プロローグ
もう顔も忘れてしまったけど、幼い頃女の子と約束をしたことがある。
その女の子はとても泣き虫で、すごく臆病な子だった。出会った時は、どうすればいいのか分からずわなわなと慌てたものだ。今思えば、あれだけ純真無垢な俺なのだから怯えなくて見良かったのにと、あの女の子に対して思う。
あの頃の俺は本当に真っ直ぐだった。野球をやっていたら、きっとストレートばかりを投げていたに違いない。
小学校の頃も、中学校の頃も、けれど高校生である今はどうなのだろうか。
何か大事なことを見失ってはいないだろうか。
そうだ、きっと見失っている。霞んで見えないのではなく、完全に瞳に映っていない。
そう思いながら、俺は船に設置されている窓から海を見た。
視線の先の海は穏やかだった。航行が困難になるような海でないということが素人目でもわかる。
なんとなしに別の所に視線を向けると、数匹の海鳥が鳴きながらある場所を飛んでいた。きっと魚の群れがそこにいるということだろう。その様子を眺めていると、ふと視界の端に別の景色が飛び込んできた。
飛び込んできたのは島だった。少しさびれた感のある島だが、島おこしのお蔭で夏には海水浴のお客さんが多いらしい。その証拠に、海岸では多くの人々が楽しそうに泳いでいる。
そんな時だった。
「おう、坊主。旅行かい?」
船を操縦しているやけに筋肉質なおじいさんが、唐突に尋ねてきた。坊主扱いされたことに少々ムッとしてしまいそうになるが、向こうから見たら完全に俺は坊主だ。
俺は少し考え込んでから、問いに丁寧に答えた。
「ええ……まあ、そんな感じです。祖父が島に住んでいるんで」
少し言い淀んでしまったところもあるが、無難な回答だ。
「そうかい、爺さん高校とは言い坊主だな。それにしても、一人で旅行たあ寂しいねえ。嬢ちゃんの一人ぐらい連れてくりゃ良いのに」
「奥手なもので」
と答えながら俺は少々このおじいさんに対して、苦手意識を持ち始めていた。確かに一人旅と言うのは寂しいかもしれないが、それをあっさり他人に言えるこの人のフランクさに苦手意識を抱かざる負えない。
――本当にどうしてこの人は、見ず知らずの人にこんなことが言えるのだろう。
と素直に思う。
「ほんとよねー、寂しいったらありゃしない。アンタ、ひょっとして青春をもう捨てちゃった?」
一緒に乗っている髪の短めの女性も、お酒を飲みげらげらと笑いながらそう言ってきた。乗る前に自分は先生だ! とか言っていたが、とても公務員が言う様な台詞には思えない。
俺は先程から抑え込んでいる堪忍袋の緒がついに切れ、初対面の相手だというのにやや皮肉めいたことを呟いた。
「じゃあ、お姉さんも捨ててみます? 例えばそのお酒とか」
「……、」
すると女性は一瞬だけ目を大きく見開くと、次には黙り込んだまま面白いものを見つけたかのような笑みを口の端に浮かべた。その笑みを真正面から見ていた俺は、背中に寒気が走るような錯覚を覚えた。そして、女性は笑みを浮かばせたまま、
「お酒は捨てないわよ。お酒は私のすべてだもの。それにしても――どこにでも、いるもんねー」
と楽しそうに呟いた。
最後の方の言葉の意味も真意も分からなかったが、誰かを懐かしんでいるような口ぶりだ。
俺はそんな女性に首を傾げながら不思議がったが、謎については答えてくれないだろうと思ったので不思議がることを止めた。
そして、視線を海の方に再び向けた。
あの時のことを思い出しながら。
『本当に? 本当に叶えてくれる?』
『大丈夫! どうにかするから、俺を信じろ!』
昔の純真無垢な俺は、もう顔を覚えていないけれど少女に向ってそう言ったことだけは覚えている。
でも、今の俺は情けなくなった。
その理由は実に簡単である。
今の俺は純真でも無垢でもなく、ただの捻くれたガキだ。
人に裏切られ信じられなくなった挙句、家族に無断で家出まがいなことをしている捻くれたガキだ。