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ライバルがまだ登場しないので、3話で収まらないかもしれません。
侯爵家の嫡男から、招待状が届いた。
その知らせは、瞬く間にネルグイスワール男爵家に広まった。といっても、屋敷の中には総勢8人の人間しかいなかったのだが――とにかく、それは屋敷の者達を驚かせるには充分なものだった。
「エインリッヒ様は、どうやらお前を気に入ってくれたようだな。ベル」
「………」
「えいんりっひってだれぇ?」
男爵の嬉しそうな表情にツィアベルは何も言えなくなる。なんと返していいか分からなかったのだ。立ち尽くす彼女の袖を末の弟がつんつんと引っ張った。
弟の好奇心の溢れた瞳を見つめ、ツィアベルは数日前のエインリッヒの眼を思い出す。
硝子のような碧い瞳を思い浮かべ、ボッと火が付いたように頬が火照った。
「とはいえ、まともなドレスがこの前のあの一着しかない。日取りは明後日のようだから、新しいものを仕立てる時間はないな」
「……そうだわ!どうしましょう、お父様」
ツィアベルは火照った頬に手をあてて我に返った。そういえば、彼女はまともなものは先日ガーデン・パーティに出掛けていった時に着たものしか持っていなかった。
今の自分の格好を見下ろす。青い縦縞のシャツに、焦げ茶のロングスカート。編み上げのショートブーツという出で立ちは、まさに辺境の田舎少女である。だが実際、ツィアベルは王都にほど近い第二都市に住んでいる。その気になって街に出れば、ドレスも宝石も最新のものが手に入れることができるのだ。
お洒落に無頓着な自身を、初めて呪った。
「それなら従姉のジュリアに借りたらどう?姉さんとジュリアならそんなに体型も変わらないだろ?」
「そう……それがいいわ!ありがとう、ルー」
「どういたしまして。馬車の用意を頼んでくるよ」
ツィアベルは部屋を出ていこうとした長男に抱き着いた。ルイスは最近になって驚くほど身長が伸びてきて、それに伴うようにしっかりしてきたようである。今までなら、二つ上のツィアベルに頼りっぱなしだった弟の成長を嬉しく思いながら、嫌がるルイスにしがみついた。
「ちょ、ちょっと!姉さん、離してよ!」
「大好きよ、ルー!貴方ってば照れてるの?照れてるのね?まあまあ!そんなところはまだ小さなルーのようだわ」
「ああ、うるさいっ」
赤くなった顔を、今度は怒りで染め上げて、ルイスはツィアベルを引きずったまま部屋を出た。その後を末の弟が慌てて付いていく。一気に静かになった室内に残ったのは、真ん中の弟と男爵だった。
「父さん……エインリッヒ様ってどんな方なの?」
「実際会ったことはないが……そうだな。噂に聞く限りでは、聡い方のようだよ」
ジルはその言葉を聞いて、ふうんと頷いた。
姉と他の家族たちは何やら浮かれて盛り上がっているようだが、ジルは静観して彼女たちを見守っていた。
実状を見れば、侯爵家と新興の男爵家なんて人間と蟻の差ほどある。しかも巷では、成り上がりの貴族だと冷やかされているのが現状だ。そんな家と、王家の次に尊いとされる侯爵家がどうこうなんて成り得ない。
ジルは優しい姉を思い、ひとり肩を落とした。エインリッヒという少年がどんな人物なのかは分からないが、鈍い姉の事だ、もしかしたらからかわれているのではないのだろうか。聡い人物ならなおさら、あの姉を面白おかしく掌で転がす事だって容易なことに違いない。
「父さんは、信用しているの?エインリッヒ様を」
「信用?」
「…姉さんはエインリッヒ様にからかわれているんじゃないの?年だってずいぶん離れているんだろ?」
「そうだな……からかわれているのかもしれない。だが、あちらから要請がある以上はこちらは応えなくてはならない。それが貴族だ。例外はない。あるとしたなら、ネルグイスワール家の滅亡の時だろう」
「でも、だからって姉さんの気持ちは?関係ないなんて事、ないんだから…」
