に出ろ。金は有るか?。」
「竹山さんどうして…?。」
「お前の記事をもう入稿しちまってるんだよ。こんな純愛、他に書かれてみろ…終わっちまうだろうが。お前らは六本木のトリニティーブルーに現れるってガセ流しといた。頭にきた記者さん達が、ここに殺到してくるぞ。お前らがここに来る事は日本中の記者が知ってるんだよ。…少しは頭使えよ。学習してるヒマなんかねえぞ、アイドルには…。」
「あっ…ありがとうございます。」
「だから頭使えって言ってるだろう?。早く行け!。殴られねえと目が覚めねえか?。」
「はい。」
少年は立ち上がった。少女も気丈にも立ち上がった。
「歩ける?。」
「走れるよ。」
二人はもう明日に向かっているように見えた。
一色がカウンターの端を跳ね上げて、二人が通れるようにした。二人は竹山に一礼してカウンターを抜け裏口に飛び込んで行った。
裏口が閉まると、ドーンという音と共に表口のドアが激しく開いた。
「ミナミヤマさん。ドアを壊さないで頂けますか?。」
一色は何事も無かったかのように、怒り狂っている記者とカメラマンを見た。
「このクソバーテンダーっ!。ドアぐらいで済むと思うか?あぁ?。…いやがった。」
ミナミヤマは竹山の背中を睨みつけた。
「チクザンてめえ〜知ってやがっただろ〜?。」
「二人は現れなかったみたいだな…。」
「そのシャーアズナブルの物真似はいい加減にしやがれ。現れねえどころか、ウチの奥さんが若いツバメと浮気してやがった。」
「いいのか、ほっといて?。こんな所に飲みに来て?。」
「…俺の援交の女子高生もいやがった。俺を殺す気か?。」
「いや。奥さんと若いツバメをミナミヤマさんが殺さないように、配慮したつもりでしたが…余計なお世話でしたか?。」
「お前を殺す立派な動機が出来ちまったよ。おかげでお前を殺せなくなった。日本中の記者にバレちまったじゃねえかよ。」
「…それより。追っかけなくても?。二人はさっき、その裏口から出て行きましたよ。」
ミナミヤマはテーブルを持ち上げて、カウンターの中に投げ込んだ。竹山も一色も微動だにしない。
「修理代は、社の方に請求しておきます。」
「このクソバーテン…。覚えてろよ。」
ミナミヤマとカメラマンは、自分で投げ込んだテーブルを自分でどかして、裏口に飛び込んで行った。
さらに、日本中の記者とテレビ局が、入口から押し寄せてきた。
「二人は裏口から出ました。…。」
と一色が言うので、そのまま裏口に流れ込んで行った。
「…ミナミヤマさんとカメラマンさんですが。」
と付け加えた部分は誰も聞いていなかった。
午前1時過ぎに、店は静けさを取り戻した。
「迷惑かけたな。ツリは要らねえよ。」
竹山は背広のポケットから、クシャクシャの有り金をカウンターに置いた。一色はそれを一枚一枚伸ばして、そのまま竹山に差し出した。
「今夜は私のおごりです。ハードボイルドあり、ラブロマンスあり…感動あり、涙あり…笑いあり、ドタバタあり…。楽しませて頂きました。…今日はいい日でした。」
「じゃあ、遠慮なく。」
竹山は、札を一色の手からもぎ取ると、ポケットに突っ込んだ。カウンターを降りると、一色が声を掛けてきた。
「これから行かれるんですか?。12月24日ですよね。雨屋に?。」
「あぁ俺のクリスマスは、清美のポスターを新しく貼り替えて過ごすのが決まりだ。キリスト教とは関係ねえ。たまたま24日に清美が消えちまっただけの事だ。」
「もう30年ですか…。」
「死体がありゃぁな。とっくに結婚して子供も居る人生なのに…。」
「生きてますよ。」
竹山は振り返って、一色に笑って見せた。
「毎年言ってくれるよな。煮ても焼いても喰えねえチンピラ記者だった頃から。クリスマスには…メリークリスマスじゃぁなく、生きてますよってね。ジングルベルじゃなく、大好きな君に会いに行こうでね。…小田和正は腹黒い商売人って思ってたけど、勘違いだった。謝りたいくらいさ…。」
「竹山さん。生きてますよ。」
「あー一色さん。生きてますよ。じゃぁな…。」
竹山は表口に消えた。一色は、竹山のオールドグランパからショットグラスにウイスキーを注ぐと、竹山に向かってグラスを掲げた。
「きよしこの夜。異教徒の竹山 透にも神のお恵みと、出来れば奇跡をお与え下さい。」
一色はゆっくりと、グラスのオールドグランパを喉に流し込んだ。そして奇跡は、竹山に与えられる事になる。
ー第2話雨屋交差点につづく