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3話程で終わる予定です。
強請るな、勝利とは自ら勝ち取るものである。
ネルグイスワール家の家訓である。
古くから商家であったこの家は、つい先日国王から貴族の位を頂いた。その際、ツィアベルはこの家訓を思い出し、本当にその通りになったのだと頬が高揚した。
なにせ、商家の人間は幾ら富を築いていようとも、貴族でなければ社交界への出入りは許されない。上位貴族ともなれば、私事で事業を拡大させている者も居るため、彼女の父は昔から貴族との繋がりを欲しがっていた。それが今回やっと、果たせたのだ。
ツィアベルは家族思いの娘だった。大地域一帯で一番の金持ちであったネルグイスワール家のお嬢ともなれば、下手をすれば伯爵家の令嬢よりも裕福な暮らしぶりができようが、彼女はそんなことは望まなかった。
朝早くに起き、愛馬の世話がてらに草原を駆け、帰ってくれば寝坊助の弟達を叩き起こして朝食を用意する。それが終われば昼からは末の弟の遊び相手をし、夕方になれば近くの学校に通う他の弟達を迎えに行った。夜には末の弟の子守をして眠りにつく。
お屋敷に仕えるメイドが二人と父親付きの執事が一人。それ以外は誰も居なかったため、ツィアベルは様々なことをしなくてはならなかった。母親のいない幼い弟達の世話はもちろん彼女がやらなくてはいけなかった。しかし、それは義務ではなく、家族であるがゆえに当然のことだった。ツィアベルは弟達を、特に末の弟を可愛がっていた。
貴族になったのだ、と浮かれた気持ちで大喜びしていたツィアベルだったが、社交界には出たがらなかった。本来、引っ込み思案である彼女は無駄にきらきらした世界と人が多い場所が大の苦手。小さな屋敷で弟達の尻を叩いている時は元気がいいが、同年代の友人の中ではしんと静かだった。
そんな彼女に今、人生最大の危機ともいえよう事態が迫っていた。
「え? 侯爵家のガーデン・パーティ?」
「ああ。ぜひご令嬢もご一緒にとの招待を頂いている。ベル、一緒に行ってくれるな?」
モノクルをかけた父親の眼には有無を言わせない強さが光っていた。ツィアベルは驚きのまま口を小さく開き、ネルグイスワール男爵を見つめた。
侯爵家といえば、この国には現在ひとつしかない。フレミンジャ―侯爵家である。
百年ほど前に起こった大戦争で、大いに戦果を上げたフレミンジャ―という男が侯爵位を賜って以来、かの侯爵家は繁栄を遂げてきた。今やフレミンジャ―なくして国は回らないとまで言わしめる大貴族である。
その大貴族からの誘いを断るなんて、貴族であろうと、たとえ商家であろうとも、とてもできない。その強制力は絶大である。
ツィアベルは青ざめながらも、やがてこくりと頷いた。ネルグイスワール男爵が、モノクルの奥の眼をすっと細める。彼女とよく似た灰茶の瞳だった。
「ではさっそく、ドレスをこしらえなくてはいけないな。パーティは春先だから、淡い色合いのものがいいだろう。仕立屋を呼ばねばな。セバス、手配をよろしく頼んだぞ」
「かしこまりました」
優雅に礼をした老執事が部屋を出てゆく。ツィアベルはもう我慢できない、というように男爵の近くへ駆け寄った。
「ねえお父様!そのパーティには他にどんな方々がいらっしゃるの?例えば――」
例えばそう、自分と同じような年頃の貴族の少女たちがたくさんくるのであろうか?ツィアベルの質問の意図を汲み取って、男爵はひとつ頷いた。
「ご令嬢方がたくさんいらっしゃるだろうな。おそらく、侯爵家のパーティに招かれるのは高位の貴族の方のみだろうから、お前には少し辛い思いをさせるかもしれん。だが、ベル。これも我がネルグイスワール家の発展と存続の為だ。人と人との繋がりは、脆くもあるがゆえに、鋼よりも強固でもある。うまくやれとは言わん。だが、努力はして欲しい」
「―――…はい」
内気なツィアベルを理解しての言葉だった。見返したモノクルの先の眼が、赤く充血しているのを見て取って、ツィアベルは頷くしかなかった。「そんなの嫌だ」などとゴネられる年でもない。諦めることは時に大事である。ツィアベルはがっくりと肩を下ろしながら、男爵の部屋を出たのだった。
ガーデン・パーティの当日がついに来た。ツィアベルの心は鉛を付けたように重い。もしくは、心臓自体が鉛に変わってしまったようだった。
この日の為に、男爵が仕立屋に作らせたドレスは、彼女が今まで着てきた服の中で最も高価なものとなった。屋敷の中では、簡易のシャツに踝までのスカートという、田舎娘のような格好をしているツィアベルには、やや難度の高いレース付き。
