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ネイル  作者: 活動停止
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「最近、調子に乗り過ぎよね」


 ハッと、トイレの扉を開く手を止めた。聞き慣れたその声の主を、頭の中で探る。


「美知子さーぁ、私が教えたネイルサロンに行ってないのよ?信じられる?私に嘘ついたのよ?」


 怒りが込められたその声は、紛れもなく横山里沙のものだ。何て事だ、嘘がバレてしまったのだ。

 私は速くなる鼓動を抑えながら、どうすべきかと思案した。今すぐ出て行って謝るべきか、それとも知らぬ顔で通すべきか。


「森山課長にも色目使ってるんでしょ?」


 里沙と一緒に入ってきたのであろう女性声が聞こえた。営業の津嶋ゆかりだ。

 ドクンと胸が苦しくなった。


「そうよぉ」


 色目を使った?私が?

 謂れの無い誤解だ。そんな風に映っていたなんて。そんな風に思われていたなんて。ちっとも知らなかった。


「識井くんにも色目使ってるのよね、あの子」


「識井さんにまで?!」


 里沙の驚愕と怒濤が入り交じった声がトイレの中に響いた。

 私の額から、脂汗の様な、気分の悪い汗が流れた。相変わらず胸はドクンドクンと鼓動を繰り返している。その音がトイレの中に反響しそうで、私は思わず自分の胸をぎゅっと掴んだ。


「信じらんない……」


「そう言えば里沙、識井くんの事狙ってたっけ?」


 あははと笑う津嶋ゆかりの無神経な声が、無情に私の頭の中に流れ込んでくる。


「あげちゃえばぁ、識井くん」


 ガンッ


 ケラケラと笑うゆかりの声がぴたりと止まった。里沙が何かを叩いたらしい。その振動がビリビリと私の居る個室まで伝わって来た。気のせいかも知れなかったが、しかし里沙の怒りは確実に私の胸を貫いた。

 今出て行っては駄目だ。

 ドクンドクンと口から心臓が飛び出そうなくらい高鳴っている。里沙が識井さんの事を好きだったなんて。ファンクラブに入っている事は何となく解っていたが、そこまで想っていたなんて。

 膝がガクガクと揺れる。辛うじて立っている状態だ。ここで倒れては音が立つ。絶対に気付かれてはならない。

 私は二人の足音が完全に聞こえなくなるまでその場に立ち尽くし、ずるずるとその場に座り込んでしまった。


 席に戻るのは躊躇われた。隣の席には里沙がいる。先程の様子から見て、何をされるか解ったものではない。

 だが、まだ今日の業務は終わってはいなかった。私は何度も深呼吸を繰り返すと、意を決して自分の席へと戻った。


「あ、美知子」


 ビクンと身体が硬直する。席に着いた途端、里沙に話かけられたのだ。何を言われるのだろうか。深呼吸で折角宥めた心臓が、また暴れだした。


「何処に行ってたの?もしかして体調悪い?大丈夫?」


 いつもと同じ態度の里沙。いや、いつも以上に優しいかも知れない。大袈裟に心配している様は、見ていて気持ちが良い物ではない。


「だ、大丈夫……。ちょっと、更衣室に行ってただけ」


 私は冷静に、普段通り喋る様に努めた。動揺を相手に悟られては駄目だ、そう思ったからだ。


 私は夢でも見たのではないだろうか。そう思わせる程、里沙の態度からは先程の怒りは微塵も感じられない。これが演技だとしたら、彼女は女優にでもなれるだろう。


 今日ほど、時間の経過が遅く感じた事はない。一分一秒が倍、いや、それ以上に長く感じられた。隣でカタカタとパソコンのキーボードを叩く指には可愛らしい花が咲いていた。


「じゃ、今日は頑張ってね」


 終業と同時に里沙が私の肩に軽く手を乗せ、おどけてウインクして見せる。私は何も答える事が出来ず、曖昧に頷くしかなかった。


 里沙は、どういうつもりなのだろうか。達也さんとの事を問いただす訳でもなく、私を罵倒するでもなく、笑顔でいつも通りに接してくる。

 達也さんの事は諦めた?

 いや、それは無い、と心の中で否定する。トイレでのあの様子だと、とてもそうは思えない。だとしたら、何かを企てているのだろうか。

 私はぶるりと身体を震わせた。あの笑顔の裏に隠された心を思うと、どす黒い霧のイメージしか浮かばない。


「お口に合わなかったかね?」


 その言葉でハッと我に返った。いけない、課長と食事中だったのだ。


「いえ、そんな事はありません。とっても美味しいです」


 にっこりと微笑んで、私は答える。正直、料理の味なんてちっとも頭に入っていなかった。里沙の言動が気になって仕方がない。

 しかし、そんな私の気持ちを知るよしもなく、課長は満足げに頷いてみせた。勿論、仕事の話など一切していない。

 私は課長に気付かれない様に溜め息を吐いた。お酒はあまり飲めない方なのに、やたらと勧められる。仕方無く飲んでいたら、やはり酔いが回って来てしまったらしい。視界がぼんやりと霞み、焦点が定まらない。


「あの、私、これで、失礼、しま、す」


 何とか理性を保ちつつ、たどたどしい口調で暇を告げる。が、課長は私の手を掴み、握った。


「送って行くよ、随分酔っ払っているみたいだし」


 正直、ちゃんと家に辿り着けるか不安だった。だが、課長の態度を見ていると、送って貰うのも何となく危険な様な気がした。

 躊躇していた私を、課長は強引にタクシーへ乗せると、行き先を告げた。私には既に課長の言葉を理解する事が出来なかった。

 世界がぐるぐる回り、身体がふわふわと浮いている様な感覚。それはあのネイル屋を思い起こさせた。


 暫く走っていたタクシーは止まり、目的地に着いたらしい。果たして、私は自宅を課長に伝えておいただろうか。

 疑問は酔いが回っている私の脳を、少しだけ覚ましてくれた。そして、自分の居る場所を理解した。

 きらびやかな紫やピンクの品の無い照明に浮かび上がったのは、『ホテル』の文字。


「……!ちょ、私、困ります!」


 強引に手を引く課長。此処まで来て何を言っているんだ、と呆れ顔だ。冗談じゃない。私はそんな事の為に来たんじゃない。そんなつもりこれっぽっちもない。

 私は激しく抵抗し、課長の手から逃れると、方向も解らぬまま駆け出した。一刻も早く、この場所から逃れたかった。部屋まで入らなかったのが唯一の救いだ。縺れる足で、それでも何とか人通りがある大通りまで出る事が出来た。

 途端に込み上げる吐き気に、抑える事が出来ずに私は嘔吐した。それと同時に涙が溢れ出る。

 何故。

 私の思慮が足りなかった所為だろうか。まさか、こんな事になるなんて思ってもみなかった。

 綺麗になれた事で受かれて、笑顔を振り撒いて。


「う……ぁ……」


 嗚咽は止まらなかった。悔しさと、情けなさ。私は泣き続けた。

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