5 大切な場所
海岸へと真っ直ぐ続く一本道を俺はのんびりと歩く。それなりに規模があるものの本当から離れた島には街灯と言った類はなく、淡い月明かりだけが道を明るく照らしていた。
道すがら左右は家が立ち並んで草木がないのにも拘らず、どこからともなく虫のさざめきが聞こえる。多分、家の庭先の草の中にいる虫たちだろう。
そんな夏らしい風流に五感を肥やしながら、海外沿いの道に出た。出た瞬間、海からの潮風が鼻孔を燻った。
さすがに普段大勢の人が通るところとあってか、街灯が設置されている。何となく街灯が続く方へ視線を移していきながら、今日海へとダイブしてしまった崖の方へと視線を向けた。
暗いために詳しいことは分からないが、崖に向うために通らなけば行けない森の木々が動いているのが分かる。
きっと風に揺らされているのだろう。
とそこで、俺の瞳は風とは別の理由でもぞもぞと動く何かを捉えた。首を傾げながらも、目を凝らす。
はっきりとは分からないが、人の形のように見える。
まさか幽霊がいるのでは、と思ってしまうが、現在世の中の幽霊現象は科学的に解明されている。別に不可思議なことを信じないわけではないが、アレが幽霊といった類ではないことは証拠がなくとも分かった。
――まさか。
ふと、俺は直感した。
何が崖の上で動いているのかを。いや、誰がと言った方が正しい。
俺は自分の直観に導かれるように、崖へと向かって走り出した。
◇◇◇
崖へと続く森を蚊に刺されながら駆け抜けると、そこには予想通り彼女がいた。そう明日香がいたのだ。
明日香は昼間と同じように、軽やかなステップを踏みつつ優雅に踊っている。淡い月光が幻想的な雰囲気を醸し出していた。その様子はさながら湖の水面で羽ばたく妖精のように見えた。
そして不覚にも俺は見とれていた。
あまりにも彼女の姿が綺麗だったのだ。
「綺麗だな」
自然と自分の本心が口から零れていた。
無意識に本心を呟かせる。そんな魅力が彼女の舞いにはあった。
「あれ、なにしてるの?」
俺の漏らした言葉で俺の存在に気が付いた明日香は動きを止め、未だ見とれている俺に話し掛けてきた。その言葉で俺は我に返る。
それと同時に自分が漏らした本心が、木々を揺らす風によってはっきりと聞こえていなかったことに安堵した。
――いかんいかん、見とれるために来たんじゃなかろうに。
俺は気をしっかりとさせると、髪を掻きながら、
「お前こそ何やってんだ? また海ダイブでもしに来たのか?」
俺の皮肉に彼女は苦笑しながら答える。
「そんなわけないよ。ただ、ここで踊ろうって思ってね」
「ふーん。でも、なんでこんな危ない場所で踊ってるんだ?」
自分でも聞かずとも分かるだろうにと、思っていながら尋ねた。明日香は特に気にした様子もなく答えてくれた。
「昼間にも言ったけど、とっても大切なんだよ、この場所は」
彼女は握った拳を大事そうに胸に当てる。その様子はとても大切なものを大事にしようと、守ろうとしているように見える。そしてとても儚げに見えた。
「大切ねえ。踊るにしては危ないのにな」
が、俺はあえて深く踏み込むような言葉を避けた。
その理由は分からない。ただ、彼女ではなく自分に気を使ってのことだったと思う。
明日香は表情を少し悲しげにして呟く。
その言葉はとても大切なことのような気がした。
しかし、どれだけ必死に耳を傾けても、風がほとんどの言葉を奪っていく。
「き……はほ……ここ……わ……けて……忘れちゃったんだね」
気のせいかもしれない。
けれどはっきりと、忘れちゃったんだね、という言葉だけが聞こえた。
「え?」
俺は眼を瞬かせ、首を捻る。
訳が分からなかった。
忘れちゃったんだねとはどういうことなのか。
「あははは、何でもないよ」
が、必死に答えを導き出そうとする俺に、明日香は言ったことを誤魔化すかのように語りかけてきた。俺はどうしていいのか分からず、ただ彼女の顔を見つめた。
彼女の顔は何かを失ったような顔をしている。目尻からはうっすらと涙が流れているように見えた。
何となくではなく、はっきりと思う。
俺は明日香の大事なものを失わせてしまったと。
それが何なのかは分からない。
しかし、彼女の気持ちがすべてだ。
「星が綺麗だね」
「は?」
唐突に彼女はそんなこと言ってきた。
俺は思わす間抜けな声を出してしまう。
「だからさ、星が綺麗だね」
俺は彼女が見上げている方へ首を動かす。
「わあ」
見上げた先。
夜空には満天の星が輝いていた。
ビルが雑居した場所では、規制を掛けているとはいえ日中大気を汚染するような空気ばかりが漂っているため空は綺麗に見えないが、田舎の澄んだ空気は星々の輝きを映し出している。
星々はビー玉越しに見た太陽のように、きらきらとしている。
「綺麗だな」
先程同じ言葉を呟いたような気がするが、見ている物が違う。詰まる所、明日香の踊りと同じくらい星々の輝きは魅力的だった。
「そうだよね」
「ああ」
彼女は嬉しそうに同意を求め、俺は同意する。
本当に夜空に輝く星々は綺麗だった。
そして、俺は先程の彼女の言葉をすっかり忘れてしまっていた。