冷たい熱
私の住んでいる地域では、公立高校の入試は三月上旬にある。颯大が受験する北工もそうだ。だけど、藤白などの私立高校の入試は二月の初旬。冬休みが終わると、意外とすぐなのだ。書類をそろえて、受験の手続きをして、受験票をもらって……なかなかに慌ただしい。
「……礼夏、ごめんね、あの……杉村さんたちが二階の空き教室に来てほしいみたいなんだけど」
クラスメイトの吉田さんにそう言われたのは、入試二日前の昼休みだった。
昼休み、颯大は天気が良いので仲の良い男子たちと外にバスケをしにいっていて、教室にいない。いつも一緒にいる葉月は、入試の実技試験の相談で音楽室に行って、いない。
ふたりがいない、なるほど、私を呼び出すには良いタイミングだ。
グループでおしゃべりしていたクラスメイトたちは、
「行かなくていいんじゃない?」
と、眉をひそめた。杉村さんたちは陰でこっそり私に嫌がらせをしているつもりでも、みんな案外状況を察しているようだった。吉田さんに、
「そんな伝言引き受けるの、よしなよ」
と言う子もいた。吉田さんが困った顔になる。うん、私も行きたくない。でも、私が行かなかったら、吉田さんがもっと困ってしまうだろう。
「二階の空き教室だね?」
確認して立ち上がると、周りで、ええー、と声が上がった。一緒に行こうか、と心配そうに言ってくれる子もいた。
大丈夫、と返して、ひとりで空き教室に行った。あさっては私立高校の入学試験があるのだ。そんな時期に友だちをつまらないことに巻き込みたくなかった。杉村さんたちだって受験生なのだからそんなに変なことはしないだろう。
ひとりで大丈夫だ。
驚いたのは、空き教室で杉村さんが泣いていたからだ。ほかにも目を赤くした女子がいて。
いきなり手首をつかまれ、後ろから肩を押され、教室の隅に連れていかれた。壁を背に彼女たちに囲まれて、
「颯大が藤白の特待に落ちたの、おまえのせいだってわかってる?」
いきなり言われて、当惑した。
「……え?」
「え、じゃねえよ。岡村が言ってたよ、ケンカのせいだって」
それは、言っていた。それで颯大と言い合いになっていた。だけど……。
ひとりの女子が、ずいっ、と前に出た。
「岡村がサッカー部の男子と話しているの、聞いちゃったんだよね。あのケンカがなかったら合格だった、って。綾原を助けたせいだ、って」
何を言われているのかわからなくて黙っていると、肩を突かれた。どん、と壁に背中が当たり、足がもつれて床に尻もちをつく。杉村さんたちが私を取り巻く輪をすっと縮め、きつい目で見下ろしてきた。
「おまえ、二年のとき、図書委員やってたんだって? そのとき、引退したサッカー部の三年がふざけていたの、注意しただろ」
「……覚えていない」
ダン! 杉村さんがすごい勢いで足を踏み鳴らした。
「したんだよ! そいつらがおまえにむかついて嫌がらせしようとしたのを颯大がとめて、ケンカになって、それで……!」
杉村さんが大きく息を吸った。けれど、それ以上は言葉にならず、わっ、と泣き出す。その肩を抱いた女子が私をにらんだ。ほかの女子たちも尖った視線を私に向ける。怒りに満ちた言葉が次々に降ってくる。
「颯大がかわいそう。颯大なら絶対に藤白にいけたのに」
「あんたが優等生ぶって余計な注意したせいで」
「でしゃばり。最悪」
ひとりが片方の膝を上げた。蹴られる? 体が竦んだ。
「綾原!」
男子の声がした。杉村さんたちがはっと口を閉じる。声がした方を見る。
蓮だった。教室のドアに手をかけて、杉村さんたちにきつい目を向ける。
「おまえら何してんの?」
杉村さんたちが目をそらした。ひとりが仲間を見回して、
「行こう」
促すと、ぞろぞろと空き教室を出ていく。廊下に出る直前、最後尾で振り向いた女子が蓮に言った。
「岡村がこの女に言いたかったこと、代わりに言ってあげただけだからね?」
杉村さんたちが私の視界から消え、代わりに蓮が私のそばに来た。
「……大丈夫? 何を言われたの?」
待って。まだ頭が整理できない。
「蓮はどうしてここに?」
「吉田が……廊下で会って、綾原がここに呼び出された、って教えてくれて」
杉村さんたちの伝言を持ってきた子だ。もしかしたら、心配して、颯大か蓮を、って探してくれたのかな。……ありがとう。だけど……。
「立てる?」
蓮が手を差し出してきた。かぶりを振って壁を支えにひとりで立ち上がる。たずねた。
「颯大のケンカの原因って、私だったの?」
「え?」
「私が図書室で先輩を注意したから……?」
いつも余裕のある表情をしている蓮がうろたえるのがわかった。私は静かに続ける。
「蓮、颯大が特待をとれなかったのはケンカのせい、って言ったよね? それって、つまり、私のせい?」
「いや……」
と言ったきり、答えが返らない。
肯定だと思えた。私のせいで颯大が特待に落ちた。頭の中はまだ混乱していたけれど。
私は蓮の横をすり抜けて出口に向かった。背中に、綾原、と聞こえたけれど、振り向かない。
保健室で、気分が悪い、と言うと、養護の先生はすぐに早退届を用意してくれた。
「受験、あさってだものね。ムリしないで、家でゆっくり休んでね」
そうした。家に帰ってベッドに横になって……。
考えた。二年生のとき、図書委員をやったのは事実。本が好きだから、委員会決めのとき立候補したのだ。それで……図書室でふざけているサッカー部の三年生を注意した?