「ベルは我が家の長女だ。ベルにはネルグイスワールの名を名乗るにあたって、この家の者すべてを背負う責任がある。それくらい、ベルだって覚悟しているだろう。――そしてその責任はジル、お前にもあるんだ。貴族とは上と下、それ以外に関係がない世界だ。よく覚えておくんだぞ」
「―――……はい」
納得いかない、という顔で渋々頷いたジルを見やると、男爵はペンを手に取り、再び仕事を始めた。机の上には、山積みの書類がどっさりと乗っかっている。見るだけで軽く死にそうになるが、食べるためには仕事をしなくてはならない。男爵は誰もいなくなった部屋で「よし!やるぞ~」と勢い込むと、ペンを走らせた。
*
二日後。侯爵家に訪れたツィアベルを出迎えたのは、当家の筆頭執事だという初老の男性だった。ダルクと名乗った執事に連れられて、ツィアベルは庭園へと出向いた。
「これより先は、私は出入りできませんのでお嬢様だけでお進みくださいませ。坊ちゃまは噴水にてお待ちしていますとの事です」
「え?…あ、はい。わかりました」
「お気をつけて」
申し訳無さそうに腰を折ったダルクに、慌てて首を振る。振り返ると、迷路のような庭園が広がっていた。
この前は、ただなんとなく歩いているだけでふらりと噴水まで辿り着いたため、正直今回も辿り着けるという自信がなかった。とはいえ、以前あの場所はエインリッヒしか知らないのだと彼自身が言っていたから、ダルクに無理を言って頼んでもダルクにも場所は分からないだろう。
ツィアベルは不安顔で庭園の中を歩き出した。
「どうしてこんなにややこしいのかしら……」
歩き出して数分。ツィアベルは早くも音を上げそうになっていた。噴水にたどり着きたいと願えば願うほど、全然違う方へ出てしまう。何度も行き止まりに行き着いて、何度も引き返す。その繰り返しだった。空を見上げれば太陽の位置がかなりずれていた。
きっとエインリッヒは待ちくたびれて居ることだろう。戻ってダルクに助けを求めたかったが、帰り道すら分からない。右へ行き、左へ行き、行き止まりにたどり着く。引き返すが、もうどの道がどこへ行くのかわからなくなってしまった。彼女の背丈ほどある薔薇の壁で、お屋敷のある方も見えない。
広大な庭園の中に長い間ひとりで居たツィアベルはだんだんと心細くなり、ついに立ち止まってしまった。従姉のジュリアが貸してくれた靴は、この前よりもヒールが高くて、足がじんじんと痛む。靴を脱ぐと、足の裏が赤く腫れていた。
動けなくなって、とうとう細い道の上に座り込んでしまった。エインリッヒの名を呼ぶが、応答はない。静けさが辺りに満ちている。そのうちに夕暮れが迫ってきて、ツィアベルは本格的に危機を感じた。春先とはいえ、夜になれば外はずいぶんと冷える。ドレスの上にショール一枚だけを身に纏った状態では、最悪凍死もあり得る。
ツィアベルは大声でエインリッヒの名を呼んだ。
「エインリッヒ様!どこですか……エインリッヒ様!」
夕闇がすぐそこまで迫っている。風も冷たくなってきて、ツィアベルは痛む足を引きずりながら歩き出した。とにかく動かなくては。
「エインリッヒ様!ツィアベルです!私はここにいます!」
だが、すぐに歩けなってしまった。熱を持った足に激痛が走ったのだ。
助けが来るとしたなら、エインリッヒ以外はあり得ない。彼しかこの迷路のような庭園の道を把握していないのだから。ツィアベルは一層強く吹いた冷たい風に、恐怖を感じた。
この場所で凍えながら死ぬなんて冗談ではない。唇を噛み締めながら、ツィアベルは彼が来てくれるのを一心に願った。
そうしてどれほどの時間を過ごしていただろう。夜の闇がすぐそこまで迫っていて、辺りは薄暗い。涙が溢れるのを我慢できずに、力なくエインリッヒの名を呼び続けていた。どうやら熱が出てきたらしい。頭が霞んで、ツィアベルは嗚咽を漏らしながら体を丸めた。
もうだめかもしれない、と思った時、近くで土を踏む音がした。
「ツィアベル……!!ツィアベル!」
悲鳴にも似たその声に顔を上げれば、天使がいた。薄暗闇でも分かるほど青くなっている。
エインリッヒは曲がり角から地面の上に座り込むツィアベルを見つけると、駆け寄ってきた。
「ツィアベル!しっかりして!ああ、熱が……ダルク!ダルクこっちだ!」