こんなの柄じゃないわ、と思ったがこれが貴族のドレスなのだと仕立屋の旦那に言われては着る他なかった。
淡い若草色のドレスは、細かく透けたレースが幾つも合わさって、18の少女を若草の妖精か何かに見させた。猫毛の髪は背中に流れ、バレッタには細かい銀細工が施してある。ドレスが揺れる度に見える白い靴は華奢で、ローヒール。灰茶の瞳は陽の下では神秘的な光を纏っていた。
そんなツィアベルを見て、パーティに集まった参加者は一様に軽く目を見開いた。成り上がり貴族の商家の娘が、まさかこんなに可愛らしいとは。美人でも美少女でもないが、彼女の持つ雰囲気が、少女を愛らしく飾り立てる。男は庇護欲を、女は嫉妬を覚えた。
ツィアベルは、視線に気づきながらも、自分が周りにどう思われているかまでは分からなかった。ただただ、向けられる視線が恐ろしい。父の隣にぴったりとくっつきながら、侯爵家の広大な庭園の中を挨拶して回った。初めの侯爵夫妻が、想像とは違って優しい夫婦だった為に、ツィアベルは幾分か元気を取り戻して、最後の挨拶が終わると、やっと男爵の側を離れる決心がついた。
とはいえ、一人になった途端、誰かに何か言われるであろうことはおっとりした彼女でも分かったため、こっそりと迷路のような庭園の中へ隠れこんだ。もう充分、己の役目は果たしただろうと安堵した彼女は手入れの行き届いた庭園をぐるぐると歩きまわって、ようやく中心にある大噴水へと辿り着いた。
少し休もうと、噴水へ近寄る。すると噴水の向こう側に、人影が見えた。誰だろうとこっそり覗くと、美しい横顔をした少年だった。見たこともないくらい綺麗な金色の巻髪に包まれた白いかんばせ。そこに輝く碧い宝石に、思わず見とれた。つんとした顎から、首のラインが美しい。
もう少し近くで見てみたい。そう思い、一歩近づくと、少年がハッとしてこちらを振り返った。
「……あっ」
驚いた拍子に持っていた扇子が手から滑る。豪奢な飾り付けをしていた扇子は、派手な音を立てて落ちた。口元を覆い、慌てて扇子を拾い上げる。顔が真っ赤になった。
「も、申し訳ございません。無調法な真似をどうかお許しくださいませ」
頭を深く下げる。なんてことをしたのだろう。貴族の者はみな、気位がおそろしいほど高い。はしたないことをしてしまった、ツィアベルは肩を震わせた。
「貴女はもしかして――ネルグイスワール男爵の娘さん?」
それは、とても澄んだ声だった。聞いていれば、男とも女とも判別しにくい声に思われたが、芯の通ったそれは、やはり男性だと分かる中性的な涼しい声だった。
優しげな口調に、ツィアベルが思わず顔を上げる。そこには天使様がいた。穏やかな表情を浮かべる少年に、明らかに年上のツィアベルが動揺する。
「そ、そうでございます……。お許しくださいませ」
「怒っていないから大丈夫。 それよりどうして此処へ?此処は秘密の場所なのに」
「ひみつの……」
くすり、と口角を上げて微笑んだ少年に、ツィアベルがさっと青くなる。
もしかして、今目の前にいる少年は、侯爵家の嫡男様ではないだろうか。先ほど夫妻が姿が見えないと探していた方ではないだろうか。そして此処は、この方がこのお屋敷で誰にも入られたくない秘密の場所としている所なのでは。
ツィアベルは勢い良く頭を下げた。腰が折れそうな勢いである。
「も、申し訳ございません!どうか寛大なご処置を……!」
「ああ、ごめんなさい。そういうつもりで言ったのではなくて――。此処へ来るまでが、複雑な迷路になっていたでしょう?だから、どうして此処まで来れたのかなって。行き道は屋敷の中でも僕しか知らないのに」
だから感心したんです、と少年は小さく笑んだ。その笑みは、とても大人びている。
青くなって細かに震えているツィアベルとは対称的な、凛とした立ち姿だった。
「ほんとうに怒っていないので、そんなに堅くならないでください。別に知られたからといって困るわけでもないから。―――茶会がつまらなくて逃げ出して来たんだけど、此処に来てもひとりですることがないし……貴女もそうなんでしょう?だったら此処で少し、お話でもしませんか?」
「わ、私で良ければ」
「じゃあこの奥にあるサンルームに行きましょう。手を貸して」
そう言って、さらりとツィアベルの手を繋いで歩き出した少年に、かっと赤くなる。少年は、迷路のようになった庭園のなかを悠々と進んでゆく。そこは来た方角とは逆方向で、屋敷とは反対の場所へ行くようだった。