覚えていない。だけど、したかもしれない。だって、それ、図書委員の仕事だ。きっと、したんだろう。それにむかついて私に何かしようとした三年生を颯大がとめて──。
ケンカになった。ナイフを持っていた三年生と。
ナイフ──ぞっとした。颯大がたいへんなケガをしていたかもしれないことを今さら実感して。ケガをしていたら、私のせいだった。……特待がとれなかったのも?
思い出す。進路面談のあとの公園で、颯大は藤白で自分のサッカーを試したかったのはホントだと言っていた。ものづくりしたいのもホント、とも言った。
もしもケンカすることがなかったら、特待で藤白のサッカー部に入って普通科に進み、どちらの『ホント』も手にいれていたのだろうか? ……少なくとも特待がとれなかったことは、きっと、ない。蓮と一緒に特待生に選ばれていて……。
『岡村がこの女に言いたかったこと、代わりに言ってあげただけだからね?』
杉村さんたちの捨てゼリフが耳によみがえり、胸が苦しくなった。颯大が特待をとれなかったとき『ケンカのせいだ』と言った蓮は悔しそうだった。高校でも颯大とサッカーできると思ったのに、って。
苦しい。杉村さんたちは蓮が『綾原のせい』と言ったのを聞いたんだ。蓮が心の底でずっとそう思っていたとしたら。
図書室で誰を注意したかなんて、覚えていない。だけど、颯大の先輩たちは私の注意にむかついたんだ。私、係の仕事をきちんとしたいだけだった。けれど、杉村さんたちが言ったようにそのぐらいほっておけば、颯大はケンカせず、特待もとれて、蓮とふたりで藤白のユニフォームを着て……。
私、でしゃばり、って言われてもしかたない。ウザがられるのも当然だ。
スマホの通知音が鳴った。葉月からのメッセージだった。
『早退って聞いて、びっくりした。風邪? 熱ある? 大丈夫?』
『大丈夫。心配かけてごめんね』
と、返しておく。ほかにも何人かの女子が心配のメッセージを送ってきてくれた。同じような文面を返した。颯大と蓮からもメッセージが来た。けれど、そのふたつは開けなかった。
私、強いチームでプレーしたいという颯大の夢も、颯大と一緒にプレーしたいという蓮の夢も潰してしまった。もしかしたら、自分で気がつかないうちにほかの人にも余計なことをしていたかもしれない。杉村さんたちのように表に出さないだけで、むかついている人がたくさんいるかもしれない。だって、蓮も『綾原のせいだ』って……。もしかしたら、颯大も本音では……。
お母さんが仕事から帰ってきた。私が部屋で寝ていることに驚き、私の額に手を当てるとさらに驚いて声を上げた。
「熱があるじゃない」
すぐに解熱剤を飲んだけれど、次の日になっても熱は下がらなかった。お医者さんに行く前に、お母さんが担任の先生に電話をかけていた。
「明日も熱が下がらなかったらどうしたらいいでしょう」
そうか、明日は入試だった。明日も熱が下がらなかったら……十日後に追試験があることを先生が高校に確認してくれた。
「十日あれば、大丈夫ね。しっかり治そうね」
だけど、一週間が過ぎても私の熱は下がらなかった。血液検査やレントゲン検査をしても発熱の原因は見つからなくて、
「ストレスかもしれませんね、受験の」
ということになった。
私は追試験も受けられなかった。その一週間後に再追試験があった。
『合格発表のあとで二次募集も兼ねているから、普通科しか受験できないんだけど……』
電話越しに担任の説明を聞いて、ほっとしている自分がいた。つまり、特進科には絶対にいけないんだ。颯大と蓮の夢を邪魔しておいて、自分だけ第一志望に進むなんてありえない。
再追試験の日には、熱はすっかりひいていた。ひとつの教室に数人だけの試験を受けて──結果は、普通科合格。家族に心配をかけてしまっていたから、合格できたのはよかったと思った。
二月が終わろうとしていた。中学はもうムリに登校しなくていい、高校で環境が変わるのにそなえて体調を整えてください、というお医者さんの言葉に従って、定期テストだけは保健室で受け、あとは卒業式まで家でゆっくりしていた。一度は教室に行ったのだけれど、机に『三年間がり勉して受験失敗おめでとう』と書いてあるのを見て、ムリをするのはやめたのだ。
吹部の友だちやクラスメイトがお見舞いに来てくれたときは、
「ごめんね、まだ疲れやすくて」
と、早めに帰ってもらった。優しい言葉をもらっても、過去に自分がでしゃばって傷つけてしまった子がいるかもしれないと思うと怖かった。
葉月がひとりで来たこともあった。真剣な顔で、
「颯大も蓮も礼夏と会って話したいって言ってるよ」
と、言われた。私が颯大と蓮のIDをメッセージアプリから削除して、スマホでの連絡ができなくなっていたからだろう。本当は、できるなら、自分の存在をふたりの世界から削除したかった。
颯太と蓮は杉村さんたちから私に何を言ったか聞きだしたらしい。それで、私と話したい、って。今までと同じように私の味方をしてくれるのかもしれない。でも、きっと杉村さんたちが正しかったのだ。ごめんね、颯大。ごめんね、蓮。
卒業式は肌寒かった。空は晴れたけれど、冷たい水色だった。私は卒業式の行われる講堂には行かず、保健室で卒業証書を受け取り、すぐに帰宅した。保健室から校門へと歩くとき、講堂から歌声が聞こえた。卒業生が歌う旅立ちの曲だった。
うれしかった。私を知る人がほとんどいない場所に旅立てるのが。