細い腕でツィアベルを掻き抱くようにすると、エインリッヒは執事の名を呼んだ。暖かな人肌に安堵の息が漏れる。エインリッヒはツィアベルの名を呼ぶと、熱を持った彼女の頭を自身の胸に押し付けた。エインリッヒからは石鹸の優しい香りがした。
「ごめん…ごめん、ツィアベル」
「エインリッヒ様……」
名を呼べば、エインリッヒが力を抜き、彼女の顔を覗きこんだ。碧い瞳は潤んでいて、頬は上気している。衣服は乱れ、荒い呼吸をしていた。どうやら走り回って探していてくれたらしい。エインリッヒが怒っていないのを確かめると、ツィアベルは糸が切れたように気を失った。
「ごめんなさい…エインリッヒ様…」
「っ、ツィアベル? ダルク、早く!ツィアベルが!」
エインリッヒの切羽詰まった声を聞きながら、ツィアベルの視界は黒く染まっていった。
*
眼を開くと、見知らない天上があった。どこだろうと眼を瞬いていると、扉が開く音がして首だけ動かしてそちらを見ると、疲れた様子のエインリッヒがいた。
エインリッヒはツィアベルに意識が戻ったのを見ると、慌てて寝台に近づいた。
「ツィアベル、気がついたの?」
「あ…はい。えっと、ここは?」
「僕の部屋だよ」
「え、エインリッヒ様の?!――申し訳ございませんっ」
庭園でエインリッヒに抱きしめられた後、気を失ったところまでは覚えていたが、その後の記憶が無い。窓の外を見れば夕陽が眩しく、どうやらまる一日眠っていたらしかった。
ツィアベルは慌てて起き上がろうとして、その肩をエインリッヒに押し留められた。
「いいから、寝ていて。高熱が出てたんだ、だからゆっくりしていないと……。気持ち悪いところはない?痛いところとか」
「は、はい…大丈夫です」
頷くと、エインリッヒはほっと安堵の息を漏らした。よく見れば顔が青白い。
彼のほうが体調が悪そうだった。それを尋ねると、エインリッヒは力なく首を振るだけで「大丈夫だ」と答えた。
室内が静まり返る。ツィアベルは何を言っていいか分からずに、視線が右往左往した。意識もだいぶとはっきりしてきて、退出しようと口を開くと、突然エインリッヒが身を乗り出し、寝台に座るツィアベルを抱きしめてきた。
「え、えっ? エインリッヒ様?!」
「――ごめんなさい。貴女に会えると思って、浮かれてしまっていたんだ。この前、噴水に辿りつけたなら、道が分かるだろうと思い込んでしまってた。本当にごめんなさい」
「そんな――私の方こそ、まさか自分があんなにも方向音痴だとは思わなくて」
確かに、あの庭園はいくら広いといえども、5時間近くも迷うような庭園ではなかった。
6歳くらいのエインリッヒでさえ、初めて入った時は20分ほどで噴水に辿り着いた。ツィアベルがこの前噴水に辿り着いたのは本当に偶然だったのだろう。
だがだからといって、エインリッヒの中の後悔や贖罪は消えなかった。5時間も迷路を迷わせた挙句、寒さで熱を出させてしまった。屋敷に駆けつけたネルグイスワール男爵とその弟達――特に次男の怒りようは凄まじく、エインリッヒは本当に後悔していた。
自分の短慮が引き起こしたことで、まだ若い娘に心細い思いをさせて、あまつさえ風をひかせてしまったのだ。
責任は取らなければならない。もしこの一件で、ツィアベルの女としての器官に悪影響が出ていたら?ツィアベルは勘違いしていたが、実は彼女は3日も高熱でうなされていたのだ。彼女が目覚めたのは三日後の夕暮れ時だった。高熱が出て、妊娠できなくなったという女性は多いのだ。
エインリッヒは覚悟を決めた。
「責任は取る―――」
「え?」
ツィアベルは耳元で囁くようにして言われたその言葉に首を傾げた。何の責任だろうか。
もしかして、熱を出したことの?だとしたら大げさだ。昔から風邪を引きやすかった彼女にとって熱などよくあることで慣れっこだったのだ。だが、ツィアベルが何か言う前に、エインリッヒがぎゅっと抱きしめてきたので、彼女は頬を赤くしたまま何も言えなくなってしまった。エインリッヒの細い金髪が頬にあたってくすぐったい。
ツィアベルはこの時、初めてエインリッヒに恋心というものを抱いたのだった。