まだ幼いのか、白シャツにベスト、半ズボンにタイツという出で立ちの少年は、いかにも育ちが良さそうだった。つむじまで美しい。ゆったりとしたシャツに身を包む少年は、実は大天使ミカエルなのではと疑ってしまう程、神秘的な美を持っている。
ツィアベルはただただ彼の美麗さに眼を奪われた。
そのうちに小さな小屋敷に辿り着き、サンルームへ案内された。使用人は誰もいないようで、少年は手際よく茶器と菓子を揃えると、ツィアベルに出してくれた。
「あ、ありがとうございます」
恐縮し、頭を何度も下げる。すると少年は眼を細めて、口端に笑みを浮かべた。
「商家の令嬢と伺っていたから、勝手に高飛車な人を想像していたんだけど……貴女は想像とは真逆の人みたい。ツィアベル様とお呼びしてもいいですか」
「は、はい……お好きな様に」
「そんなに緊張しないで。なんだか苛めてるような気分になってしまう」
くすくすと笑った少年に、ツィアベルは申し訳なさで顔が火照った。小さくこくこくと頷くと、湯気の立った紅茶を差し出される。ツィアベルは素直に受け取った。
「おいしい……!」
「それは良かったです。蜂蜜はいりますか?」
「いいのですか?」
「はい。すごく合うんですよ、どうぞ」
銀のスプーンから、とろりと黄金色の蜂蜜が垂れる。ツィアベルは、きらきらとした眼でそれを眺めた。とても美味しそうである。純粋な蜂蜜なのだろう。甘みが濃縮されているようだ。
蜂蜜を混ぜ、こくりと紅茶を飲むと、先程よりも味に深みが増し、さらに美味しくなっていた。舌に残るまろやかさに、思わずだらしのない笑みを浮かべていると、少年が初めて声を上げて笑った。――といっても、とても上品な笑い声である。
「ツィアベル様はとても素直な人なんですね。ますます、想像していた人とは違うな。ああ、そうだ。僕の名はご存じですか?」
きらりと光る瞳に、どきりとする。好奇心のちらつく碧い瞳に見つめられて、ツィアベルは視線を逸らした。小さく頷く。蚊の鳴くような声で答えた。
「エインリッヒ・フレミンジャー様でいらっしゃるのでしょう?」
「やっぱりご存知だったんですね。知らなかったら驚かして差し上げようと思ったんだけれど、つまらない」
「まあ……」
ふう、といじけた様子で椅子に座り直した少年を見つめる。好奇心に煌めいていた瞳は、輝きを失って手元の紅茶を眺めており、頬杖をつく様子が年頃の少年らしくて、妙に親近感を覚えた。容姿そのものは神々しくもある少年が、人間らしい一面を持っているのがどこか可笑しくて小さく笑っていると、それに気づいた少年が首を傾げた。
「何に笑っているの?」
「いえ……なんでもありません」
「教えて。なに、顔に何か付いてる?」
「いえ、なにも」
「嘘だ」
ぺたぺたと顔を触る様子が愛らしい。声を上げて笑うと、エインリッヒはむっとしたように眉を吊り上げ、そして一緒になって笑った。顔になにも付いていないことを確かめると、彼が育てているという花壇へツィアベルを案内した。その間もしっかり手は繋がれていた。
「エインリッヒ様はお幾つなのですか?」
日暮れが近づき、段々と慣れてきた頃に、ツィアベルはようやくその質問をしてみた。
実は噴水で会った時からずっと気になっていたのである。物憂げな表情をしていたが、喋ってみれば案外子供っぽいところがあり、年齢がさっぱりわからなくなった。
「13だよ。ツィアベルは?」
「え、13歳?……私は18でございます」
「え、18歳?―――見えない」
どちらも唖然とした顔で、お互いの顔を見つめる。思わず、と言った様子でエインリッヒがツィアベルの胸元に眼をやる。ツィアベルはむっと顔をしかめた。
「―――何か?」
「いや……何も。その、とても若々しいんだね」
「お褒めに頂き光栄です」
「うん」
その後、会話はしばらく中断した。それまで仲良く花を見ながら肩を並べていた二人の間に、微妙な空気が流れる。頭上の上をカラスが飛んで行った。
「…ねえ、またこうしてお話できるかな」
「え?」
「今度、二人だけの茶会を開くから、来てくれる?もちろん内密にする」
「は、はい……よろしいのでしたら」
「うん……招待状、出すね」
どうしたことか、とツィアベルがエインリッヒの横顔を見ると、ほんのりと赤く染まっていた。夕陽のせいかと思ったが、まだ空は薄青く、西陽は出ていない。
ツィアベルとてそこまで鈍感ではない。気恥ずかしくなって俯けば、また無言の時間が流れた。
カラスが「カァ」と鳴く。ふたりはしばらくの間、そうしていた。




